第3章「異変の正体」
茜色の空が、静かに街を包み込んでいた。
風が枝を揺らし、草の香りがかすかに鼻をくすぐる。
宿屋の庭先。
ノアとエリシアは、ケイルの父と向かい合っていた。
エリシアが静かに口を開く。
「……この街で、一体、何があったんですか?」
その声は淡々としていたが、言葉の端にかすかな緊張がにじんでいた。
風の止まったような沈黙が訪れる。ケイルの父は顔を伏せ、何かを躊躇うように拳を握った。
「……やはり、気になりますよね」
「以前、この街を訪れたときとは、明らかに様子が違う。住民たちの目が……妙に刺々しかった」
言いながら、エリシアは傍らの少女をちらと見る。
「この子は街に入った途端、空き瓶を投げつけられました。」
ノアはこくこくと頷きながら、目は遠くを睨んでいる。
ケイルの父の眉が、苦しげに歪む。
「……そうでしたか。本当に、申し訳ない。ただ……町の事情を外の人間に話すことは、町長から固く禁じられていましてね。」
「町長は、以前と変わらず、あの方ですか?」
「ええ。変わらず、です」
エリシアは短く息をつき、わずかに視線を落とした。
その横顔には、何かを計算するような静かな光が灯っている。
「……わかりました。お話、ありがとうございました。ケイルくんにも、よろしくお伝えください」
それだけ言うと、エリシアはくるりと背を向けた。無駄な言葉はもう、口にしなかった。
ノアが戸惑いがちにその背を追う。
「え、も、もういいの?」
「うん。行こう、ノア」
エリシアは振り返らずに歩き出す。ノアは小走りでその隣に並んだ。
夕焼けの中、二人の影が長く伸びていく。
赤く染まる石畳の道を2人は歩いていた。
軋む木の看板、かすれたポスター、乾いた空気に、どこか薄い寂しさが混ざっていた。
風がひとつ吹くたび、街の空気が少し揺れる。
そんな中、エリシアがふと足を止めた。
「さて。遅い時間だけど、ドーナツ屋さんに行ってみようか」
さらりとした口調。いつもと変わらない声。
ノアは首をかしげた。
「えっ? 町長のとこに行くんじゃないの?」
エリシアはポケットに手を入れたまま、静かに言った。
「ケイルのお父さんから話は聞けたからね。町長に会う理由は、今のところないよ。……僕は、なるべく面倒ごとは避けたいんだ」
その一言に、ノアはしばらく黙ったまま、じーっとエリシアの横顔を見つめた。
「……なんか、意外」
つぶやくように、ノアが言う。
エリシアは目線だけを彼女に向けて、薄く笑った。
「なにが?」
「てっきり、“この街には何かある”とか言って、まっすぐ町長の家に殴り込むかと思った」
「僕が? そんな熱血に見える?」
ノアは少し間を置いて、首を横に振る。
「……いや、全然」
エリシアが声を立てて笑った。
「だろうね。僕の目的は、ケイルの魔道具の様子を見ること。そして、君にこの街のドーナツを食べてもらうこと。それだけ」
淡々と告げるその言葉は、冗談のようでいて、どこか本気だった。
「ふぅん?私のため。なんだ?」
しらじらしく問い返すも、ノアの頬は赤く染まっていた。
「君じゃない人のことだったら?」
「...許さない。」
「ふふ、怖いなぁ。」
そんな他愛のない会話をしながら、2人の足はドーナツ屋へと向かっていた。
ーーー
石畳の先――小さなドーナツ屋の明かりが、静かに灯っている。
街角のドーナツ屋は、夕焼けの光に包まれていた。
木の看板には控えめな文字で店名が書かれている。だが、肝心のショーケースには何も並んでいない。
その前で、店主と思しき中年の男性と、その妻らしき女性が、ほうきと雑巾を手に忙しなく動いていた。
「こんにちは」
柔らかな声が、掃除の手を止めさせた。
振り返った店主が、目を大きく見開いた。
「あなたは……クローネ博士!? 本当にいらしてたんですね! 噂になってましたよ!」
エリシアは微笑みながら、小さく会釈を返す。
「光栄です。立ち寄ったついでに、ドーナツをいただければと思ったのですが……」
彼女の視線がショーケースへと滑る。並ぶはずの甘い菓子は、影も形もなかった。
「もう終わってしまいましたか?」
店主は一瞬だけ目を伏せ、言い淀んだ。
「ええ……すみません。全部、山賊の連中にとられちまいまして……」
「……山賊?」
エリシアの後ろにいたノアが、低くつぶやくように反応した。
その瞬間、隣にいた女性がさっと手を伸ばし、店主の腕を掴んだ。
「あっ、ちょっと、あんたっ!」
咎めるような声。店主はハッとし、慌てて頭をかく。
「あ、いや! なんでもないです。ただの売り切れです! はは……人気で、すぐに売れちゃって……!」
エリシアはその様子を見つめながら、目を細めた。
「そうでしたか。では、また改めてお伺いしますね」
それだけ言って、軽く頭を下げたあと、ノアと共にその場を後にする。
⸻
ドーナツ屋を出て、二人はゆっくりと夕暮れの道を歩いていた。
空は朱に染まり、街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
風は涼しく、けれど街の空気にはどこか重さが残っていた。
「残念だったね。まさか売り切れとは」
とぼけたようにエリシアが口を開いた。
その言葉に、ノアはじろりと鋭い視線を送る。
「……本気で言ってる? あんたがあのおじさんの言ったこと、聞き逃すわけないよね」
エリシアは目を伏せて小さく笑った。
「ふふ。名探偵だね、君は」
「からかわないでよ」
むっとしたノアの表情に、エリシアは肩をすくめた。
「……でも、取られたってどういうことなんだろう」
ノアの声はどこか沈んでいた。悔しさと、戸惑いと、そして少しの怒りが混ざったような声。
「気になるのかい?」
「……まぁ、ね。私もドーナツ食べたかったし」
その素直な答えに、エリシアは少しだけ目を細めた。
「なら――ちょっとだけ、面倒ごとに首を突っ込んでみようか」
「え、いいの? “面倒は嫌い”って言ってたのに」
「様子がおかしかったのは事実だし、何があったのか、僕も気になる。それに……」
ふっと笑みを浮かべ、ノアの方へ視線を向ける。
「君がここのドーナツを頬張る顔を、見てみたいからね」
それは、ごく自然な声で、まるで天気の話でもするかのように、優しく投げかけられた。
「なっ……!?」
ノアの顔が一瞬で真っ赤になる。
「な、なに言ってんの!? ほんとバカなんじゃないの!?」
「ふふっ、さぁ、いこうか。」
笑いながら歩き出すエリシア。その背中を、ノアは慌てて追いかける。
「ま、まってよ! 置いてかないでってば!」
夕陽が傾き、影がさらに長く伸びる。
重厚な鉄の門は大きく開け放たれ、夕暮れの風が静かに庭を抜けていく。その先にあるのは、石造りの立派な邸宅。高い塀、赤茶けた屋根瓦、そして古いガラス窓。
それを見上げて、ノアがぽつりとつぶやいた。
「……おっきい家」
「町長の家だからね。行ってみようか」
エリシアは淡々と答えた。
「でも、勝手に入っていいの?」
「門が開いてるし、歓迎されてると思おう」
だが、いざ足を踏み入れてみると、邸宅の整然とした外観とは裏腹に、庭は見るも無残な荒れ放題だった。
草は腰まで伸び、花壇はひび割れたまま放置され、かつて誰かの手が入っていたはずの面影はほとんど残っていない。
そして、二人の目を引いたのは――庭の中心に、ぽっかりと空いた巨大な穴だった。
それは、まるで隕石でも落ちたかのような不自然な裂け目。土は弾け飛び、周囲の植木も根元から吹き飛ばされている。
「……なにこれ」
ノアが息を呑む。
エリシアは無言で歩み寄ると、しゃがみこんで縁に指を這わせた。土は乾ききっており、崩れた痕跡には熱や衝撃の痕も見える。
「すごいね。人間の力ではなさそうだ。魔術か、あるいは……」
思考の声が漏れるように、静かに呟いた。
「……私なら、できるよ」
ノアがぽそりと言った。
「君は魔王でしょ」
エリシアの視線がちらりと横目で向く。
「むぅ、ほめてくれたっていいじゃん……」
肩をすくめるように、ノアが口をとがらせた。
そんな軽口の最中、視線の先――庭の片隅に、一人の初老の男が腰を下ろしていた。
古びた木製の椅子にうなだれたまま、まるで人形のように動かない。風に揺れる白髪が、やけに静かで、その顔は疲れ切った表情をしていた。
「……死んでる……?」
ノアが一歩下がりながら言った。
「失礼なことを言うんじゃない」
エリシアはすっと背筋を伸ばしながら、その人物を見据える。
「町長さんだよ」
声に反応するように、男がゆっくりと顔を上げた。
「ん? あ……あなたは……クローネ博士!?」
「ご無沙汰してます、町長」
エリシアは優しく微笑む。その隣で、ノアがぺこりと頭を下げた。
「まさか……またお会いできるとは。嬉しい限りです」
「こちらこそ。お元気そう……ではないですね。この子は助手のノアです」
「ふふ……なんともかわいらしい助手さんですな」
町長のその一言に、ノアが思わず顔をしかめた。
「こんなおじいちゃんに言われても、嬉しくな……いった!?」
ぼそっとこぼした直後、エリシアのげんこつが静かに落ちた。
「……こほん。中でお話ししませんか?」
「そ、そうですね。どうぞお入りください」
⸻
広々とした屋敷の中へ案内された二人は、重厚な家具の並ぶ応接間に通された。
古びた絨毯、時を止めたような柱時計、色褪せたソファ。過ぎ去った栄華の残り香が、かすかに空気に漂っている。
「どうぞ、おかけください。コーヒーでよろしいですか?」
「申し訳ありません、こちらから押しかけたのに」
「いえいえ、クローネ博士が来てくださるなんて、名誉なことです。すぐに用意しますので、少々お待ちを」
そう言って立ち上がった町長の背中は、年齢以上に重く、どこか疲れたように見えた。
その姿を見送りながら、エリシアはふと視線を落とし、ソファの肘掛けに手を置いた。
「ねぇ、まだ頭痛いんだけど?」
隣にちょこんと座ったノアがエリシアを憎らしそうにみていう
「僕かなにかしたっけ?」
とぼけるエリシアに、むっとして
「殴った。」
「気のせいじゃない?」
「むぅ。」
応接間に、ほのかな香ばしさが広がる。
町長が運んできた銀のトレイには、湯気の立つカップが三つ。香り立つ深煎りのコーヒーが、静寂の中に小さな安らぎをもたらしていた。
「おまたせしました。どうぞ」
「本当に恐縮です。いただきます」
エリシアが礼儀正しく頭を下げ、カップを口に運ぶ。その隣で、ノアは興味津々といった様子でカップを手に取っていた。コーヒーの表面に揺れる自分の顔をじっと見つめる。
「私、コーヒーなんて初めて……」
わくわくとした声。だが次の瞬間――
「ごくごく……ぶはっ!? にっ……にがっ!?」
ノアは思いきりむせた。カップを抱えて咳き込みながら、椅子から転げ落ちる
「……はぁ、いい加減にしてくれ」
エリシアは肩をすくめ、ポケットから取り出した非常用のドーナツをノアの口元へ差し出した。牛乳の小瓶も添えてやると、ノアは素直にぱくり。
「んふふ~、おいし~、もぐもぐ」
満足そうに頬をふくらませる姿を一瞥し、エリシアは町長の方へと目を向けた。
「……さて、本題に入りましょうか」
⸻
カップを両手で包みながら、町長は深くため息をついた。ノアもいつのまにか着席している。
「……なるほど、ケイルの魔道具のメンテナンスで。わざわざありがとうございます」
「科学者として当然のことです。それにしても、ずいぶんとお疲れのようですね」
「ふふ……やはり勘が鋭い。気づいておられるのでしょう? この街に、異変が起きていることに」
町長の目には、年齢以上の疲れと、憔悴が色濃く浮かんでいた。
「僕にできることがあるかは分かりませんが……話を聞かせていただけますか?」
エリシアの静かな問いかけに、町長は一つ深呼吸をしてから語り出した。
「……ほんの三ヶ月前のことです。この街に、山賊の一団がやってきました。二十人ほどの武装集団でした」
「やはり山賊、ですか。警備隊には通報を?」
「ええ。すぐに応援を呼びました。ですが――」
その声が、かすかに震える。
「警備隊ですら、あの男に怯えて逃げ出したのです」
「“あの男”?」
「山賊のリーダーです。熊のような体格で、顔もほとんど髭に埋もれて見えませんでした。彼は屋敷の前に住民たちを集め、こう言ったのです。“逆らえばこうなるぞ”と――」
町長の手が、小さく震える。
「そして、目の前で地面を……あの庭の中央に、巨大な穴を穿ってみせたのです」
「まさか……人間の力で?」
「信じたくはありませんが、あれを目にした者は皆、震えました。魔術、あるいは……魔道具でしょう」
エリシアの表情が僅かに引き締まる。
「それ以来、我々は彼らに食料を提供し続けています。ドーナツ屋も、農家も、家畜を育てる者も、酒場も……みな、供出を強いられている。限界です。誰も、もう心から笑わなくなった」
「魔術や魔道具を用いた犯罪なら、警備隊ではなく軍の管轄ですね。国への要請は?」
「もちろん。これまでに五通、軍への嘆願書を送りました」
町長は机の引き出しから、一束の封筒を取り出して手渡した。
「……“軍隊の派遣を検討中”……。全く同じ文面ですね」
「私はね、かつて“国に頼らず、自給自足で生きる町”を誇りにしてきました。住民同士が支え合う、強い共同体を……。でも、今はそれが足かせになっている」
「国にとってこの辺境の町は、助けるメリットがない。国益に資さない、と?」
町長はうなずき、静かに目を伏せた。
「だから、外部には一切話すなと命じています。すべて……私の責任なのです」
「……住民の怒りも、無理はない」
「ええ。今朝も怒鳴り込まれました。“もう限界だ”と……。餓死者が出る日も、遠くありません」
「……」
エリシアは黙してカップを見つめた。
そしてその沈黙を破ったのは、傍らでコーヒーの代わりに牛乳を飲んでいたノアだった。
「……私たちに、何かできないのかな」
「……話、聞いてたの?」
エリシアが顔を向ける。
「食べながら聞いてた」
ノアはドーナツをもう一口かじって、微笑んだ。
町長は苦笑を浮かべ、立ち上がった。
「ふふ……お気持ちだけで十分ですよ。あなた方がこの町に巻き込まれる必要はありません」
その声には、どこか諦めの響きがあった。
「……実はダメ元でもう一通、要請を出したところなんです。またポストを見に行かないと」
「良い知らせが届いているといいですね」
エリシアが静かに答える。
「期待はしてませんよ」
町長は肩をすくめた。そして、ふと思い出したように続ける。
「……そうだ、今日はもう遅い。よければ、宿に泊まっていきませんか?」
「よろしいんですか?」
「もちろんです。ご覧の通りの状況ですから、お構いできることは少ないかもしれませんが」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
⸻
やがて二人は屋敷をあとにし、月の光が静かに降り注ぐ夜道を歩いていた。
風が肌を撫でる。街は眠りにつき、家々の明かりはまばら。だが、その静けさの奥には、確かに何かが息をひそめている。
「……なんか、ドキドキしてきた」
ノアがぽつりと呟く。
「ふふ、急にどうしたの?」
エリシアが問い返すと、ノアは胸のあたりを両手で押さえた。
「だって、街を助けるって、旅の醍醐味でしょ!」
「助ける、ね」
エリシアの声に少し間が空いた。
「え、助けないの?」
「“お気持ちだけで十分”って、町長が言ってたでしょ? あとは国が動いてくれるのを願おう」
その言葉に、ノアの足が止まる。
「……私たちには、本当に何もできないの?」
問いかける声は小さく、だが真剣だった。
エリシアも立ち止まり、夜空を仰いだ。
「……どうかな」
しばしの沈黙。
「でも、この件で本当に大事なのは、山賊そのものより“国が動くかどうか”だよ。」
「そんな簡単に動くの? 国って」
「さあね……」
エリシアは軽く息を吐いた。
「でも、町長が折れずに声を上げ続けてる。なら、僕も――国の老人たちの背中くらい、少し突いてやろうかな」
「やっぱり助けるんじゃん」
ノアの目がきらりと光る。
「相手は十中八九、魔道具を所持してる。大切な魔道具が脅しに使われてるなら――僕が見過ごすわけにはいかないからね」
「ふぅん……。素直に“助ける”って言えばいいのに。照れ屋さんなんだから」
「素直な僕も、好きでいてくれる?」
「は!? な、なに言ってんの!? ほんとバカなの!?」
顔を真っ赤にしてノアが声を上げると、エリシアはくすりと笑って歩き出す。
「さて、宿に向かおうか」
「え!? ちょ、ちょっと! 待ってーっ!」
⸻
明かされた“異変”の真相。
揺れる住民たちの想い、町長の苦悩、そして異変を探る2人の旅人。
けれどこの夜の静けさの裏に、確かに何かが潜んでいた。
ふたりを待ち受けるのは、さらなる“現実”の闇だった――。