屋上の音
一歩ごとに、音が二度響いた。
かかと、そしてつま先。
――カッ、カッ、カッ、カッ。
やがて、その足音は鈍くなった。
鼠は、体を半分だけ振り向かせて、扉を見た。
蝶番が短く、ざらりと鳴く。
開ききったあと、またカッカッという乾いた音が続いた。
どこか、退屈そうな響きだった。
ゆっくりと、そして騒がしく、猫が屋上へと入ってきた。
足取りは一定ではなく、重く、荒っぽい。
青白い光の中で、その沈んだ顔だけが浮かび上がる。
悲しげな瞳が、金網の隙間に吸い込まれていった。
彼は金属に触れる。
短く、乾いた反響。
鼠は、見るべきか、見ぬふりをすべきか迷った。
風と静けさでできた聖域を、誰かが壊した。
暑さなのか、存在そのものなのか――胸の奥が痛んだ。
弁当をしまい、立ち上がる準備をする。
そのとき、猫が彼女を見た。
鼠は、その視線の重さに気づき、同じように見返した。
猫と鼠の最初の出会いは、音のない、しかし張りつめた沈黙の中で訪れた。
悲しげな猫の瞳が、空っぽな鼠の瞳と交わる。
――新井 遥は、森 菜月を知った。
鉛筆の芯が、鈍い音を立てて止まった。
新井 遥の視線は、ずっと遠くに投げ出されていた。
理由はなかった。ただ、ぼんやりと――終わりのない空白を見ていた。
教室のざわめきは、途切れ途切れにしか届かない。
頭の中に散らばる思考のかけらが、どれも形にならず漂っていた。
それでも、彼女はそこにいた。
どこかの岸辺に立って、考える理由を探していた。
名前が、遠くの方で呼ばれた気がした。
ノートに視線を落とすと、書きかけの「生」の字が揺れている。
まだ筆圧の震えが残っていた。
二度目に名前が呼ばれたとき、今度はすぐそばだった。
瞬きをすると、世界が戻ってきた。
「大丈夫? 遥さん、ちょっとぼんやりしてたよ」
先生の声は、マニュアル通りの優しさをまとっていた。
心配をかけたくなくて、遥は笑った。
「はい。なんでもないです。」
書きかけの文字を閉じるように、「生」をもう一度書き終えた。
先生は少し迷ってから、小さくうなずき、授業を続けた。
遥が周囲を見渡すと、二、三人が眉を寄せてこちらを見ていた。
ざわめきはそのまま続く。
反射のように笑って、空っぽなノートを埋めるふりをした。
チャイムが空気を裂いた。
パタン、と教科書が閉じられ、椅子が床をこすり、鞄の口が開く。
昼食と宿題の話し声が、教室を満たしていく。
けれど、遥の声はその中になかった。
遥は、たまに一緒に昼を取る二人組を見た。
声をかけようと口を開いたが、その背中はもう教室の外へ向かっていた。
――邪魔しない方がいい。
そう思った次の瞬間、頭の中に浮かんだのは「上」だった。
昨日、屋上に上がった。
奇跡のように、鍵は開いていた。
あの日、音が強く刺さって、風が欲しかった。
まさか、鼠と出会うとは思っていなかった。
森 菜月。三列目、三番目の席。
視線をそちらに向けると、そこには鞄だけが残っていた。
遥は静かに弁当を取り出す。
焼きそばパンと紙パックのジュース。
屋上へ行くだけで心臓が耳の奥で鳴った。
小さく息を吐いて、机に弁当を広げた。
菜月が屋上へ行くとき、一番好きなのは階段を上る時間だった。
一段上るたびに、音が静けさに負けていく。
扉を開ける前に蝶番を確かめる。
昨日、管理人に錆のことを伝えたから、今日は滑らかだった。
ショルダーバッグからノートを取り出す。
バネに差し込まれたペンが小さく鳴る。
指先でそっとページを送り、探していた行を見つける。
「扉の音、要報告」と書かれた一文に、横線を引いた。
満足げに小さく笑い、いつもより強めに扉を開けた。
五月の熱気が頬を包む。
風はいつものようには囁かなかった。
気になるのは、あの「悲しい目の子」がまた来るかどうか。
その存在が、日常という方程式に混ざり込んでしまった。
昨日はどうすればよいか分からず、今日はもう計画まで立ててきた。
けれど、それが試せないのは、少し面倒だ。
お気に入りの場所に腰を下ろし、手作りの弁当を取り出す。
毎朝二時間早く起きて、丁寧に詰めるのが日課だった。
残念ながら、味は日課そのもの――栄光ではなく、繰り返しの味。
ひと口。
扉を見る。
何も起こらない。
風の細い音が、それをからかうように笑った。
扉は、最初、動かなかった。
風が領域を広げ、五月の熱がだるく漂っている。
菜月は、何も考えずにもう一口食べた。
その静けさを裂くように、別の音が生まれた。
昨日のカッカッではない。
軽く、気楽な足取り。
音を恐れない足音だった。
ドアノブが金属の澄んだ音を立てて回る。
扉がわずかに開き、その隙間から頭がのぞいた。
茶色い三つ編み。
ここには似合わない、明るい笑顔。
「見つけた!」
空気が一瞬で変わった。
その声は、生きすぎていた。
赤羽 美穂は、静けさなど存在しないかのように屋上へ入ってきた。
その足取りは小刻みで、けれど一歩ごとに地面を確かめるように響く。
「森さん、探してって言われたんだ。」
ぎこちなく手を上げて挨拶する。
名前が、二人のあいだに浮かんだ。
菜月は細い声で受け止めた。
「……赤羽。」
扉はまだ開いたままだった。
美穂が気づいたのは少し遅く、慌てて振り返る。
そして、勢いよく閉めた。
ガン、と空洞に響く金属音。
静寂の膜が破れた。
菜月は半歩、無意識に下がった。
美穂は気づかず、小さな足取りで前へ出た。
「先生が言ってたんだ。新井さんのこと、知ってるでしょ?」
その笑顔には、お願いの気配が隠れていた。
――一列目、四番目。
あの、悲しい目の子。
知っていた。昨日よりも、はっきりと。
菜月は小さくうなずいた。
「よかった!」
美穂は言葉の上で軽く跳ねた。まるで風にも聞かせるように。
「佐藤先生がね、新井さんに勉強を教えてあげてって。質問があったら放課後に来てだって。」
彼女は辺りを見回し、静けさに戸惑うように、ぺこりと頭を下げた。
扉が再び閉まると、その余韻は妙に長く残った。
菜月は動かない。
しばらくして、風がまた元の遊びを始める。
今度は少し、楽しそうな音を立てながら。
こんにちは、シアンです。
『猫が鼠を知る』第一話を読んでくださって、ありがとうございます。
この作品は「音」を通して世界を感じることをテーマにしています。
ゆっくりとした物語ですが、少しでも何かが心に残れば嬉しいです。
感想や意見をいただけると、とても励みになります。
これからも静かに続けていくつもりですので、どうぞよろしくお願いします。




