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『天音ミヤコ』

 どうかどうか、地獄に落ちてくださいな。


***


 天音ミヤコは日本人形みたいだ。

 ホラーに出てくるやつではなく、芸術品。美術館にでもあって、ケースの中で澄ました微笑みをたたえているやつ。髪は雨に濡れた鴉みたい。LEDの反射すらどこか神々しくなる黒。ぱっつんも姫カットも、再注目だかなんだか知らんけどまたチラホラ見かける下々の民草とは一線を画す似合いっぷり。肌も白い。こっそり化粧してるギャルと違ってすっぴんなのに、引くほど白い。そこだけコントラストが違うみたいな、作画すら違うみたいな完璧な白と黒の中で、小さい唇は紅を引いたように赤い。すっぴんなんだけど、赤い。流血でもしてんのかってくらい。ちょこんとぷっくり、まっかっか。


 そんな部品をまとめ上げてしっくり来させているのは、やはり顔立ちなんだろうと思う。目も鼻も口も、眉毛も、全部完璧な位置取りだ。表情管理も完璧だ。歯を見せてゲラゲラ笑わない。どこぞの令嬢ですか? ってくらい、透き通っている。


 天音ミヤコは、日本人形みたいだ。


 賢げ|(実際賢い)で、可憐で、優しげで。私には──みんなにはないものを持っている。きっと『日本人形みたい』ってのは共通認識だ。そのくせ、みんなは影で「天使みたいだよね」って言う。


「それ、ひとりで持っていくの大変でしょう。お手伝いさせて」

「えっ、え、あ、ありがとう……」


 ああいうふうに、誰かに何か押し付けられた子に、押し付けられちゃうような子にも態度を変えないからなのか。もしくは、面倒くさい先生の手伝いとかも言われる前にやっちゃうからなのか。天使なんだって。クラスの、いや、学年、もしくはもっとスケール大きく学校中のどのカーストの男女も、惚けた顔で「天使」なんて言っちゃってんだ。


 なんてつらつら考えてたら、「私だけはあの子のこと好きじゃねぇぜ」って逆張り女に思われるかもしれないけれど、別に、そういうわけじゃない。ただ、「ふーん」という感じ。真っ白な良い子ですねー、って具合だ。


 無関心、が一番近いのかというと、違うのが難しいところだ。天音ミヤコは日本人形。私にとっては鑑賞物で、ごっこ遊びをしたいとは思えない。


 鑑賞物。そう。美人は三日で飽きるなんて言うけど、天音ミヤコと三ヶ月ほど同じクラスである私としての事実はこう。


「三日で飽きる美人はその程度ってね」


 前の席に戻ってきた艷やかな黒髪が揺れた。白い頬が見えて、黒い目がこちらを写した。


「土屋さん、なにか言った?」


 振り返った天音ミヤコは、これまた外見にぴったりの涼やかなくせに甘い声を出して小首を傾げている。この声だよな。これもきっと他のみんなにとっては甘露なんだろう。良い声ですねー。


「あー、独り言独り言」


 へらへらしながら返すと、天音ミヤコの取り巻きのひとりがケラケラ笑う。


「ツッチー最近独り言多くね?」

「まじ? やばー。老いてきてんのかね、私」


 テンションを合わせてやれば、ほらこの通り。異物とされることも敵視されることもない。この小さなコミュニティーで起こるくらいの小波は乗りこなして渡り鳥ができる。可愛らしいもんだ。


「てか、真知ちゃん。それなに?」


 塗ってる意味あんのって感じのベージュの指先が向くのはノートだ。次の数学の。数式塗れのページの角。


「これ? 目の前に良いモデルがいたからさー。昨日の落書き」


 天音ミヤコも同じところを見ていて、わあ、と小奇麗な歓声をあげた。


「すごい。上手ね、土屋さん。さすが美術部」

「ちゃうちゃう。美術部ないから、この学校。場所借りてるだけ」

「それでも……とっても、上手」

「いやー、どうもどうも。っても、天音さんが綺麗だからさー。モデルがいいからー」


 へらへら、へらへら。処世術。こうしてりゃ大概のひとは興味を薄くしてくれるが、天使のような日本人形さんは綺麗な微笑みのまま嫌にじいっと見てくるから困ってしまう。普段からそうだ。たかだか三ヶ月。中学が同じとか、部活が同じとかそういうことはないのに。関わりなんざ、最近で一番大きくたって席替えで前後になりましたーってくらいなのに。きっと優しさなんだろうと思う。あっちへフラフラこっちへフラフラ、火種があればスッと逃げる私が孤立しないようにとか、きっとそういうことだろう。


 チャイムの音で取り巻きが散り散りになって、黒い瞳は中空に軌跡でも焼き付けるようにゆっくり前に向く。数学教師が入ってきたから、授業のお時間だ。ゆっくり過ぎておくれ、と思いながら、私はまた手遊びを始めた。うーん、とろみを帯び始めた陽光の反射が素晴らしい。いい暇つぶしだぜ。


 ***


 あなたばかりにみせられては、苦しいだけでしょう?

 

 ***


 夏の学校は夕方でも暑い。みんな熱心に部活に励んでいるからか。私みたいな間借りしてるだけの人間にも暑さを寄越すのはやめておくれや。真っ白なひと抱え程のキャンバスを睨んで、溜息が出た。


 モチーフが思い浮かばない。


 無い美術部の活動をしているようなこんな面倒な生徒を、それでも気に掛けて、『私の恩師の個展に参加してみないかしら』と言ってくれた持田先生に「ま、やってみてもいっか」なんて気構えでもハイと返事をした手前、真っ白ー、なんも描けませんでしたー、ごめんでござるー、は流石に申し訳がない。

「……あー、中学んときもあったなー」


 美術の先生がなんか声掛けてきて。そんときは個展じゃなくってなんか、コンテスト的なやつだったっけ。あんときは良かったよ、なんせ絵はできてたから。あんなもん、なんで出したがったのかまじでわからんけど。


 息苦しそうに蝉が鳴いている。背もたれのない四角い椅子の上、脱力する。ぼんやり薄くなるようにしていると、真っ白なキャンバスに吸い込まれそうになっていく。申し訳程度に指にかけていた筆も、パレットも、床に落ちて──。


 扉が開く音がした。アイデアの扉、なんてことはなく、ただ誰かが美術室に入ってきただけだ。持田先生かな? 熱中症でくたばってないか見に来たか。そう思って目を向けて、びっくりした。


 うっわ、綺麗な日本人形。ああ、天音ミヤコか。


 廊下の窓から注ぐ夕日を逆光に、扉枠は額縁。絵画だ。こんだけモデルに力があると、額縁はシンプルな方がいいんだなぁ。


「あれぇ。天音さん、どしたの」


 そういえば、今日の最後は美術だった。忘れ物かな?

 天音ミヤコは微笑んでいる。


「あのね。私、土屋さんが絵を描くところを見てみたくって」

「ありゃ。タイミングがちょっと悪いね」


 天音ミヤコは少しだけ表情を動かして、それからまた笑った。


「……邪魔、しちゃったかしら」

「んーん。違うよ。描くもの決まってなくってさぁ」


 へらへら。へらへら。

 扉枠に添えられていた手が逡巡するように綺麗な本体へ引き寄せられた。うーん、絵になる。アンニュイな名画だな。濡れ羽色が揺れて、白い頬の影が濃くなって、それから、ふっと散る。真っ直ぐな真っ黒い目がこちらを見据えて、一歩踏み出した。こちらに歩み寄ってくる。なんか床が喜んでいる気がする。踏まれる歓喜を覚えてキュッキュと鳴いている。


 目で追っていたら、天音ミヤコはすぐ横まで来た。跪いた。わお、倒錯的。床を鳴かせてた無垢な女王様が私を上目に見上げてる。筆を白魚が拾い上げ、もう片手が私の手を持ち上げる。存外冷たい手だ。温かいと思ってた。


 なんとなくその指先を見つめる。形のいい桜貝がついている。私の手に筆を握らせた。ほう、と指先に吐息がかかったような気がした。


 黒い眼がうるうると輝いている。のに、なんだか乾いているようにも見えた。


「天音さん、どした?」

「あの……あのね」


 蝉が鳴くのをやめた。


「それなら、私、モデルに立候補してみても、いいかしら」


 綺麗な声は、静寂を揺らす波紋すら美しいらしかった。


 ***


 自分だけを見つめるその目で、私を見て。


 ***


 ひとがいるとこで落書き以外をするのは好きじゃないんだけど。なんか、圧倒されちゃって。

 結局頷いたから、私と天音ミヤコは放課後の一時間ほどを一緒に過ごすことになった。


 面倒なことになったな、と思うけど、でもきっと綺麗なものは私のすっからかんの頭と平熱の感情を揺り動かしてくれる一助にはなるだろう。


 キャンバス越しに、天音ミヤコが座っている。椅子は美術室の古くて四角い木のアレなのに、まるで宝石箱の中に座っているようだ。空気が煌めいている。


 正直、人物画なんて真面目に描いたことはなかった。し、天音ミヤコもモデルは初めてらしくって。こうしてふたりきりになって初めて知ったが、彼女はけっこうおちゃめさんらしい。じゃなきゃ、昨日、「ヌードのほうがいいのかな……」なんて言わない。流石にあの時は笑ってしまった。流石に女子高生の裸婦画は個展に置けないんじゃない? って。持田先生の名前も知らない恩師をロリコン呼ばわりさせるわけには、ちょっと、ねぇ? だから「同級生の裸婦画はやばいっしょ」って。そしたら天音ミヤコは、戯けた調子で「そっかぁ」って。ふふ。思い出しても面白い。


 さて。筆をとる。乱雑に出した絵の具に適当に浸して、日本人形を描く。きっちりお座りして、真っ直ぐこちらを見つめる日本人形を。


 一時間経って、なんだか満足げな彼女に別れを告げて、トボトボ帰って。結局、そこまで刺激はなかったなと頭を悩ませ、本棚の前に立つ。窮屈に並ぶお古の参考書を退かし、その後ろ。ちょっと無体なことして本棚と参考書の間に隠してある美術雑誌を取り出す。好きな画家の特集以外は読んでなかったこれに刺激を求め、パラパラめくる。片隅で目が止まる。小さな小さな個展の紹介欄だ。どっかの画家が、趣味だかなんかで作った集まりの習作を展示していたらしい。文章の横に、主催者の絵があって。「娘」という題のこれは、みんなで同じモデルを描いたものらしい。布切れを纏わせたソレは、ちょっとの違和感があった。主に布切れの方に。きっとモデルは裸だったんだろう、そう思った。


 作者の名前を目でなぞる。改めて絵を見つめる。

 決して合わない視線はきっと、床を睨んでいたのだろう。こんな表情は見たことがない。暗くて重い。


「……へえー」


 心と頭の中で、チカッと火が瞬いた。地面が揺れてるような嫌な気分になった。



 毎日きっかり一時間。バイトがあると嘘をついて目の前のモデルを追い返すまでの時間を使って、嘘を描いていく。


 そうしながら、私の中で『本物』が形を作っていく。溢れ出したのは、昨日。日本人形を描き始めてから一週間たった頃。美術準備室の、切れかけの電灯の下で。あっちの部屋は、お澄まししてる彼女には見せられない。

 そうだ。そうとも。たった一週間で。他愛のない世間話の隙間に見せる仕草と視線で。見事に天音ミヤコは私の火に薪をくべた。グツグツゆらゆら、火柱を上げるのだけはなんとか抑える内心で、「これじゃない」と思いながら、それをひた隠してぽんぽん絵の具をキャンバスへ。


 これじゃない、これじゃないんだよなぁ、ちがうなぁ、を塗りこんでいく。


「……よーし、完成ー」


 できるまで見せないよー、と最初に冗談めかして告げたのを、天音ミヤコはきっちり守った。いまは、なんだかソワソワした様子で駆け寄ってきて。


「……あぁ」


 なんて言うかな、と横から覗き込む彼女を見上げると、なんか、がっかりしたような顔をしていた。そうだろうそうだろう。私の絵はこんなもんなんだよ。あなたが勘違いしちゃっただけさ。普通だろう?


 だから、早く帰れ。ひとりにしてくれ。


「モデル、ありがとね。おかげで完成したよー」


 嘘をついた。そして、時計を指し示して「あ、バイトの時間になるから。また明日ね」と告げた。


「……うん。なんていうか、その……光栄だった」

「いやー、そんなそんな。じゃ、また明日ねー」


 夢から覚めたような足音が遠くなっていく。聞こえなくなってからきっかり十五分。私は美術室から顔を出した。誰もいないことを確認した。内鍵を締め、持っていた水彩用のパレットと筆を放り捨てた。美術準備室の扉を開けた。


 凄惨たる光景だ。模造品たちは辛うじてカバーがあるから難を逃れているが、床は本当に酷い。ブルーシートからはみ出してるのは、持田先生にあとで謝らなければ。


 我ながら、やっぱり散らかしすぎている。だから家じゃなんにも描けないんだ。


 もったりしたひとつ結びを解き放つ。天音ミヤコのそれとは月とスッポンの傷んだ髪が背中に落ちた。


「家でこれやったら、どーんだけ怒鳴られることか」


 ポイポイと制服を安全圏に脱ぎ捨てる。素っ裸で目の前の真っ黒なキャンバスに向き直る。昔馴染みのパレットを持ち上げて、油絵の具をねっちりと擦り付ける。


 私はいまから、『天音ミヤコ』を描く。


 目の前にモデルなんかいらないのだ。いないほうが好きに描ける。

 絵の具を叩き向ける。色が混ざっていく。濁っていく。ぼんやりと天音ミヤコを象っていく。

 もう一度。私は天音ミヤコを嫌っているわけではない。そう宣言しておく必要は多分にあるだろう。

 特に、この絵を見る人間には。


 ノック音。いつの間にか止まっていた息を吸い込み、咳込みを返事とする。


「土屋さん。もう随分遅い時間になりましたよ」


 扉越しの声は持田先生だ。荒い息でキャンバスを睨む。ああ、けっこう乗ってきてたのに。


「わかりましたぁ」


 キャンバスを壁側に向けて、誰が見ることもないように。それから、下着を、制服を着込む。首から下の絵の具汚れなんか知ったことじゃない。バレやしない。そのための趣味でもない黒い下着とキャミなんだから。

 軋む扉を開けると、持田先生は準備室を見回して困った顔で、けどどこか無邪気な子供が友達を見つけたように笑っていた。この状態の仕方無さを知っている、というふうに。


「げぇ。もうこんな時間……やべー」

「またお家の近くまで送っていくわね」

「すんません、ありがとうございますー。あ、そうだ」


 美術室のど真ん中。日本人形の絵を顎で指し示す。


「アレ、一応完成品です。間に合わなかったらあれでもいいっすかね」

「見ました。うん、まあ、個展に出せるレベルではあるんだけど」

「あー、はい。わっかりましたぁ」


 洗剤とタオルを受け取って、汚れたシンクで顔を洗う。濁った水が排水口へ流れていった。


 持田先生の車は、フローラルな芳香剤に混じって、画材の匂いがする。落ち着く匂いだ。家ではしない匂い。先生、画家になれば、とは、流石に言えなかったから、大きな塊と一緒に飲み込んだ。


 ***


 私のはらわたの底まで見つめて。


 ***


 教室にいるとき、天音ミヤコに話しかけられることが少なくなった。こちらを見てくることもあんまりなくなった。


 それで困ることはひとつもないけれど、急だなぁとは思った。おおかた、私の絵に不満があったんだろう。別に構いやしない。


 個展まであとひと月かそこらだ。絵は完成に近づいている。ここ最近は友達にうわの空が多くなったと指摘されていて、けど、改めることはできない。どうしてもピースが欠けているから、そこから思考が離れないのだ。


 いまもそう。ほぼ完成と言っていい天音ミヤコの絵を前に、素っ裸であぐらをかき、腕を組む。


 決まらない。


 唇と、それから、目の色が決まらない。


 唇の赤はもはや血を混ぜるくらいのことをしないと表現できない。最終手段として混ぜてもいいかは持田先生に聞くとして、問題は目の色だ。


 既存の黒も、混ぜて作った黒も、しっくりこない。

 あーもう、なんだか構図も気に入らなくなってきたぞ。


 あーあ。足も手も大きく開いて寝っ転がる。目を閉じる。浮かぶのは中学の頃、なんかコンテストに出された絵だ。箸にも棒にもってわけじゃなかったアレ。棒にくらいは引っかかったアレ。結局どうしたんだったか。先生にあげたんだっけ。捨てたんだっけ。アレも破られたっけ? あの時の未完成品と違って、もう私の外に出たからヤツだから忘れちゃった。


 ああいう絵をいま描いているからだろうか。なんだか頭の隅に居座っている。あのメチャクチャな絵。乱雑な絵の具の地層。表面の荒削りな凹凸。色合い。あの頃をこの絵に乗せたいわけじゃないけど。


 なんだかイライラしてきた。絵の時間はめったに見ない時計を確認し、締め切っていたカーテンを開け放つ。薄闇の中、二年の教室は明るい。誰か残っているかも。けれど見られたらの不安は苛立ちに負けを喫した。


「テメェの血は何色じゃー!!」


 叫んで、気が抜けた。今日は駄目な日みたいだ。私は早々に諦めをつけ、潔く制服をまとって美術室の鍵を締めた。持田先生に返して、久々に自分の足で家路を辿った。


 ***


 薄皮いち枚、向こうを描いて。


 ***


 寝ているときも、授業中も、天音ミヤコが頭に居座っている。あの色が出ない。出せない。頭にくる。いらいらする。


 そんな苛立ちをはらわたに隠しきって、それでも視線は彼女を追いかけた。だからだろうか。なんだかまた、天音ミヤコと良く目が合うようになった。

 授業と授業の間の休み時間。プリントの受け渡しのとき。移動教室の合間。いまもそう。体育着に着替える間。


 あの真っ黒な目が、こちらを見ている。


 悪感情じゃないのだろう。けれど物言いたげな。真っ向から受け止めて「どしたの、天音さん」と笑みを向けると曖昧な言葉と共に逸れる。


「どしたー?」


 ほらね。


「ううん、なんでもないの」


 そっかあ、とへらへら笑いながら、友達との会話に戻るふりをして観察する。真っ白な肌に透ける青い血管。昔のお貴族様は、白さを際立たせるためにわざわざ青で血管をなぞったらしい。天音ミヤコには不要だ。けど『天音ミヤコ』には必要かも。


 あれを食い破ったら何色の血が流れるのか。赤なのか、もしくは別の色なのか。


 あっちはあっちで友達と会話している。動く小さな唇を見つめ、赤なんだろうと結論付ける。

 友達に脇腹を突かれた。


「真知、ここ汚れてない?」

「うわー、ほんとだぁ」


 知らないふりで驚いて、絵の具汚れをこすりとる。


「なんだろねぇ」


 視界の隅で濡れ羽色が翻った。息を詰めたような音がした。気にも止めずに、更衣室を出る。


「ミヤコちゃん、顔赤いよ。体調悪い?」


 体育館で知ったけど、なんか、天音ミヤコが過呼吸かなんかで保健室に行ったらしい。おだいじにー。


 ***


 あの絵みたいに。


 *** 

 

 いよいよヤバイ。


 デッドラインが近づいているのに、やっぱり『天音ミヤコ』の唇と瞳だけ嘘のままだ。下手すれば、構図もだ。

 もう手段を選んでいられない。明日が土曜であることを幸いに、親には友達んちで勉強合宿だとラインをいれた。返事はなし、いつもどおり。つまりは『どーでもいい』か『やっとお兄ちゃんみたいにまともになったわね』だ。


 持田先生には、この部屋を三日間、私の物にさせてくれと頭を下げ倒した。食べ物は学校に来る前に買ってきた。あったところで食事を思い出せるかわからないけど。簡易トイレも万全。私はここに引き篭もる。


 野球部の声。蝉の声。だんだん薄くなっていく。全裸で『天音ミヤコ』を見上げる。何時間経った。どうでもいい。なんでもいい。あの色をどうやれば作れる。あいつは白の内側、はらわたの奥で何を燃やしている? なんであんな色の目をしている? クラスメイトに、先生に、私に、それぞれ色を変えて向くアレはどんな染料(感情)でできている? 描きたい。描きたい。描きたい。


 描きたい絵を描くときにだけ、私の奥底に血の繋がった他人の手で押し込められた感情は火柱を上げる。


 自我を捨て去り、あの白い器に乗り移った目線で想像しても綺麗な色しか見えてこない。違う。絶対に違う。あいつはこんな色で世界を見ていないはずだ。


「ねえ、『天音ミヤコ』。あんた、どんな世界を見て生きてるの?」


 扉の、軋む音がした。


 これ以上ないくらいに集中した日にこそ、小さなミスをするのが私なんだと思い知った。


「……土屋、さん」


 鍵を締め忘れた。

 あろうことか、美術室のも、準備室のも。


 ああ、男子や持田先生以外の先生じゃなくてよかった。そんな安堵は声には乗らなかった。一瞬のうちにどうでもよくなった。


「なにしにきたの」


 汚れた遮光カーテンに背を預けて座る裸の私は、こちらだけを見つめて彫像のように動かない彼女にどのように写っているだろう。確認はしない。いまは『天音ミヤコ』しか目に入らない。


「出てくか入ってくるかどっちかにして」


 感情の乗らない声はお天使様の彼女にはさぞかし冷たかったろうに、動きは早かった。躊躇なく入ってきた。扉の鍵を締めた。


 肌に視線が触れている。互いに無言のままどれくらい経ったか、目の前を遮られた。天音ミヤコは私を覗き込んでいる。目は、潤んで、そして根本的なところが乾いている。近づいてくる。顔の両側に腕が伸びる。カーテンが歪んで揺れる。


 この色だ。これを私は塗り込みたい。


 数秒、ゼロになった距離が全てをぼやけさせた。


 吐息の交じる距離が徐々に離れる。黒髪が頬を掠めた。


 ああ、これだな。相手を食らい尽くすような。これだ。『天音ミヤコ』はこの構図のがいい。


「ねェ……」


 強い黒の瞳と、歪んだ眉。その張りを薄赤に染めた頬と三日月の獰猛な唇。そこに浮かぶ陶酔、懇願、狂気。奥底のこちらに向かない苦味と嫌悪、憎悪。天使の仮面から漏れ出している、渦巻く人間性。


「もう一回、私、モデルに立候補してみても、いいかしら」


 宝石箱で隠さないというのならば。


「そう。いいよ」


 なら、特別に、いいよ。



 打ち震えるような様子の彼女に、私は「ただし」を突きつけた。


 邪魔しないで。話しかけないで。尋ねたら答えて。


「うん」


 アリバイ作りの片棒担いで。私と天音さんは、勉強合宿中。いいね。


「わかった。土屋さんのスマホを貸して」


 埃まみれの隅っこを指し示す。這いずってそこに行った彼女はスマホを持ってきて、私の指を持ち上げて指紋認証のロックを解いた。見ている前で電話帳を開き、『あ行』に目を滑らせた。


「あ……こんにちは、初めまして。私、土屋さんのクラスメイトの天音ミヤコと申します。土屋さんのお母様、ご存知と思いますが、私、彼女と勉強合宿をしていまして。あ、いえ。そんな。私が無理を言ったんです。土屋さん、頭がいいから。勉強、教えてほしくて。それで、いま私の家にいまして。お泊りという話も……はい、知ってらっしゃいますか」


 そんな甘い声で、よく嘘がポンポン出るもんだ。色のない頬を見つめる。


「お気を使わないでください。私から言い出したことなのに、土屋さんからお土産もいただいてしまっていますし。うちの父は、……アトリエに篭ってますので。ひとりで寂しくって、というのもあったんです。はい、はい……ごめんなさい、何かありましたら、土屋さんの、『真知さん』のスマホに連絡をお願いします。家の電話だと、父の集中を妨げてしまうかもれしなくって。ああ、ありがとうございます。それでは、失礼いたします。……これでいいかしら」


 振り返った彼女は鮮やかだった。色を取り戻して、生唾飲み込んだ喉元がはっきり見える。肉食獣みたいだ。儚いお花みたいな見た目のくせに。

 ゆっくり体を起こす。ついでにペットボトルを手繰り寄せひとくち。


「じゃ、そのへんに座ってれば」


 唇の水を拭う。きっと絵の具がついたろう。間抜けな姿の私の言葉に、天音ミヤコは静かに従った。

 パレットに絵の具を絞り出す。一瞬の瞑目の後、彼女を睨むように見つめる。見透かす。いまは濁った水面も、しばらくすれば透き通るだろう。はらわたの奥底まで覗き込む気持ちの乗った全裸の女の視線に、あろうことか、天音ミヤコは笑っている。嘲笑でも誤魔化しでもなく、仮面も何もない、彼女の笑みで。彼女の、きっと、本当の笑みで。


 ざわめきが足から頭の先へ走った。


 きっと頭がおかしい。

 天音ミヤコも、私も。


 少し前までは『本物』だった絵を、『本当の本物』で上書きし終えた。荒削りな絵。下描きじみた絵は、押し倒すようにこちらに両手を伸ばし、笑っている。

 何時間くらい経っているのだろう。クラクラしてきた。腹も軋んでいる。


「トイレするから出てって」


 準備室の扉がしまった。用を足して、呼び戻すことも忘れて絵に向き直る。少ししてやっとモデルがいないことに気がついて「もういいよ」と告げる。帰ってきた彼女は元の位置には戻らずに、ビニール袋を漁っている。簡易トイレがいくつも入れてあるやつだ。彼女もトイレに行きたかったらしい。さっき外でしてくりゃよかったじゃん、と思ったが、多分もう、生徒が校内にいていい時間じゃなかったんだろう。好きにしたらいい。


 集中するから音なんか聞こえない。些細な物音すら消えて、自分の呼吸音すら聞こえなくなって、筆だけが鮮明に感情を歌っている。


 あの顔。あの目。この構図。これだ。あとは色。色。色。色はまだいい。まずはそれ以外を完成させなきゃ。


 唇の熱。吐息の熱。髪の感触。赤い唇。赤い頬。黒い目。綺麗で獰猛な女の笑顔。黒い髪。黒い制服。黒、黒、黒──真っ白。


 ぱちん、と電気が消えた。

 気がついたら私は寝っ転がっていた。


 さっきのあれは停電だと思ったが、どうやら気を失ったらしい。体の痛みと喉の違和感からして、私は呼吸を忘れてしまっていたようだ。

 まだ明瞭ではない視界で、真っ白な顔が浮かぶようだった。天音ミヤコはわざわざ私を膝枕してくれているらしい。冷たい手が頬を撫でている。愛玩動物じゃないんだけど、私。


 手は耳の形を確かめ、首筋を下り、栄養不足の胸の間で止まった。心音でも確かめたのだろうか。生きてるよ、別に。手は、ややあってから腹へと降りてきた。


「ああ……あなたのここの中の色……きっとそれが、」


 薄く押し込まれている。ちょこっと不快だ。


「勝手に触っていいなんて言ってないけど」


 惜しむように指先を残して、いつの間にか熱を持ち始めた手が離れていった。謝罪も弁解もない。どうでもいいか、そんなもん。


「……ああー、何分くらい?」

「五分も経ってないよ」


 起き上がり頭を振る。眩む頭をなんとか持ち上げ、立ち上がる。パレットと筆を拾い上げたのは天音ミヤコだ。いつかみたいに手渡してきた。


 定位置に戻り、再開する──絵に布がかかっている。


「かけたの?」

「だって、完成するまで見ちゃだめなんでしょう?」

「見たけりゃいいよ、見る?」


 返事を待たずに布切れを取っぱらう。放り投げる。


「あぁ……」


 私が嘘を描いたあのときと同じ。けど、決定的に違う色の声。放っておいて今度こそ再開する。


 少しして定位置に戻ってきた天音ミヤコは、なんていうか。奇妙なほどに嬉しそうだった。

 無言は、私から切らなければずっと続く。話しかけるなと言ったから。


「なんでモデルになりたいって言ったの」

「あなたの絵が、上手だったから」

「好きな色は?」

「黒。なにも受け付けないから」

「ふぅん」


 なんて空っぽな会話だろう。教員だろうか、車が去っていく音が響く。


「なんで嘘ついたの」


 責めるつもりはひとつもない。平坦な声で尋ねる。何について言われているか、普通ならわからないだろう。けど、いつの間にか何かのレプリカに腰掛けた天音ミヤコはあっけなく理解して、口を開いた。


「あは、見たんだァ。アレ」


 歪んだ笑顔。

 それがあんたの本当の顔。そう。


 いいね。


「美術雑誌で」

「あんなの、モデルになったなんて言わないから」

「モデルはモデルでしょ」

「ふふ、うふふ……そうかもね。ふふ……少しは興味を持ってもらえたみたいで嬉しい。こんなに『他人』に質問するあなた、初めて見た」


 一瞬、筆が止まった。奥底まで見透かされた気分になった。誤魔化してパレットに筆先を寄せる。


「──なんで嘘ついたの? 天音京一郎の娘さん」


 お前も動揺しろよ、なんて思うのは初めてだった。

 もはや感動するほどの嘘笑いが響く。綺麗すぎる笑い声をしばらく聞かせ、伏せていた目が私を射抜く。底まで射抜く。はらわたをギュッと握られたようだった。


「アレのどこが、私を描いているの?」


 底まで真っ黒。ベンタブラックが欲しくなるが、あれを塗ったら塗ったで、私はきっと「ちがうなぁ」と思うのだろう。

 天音ミヤコは、「独り言は許されるかしら」と呟いた。私は答えなかった。ただ絵を続けた。


「薀蓄ばかりの画家気取り。志同じくする人々だとか言う男共集めて、ごっこ遊びが大好き。綺麗だからって、年頃の娘を裸にして。そんな奴らの前に置いて。ご満悦だった。本当に馬鹿よ。あのひとの言う『高尚な友人たち』が、どんな目で、どんな様子で私を描いていたかなんて気が付かない」


 完成したのはどれも酷い絵だった、と天音ミヤコは丁寧な甘い声音で吐き捨てた。


「あれのどこが芸術なの? 薄皮いち枚上っ面、そこにある凹凸ばかりを見つめて、なんにも描けてなんかいやしない」

「ふぅん。じゃあ、なんで私には『ヌードのほうがいいのかな』なんて言ったの」


 尋ねたら答えてと言ってあるのに、答えない。その笑顔が答えだとでも言うのか。そう言おうと思ったら。


「あなたはきっと、描いてくれるから」


 なんか、笑わないでほしい。そう思った。こいつの『笑顔』は綺麗で、恐ろしい。見ていられない。


「意味分かんない。最初の絵はがっかりしてたくせにね」

「あなたも同じだと思ったの。期待はずれだったって」


 でも、違った。そうでしょう。


 そう囁いた彼女に、なんだかどこかへ引きずり込まれそうだった。自分からひとに潜り込むのはいい。けれど、引きずり込まれては、なにも描けない。キャンバスに吸い込まれるのとは全く違う。それはだめで、いけない。


 私は筆の感触だけに集中して、『天音ミヤコ』に向き合った。


 本当に久々に、恐怖を感じている気がする。昔、血の繋がった他人に覚えた恐怖が最後のはずだったのに。けれど、そう。それとは少しだけ質が違う。それに、そこに一抹、交じる奇妙な感覚。

 気がついたら、久方ぶりに腕に鳥肌が立っていた。


 ***


 薄汚れた私を捕らえた、あの綺麗な絵のように。

 そうして、ねえ。


 ***


 眩しくなって目を開ける。私はまた気を失ったのだろうか。もしくは、眠りに落ちたのか。いずれにせよ、落ちた瞬間の記憶がない。


 目元に当たる光は、朝日よりは鋭くない。この感じだと、九時かそこらだろうか。気絶にしろ、寝落ちにしろ、裸だったというのにそこまで寒くない。夏なら素っ裸でもなんとかなるみたいだ。


 覚醒を始めた脳に甘い匂いが届いた。肌触りのいい布の感覚も。肩を手で辿る。指先に触り心地のいいものがある。手繰って、夏用のカーディガンであることがわかった。

 誰の? 疑問は一瞬だった。キャンバスに向き合う人間のものだ。


 未完成の絵の前で、天音ミヤコはこちらに背を向けている。


 体を起こす。その気配に気がついたのか、天音ミヤコが振り返った。首筋が引き攣る感覚があった。


 私はなぜ、こんなに緊張している?


「おはよう」


 少しの沈黙に、天音ミヤコは「挨拶も話しかけたうちに入っちゃう?」と呟いた。負けん気で拳を握りしめ立ち上がる。


「……おはよう」


 彼女の手にはパレットと筆があった。使っていたわけではないらしい。こちらに差し出されている。カーディガンと交換する。ありがとう、と私が呟くと、綺麗な笑顔と共に場所を開けてくれた。


「さあ」


 言われるまでもない。頭と体のスイッチは入っている。


 時間が過ぎるにつれ、天音ミヤコの『独り言』は増えていった。少し前までは学校生活の些細なことを呟いていて、いまは自分の腕を見つめている。


「私でも、人ひとりくらいは抱えられるのね。いいこと知った」


 つまりもしかすると、起きて体の痛みを感じなかったのは目の前の彼女のおかげらしい。返答も礼も求めていないようだから、黙って絵を描き続ける。絵の具で丁寧に凹凸を作って、けれど、まだ表情の仕上げをする気にはならなかった。


 土曜の昼間が過ぎ、夜が過ぎ、また無自覚に意識を失い、目覚める。日曜の、いまは昼時だろうか。その頃になると、天音ミヤコは独り言を言わなくなった。ただじっと私を見つめている。キャンバスに隠れて見えるはずがないのに、筆の動きひとつひとつを追われている気がする。


 日が傾き始めたころ、天音ミヤコは断りを入れずに私のスマホを手にした。どうやってロックを解除した、と集中の隙間で思ったけど、すぐに霧散した。


 聞こえてくる会話からして、私の母が相手だ。


 帰りは月曜の夕方になると勝手に伝えている。あのひとは頭のいい優等生が大好きだから、きっと機嫌は良いのだろう。すんなりと了承を得られたようだ。私がそれを得ようとしたら、一時間そこらの会話が必要だったろう。

 そも今日だって帰る気なんかなかったが、月曜の憂鬱が減ったのは確かだった。


「決まらない」


 あぐらをかいて憎々しく呟くと、横にまわってきた天音ミヤコがしゃがみこんだ。私と同じように、『天音ミヤコ』を見上げている。


「ぐぅぅぅぅ……唇だってこんな赤じゃない。くそったれ。違う。もっと赤い。もっと赤くて、鮮やかで、そのくせ暗い色。目もそうだ。もっと……ちくしょう、ちくしょう……」

「ああ、あのときの叫びはそれだったのね」


 横を睨む。笑みとかち合う。

 あ。だめ。引きずりこまれる。


 抗いがたい強さで、目眩がしそうだった。

 彼女は私に腕を差し出している。カーディガンを脱いで、半袖の制服を捲りあげて、肩近くを指し示して。

 そこにはいくつか、線があった。


「ねぇ。なら──」


 彼女の手はいま右手に何を持っているのだろう。黒い眼から目が離せない。鈍く光る、それは──

 ノック音が響いた。


 奇妙な引力が失せた。


「土屋さん、大丈夫?」


 持田先生だ。そういえば、日曜に一回は連絡するって約束してたのを忘れていた。私が手近な布を手繰り寄せて肩にかける間、天音ミヤコは何かを放り投げた。硬い音がした。


「……はーい。いま開けます」


 内鍵を開けて招き入れる。持田先生は慣れた様子で私の姿を見て、それからキャンバスの方を見て、目を丸くした。


「……天音さん?」


 天音ミヤコは、完璧に天音ミヤコだった。日本人形。お澄ましした天使様。カーディガンもきっちり着込んでいる。


「こんにちは。持田先生」


 持田先生は絵をちらと見、一瞬満足げにしてから、また天音ミヤコを見た。


「……うん。素晴らしい。まだ完成ではないのよね?」

「えー、はい。顔がまだ。でもあとそれだけ。今日中にはなんとかなります。します」


 そう。と頷いたときも、先生は絵ではなく天音ミヤコを見ているようだった。表情は見えないが、頬は固いように思う。


「無理はしないこと。いいですね」


 やっと振り返った先生は『親』の正解みたいに微笑んでいた。愛しい我が家にはないものだ。


「はぁい」

「うん。……天音さん。少しいいかしら」


 出てったふたりが何を話したのかは知らない。すぐには戻ってこなかったから私はまた『天音ミヤコ』に集中したし、聞き耳を立てるようなこともしなかったから。

 結局、いつ天音ミヤコが戻ってきて先生が帰ったのかは知らない。気がついたら座ったまま寝こけてて、夜になっていた。


 目を開けたとき、口元に指先が伸びていた。反射的にはたき落とすと、天音ミヤコがキョトンとした。


「なに」

「涎が垂れていたから」


 だからなんだ。関係ないだろ。乱暴に拭って立ち上がる。這いつくばるような格好のまま目で追ってきた天音ミヤコは、くすくす笑いながらスラリと立ち上がった。キャンバスの向こうに行けばいいものを、横に突っ立っている。


「なに」

「赤色、一緒に作ってみない? ううん、赤だけじゃない。私の目の色も。一緒に」


 天音ミヤコは、手にハサミを持っていた。黒々光る鋭いハサミ。よく切れそうだ。


 ああ、そうだ。忘れてた。先生に確認しなきゃだったのに。

 でもどうせ「だめ」と言われるだろうから、許しを得る必要なんか、ないや。本人が、モデルの当人が言い出したんだし。いいや。やっちゃえ。先生には内緒だ。誰にも、内緒だ。


 刹那の間があり。

 ハサミを奪い取り。

 手首に。


 けど大量出血は掃除が面倒だと理性が言うから、左手をパーにして。


 刃をそこにあてて。


「……なに?」

「つまんないじゃない。ねェ。そうでしょう? 一緒に、ね」


 ハサミを握る右手を包まれて、呼吸はそう、ひと息分。鋭い痛みがあって、横に並んだ色白でも地黒でもない普通の色の左手と、真っ白な右手に線が引かれた。線からは一拍おいて赤がにじむ。無駄にしないように握り込もうとした。ハサミを放った右手でパレットを手繰っているうちに、左手が握りこまれた。

 白い指は私の手の甲を撫で、味わうように指を絡め直す。傷がじくじく痛んでいる。自分以外の心拍に乗って、じくじく、じくじく。


 鏡合わせの手のひらで混ざった血が、滴り落ちる。


「なにしてんの」

「混ぜてるの」

「血ってばっちいんですけど」

「私は血液で感染るような病気は持ってないの。定期的に調べてる」

「私は持ってるかもしれないじゃん。調べたことないよ」

「いいよ。持ってたとしたって。ちょうだい」


 なんか、妙だ。夢の中にいるよう。仮にそうだとして、フロイトはこれにどんな押しつけをしてくるのだろう。

 現実であると知らせる痛みにいろんな諦めを見出したら、途端に可笑しくなってしまった。定期的に調べてるって。どゆこと?


「なんで定期的に調べてんの。そんなこと」

「馬鹿なひとがね、絵具に使いたがって調べさせたの」


 ふふ。くくく。あはは。


 ふたり分の笑い声は、音だけ聞けば楽しげで、いかにもティーンぶってて、華やかだ。女子高生の戯言の気配がある。


 蓋を開ければ、奇人がふたり。ふたりきり。


 笑い声が途切れた。彼女のは自分から。私のは、中途半端に。

 ああ、風の音が強い。学校を揺らしてる。


「……なんかさ、好き勝手するね。ここに来たときからさ」

「そうかしら」


 まあ、いいよ。その気まぐれは、忘れてあげる。

『絵の具』は充分。朝までの時間も充分。

 筆を手に持つと、天音ミヤコは握った手をゆっくりと離した。血が広がって真っ赤だ。傷からはまだぷつぷつと新鮮な赤が湧いている。私の左手もそうだ。

 真っ赤な手のひらが頬を促した。逆らわずにそちらを見つめる。彼女は私の目を深く覗き込むと、満足げに唇を撫でてキャンバスの向こうへ行った。


 錆の匂いがする。私も今はきっと、まっかっかな唇をしている。私にはない色彩を、分けてくれるのがまさかあんただとは思わなかったよ。


 絵の具は充分。朝までの時間も充分。見通しきれていなかった、本当の色もいまは見えている。見え過ぎて見え過ぎて、自分の底まで見えてしまった。


 あとは、ただ描くだけだ。彼女と、私の血を混ぜて。


 ああ。とっても簡単で、とっても難しくて、とっても楽しい。


 自分の心を描いたときとおんなじ。その時と違うのは、初めて知る高揚が胸に燃え盛っていることだけだ。

 これに名前をつけるなら、きっと。


 ああ、きっと──と。


『それ』が形を作る前に考えるのをやめた。

 笑えてきた。下品に笑わないように我慢しようとしたら、涙まで出てきた。


 だってさ、だって。


 刹那のあとにはこちらに向くことなんかないだろうに、私だけが名前なんかつけてしまったら、だって。


 それはもう、きっと。


「これだ……そうだよ、これだよ……あははぁっ……これが『天音ミヤコ』だ……ふふ……」


 きっと。


 ***


 早く地獄ここに落ちてきて。


 ***


 個展は終わった。


 名前をつけられなかった『天音ミヤコ』の絵には、なんか妙に長ったらしくて専門的な言葉をたくさんたくさん頂いたっぽいけど、正直な話、覚えてない。燃え尽きたわけではないけれど、あのときは私はかなりボケだった。絵はあげた。買いたいと言ったひとがいるらしくって、ただでいいでーすって係員みたいなひとに言って、あげた。顔も知らない誰かにあげた。天音ミヤコに了承取ったほうがいいかなと頭の片隅で思ったけど、まあ、うん。そばにいない彼女に連絡してやる余裕はなかった。連絡先も知らないし。ま、ごめんねってかんじ。


 昔みたいに「捨てるからだめでーす」って言わなくなっただけ、私の名前もない病の状態|(心情? 精神? なんでもいいけどそういうやつ)はましになったようだ。それとも、自分を描いたか他人を描いたかの差なのだろうか?


 そういえば。私と天音ミヤコの関係は変わらない。名前もつかない。数学の点Ꮲもこれくらい動かないでいてくれれば楽なのにね。


 ただ、──うん。過ごす時間は少しだけ増えた。


 夕方。放課後。美術室。もしくは美術準備室。

 はらの底にきっと似たような何かを燻らせてる、ふたりの子供。


 でもきっと、おそろいの期間は短い。


 天音ミヤコはすぐに飽きるだろう。私の絵が好きらしいから。ブームが過ぎ去れば、彼女が私のそばにいる理由もなくなるさ。だって、女子高生の流行りは花を選ぶ蝶のように移り変わる。蛇みたいに執念深くはないのである。とっても儚くて、とっても脆い。


 今日も今日とてキャンバスを隔てて向き合っていたら、持田先生がやってきた。美術雑誌と新聞を持っている。


「どしたんですか、持田先生」

「はい、土屋さん」


 ご丁寧に付箋が飛び出す雑誌を開いて、思わず「うげぇ」と言ってしまった。


「ちょっと先生。やだって言ったじゃん」

「うん。だから、絵と後ろ姿だけ」

「やだぁーぁ……、もー……。最っ悪ぅ……」


 新聞も? と天音ミヤコに情けない顔を向けると、彼女は薄皮いち枚に透けさせた『笑顔』を浮かべていた。足先から頭までピリピリする。これ以上引きずり込まないでほしい。


「うん。……同じ写真かな?」

「せんせぇー、これ回収にしてくださいよ、回収。やーだぁー、こんなのぉー」

「そうよね、嫌よね。わかってたんだけど……ごめんね。先生が、欲しくなっちゃって。ほら。絵の代わりに、ね」

「いぃやぁぁ……」


 頭を抱え、改めて写真を見る。わからない……よな? 私だって、わかんないよな。こんな後ろ姿の女子高生なんか腐るほどいるもん。第一、私にも美術にも毛ほどの興味なんかないんだから気が付かないって。あいつら、私が手に包帯巻いてたって気が付かないんだから。平気、平気。大丈夫。破られない(そもそも知らんひとのもとにあるし)、捨てられない(道具は全部学校に置いてる。それか持田先生の)。あの悪夢の再来はない。平気。……自分の外に出たものなのに、こんなにビクビクするのは初めてだった。理由は考えないこととする。


 なんとか自分を宥めて、最後の砦すら取り上げられるかもという思いを溜息で体の外に追い出す。


「やだぁ、もー、ほんと、やだ……」


 ぶつくさ言いながら先生に雑誌を押し付ける。お下がりの男物のサマーカーディガンを脱ぎ捨て、美術準備室へ。当たり前みたいについてきた天音ミヤコを一瞥、諦める。好きにすればいいさ。もうほんと、お好きなように。全部全部、どうぞ。欲しいうちは、全部どうぞ。


「……土屋さん、もしよかったら、また……」


 持田先生のお気持ちは、申し訳ないけれど。


「しばらくいいっすー。勘弁して下さーい」


 もう内鍵は忘れない。カーテンは締め切られている。

 ぽんぽん服を脱ぐ私に、天音ミヤコは笑みを向ける。


「ヌードのほうがいい?」

「好きにすればぁ?」


 制服が重なっていく。絵の具みたいに凹凸を作っていく。空箱の中に、確かな何かが収まっていく。満たされきったら、私は何も描けなくなって、そうして、この全部がお終いになるんだろう。


「描けたらちょうだい」


 あっそう。それならブームが過ぎ去るまでは。


「好きにすればぁ?」


 天音ミヤコは嬉しそうに笑っていた。

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