公園のあと、森菜月
森菜月は、公園を出たばかりだった。
角を曲がる前にリュックを開け、高価そうなヘッドホンを取り出した。
電源を入れ、ANCモードを有効にする。
世界が、音を失った。
けれど、その静寂は長くは続かなかった。
スマホをBluetoothで接続し、「ゲーム音楽」と題されたプレイリストを選ぶ。
管弦の旋律が空気を満たす。
彼女の歩調は、音楽のリズムに合わせて再び動き出した。
目的地まではおよそ一時間。公園に寄り道した分を含めれば、もう少しかかるだろう。
地下鉄が嫌いなわけではない。ただ、歩くことが好きだった。
空の色、人の少なさ、足を動かすという単純な行為――
そのすべてが、ひとつの静けさを形づくっていた。
それでも、頭の中ではずっと同じことが回っていた。
新井遥のことだ。
どうすればいいのだろう。
菜月の交友関係は家族と、両親の知人が数人いる程度だった。
社交的ではないし、なろうとも思わない。
周りの声が少ない方が、心地よかった。
だからこそ、自分の空間に入り込んだ棘――名を持つ棘――が気になって仕方なかった。
無理やり話しかけさせられた。
そしてまた、話しかけなければならない。
さっさと片づけてしまうべきか。
それとも、月が地球を回るように、誰かが自分の軌道を巡ることを受け入れるべきか。
嫌ってはいない。
嫌うには、まだ知らなすぎる。
けれど、その存在が近くにあるだけで、空気がざらついた。
少ない情報から、菜月は直感していた。
明日、遥はきっと屋上に来る。
自分から話しかける必要はない。
それもまた、少し腹立たしかった。
屋上の鍵は特別な許可を得て手に入れた。
入学以来、そこは彼女の聖域だった。
騒音も視線もない、誰のものでもない場所。
それなのに、二人の人間が無断で入り込んできた。
不愉快。
とても、不愉快。
兄の言葉を思い出す。
「いつまでも一人じゃいられないんだよ。」
小さくため息をつく。
もしかしたら、その通りなのかもしれないと思い始めていた。
―――
四十分後、コンビニに着いた。
時計を見る。寄り道をした割には、予定どおりの時間だ。
いつものように自動ドアをくぐる。
「森さん! 今日は遅かったね、何かあった?」
ああ、いた。菜月はそう思いながらレジに向かう。
彼女の飲み物はすでにカウンターに置かれていた。
「ちょっとした用事があって。」
店員のマリア・コバヤシは、もはや彼女の日常の一部だった。
母親が外国人で、大学の学費を払うためにここで働いている。
菜月が入学したころからの付き合いで、彼女とは気安く話せる仲だった。
「その“用事”、名前があるんじゃない?」
マリアが悪戯っぽく微笑み、少し身を乗り出す。
菜月は首を傾げる。
「用事」とは何を指すのか、いまいち分からない。
面倒事のことか? 言葉ひとつにも、どれほど意味があるのだろう。
――名前がある。しかも、面倒なやつ。
新井遥。
「新井遥。」
彼女は短く答えた。
マリアはわざと残念そうな顔をした。
「女の子か。もっとドラマチックなのを期待したのに。」
「そんなのじゃない。ただ、勉強を手伝うだけ。」
「ああ、なるほど。断れない性格だから選ばれたんでしょ。」
マリアはカウンターのチョコをひとつ取り、菜月に差し出す。
「考える時は甘いものが一番。サービスね。」
「ありがとう。」菜月はそれを丁寧にしまう。「そろそろ帰ります。話しすぎた。」
「ひとつだけ忠告、森さん。義務感で動かないこと。
自然に出てくる方が、きっと上手くいく。」
菜月は何も返さなかったが、聞いていた。
マリアには分かっていた。
彼女がそういう人間だということを。
ただ、今日に限って――少しだけ会話が長かった。
そして、チョコを受け取った。
―――
二十二分後、家に着いた。
扉を開けると、小さなクリック音が鳴る。
玄関には母と兄の靴。
父はまだのようだ。
珍しいのは真琴。来るときはいつも連絡をよこすのに。
靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
兄はすでにソファに座っていて、気まずそうに笑った。
「はは、ごめん…来ると思ってた。」
真琴はフリーランスだ。
稼げるときもあれば、そうでないときもある。
それでも、いつも自由だった。
国内外を転々とし、たまに帰ってくる。それが約束だった。
菜月は無言でキッチンへ行き、空になったペットボトルを捨てる。
真琴は喉を鳴らした。
二十七歳にもなって、十六歳の妹には今でも頭が上がらない。
着替えを済ませた菜月が戻ってきて、彼の向かいのソファに座る。
真琴はゲーム機のコントローラーを握っていた。
「連絡なしで来るの、嫌なのは分かってる。でも母さんに頼まれたんだ。ブログ見て、近くにいるって分かったらしい。」
菜月は無表情のまま、うなずいた。
「ねえ、真琴。」
視線を画面に向けたまま口を開く。
「友達がいるって、どうやって分かるの?」
真琴は目を瞬いた。
「ちょっと待て、何の話?」
菜月自身も、なぜそんな質問をしたのか分からなかった。
ただ、初めて誰かが自分の生活に踏み込んできたからだろう。
――新井遥を、友達と呼べる瞬間は来るのだろうか。
真琴はコントローラーを置き、考え込んだ。
「面白い質問だな…」
そう呟いてから、妹を見た。
誰が彼女にそんな影響を与えたのか、気になった。
彼女は無口だが、決して鈍感ではない。
だからこそ、世間は簡単に利用する。
「友達ってのは、そばにいても邪魔じゃない人のことだと思う。」
少し間を置いて、付け加えた。
「でも友情って変なもんでさ、人によって形が違う。誰かと話したのか?」
画面の中では、真琴のキャラが撃たれていた。彼は気づかなかった。
菜月は少し考えてから言った。
「新井遥の勉強を手伝う。」
真琴は理解した。
“手伝う”、“遥”、“友達”。
その三つの言葉で十分だった。
「無理するなよ、菜月。話したくない時は話さなくていい。
相手も、お前がどういう人か分かってるはずだ。無理に社交的になる必要はない。」
「……」
返事はなかったが、少し落ち着いた様子だった。
真琴はカバンから小袋を取り出す。
「これ、京都で買った。稲荷のお札。お守り代わりに。」
彼女はそれを丁寧に受け取り、階段を上がっていった。
真琴はその背を見送りながら、静かに笑う。
妹は、少しずつ大人になっている。
以前、彼女が人付き合いを表すのに好んで使っていた言葉――「面倒くさい」――
その響きが、もう少し柔らかく聞こえた。
―――
部屋は清潔で、整然としていた。
飾り気のない空間。
菜月は机にお札を置き、ノートを開く。
新井遥を手伝うための計画を書き出そうとする。
けれど、ペン先は動かなかった。
真琴とマリア・コバヤシの言葉が、頭の中で絡まり合い、
思考を塞いでいく。
母の声が階下から届く。
「夕飯できたわよ。」
菜月は一文字も書けなかったノートを閉じ、
静かに階段を下りていった。




