「なぜ」
教室は、ほとんど静まり返っていた。
先生の声は、熱を帯びていたが、その熱は空気の表面をかすめるだけだった。
森菜月は、耳で聞きながら、心では別の場所にいた。
彼女のノート――課題や備忘を書き連ねるためのそれ――には、いびつな矢印がいくつも描かれていた。
ありえない論理を求めるように、線が交差し、結ばれていく。
中心にあるのは、たった一語。
――「なぜ」。
新井遥に勉強を教えることを、承諾した理由を探していた。
彼女は学年で五番目に入る成績だった。
試験はいつも九十点を切らない。
ただし、社交的な能力となると、ほとんど存在しないに等しかった。
新井遥のことは、知っている。
だが、この教室で互いを知らない者などいるだろうか。
紙を消し線で横切る音が、いつもより大きく響いた。
その下に、短い一文を添える。
「佐藤先生に会いに行くこと。」
ノートを閉じる。
授業が終わった。
時間は、そこに留まることをやめたかのようだった。
菜月はいつものように、落ち着いた動作で荷物をまとめる。
視線を感じた。
顔を上げると、遥がこちらを見ていた。
目が合うと、すぐに逸らされた。
話しかけるか、立ち去るか。
数秒のあいだ、迷って――後者を選んだ。
鞄の紐を肩にかけ、職員室へ向かう。
退屈だった。
足音は、落ち葉のようにかすか。
他人の声が波のように押し寄せ、息が詰まりそうになる。
ただ帰りたかった。
それでも、せめて筋だけは通さねばならなかった。
――家庭教師は引き受けられない、と。
拒む理由は、やりたくないからではない。
理解できる理由が、なかったからだ。
職員室に着くのは早かった。
習慣のようにノックして、静かに扉を押す。
金属の擦れる音が、小さく伴奏をつける。
佐藤先生を探すまでもなかった。
「森さん、こちらよ。」
柔らかな声が、彼女の足を止める。
菜月はわずかに目を細め、一定の歩幅で近づいた。
そして、迷わずに口を開いた。
「どうして、私なんですか。」
その問いに、すべての疑問が集約されていた。
佐藤先生は数秒考えるように目を伏せ、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「森さん、あなたにしか分からないと思ったの。」
返事はなかった。
キーボードの音が、二人のあいだに落ちる。
沈黙の中、彼女の思考だけが深みに沈んでいく。
「どうして、私……」
今度の問いは、勉強の件ではなかった。
もっと曖昧で、もっと遠い場所に向かっていた。
佐藤先生は指を組み、目を伏せた。
「はっきり言うべきことではないけれど……本人から聞くのが一番よ。
でも、もし引き受けるなら、彼女と一緒に過ごす時間が必要になるわ。
新井さん、このところ成績がかなり落ちているの。
このままでは、進級が難しいかもしれない。
あなたなら、支えになれると思ったの。」
沈黙。
――落第を防ぐため。
それは、十分に論理的な理由だった。
納得できる、唯一の理由。
けれど、もう一つの「なぜ」は、まだ答えがなかった。
母が言っていた、「時間が答えてくれるもの」――その時間は、いまだ沈黙していた。
「……分かりました。新井さんの成績表を一部ください。準備をします。」
佐藤先生は小さく手を叩いた。
まるで奇跡を見たかのように。
ノートパソコンを操作し、印刷した紙を菜月に手渡す。
菜月は軽く会釈し、静かに部屋を後にした。
---
午後の光は、どこか優しかった。
新井遥はどの部にも所属していない。
だから放課後のチャイムが鳴ると、まっすぐ家に帰るのが常だった。
けれど、たまに寄り道をする。
家の近くの公園。風の声が聞こえるベンチ。
人生に押されている日ほど、そこに座る。
今日も、木の上で鳥が鳴いていた。
母の言葉が、ふと思い出された。
――「大きくなったら、何になりたい?」
答えられなかった。
説教を受けた気もするが、内容はもう忘れた。
ただ、その問いだけが、ずっと胸の奥に残っていた。
答えは、案外単純だったのかもしれない。
大人になりたいわけじゃない。
働けて、温かいご飯を食べて、静かに眠れればいい。
けれど、それを口にしたら、何かを諦めた人のように聞こえる。
一人娘なのだから、遠くまで行かなければならない――
そう言われて育った。
夢が小さいということは、自分も小さいということなのだろうか。
中途半端な笑いが漏れた。
目の前の鳥たちを見る。
――「鳥になりたいな……」
「どうして、鳥に?」
声に驚き、ベンチから飛び上がりそうになった。
「わ、私、声に出してた!?」
返ってきた声は淡々としていた。けれど、不思議と耳に優しかった。
顔を上げると、森菜月が立っていた。
近くで見るのは初めてだった。
肩までのまっすぐな髪。長めの前髪が片目にかかっている。
邪魔そうに、それを指で払った。
「どうして、鳥に?」
再び同じ問い。
遥の口は、上手く動かなかった。
「え、えっと……忘れて……」
菜月は何かを言いかけたが、やめた。
代わりに、折りたたんだ紙を取り出して差し出す。
遥が受け取ると、顔が赤くなる。
「英語と算数、ひどい成績ね。」
「は、はは……別に、助けてくれなくても……」
遥は顔を両手で隠したくなった。
「一応、義務だから。
他は大丈夫。弱点はこの二科目。」
二人の間に、風が通る。
鳥たちが一斉に飛び立った。
空に光る羽根と土埃。
「うぅ……わ、分かった。えっと……」
「森菜月。」
軽く頭を下げる。
「森先生……」
「森さんでいい。」
「じょ、冗談だよ。」
「じゃあ、明日。放課後、図書室で。」
もう一度、短くお辞儀をして菜月は去っていった。
遥はその背を、見えなくなるまで目で追った。
鳥の声が消えていく。
風が重たくなる。
困っているのか、救われているのか。
どちらとも言えなかった。
口の中に残るのは、恥ずかしさと、少しの希望。
――今日はもう、十分だ。
ベンチを立つ。
風が、帰り道をなぞるように吹いていた。
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