11 私なんて、母親にとってはどうでもいい
「ただいま」
私の顔を見て、溜息をつく母親。
その表情には、疲れと失望が滲んでいる。
母が返ってくる時間を見計らって、ワークを開き、勉強しているふり。
勉強をしていようと、していなかろうと、溜息を吐かれることに変わりはないのに。
その事実が胸に重くのしかかる。
「おかえり。学校からの手紙、机の上に置いといてあるから」
机から頭を上げずに、必要事項だけ伝える。
声には感情をこめないように努めているが、どこか冷たさが滲んでしまう。
母は、さっきよりの深くため息をついて、階段を降りていった。
そして、妹と優しい顔で会話している声が聞こえてきた。
その声は、私の心に鋭い痛みを与える。
北川東中に行っていない私には価値がない。
そう思わせざるを得ない現実が私を押しつぶす。
期末テストでどんなにいい点を取ったところで、夏休みの課題でどんな賞状を取ったところで、努力が無意味に思えてくる。
私が落ちた北川東中に通っている、2歳下の妹の方に価値がある。
そんなことはわかっているはずなのに。
自分を納得させることができず、いい子のふりを未だに止められていない。
その矛盾がさらに私を苦しめる。
湿気を含んだ、ウールのようなにおいが漂う梅雨。
その匂いは、まるで過去の記憶を呼び起こすように、胸に重くのしかかった。
3年になってから、初めての進路調査用紙が前の席から順に配られていく。
その紙が手元に来るたびに、心臓が小さく跳ねる。
未来を問われるその紙が、重く感じられる。
隣の席は、始業式からずっと空いたままだ。
その空席を見るたびに、何か掛けているような寂しさが胸を刺す。
進路調査か。
その言葉が頭の中で何度も反響し、心の中に重く沈んでいく。
2年前に落ちた市立中学校系列の高校。
そこへ受かったら、またお母さんに褒めてもらえるのかな。
でも、受かったところで、どうせ母は妹の方を可愛がるんだろうな。
その想いが胸に冷たい影を落とす。
それに、今だって、2年前だって合格県内の学力はあるけど、また落ちたらなんて考えると怖かった。
恐怖が心の中で大きく膨らむ。
その事を考えて、気持ちが滅入る。
その滅入った気持ちは、まるで霧のように心を覆いつくしていく。
机の中にその用紙をぎゅっと押し込んで、その気持ちを押し殺す。
「やっほ」という一番見慣れているスタンプがゆうやから送られていた。
スマホ画面を見つめて少し懐かしいような気持ちになって、いつも通りのゆうや少しほっとした。
ユ「ゆうやって、進路決まってるの?」
少し緊張しながら打ち込んだ。
ゆ「説教w?決まってるわけないじゃん」
ユ「それもそうか」
納得しつつも、少し寂しく頷く。
ゆ「優等生は決まってるの?」
ユ「優等生ってw ゲームの中じゃ私は優等生じゃないよ」
馬鹿にしているような俺と私は違うと突きつけるような棘がある。
ゆ「で、決まってるの?」
ユ「ううん。悩み中」
ゆ「候補の学校とかはあるの?」
ユ「中学受験で落ちた学校」
落ちたという事実を告げるのが怖い。
挑戦して敗れること、間違えること、それを伝えることが物凄く怖い。
ゆ「行きたいなら、またそこ受ければいいじゃん」
いとも簡単にそのことを口に出す。
ゆ「それとも、学力的に無理なの?」
ユ「いや全然届くけど」
ゆ「自慢かw なら、どうして?」
あの学校は、全員が真面目に勉強っていう雰囲気で、寂れていて楽しさがなかった。
私は、そもそも勉強が好きっていう人間じゃないし、高校で部活もやりたい。
それに、ずっと親の言うことに囚われているという感じがして嫌だ。
でも、事実として私はずっとそのことに囚われている。
ユ「自分が行きたいって思える学校じゃないから」
ゆ「じゃあ、中学の時はどうしてそこ受けたの?」
その質問が過去の自分、そして今の自分の心を抉る。
ユ「親に褒められたかったから」
ユ「2つ下の妹だけが受かって、家では妹はいい子で、私はバカな子みたいな感じになってる」
ゆ「でも、学校では生徒会長で優等生なのに」
ユ「親にとっては、あの私立校に落ちたなら、生徒会長だろうとどうでもいいんだよ」
生徒会長なんて、家では何の意味もない肩書き。
ゆ「厳しいね」
ユ「うん。だけど、親に馬鹿な子ってずっと思われてるのは寂しいし」
ゆ「ふーん」
その反応が冷たく感じる。私の悩みなんてゆうやにとってはどうでもいいんだな。
ユ「他人事だね」
ゆ「他人事だよ」
屋上から突き落とされたような滑空感。
ゆ「親に認められればいいなら、妹が受かったとこよりも上の行きたい高校行けばいいじゃん」
ユ「そんな簡単に言わないでよ」
無理だって。自分でちゃんとわかってることなのに、蒸し返したりしないでよ。
ユ「妹の学校ですら、不安なのにそれよりも上なんて机上の空論だよ」
ゆ「自慢のように全然届くって言ってたのに」
ユ「中学のときだって、模試では届いてたんだよ」
ユ「だけど、受からなかった」
受からなかった。
失敗した。
そんな言葉を口にするたびに、心の奥底に沈んでいた痛みが浮かび上がる。
ユ「なのに、模試では届いてなかった妹は受かった」
妹が合格を無邪気に喜ぶ姿を思い出し、嫉妬と嫌悪感が渦巻く。
ゆ「妹のこと嫌い?」
その質問に一瞬、息を詰まらせた。
妹が母親に褒められて、無邪気に笑う姿が思い出される。
ユ「嫌いなのかもね」
ユ「自分の方が優れているはずなのに、妹の方が優れてるって思われたら、そりゃ嫌だよ」
私が悪いみたいに、攻めるみたいな言い方しないでよ。
妹が悪くないってことは分かってるんだよ。
ゆ「そんなに言うなら、見返せばいいじゃん」
その言葉は心に突き刺さる。
分かってるよ。
自分が卑怯だってことくらい。
だけど。
ユ「それは、簡単なことじゃないんだよ」
ゆ「そっか」
落胆。
その感情が怖い。
ユ「ゆうやだって、できないって身をもって分かってることを、挑戦しない臆病なんていう風に言われたら、ムカつくよ」
ゆ「そっか」
ゆ「ユズならできそうだと思うのに」
一瞬の希望を感じたが、すぐに現実の重さがそれを潰していく。
ユ「ごめん またね」
無理だ。
全てを開いてしまったら、私の心はズタズタに刻まれる。




