『土屋真知』
美術なんて、大嫌いだった。
特に絵画。絵。大嫌いだった。
綺麗だね、可愛いね、素晴らしいよ。
濁った目で投げかけられる言葉が、嫌で嫌で。
大嫌いだった。
薀蓄を垂れて同志様たちを引き連れ歩く父にとって、私はただの装飾品だ。家にいても、外に出てもそう。綺麗だから、モデルに。可愛いから、モデルに。素晴らしいから、みんなに見せびらかすためにモデルに。そういうもの。だから母に捨てられる。私まで勘違いされて、捨てられた。
あの日もそうだった。
あの日も、私は装飾品だった。偉そうに、飾られている絵より自分の作品のほうがどれほど優れているか、薀蓄の中に紛れ込ませて鼻高々。
嫌で嫌で、嫌だったから、一団から抜け出した。父の絵より素晴らしいところをいち枚いち枚に見出して、それでも空虚なまま、会場を歩いた。
そうして、見つけた。
その絵はグチャグチャだった。理性の欠片も見いだせない、荒削りな色の塊。それはまるで、ひとの皮の奥、はらわたの底を描いたようだった。
絵を見てときめいたのは初めてだった。
許されるならこれに触れたいと強く思った。
行き交う人々が私を見ている。美術品を眺めるような目つきじゃなかった。不思議に思ったとき、ふと、頬に液体が流れていることに気がついた。私は、泣いていた。その絵を、これを描いたひとを思って、泣いていた。この凄惨たる絵に、作者の心情が透けたわけではない。もっと熱くて、痛くて、重たい感情。
私はこの絵に、恋をした。
無題 土屋真知
作者に会いたかった。中学生向けのコンテストだ、きっと会場にいるはず。
探さなければ。会わなければ。そうして、そうして──できるなら、私を。
思いに突き動かされて駆け出そうとして、会場の隅に目がいった。
その少女はぼんやりしていた。
知らない学校の制服を着込んで、ベンチに腰掛け、壁に頭を預けている。抜け殻みたいだ。まるで、自分の中身を全て吐き出したような。
彼女だ。
確信めいたものが閃いた。
彼女が、あれを描いた。
笑顔が抑えられない。もっと上品に、母さんみたいに笑えと矯正された笑顔ではない。ありのままの、私の笑顔。
描いてほしい。描いて。私を。
声をかけようとした。それを遮るひとがいた。
「土屋さん、呼ばれてるから行こうか」
「……はぁい、せんせぇ」
存外幼い高い声。ふらふらと、連れられるままに歩いていく。そうして、私の『土屋真知』は、いなくなってしまった。
地獄に突き落とされた気分だった。きっともう会えないのだ。そう思った。じゃあ、私はこんな気持ちを抱えて生きていかなければならないの? あんな紛い物たちのもとに帰らねばならないと?
そんなの、酷い。
父の薀蓄が尽きないことに感謝したのは初めてだった。付き従う盲目な馬鹿共の忍耐に感謝したのも。
コンクールの終わりまで粘って、知り合いに声をかけに行くという紛い物共を笑顔で見送って、私は入り口を張った。しかし待てど土屋真知は現れない。
焦れったい気持ちを抑え、トイレに行った帰りだった。遠く廊下の奥、絵画を手にとぼとぼ歩く背中を見つけた。どうやら裏口に向かっているようだ。大声で引き止める勇気はなくって、そっと後を追いかけた。
ふらふら歩く彼女は、裏口を出、住宅街の方へ歩いていった。
やっと足を止めたとき、彼女の小さな背中越しにゴミ捨て場が見えた。
マナーの悪い誰かが置いたのだろう、収集の時間を無視した可燃ごみの袋。
その上に、彼女は、ポンと。
なんの感慨もなく。
あの絵を捨てた。
動けなかった。なんで捨てるの? どうして? 金賞を取れなかったから? そんなことぐらいで、なんで?私は、私は好きなのに。どうして? 動けない私のそばを、土屋真知は暗い目に何も映さず通り過ぎていく。スマホを取り出して、誰かに電話をかけながら。
「あ、せんせぇ。車どこでしたっけ。……ごめんなさーい、ゴミ捨ててましたぁ。だって約束……はい、はーい。すぐ行きまーす。せんせぇ、忘れてないよね? うん、今日は特別講習があったんだよね。私はずっと勉強してた。遅くなって、せんせぇに送ってもらった。うん。はーい……」
遠くなっていく会話を聞き終えて、ゴミ捨て場に駆け寄った。夕暮れを見上げるあの絵を抱きしめた。
「私の……これは、私の……」
「──天音さん。あなた……」
思考が現在に引き戻された。
「なんですか? 持田先生」
このひともある意味、私と同じなのだろう。絶対に手に入れることができないものに焦がれた同志。けれどごめんなさい、私はあなたとは違う。
「あなた、どうして」
「どうして? ……ここにいる理由、ですか? ええと、金曜日にたまたま、美術準備室に明かりがあるのを見かけて。それで、土屋さんが絵を描いているのを見つけたんです。なんだか私を描いているようだったので、それならとモデルをと。どうやら休みの間ここにいるようでしたから、彼女が心配だったっていうのもありますけれど」
百点満点の答えでしょう?
こういう私を、求めているでしょう?
──なんて。どうやら持田先生は、うちの父よりは聡いようだ。誤魔化されない。表情は固いまま。
「……普段なら、やめなさいとは言わないけれど。でもね、あなたは知らないのかもしれないけれど、土屋さんは絵を描くときにモデルはいらないの。ひとが側にいると落ち着かないって、そう言っていた。だから、私だって彼女が絵を描くところを見たことはないわ。わかるわね? 私は、土屋さんの絵の──」
「邪魔はしてませんよ。彼女にも了承を得て、私はここにいます」
持田先生はわかりやすく怯んでいた。
課せられたのは簡単なルールだけ。邪魔するな、喋るな、尋ねたら答えろ。たったそれだけ。
たったそれだけで、私は彼女に許されている。
あなたは許されないのだろうけど。
「私は、彼女の絵が好きなんです」
あなたよりも、ずっとずっと。
「あの絵を描いた、土屋さんが好き」
「……あなた」
「大好きなの」
私はどんな顔をしていたのだろうか。持田先生は詰まって目を逸らし、拳をきつく握っている。
「──あなたなのね」
「何がですか?」
「彼女の絵を拾ったのは。そうなんでしょう?」
「さあ」
「あの日、捨てたって土屋さんから聞いて。場所も聞いて。なのになかった。あなたが持っているのね」
「先生、もういいですよね? 戻っても。モデルをしなきゃ。ね?」
無言を了承として、軋む扉を開ける。こちらに一瞥もくれずに『私』を描いている姿に凶暴な気分になる。
扉を閉めて、鍵をかけて。キャンバスの向こうへ。息すら忘れ、肌を汗ばませて筆を振るう『土屋真知』を見つめる。
ねえ。私がどれほど嬉しかったか知ってる?
入学式で、もう会えないと思っていたあなたを見つけたとき、泣きそうになったの。いまでもはっきり覚えてる。入学式が終わったあと、親を探す素振りも見せずに帰る背中。どう考えてもサイズの合わないヨレヨレのスニーカーを履いて、トボトボ帰っていく姿。どれだけついて行きたかったか。だってもしかしたら、あなた、自分をゴミ捨て場に捨てるかもしれないって。そうしたら、私が拾って、私だけのものにできたのに。
二年のクラス替えであなたと一緒になったとき、どれほど嬉しかったか知ってる?
歳に合わない処世術で、誰とも深く関わらないあなたに、どれだけ話しかけたかったか。あの落書きだって、とっても、とっても嬉しかった。ほんの小さな隙を見せてくれてありがとう。おかげで、あなたのもとに訪れる理由ができた。ずっと、ずっと待ってた。
結局あいつらと同じだと思わせておいて、あんなふうに。私の名前を呼んで。キャンバスに話かけて。
ギリギリ健全に見せかけている栄養不足が透けた体型。あなたの体温。本当の表情。私は知った。知ってしまった。もう手放すことなんてできない。逃がせない。
ああ、苦しい。こんなに苦しい。恋が甘くて素敵なんて嘘。じゃなきゃ、私はどうしてこんなに苦しい?
私を見て。
薄皮いち枚、向こうまで。見抜いて。
私を、『本当』の私を描いて。
ああ、この美しい時間が永遠ならばいいのに、なんて。呟いたら、私は悪魔に殺されるのだろうか。
そしたらどうなるというのだろう。だってもう私は地獄にいる。
エバに囁いたサタンは、どうなったんだっけ。
ああ、けれど──
「これだ……そうだよ、これだよ……あははぁ……これが『天音ミヤコ』だ……ふふ……」
──彼女も一緒だというなら、それもいいのかもしれない。
彼女は変わらない。私を描きあげても変わらない。
教室ではいつも、へらへら。当たり障りのない話をして、相手に踏み込まず、踏み込ませない。それに誰も気が付かない。
けど、私は本当の『土屋真知』を知っている。
美術室で、もしくは美術準備室で。私には見せてくれる。本当の彼女を。
そう──あなたには見ることの許されない、本当の彼女をですよ、持田先生。
美術室へ入ってきた彼女は、私を一瞥し、ほんの少し表情を固くした。普段は柔らかな笑顔はいまは少し不格好だ。
「どしたんですか、持田先生」
手を止めたときの土屋真知は、ぽやんとした声で喋る。いまはそれすら愛おしい。
ああ、私だけが知っている。
平坦な声。暗い目。
絵だけに向く、いっそ攻撃的なほどの感情。
『土屋真知』と『絵』だけが彼女の真実の世界。そこに、私は、踏み込むことを許された。
持田先生。あなたはわかっているんでしょう。だから、私と目を合わせることができない。
薄暗い笑みを押さえ込んで、新聞を広げる。片隅に、『天音ミヤコ』と土屋さんの後ろ姿が載っている。なんて可愛らしい背中。吐き出しきって、そう。あの日と同じ。壁に頭を預けていた姿と似ていて、けれど違う。
だって、ねェ。空っぽになったあなたの中に、居るでしょう?
「やだぁーぁ……、もー……。最悪……。新聞もぉ?」
目を向けると、土屋さんは情けない顔をこちらに向けていた。ほとんど泣きそうで、けれどそれを隠した顔だ。彼女の横顔を薄苦く見つめる持田先生を一瞥、私は笑った。
「うん。……同じ写真かな?」
頭を抱えてしばらく、土屋さんは立ち上がった。ぶつぶつ言いながら細やかに切り替わっていく表情の色に心が震える。彼女は雑誌を先生に押し付け、カーディガンを脱ぎ捨てた。私は可哀想なカーディガンを拾い上げ、持田先生に笑顔を向けた。畳んだ新聞を差し出した。
「お返ししますね」
「……あなたも、いらないの?」
知ってるくせに。
そんなもの。
「はい。私には、必要ありませんから」
ぐだぐだと美術準備室の扉を開けた土屋さんを追う。ちらとこちらを見た暗い目に拒絶はない。
私達だけの世界に、必死さを隠した声が差し込まれた。
「……土屋さん、もしよかったら、また……」
持田先生のお気持ちは、申し訳ないけれど。
「しばらくいいっすー。勘弁して下さーい」
そうよね。そうなのよ。
私は良くて、あなたは駄目なの。
せめてもの慰めに、できる限り美しい微笑みを投げかける。軋む扉のその隙間が閉じる最後まで。
ああ、可哀想な持田先生。鍵を締めたのは、私ではない。
土屋さんは一切の躊躇なく制服を脱いでいく。まっさらになりゆく彼女に、本心からの笑みを向ける。
「ヌードのほうがいい?」
彼女はこちらを見ない。色づいた首筋に髪が落ちた。
「好きにすればぁ?」
そう。なら、好きにする。
ふたり分の制服が折り重なっていく。さっさと脱ぎ終えキャンバスを準備する土屋さんに声を投げる。
「描けたらちょうだい」
やっぱりこちらを見もしない。けれど、やはり、拒絶はない。
ああ、もう本当に、逃がせない。
ずっとずっと側において、空っぽのあなたを私だけで満たしたくて仕方がない。
彼女の絵が、私は確かに好きだ。確かに、撃ち抜かれるような一撃を喰らった。空っぽだった心に火を灯してくれた。けれどそれはただのきっかけだったのだ。ただ私は、絵をきっかけに突き落とされただけ。
──きっと、私は、満たされきった彼女が絵を描けなくなろうとも、もう手放すことなんてできないのだ。高校を終え、自由になるだろう彼女と、ずっとずっとずっと、一緒にいる。どこの誰からは逃げられたって、私からは逃さない。
ずーっと、一緒にいるの。
「好きにすればぁ?」
こちらを見ながら投げ捨てられた言葉。健康的な色の頬。黒い瞳。その奥。薄皮いち枚、奥。そこにある、色。
そこに見つけたものがたとえ自分の願望による幻想だとしたって、私はこの上なく嬉しかった。