二歩の距離
11月16日に修正された章です。もし間違いを見つけたら、教えてください。
11月19日:物語に影響する漢字の誤りを修正しました。読んでくださってありがとうございます。
――ドン。
誰かが壁を叩いた。
乾いた音。
それを聞いたのは、沈黙だけだった。
新井遥は両手を壁についた。
さっきの音は、自分の額がぶつかったものだった。
ほんの少し。痛みよりも、衝動に近い。
壁の感触は滑らかで、冷たく、残酷なほど静かだった。
けれど、彼女の心臓は、まるで走っているように暴れていた。
屋上まで、十三段の階段。
つい数分前、休み時間が始まったばかり。
彼女は決めていた。あの人がそこにいると知りながら、行くことを。
――あの人が、いる。
それが今、胸を締めつけていた。
壁から離れ、猫のようにその場をうろうろと回る。
屋上へ続く扉を見つめると、心臓がさらに小さく縮んだ。
逃げたい気持ちが喉元まで上がったが、拳を握りしめて耐えた。
わかっていた。行かなければならない。
でも、理解と行動は、いつだって別物だ。
手すりを掴む。金属は冷たく、少し古い。
ゆっくりと、一段ずつ登り始めた。
まるで地下鉄のホームで感じたように、
自分の中で、またひとつ物語が始まろうとしていた。
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森菜月はすでに屋上にいた。
少し早めに来て、空を見上げていた。
雲がいくつか、気まぐれに漂っている。
風は乾いていて、五月にしては珍しかった。
けれど、彼女は気にも留めなかった。
扉のそば、影の差す隅に腰を下ろす。
落ち着く場所だった。
バッグから弁当とノートを取り出す。
今日の弁当は、母が作ってくれた定番――ご飯、魚、野菜。
ふと、口元に小さな笑みが浮かんだ。
森菜月は、魚が好きだった。
ノートを開く。
最後のページはまだ白紙のまま。
鉛筆を取り出し、迷いながら書く。
――「家庭教師をする」。
書いた瞬間、文字が軽く見えた。
その下に「新井遥」と書いて、丸で囲む。
そして上に小さく書き足す。
――「これは何?」
友達でもない。
けれど、ただの知り合いとも言えない。
そのとき、扉の向こうで足音がした。
顔を上げる。
扉が勢いよく開いた。
「――自由だーっ!」
その瞬間、菜月は手にしていたノートを迷いなく放った。
ノートはまっすぐ弧を描き、遥の顔へ飛んだ。
「いったぁ!」
新井遥は、空を切るように手を振り回した。
まるで次の攻撃を警戒しているかのように。
「な、なんで殴るのっ?」
額を押さえながら言う。痛みは大したことなかったが、屈辱は少しあった。
菜月は表情を変えずに言った。
「うるさい。」
その一言に、遥はなぜか「入ってきたこと」を叱られた気がしなかった。
ただ、騒いだことを咎められたような、そんな感覚だけが残った。
菜月はノートを拾い上げ、元の場所に戻る。
黙って弁当を食べ続けた。
遥はその場に立ち尽くす。
逃げ道を探すように周りを見回した。
なぜ来たのか、一瞬思い出せなかった。
もし思い出しても、どうすればいいのか分からない。
隣に座る?
図々しい気がした。
けれど、目的は「勉強の話」だった。
いきなり切り出すのは、どうにも違う。
迷っていると、菜月の視線がこちらを向いた。
肺の奥の空気が抜けた。
見られるのが苦手だった。
けれど、その瞳の色――淡いヘーゼルが目に映る。
他の誰かの瞳を思い出そうとした。
母の目さえ、もう思い出せなかった。
遥は影の中へと足を踏み入れ、菜月のそばに座った。
二歩ほどの距離。
そして気づいた。
弁当を忘れてきたことに。
もう取りに戻るには遅すぎた。
静寂。
思考さえも、風に溶けた。
菜月はゆっくりと箸を動かしていた。
ひと口ずつ、小さく、確かめるように。
その唇は薄く、化粧もないのに血色がよかった。
遥は小さく咳払いをした。
「えっと……いつも、お弁当なの?」
自分の声がぎこちなく響いた。
「母が作るの。父と私の分。たまに兄のも。けど、兄はサンドイッチしか食べない。」
菜月は視線を上げずに答えた。
「そ、そっか……」
会話は、そこで止まった。
再び、沈黙。
少しして、菜月がふいに口を開く。
「あなたは?」
遥の肩がこわばる。
お弁当なんて、作ってもらったことがなかった。
母はいつもお金を渡すだけ。
だから、コンビニで済ませる。
――それでも、食べている。
「お金、もらってる。」
「ふうん。」
菜月は短くそう言って、また箸を動かした。
沈黙。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
「放課後、図書室で。」
菜月が言った。
「一時間だけ。勉強の時間。」
遥は、ただうなずいた。
もう話すことがなかった。
立ち上がり、スカートを払って、小さくつぶやく。
「……ありがとう。またね。」
扉が閉まる音は、今度はやけに静かだった。
菜月は弁当を食べ終え、片づけをして立ち上がる。
扉の前で一度止まり、ノートを開く。
前のページ。
――「違和感」? いいえ。
――「友達」?
鉛筆の先が、空白の上で止まった。
森菜月にとって、新井遥はまだ定義できない存在だった。
心のどこかに刺さった、小さな棘。
抜けもせず、消えもしない。
それでも、そこにあった。
チャイムまで、あと二分。
菜月はノートを閉じ、屋上を出た。
静かな足音だけを残して。
この物語は、あなたに何を残しましたか。
あなたの想いを、聞かせてください。




