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ラストコーナーの奇跡

作者: 柳田

登場人物:

矢野やの 悠馬ゆうま:元・天才ジョッキー。落馬事故で引退、今は地方競馬の厩務員。

風間かざま 紗月さつき:若手の女性調教師。亡き父の夢を継ぎ、中央競馬を目指している。

•カゲロウ:紗月の厩舎に所属する気性難の未勝利馬。

神谷かみや 圭介けいすけ:中央競馬のカリスマ騎手。過去に悠馬と確執があった。

第一話「落馬の記憶」


 パドックに立つその背中は、もう馬に乗ることはないと語っていた。


 矢野悠馬。かつて「天才」と呼ばれ、デビュー2年目でGⅠを制覇した騎手。だが、その栄光は突然終わりを迎えた。3年前の東京競馬場、雨の降るダートでの第4レース。落馬。脊椎損傷。奇跡的に歩けるようにはなったが、騎手としての復帰は絶望的だった。


 今は、南関東の片隅にある地方競馬場で、厩務員として馬の世話をしている。


 「カゲロウの世話を頼みたいの」


 その日、彼の前に現れたのは若き調教師・風間紗月だった。父親はかつて中央で名を馳せた調教師、だが娘の彼女は「育成厩舎」として地方で地道に働いていた。


 「アイツ、手がつけられないの。気性が荒くて、誰も乗りたがらない」


 悠馬が厩舎を覗くと、黒鹿毛の牡馬が立っていた。目が鋭く、鞍を見ただけで耳を伏せる。脚に古い裂傷の痕。走ることを拒むかのように、誰も近づけなかった。


 「こいつが……カゲロウか」


 悠馬の目がわずかに細められた。馬が彼に気づき、わずかに耳を向ける。ほんの一瞬。けれど確かに、その耳は「聞こうとしていた」。


 「この馬――まだ、諦めてないな」


悠馬の心に、止まっていた時計の針が、わずかに動き出した。



第二話「走れない馬」


 カゲロウは、まるで人を憎んでいるかのようだった。


 朝の調馬索ちょうばさくで軽く動かすだけでも、すぐに反抗的な素振りを見せる。口を割り、尻っぱねをし、時には後肢で蹴ってくる。調教助手たちは誰もが距離を置いていた。


 「…このままじゃ、引退だよ」


 紗月は厩舎の隅で、使い古された蹄鉄を両手に握っていた。彼女にとってカゲロウは、ただの競走馬ではない。


 ――父の遺した、最後の馬。


 風間清志。彼女の父はかつて栗東トレセンに厩舎を構えた調教師だった。しかし、ある八百長疑惑の渦中で失脚し、そのまま病に倒れ、地方に流れ着いた。最後まで無実を訴え続けたが、真実は闇の中だった。


 その父が、亡くなる直前に紗月へ託した馬。それが、カゲロウ。


 「気性難? それだけで終わらせたくないの」


 だが、現実は非情だった。


 カゲロウはデビューから3戦してすべて着外。どのレースでもスタート直後に暴れて騎手を振り落としかけ、ついには出走停止処分を受けてしまった。


 「あと半年以内に結果が出なければ、この馬は廃用処分になる」


 競馬は情では走れない。厳然たる数字の世界。成績を残せない馬は、淘汰される。それが現実。


 そんな中、厩務員となった矢野悠馬が毎朝、誰よりも早く厩舎に来るようになった。


 「アイツ、変わったな」


 助手たちはそう噂した。かつて中央のスターレースを沸かせたジョッキーが、今は静かにブラシを握り、黙々と馬の手入れをしている。


 カゲロウの馬房から、怒号も蹴り音も次第に減っていった。


 「不思議だな。あの馬、悠馬には歯向かわねえ」


 「たぶん……感じてるんだと思う。あの人も“壊れた”って」


 紗月の言葉に、助手のひとりがうなずいた。


 その日の夕方、馬房の隅で悠馬がポツリとつぶやいた。


 「お前……もう一度、走ってみるか?」


 カゲロウが顔を上げ、彼を見つめ返す。その黒い瞳には、ほんのわずかな光が宿っていた。



第三話「誘いの手綱」


 その朝、曇天の下でカゲロウが軽くダク(速歩)を踏んでいた。


 驚くべきことだった。今まで調教中に騎手を振り落とすことさえあったあの馬が、悠馬がリードを持つと、おとなしく脚を運ぶ。


 「なんで……あんなに素直なの」


 呟いた紗月の横顔に、助手たちは何も言えなかった。誰よりもこの馬を愛してきた彼女にとって、現実はあまりにも皮肉だった。


 その日の午後、調教師室に紗月が悠馬を呼び出した。


 「お願いがあるの」


 そう言って差し出したのは、一枚の登録申請書だった。そこにはこう記されていた。


 調教騎乗者登録申請書:矢野悠馬


 「あなたに、カゲロウの調教騎乗をお願いしたいの。あの子が心を開いたのは、あなたしかいない」


 悠馬の目が、微かに揺れた。


 「俺は……もう、乗らないと決めた」


 その声には、深い痛みがあった。


 紗月は、静かに彼を見つめた。


 「怖いの?」


 「怖いさ」


 即答だった。


 「落ちた瞬間のことを、何度も夢に見る。あのレース、俺の判断ミスだった。無理な追い出しで、馬を壊して、自分も終わった」


 「でも……それでも、馬に触れてるじゃない」


 紗月の声が揺れる。父を亡くし、頼れるものもない中で、彼女はこの馬だけにすがっていた。その想いが、言葉に乗って届いてくる。


 「私は……あの子と走りたい。父の無念を、晴らしたい。お願い、もう一度……手綱を取ってほしいの」


 しばらくの沈黙。


 やがて悠馬は、申請書を受け取り、ふう、と長い息を吐いた。


 「一度だけだ。もし、アイツが本気で走る気があるなら……その時は、俺も一緒に走る」


 紗月の目に涙が浮かぶ。


 その夜、馬房の前で、悠馬はそっとカゲロウの鼻面を撫でた。


 「乗ってやるよ、カゲロウ。お前が走る覚悟を見せたならな」


 暗い空の下、馬が静かに鼻を鳴らした。



第四話「はじまりの走路」


 霧のかかる早朝、カゲロウは初めて走路へと足を踏み入れた。


 まだ一般の調教時間前。コースには他の馬の姿はない。閑散としたスタンドの向こう、薄明かりの中で、カゲロウの黒鹿毛がかすかに光っていた。


 鞍上には、矢野悠馬。


 ――三年ぶりの騎乗だった。


 ヘルメットの下で額にうっすらと汗が滲む。筋肉は衰え、感覚も鈍っていた。それでも、手綱を握った瞬間、全身に電気が走った。


 「忘れてたな、この感じ」


 鞍下のカゲロウは、ピリついていた。蹄が砂を掘り、肩が沈む。走る寸前の、あの独特な“爆発前の静けさ”がある。


 「行くぞ――!」


 軽く腰を上げ、手綱を絞ると、カゲロウが地面を蹴った。


 その瞬間、砂がはね上がり、風が唸った。まだ荒削りではあるが、脚が回る。体が伸びる。何より――意志が、あった。


 「……走ってる」


 調教スタンドから見ていた紗月が、呟く。隣にいた古株の調教助手が言った。


 「アレ、持ってますよ。あの馬……やっと目を覚ました」


 1周の追い切りが終わる頃には、カゲロウの息は上がっていたが、脚取りはしっかりしていた。悠馬が下馬しようとすると、カゲロウが彼の手を鼻先でつついた。


 「……なんだ、もうちょっと走りたかったか?」


 悠馬の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


 その夜、紗月が一枚の出走申込書を提出した。


 地方・B3条件戦、ダート1600m、騎乗:矢野悠馬(調教騎乗者)


 「もう一度、勝負してみる」


 ――その一方で、ある新聞社の記者が、古びた写真を見つけていた。


 3年前の事故――矢野悠馬落馬、そしてその内側で起きていた“もう一つの騒動”


 写っていたのは、当時同じレースに出ていた中央の騎手、神谷圭介。



第五話「逆風のインサイド」


 カゲロウの出走が決まった翌日、競馬場の裏手では妙な噂が飛び交っていた。


 「矢野悠馬がまた馬に乗るって? 冗談だろ」

 「しかもB3戦に、あの問題馬で……命知らずだな」


 だが、騎手仲間の一部は別の視線を向けていた。


 「……3年前の事故、まだ話が終わってなかったのかもな」


 かつての落馬事故。その背後では、同レースに出走していた神谷圭介が、最後の直線で不自然に斜行していたという疑惑がくすぶっていた。


 表向きは「偶発的な接触」。JRAの裁定もグレーのまま終わった。しかし、一部の内部関係者は、神谷の進路取りが意図的だったと見ていた。


 ――しかもその神谷は、直後のレースで大穴を演出し、一部のブックメーカーが大損を被ったとされる。


 「八百長疑惑だ」


 その言葉が一部メディアからも囁かれ始めた。


 そんな中、カゲロウと悠馬の出走するB3戦が迫っていた。レース前日、調整ルームに入った悠馬に、ひとつの封筒が届いた。


 中に入っていたのは、白紙のメモと、黒い手綱の切れ端。


 「……脅しか」


 悠馬はそれを見て笑った。


 「懐かしいな。昔、俺も同じことをしたヤツを知ってる。名前は……神谷圭介だ」


 レース当日。


 スタンドには記者と観客がざわついていた。矢野悠馬、三年ぶりの騎乗。そして騎乗馬は、かつて「暴れる未勝利馬」として有名だったカゲロウ。


 「本当に走れるのか? あの馬が……」


 その隣のレース表には、中央から遠征してきたスター騎手の名があった。


 第9レース 特別競走B3組 出走馬:グラディウス 騎手:神谷圭介


 因縁が、走路の上で交わろうとしていた。



第六話「告発のムチ音」


 「これは、公にする価値があると思いますよ」


 古びた競馬新聞社の一室で、若手記者・島田が差し出したのは、3年前のレースのVTR映像だった。繰り返し再生される中で、決定的な“動き”があった。


 最終コーナー。外から迫った矢野悠馬の騎乗馬に、内ラチ沿いから寄せていくグラディウス。その鞍上には、神谷圭介。だが、問題はその次だ。


 神谷の左手が、明らかに手綱とは関係ない“動き”をしている。


 「……これは、他馬を押している……?」


 「正確には、“接触を誘発させている”可能性が高い。これ、JRAには出したんですか?」


 「提出した。でも揉み消された。神谷の所属する厩舎は中央の大手、スポンサーも強い」


 ――風間紗月はその映像を見て、唇を噛んだ。


 父・清志が競馬界を追われた時も、同じような“見えない圧力”があった。正義よりも、大人の都合が勝つ世界。それでも、彼女はあきらめなかった。


 「私が……証言します」


 島田が目を見開いた。


 「あなたは被害者でも目撃者でもない」


 「でも、父は告発しようとしていた。証拠の一部、私の家に残ってる。あのレースと、神谷との関係を記したメモも」


 記者はうなずいた。


 「……やるなら、徹底的にやりましょう。明日のレースが終わったら、これを世に出す」


 その頃、神谷圭介は調整ルームでスマホを見て、苦々しい表情を浮かべていた。


 「矢野のヤツ……まだ生きてたか」


 3年前、神谷は矢野の追い上げを警戒していた。なぜなら、自身が密かに関わっていた“調整レース”の筋書きが、矢野によって台無しになる可能性があったからだ。


 「俺は、正義のためにあいつを潰したんじゃない。俺の利益のためにやった」


 自嘲気味に笑い、馬具に手を伸ばす。


 「明日で終わらせる。あの馬も、あの男も――」



第七話「過去と未来のスタートライン」


 レース当日の朝、調教スタンドの片隅で、悠馬は一人、沈黙していた。


 目の前には広がるダートコース。3年前と同じ空気、同じ湿り気、同じような曇り空。


 「お前さえいなけりゃ、あのレースは完璧だったんだよ」


 背後からかけられた声に、悠馬は振り返る。


 神谷圭介。GⅠを何度も制した天才騎手、だがその瞳にはもはや栄光ではなく、疲弊と焦りが宿っていた。


 「俺はあの時、自分のために斜行した。あんたが伸びてくるのが怖かった。止めなきゃ、全部バレると思った。八百長も、騎手仲間との口裏も……」


 悠馬は何も言わなかった。ただ静かに神谷の目を見ていた。


 「今さら謝る気はない。けど一つ言っておく。今日のレース、俺は“真っ当に”勝ちにいく。潰す気も、逃げる気もない。だから、そっちも……覚悟して来い」


 言い残して去っていく神谷の背中に、悠馬はつぶやく。


 「……過去を清算しに来たのか。遅すぎたな。でも――それでもいい」


 パドックで、カゲロウが落ち着き払った様子で歩いている。あの“暴れる悪魔”と呼ばれた馬はもういない。


 「なあ、カゲロウ。お前ももう逃げないつもりなんだな」


 鞍をつけ、腹帯を締め、鐙の長さを調整する。


 騎乗した瞬間、悠馬の体にかすかな痛みが走る。落馬の後遺症――だが、不思議と恐怖はなかった。


 「スタートラインに戻ってきたな、俺たち」


 スタンドがざわめく中、ファンファーレが鳴り響いた。



第八話「最終追い切り」


 スタートゲート前。カゲロウは、まるで長年の騒がしさが嘘だったかのように静かだった。


 枠入りもスムーズ。担当の係員が思わず「本当にあの馬か?」と呟いたほどだ。


 一方、内枠に入ったグラディウスの背には神谷圭介。白の勝負服に、鋭い目線。3年前の栄光と闇、すべてを背負ったような表情だった。


 ゲートが開く。


 ダートの砂が弾け、8頭の馬が一斉に飛び出した。


 カゲロウは、やや控えめのスタート。それでも悠馬の手綱がしっかりとリズムを作る。1コーナーへ向かう途中、グラディウスは先行集団の内で絶好の位置を確保していた。


 「焦るな。前を追うな。お前は、お前の走りをすればいい」


 カゲロウの脚が伸びる。3コーナー手前、ようやくエンジンがかかってきた。


 「仕掛けは――まだ早い」


 悠馬は騎手の本能を殺し、ただカゲロウの意志を信じた。


 やがて4コーナー。グラディウスが先頭に立つ。神谷の鞭が入る。さすがの手綱さばき。無駄がない。完璧な勝ちパターン――その時だった。


 「今だ、行け!」


 カゲロウが外から一気に加速。まるで、過去を振り切るかのように。


 最後の直線。


 スタンドから歓声が沸き上がる。観客は誰もが目を疑った。


 あの問題馬が、中央のスター騎手と並んでいる――いや、追い抜こうとしている!


 神谷の目が一瞬見開かれる。


 「……来たか、矢野!」


 ゴール前、二頭の脚色は互角。しかしカゲロウの首が、わずかに前に出た。


 実況:「先頭はカゲロウ! カゲロウだッ! 問題馬と呼ばれた馬が、ついに――!」


 決着は、写真判定。


 結果が出るまでの数分、スタンドはざわつき続けた。


 そして電光掲示板が数字を刻む。


 1着:7番 カゲロウ(矢野悠馬)


 勝った。すべてを乗り越え、走り抜けた。


 騎乗を終えた悠馬は、下馬してカゲロウの首を優しく叩いた。


 「ありがとう……もう、お前は“走れない馬”じゃない」



第九話「名もなき勝者たち」


 カゲロウの勝利は、地方競馬ファンの間で瞬く間に話題となった。


 「3年前の落馬騎手が、問題馬で復活」

 「引退騎手の奇跡」

 「“暴れ馬”を変えたのは、何だったのか」


 メディアが追いつくより先に、SNSでその名前が広まり、ファンたちは過去の戦歴や逸話を掘り起こし始めた。


 そしてその日の午後、風間紗月と記者・島田によって書かれた記事が、競馬系ニュースサイトにアップされた。


 《独占告発:3年前の落馬事故に潜んだ“もうひとつの真実”》


 本文には、JRAが公にしなかった疑惑、VTRに残された神谷の不審な動作、騎手同士の無線による示し合わせ、さらに、風間清志が遺したメモの内容が克明に記されていた。


 記事は瞬く間に拡散され、夕方には大手ニュースにも取り上げられた。


 「神谷圭介、過去の八百長疑惑が再燃か」


 「JRAが内部調査開始を発表」


 その夜、神谷はひとりで厩舎を歩いていた。記者たちが殺到する前に、彼は静かに声明を出した。


 「私は、過去に一度だけ、自分を守るためにルールを捻じ曲げたことがある。それが矢野悠馬の落馬に繋がったのなら、謝罪する。だが、今日のレースだけは真実だ」


 騒動のさなか、悠馬はカゲロウの馬房で、紗月と肩を並べていた。


 「……これで、全部終わったのかな」


 「ううん、始まったんだと思う。ようやく」


 カゲロウは静かに鼻を鳴らし、二人の会話を聞いているようだった。


 ――“勝者”とは何か。


 ゴールを最初に駆け抜けたもの? それとも、自分の過去と向き合い、越えた者?


 名もなき勝者たちが、それぞれの戦いを終え、次の一歩を踏み出そうとしていた。



第十話「風の名は、カゲロウ」


 初夏の朝。スタンドには、柔らかい光が差し込んでいた。


 あの日から一ヶ月。矢野悠馬とカゲロウは、再びレースに出ることなく、静かに調整を続けていた。


 「もうレースには出ないのか?」

 「次はどこを目指すんだ?」


 そんな声がファンから届くたび、悠馬は苦笑いを浮かべるだけだった。


 ――答えは、出ていた。


 地方競馬の引退式。カゲロウの名がリストに載っていた。


 「えっ……引退?」


 記者や関係者の間にざわめきが広がる。


 「まだ走れるだろう」「一勝しただけじゃ物足りない」「GⅠを目指せたんじゃないか」


 だが、紗月は静かに首を振った。


 「あの一勝が、すべてなんです」


 カゲロウは“勝てなかった馬”だった。人を乗せることも、走ることも、許さなかった。だが――たった一度、誰かと心を通わせ、ゴールを駆け抜けた。


 それ以上、何を求めるのか。


 引退式の当日、スタンドには異例の観客が集まった。

 子どもたち、障がい者支援団体、そしてかつてカゲロウの調教を諦めた厩舎のスタッフたち。


 その中で、悠馬は小さな男の子に声をかけられた。


 「お兄ちゃん、この馬の名前、なんていうの?」


 悠馬は少し考え、答えた。


 「カゲロウ。……でもな、ただの“風”でもある」


 男の子が首を傾げる。


 「風?」


 「そう、誰かに触れたかもわからないほど一瞬で。でも、たしかに吹いて、何かを変えていった風」


 カゲロウが最後に歩いた走路の直線。

 その歩様は、もう暴れることも、怖がることもなく、ただ穏やかだった。


 ファンの声援がやみ、アナウンスが響く。


 「カゲロウ号、引退いたします」


 その瞬間、スタンドの一角で風が舞った。どこからともなく現れたような風。


 まるで、走り抜けていくカゲロウの名を――風が連れてきたように。






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