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猫が鼠を知る  作者: シアン サッカ


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3/8

公園のあと、新井遥

新井遥は、少しだけ運がいいと思っていた。


公園での出来事のあと、彼女は家へ――いや、正確には地下鉄へと歩いていた。


ホームは、いつもより少し静かだった。


音が少なく、彼女にはちょうどよかった。


足音の反響は遠く、改札の電子音もまばらだった。


自分のカードを通したとき、その瞬間、別の世界に足を踏み入れたような気がした。


ひとつの場面が終わり、次の物語の主人公になったような気分だった。


歩調が軽くなる。


誰かが物語のように彼女の足音を語ってくれる気がして――


タッ、タッ、タッ。


無意識に、弾む歩みを抑えていた。


駅に着く。


車両には三人しかいなかった。


扉の近くに腰を下ろす。すぐに降りられるように。


膝の上に鞄を置き、窓に頭を預けた。


金属の静けさの中で、今の悩みがふたたび浮かんできた。


――森菜月と一緒に勉強すること。


森菜月は、社交的とは言い難い。


多くの生徒にとって、彼女は「変わった子」だった。必要なことだけして、すぐに去る。


「おはよう」と声をかけて返事が返ってくれば十分。会話が続くなんて、夢のような話だ。


一緒に勉強するなんて、どうなるんだろう――遥はそう思った。


話す相手は二人いる。でも「友達」と呼ぶには遠すぎた。


知り合いと友人のあいだには、深い谷がある。


正面に立っていた社会人を見た。スーツにネクタイ、マスク姿。


手にはドリンクと弁当、そして栄養ゼリー。


――まだ、私は恵まれている方かも。


そう思うのは、残酷なのだろうか。


結局、自分の問題は経済じゃなく、人間関係だ。


それが、彼女を余計に小さく感じさせた。


三つ目の駅で降りた。


人の声、足音、ざわめき。


沈みかけた夕陽が頬を撫でる。


空気は冷たいが、どこか優しい冷たさだった。


家までは数本の通り。車が一台通るだけで侵入者のように思えるほど静かな住宅街。


通りには、彼女しかいなかった。


鍵の音が、唯一の生活の証だった。


カチリという音が、街に溶けていく。


玄関に入る。


靴を脱ぎ、片隅に並べた。


「ただいま」は言わなかった。返事がないのを知っていたから。


キッチンにはラップのかかった皿。


母の作った夕飯。


それを冷蔵庫にしまい、代わりにおにぎりを二つ取り出す。


グラスにお茶を注ぎ、リビングへ。


テーブルに置いて、部屋に戻り、パジャマに着替える。


ソファに頭を逆さにして寝転び、黒髪が床に流れ落ちる。


無感情にチャンネルを変え続けた。


スポーツ。


アニメ。


ニュース。


バラエティ。


どれも、心を動かさなかった。


番組を切り替えるたび、もう筋書きが頭に浮かぶほどだった。


結局、くだらない好奇心に負けた。


アイドルが目隠しして動物を触る番組。


どうやら、スカンクが用意されているらしい。


――未来のスキャンダル、誕生の瞬間かもしれない。


遥は静かにそう思った。


おにぎりを一口。


むせた。


――逆さに食べるもんじゃない。


夜十時。


母は、今日も帰らないだろう。


残りの夕食を食べ、片づけ、風呂に入り、自室へ。


鞄を探る。


森菜月にもらった紙を取り出す。


返すべきか、迷った。


もしかして迷惑だったのかもしれない。


考えれば考えるほど、森菜月という存在は統計のようだった。


何をしても、何かに影響を与える。


問題は、その「どれくらい」だ。


――明日は、彼女と過ごさなければならない。


そう思うと、胸の奥がざわついた。


紙をノートのあいだに挟み、しわにならないように閉じる。


天井を見上げながら、ベッドに体を投げた。


こういう時、いつも最悪の展開を想像する。


けれど、現実はいつもそれより平凡だ。


崩壊することなんて、ほとんどない。


難しいだろうか。何を話せばいい。どう接すれば――


ふいに、昔の記憶が蘇った。


あの、告白した日のこと。


胸を貫くような痛み。思い出した瞬間、反射的に頭を抱えた。


――なんで、あんなことを。


十三歳の頃。恋愛ドラマが人生の教科書だった時代。


「彼氏をつくること」が人生の目標のように見えていた。


彼は、クラスの人気者だった。


彼女は、告白した。


みんなに見られ、そして断られた。


それ以来、二度と同じことはしないと誓った。


でも、それは今の問題とは関係ない。


ただの、小さな傷跡。


誰も覚えていない。ただ、自分だけが。


そうして、自分を少し笑って、眠りに落ちた。


翌朝、時間は待ってくれないと、改めて思い知らされる。


風呂を終え、冷蔵庫へと吸い寄せられるように歩く。


母が朝食をとっていた。


言葉はない。ただ、牛乳を注ぐ音だけが響く。


「今日も遅くなるかも」と、母が呟くように言った。


「そう。気をつけて。」

遥はグラスにシリアルを入れ、そのまま食べ始めた。

そして何も言わず部屋に戻る。


いつも通りだった。


食べながら着替える。時間に追われても、変わらない。


家を出るころには、母の姿はもうなかった。


玄関で「いってきます」と言っても、誰もいない。


それでも、彼女は扉を少し見つめてから歩き出した。


登校の道は、いつも通りの退屈さだった。


数分後には、もう席に座っていた。


斜め前――森菜月が勉強していた。


誰も近づかないその背中を見て、遥もノートを開いた。


そういえば、時間を決めていなかった。


ページの文字を追う視線は十秒で止まる。


頭に浮かぶのはひとつだけ。


――話しかけた方がいいのかな。


唇が震える。


心臓が暴れ、脚が勝手に動こうとする。


深呼吸。


森菜月に話しかければ、みんなの視線が集まる。


それだけで、足がすくんだ。


小さく咳払いをして、遥は決めた。


――今日は、屋上で昼を食べよう。

次は森菜月の視点です。

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