目覚め
目が覚めると、知らない天井でした。
前にもこんなことがあった。ここはどこだろう。思いを巡らせていると、意識を失う前の記憶が戻ってきた。
「……ギディングス様は!?」
飛び起きて周囲を確認する。見たことのない部屋だ。ここはどこだろう。ギディングス様は無事だろうか。立ち上がろうとするが、力が入らない。
「セレス!目が覚めたのか!」
「トビアス兄様?」
私の声を聞きつけてやってきたのはトビアス兄様だった。なぜ兄様がいるのだろう。
「トビアス兄様、ここはどこですか?ギディングス様は!?」
兄様は一瞬息が止まるような表情をした後、優しく微笑んだ。
「……セレス、ここは俺の宿だ。お前は学園の実習で重度の魔力切れとやらを起こして、一週間眠っていた。寮よりも家族である俺がいた方がいいと学園を説得して、お前はここで眠っていたんだ」
「一週間!?あの、私、戻らなくては!ギディングス様に……」
そんなに長い間光魔法をかけられていないなら、あのモヤが復活しているかもしれない。ギディングス様は大丈夫だろうか。心配で立ち上がろうとする私を、兄様が止めた。
「駄目だ。お前はずっとベッドで寝ていたんだぞ。体力も戻さないといけないし、今は歩くのもままならないはずだ」
「でも、兄様。その……ギディングス様は無事でしょうか」
「ギディングス様は、ご無事だ。だからセレス、何の心配もいらない。何も考えずにゆっくり休みなさい。学園も話は通してあるから大丈夫だ」
トビアス兄様が有無を言わさない迫力でそう諭すので、私は頷くしかなかった。
兄様が宿に私の夕食を用意するように言い、軽めの食事が運ばれた。胃が動いていなかったからか、あまり食べられない。ゆっくりと料理を口に入れていると、宿の使用人が兄様を呼んで何事かを告げた。
「はぁ、またか」
「トビアス兄様?」
「お客様が来たらしい。お前は食事をとってなさい。何かあれば使用人を呼ぶんだぞ」
「はい、分かりました」
トビアス兄様は少し身なりを整えて部屋を出て行った。爵位が上の方が来たのかもしれない。
あまり空腹を感じていない私は、野菜のポタージュを完食したところで食事を終わらせた。
(まさか一週間も寝ていたなんて。学園はどうなっているんだろう)
身に付けていた服は全て綺麗な服に変えられ、あの熊の魔石や筒もない。
(通信の魔石も、寮だしなぁ)
何よりもギディングス様の様子を知りたい。フロレンシア様も実習が終われば私に話があると言っていた。せめて意識が戻ったことを二人に知らせたい。でもあの様子ではトビアス兄様の許可は下りなさそうだ。
(元気になれば寮に帰れるよね)
元通りの体になれば、寮に帰れるだろう。できるだけ早く回復しなければならない。
次の日には手を借りたら歩けるようになった。トビアス兄様と宿の中を歩く。食べられる量も少し増えていた。私が食事をとっている間に兄様は外に出ると、手に荷物を抱えて帰ってきた。
「セレス、お前が好きな小説を買ってきた。俺が外に出ている間はこれでも読んでたらいい」
「ありがとうございます兄様!ゆっくりなら一人で歩けますから散歩にも行きたいです」
「一人で外には出ちゃだめだ。王都は危ないんだぞ。ローマイア領とは違う」
「はい……」
確かに王都に来てから一人で外を歩いたことはない。何かあっても走れないので逃げることもできないだろう。素直に兄の言葉に従うことにする。
「できるだけ早く戻って来るから、部屋で過ごしていなさい」
「分かりました。トビアス兄様、私はいつ寮へ戻れますか」
「そういう話はまず元気になってからだ。じゃあ行ってくるよ」
軽く抱擁して兄様は出て行った。
宿の中を歩いて、食事をして、小説を読んで、トビアス兄様と話をして。そういう生活を数日過ごすと、かなり体調は戻ってきた。魔力も満ちているし、もう普通の生活を送れそうな気がする。
トビアス兄様にもう戻りたいと主張すると、兄様は困ったような顔をした。
「セレス。このまま一緒にローマイア領へ戻らないか?」
「な、なぜですか?」
「学園はもう夏の長期休暇目前らしいじゃないか。学園の実習でセレスがあんなにひどい目に遭って、俺は物凄く怒っている。できれば学園に戻って欲しくないとも思ってる。学園も早めに休暇に入っても良いと言っているんだ」
「嫌です。兄様の心配は分かりますが、あの魔物が出るなんて誰も予想できないことでした。私は学園に戻りたいです」
私がそう言うと、兄様は黙り込んだ。このまま休暇に入るなんて、考えられない。ギディングス様と会って顔を見なければ安心できない。
「お前が会いたいのは、誰だ?」
「え?」
「そんなに強くお前が言うのは、誰に会いたいからなんだ」
トビアス兄様は、怒っているように見えた。何にだろう。私に、ではなさそうだ。
「ギディングス様と、フロレンシア様……ラングハイム様です」
私が答えると、兄様は目を見張った。
「ラングハイム様?セレスはラングハイム侯爵令嬢とも親しくしているのか?」
「は、はい。学園で一番親しい友人です」
トビアス兄様はガシャン、と机をたたいた。私はびくっと震える。
「一番親しい、だと?馬鹿な……!」
「兄様……?」
トビアス兄様の怒りの理由が分からない。トビアス兄様は目をつぶって何かを堪えるように息を整えた。
コンコン、と扉が叩かれ、宿の使用人が顔をのぞかせる。遠慮がちに兄様を呼ぶと、兄様に何事かを告げた。
「くそ、しつこい……!」
「トビアス兄様。今日も同じ方ですか?」
「まぁな。ちょっと行ってくるから、セレスはゆっくり過ごしていればいい」
「はい」
私の目が覚めてから、毎日トビアス兄様へお客様が来ている。兄様はあまり歓迎していないらしい。何の関係のお客様なのかを聞いても毎回はぐらかされている。
(まさか……違うよね)
一つの可能性に思い当たると、そわそわと落ち着かなくなった。
(確かめるだけ)
私はゆっくりと扉を開けると、足音をたてないように静かに歩き出した。
この数日で宿の中は探検し尽くしていた。貴族のお客様を迎えるような部屋は限られていたはずだ。私はあたりをつけた場所へ歩みを進める。
明かりがついた部屋があったので、その隣の部屋へ忍び込む。部屋からバルコニーへ出て、隣を覗くと、トビアス兄様が見えた。その向かいの人物は、私がずっと会いたいと願っていた人。
(ギディングス様!)
良かった。彼は無事だった。それに、黒いモヤはなさそうだ。あの時消し去ったからだろうか。彼の姿を見られて心の底から安心して涙が出そうになる。
できれば声も聞きたい。なぜ兄様は彼の来訪を私に知らせてくれなかったのだろう。毎日来てくれていたはずなのに。
二人は信じられないほど険しい顔で何事かを話し合っていた。何の話をしているのだろう。私はバルコニーから部屋に戻り、声が聞き取れないかと試みる。壁の一部から風が通る場所があり、そこから声が聞き取れそうだった。私は風魔法を使い、声を拾えないか試してみた。
「……だろ」
(やった、聞こえた!)
思い付きだったが、成功のようだ。私は音をたてないように静かに座り込んだ。
「いい加減にしてください、ギディングス様。あなた今、ここにいらしている場合ではないのでは?」
「頼むから、ティナに会わせてくれ」
「婚約者がいらっしゃる方と、うちの妹を二人きりになどさせる訳がないでしょう」
私はトビアス兄様の言葉に、心臓が凍り付くような気になった。
(ギディングス様に婚約者が?)
知らない。そんな話、聞いたことがない。
「俺の口からティナに話したいんだ!」
「だから何をです?セレスを利用したと?あの子の恋心と優しさに付け込んで、お兄様の魔法を解いて貰おうとした?魔法が解ければもう用無し。晴れて本来の相手と婚約しますとでも?」
「違う!そんなつもりはない。俺は、ティナを」
「あなたがしたのはそういう事ですよ。ギディングス様。あなたのような見目麗しい貴公子から特別に扱われて、セレスのような純朴な少女がどうなるかなど火を見るより明らかでしょう。これからはどうぞ未来の奥様であるラングハイム嬢を大切になさってください」
突然出てきたフロレンシア様の名前に、思わず声が出そうになる。私は自分の口を手で覆った。
「トビアス、頼む。他でもない俺の口から、ティナに……」
「何度同じことを言わせるのですか。あなたが今すべきことはセレスへの懺悔ではない。セレスから許しを得て、あなたは後顧の憂いなく次へ進めるでしょうね。ですがセレスはどうなります?あなたから事実を告げられ、あの子があなたを罵れるとでも思いますか!」
「トビアス……」
「あなた方高位貴族のお家騒動にセレスが何の関係がありますか。セレスは魔物に襲われ死ぬところだった。それもあなたの兄のせいで!ギディングス様、あなたがセレスに近付かなければこんなことにはならなかった」
先ほどから兄様は一体何を言っているのだろう。理解できない。理解したくない。
「ラングハイム嬢はセレスの一番親しい友人だったらしいですね。未来のご夫婦で画策したのですか?都合がいいと思いましたか?何も知らないセレスを腹の底で笑ってたんじゃないですか?」
「違う!」
「そもそも、婚約の事実を告げる時間などいくらでもあったはずだ。あなたはずっとセレスと共にいた。セレスが自分に好意を持ったままでないと魔法をかけて貰えないとでも思いましたか?」
「違う。俺は、俺は、ただ……ティナの隣にいたかった」
知らぬ間に涙が頬を伝っていた。嗚咽が出そうになるのを必死で堪える。口を覆う手が、がくがくと震えている。
「だから王都の学園に行かせるなど反対だったんだ。あなたのような男がいるのは分かっていた。純粋で素直なセレスはあなた方にとってさぞ珍しかったでしょうね」
がたん、と椅子を動かす音がした。兄様が立ち上がったらしい。
「どうぞお帰りください。さぁ、すぐに!」
「また来る」
「いいえ、もう来ないでください」
扉を開ける音がして、ばたん、と閉まった。
「フロレンシア様と……」
涙が止まらない。フロレンシア様とギディングス様との思い出が頭を駆け巡る。私は体を丸めた。
私と親しくなりたいと言ってくれたフロレンシア様。とてもとても嬉しかった。いつも綺麗で、優しくて。こんなに素敵な女性になりたいと思った。
(そうかぁ)
ギディングス様の声が好きだった。笑うと細められる新緑の瞳が好きだった。魔法のことを少年みたいに語る顔が好きだった。ティナ、と私を呼ぶ彼が全部——大好きだった。
最初から分かってたことだ。彼との未来がないことは。
(でも、これはちょっと、きつい。きついなぁ)
何度も、ギディングス様は私に何かを言おうとしていた。フロレンシア様も、話したいことがあると言っていた。
きっと私に伝えようと思っていたのだろう。いずれ二人は結婚するのだと。
婚礼衣装を身に付けた二人が並んでいる姿を想像する。それはとても美しい二人で、まるでそうあれと作られたように自然な光景に見えた。
私にとって何よりも悲しいことは、自分がそんな二人を祝福できそうにないことだった。




