表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さよならの続きを(前編)  作者: 上田秋人
1/1

さよならの続きを(前編)

 平成最後の、夏のことだ。

 その人をはじめて見た時のことを、今でもよく覚えている。

 俺は、高校三年生。その人も俺と同じくらいの歳に見えた。

 彼は、全身黒い服に包まれて、棺桶の前で、ボロボロと泣いていた。大粒の涙が、色素の薄い瞳から、宝石みたいにこぼれ落ちて。

 初夏の夕暮れ。ゆっくりと落ちていく太陽。その強い光が、式場に、射るように入り込んで。彼の濡れた頬を、美しく照らしていた。

 透けるような薄茶色の髪、長い睫。睫に乗った、涙の滴。なにもかも全部が綺麗に見えて。ただただ、目を奪われた。

(天使って本当にいるもんなんだ……)

 そう思うと同時に、

(……でも、ウチ、仏教だよな……)

 と、思った。

 誰がどう見ても和様式で、葬儀はジットリと進んでいた。

俺は、ずっと心が麻痺していて、けれど頭は明瞭で、そしてなんだか暇だった。

 どうでも良いことばかり、浮かんで消える。式場の中は、冷房が利いていたけれど、なんだか空気の全部が澱んでいるように感じられた。

(外、暑いのかな……)

 俺がそんなことを思った、次の瞬間。

 ようやっと棺から顔をあげた彼と、目が合った。俺はその瞬間、パチッと、小さな電気が走ったように感じた。

 彼の涙に濡れた視線は、俺を捕らえると、一瞬だけ大きく見開かれた。一瞬だけ。

 それから、なんとも言えない、切ない形で、細められた。言葉は交わしていない。けれど俺は、今まで麻痺していた心が、キュウと締め付けられたように感じた。

 抱きしめられるかと、思った。

 感極まって、思わず目の前の相手を抱きしめる。その直前の視線。そういう目だった。

 彼は、切ない視線を、ゆっくりと、丁寧に外した。

「君は……泣かないんだね」

 囁くような声が、俺の耳を通り過ぎて。彼は、母親らしき女性と一緒に、式場を出て行った。俺は、その後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。

 *

 「夏を制するものは、受験を制す」なんて言われているけれど。俺の夏は、それどころではなくなってしまった。

 七月、夏休みが始まって、三日ほど経った日のことだ。夜、九時過ぎ。

 俺が予備校から帰宅すると、母が家にいた。いつもなら十時を過ぎた頃にならないと帰らない、バリバリのキャリアウーマンなのに。

 それだけでも、結構な非日常である。それに加えて、なにやらバタバタとリビングを行き来しながら、スーツを脱いで、着替えをしていた。俺は、ただ事ではない雰囲気を肌で感じる。

「……ああ、みなと。おかえり、今連絡をしようかと思っていたところだったんだ、よかった……」

 別の部屋にいた父が俺の帰宅に気がついて、声をかけた。父は、片手に携帯を持った状態で、青ざめていた。

「ただいま。なにかあったの」

 俺が言うと、父ではなく、母が答えた。

 平素より大きな声で、

「おじいちゃんが倒れたって、おばあちゃんから連絡あった」

 と、言った。なにかに苛立っているような、そんな口調で。

 俺は、母の言葉に、ドン、と胸を強く叩かれたような衝撃を覚えた。一瞬、言葉の意味がうまく理解出来なかった。

 父が、努めて冷静な声色で言った。

「今から、あっちの家に行くから、湊も鞄を置いてきなさい。制服は、そのままでもいいか……保護者付きだし、非常事態だし……補導されることはないよね……」

 最後のほうは、ボソボソと、独り言のようだった。

 俺は、口の中が一瞬で乾いてしまって、なんだかうまく声が出ない。

「わかった」

 それだけ言って、急いで自室へ向かった。鞄を置いて、必要なものを考える。頭がスンと冴えて、急速にまわりはじめた。

 携帯と財布、それに家の鍵をズボンの後ろポケットに突っ込む。リビングに戻ると、丁度母の準備が出来たところだった。母は俺の背中を叩いて「行くよ」と少し震える声で言った。


 祖父母の家は、そう遠くない。普段ならば、車なんて使わないで、歩いて行く距離だ。

 けれど、その日は、車で向かった。自ら運転しようとする母を、どうにか父が宥めて、運転席に座る。

「今、空子そらこさんに運転されると、一家心中になりそうだからね」

 父は、いつもの柔らかい声で言った。母は少し冷静さを取り戻したようで、父の言葉に「そうだね」と、頷いた。

 俺は、黙って後部座席に乗り込む。

 車が発進する。

 俺は、車窓から夏の夜の道路を、ただ見つめた。

 東京生まれの東京育ち。夜は暗いもの、という認識を持たずに成長した。けれど、その日の夜は、暗かった。窓の外、なにも見えなかった気がする。一体、今、どこを走っているのか。知っている道を辿っているはずなのに。自分が今、どこにいるのかわからないような、迷子になったような、妙にソワソワした不安が胸に立ちこめていた。

 祖父母宅の前には、救急車が停まっていた。

 母が、転がるように助手席から降りて、玄関へと走っていく。

「湊も行きなさい」

 父が言った。

 俺は、一瞬、足が動かなくなった。動かなくなったような気になった。顔が強ばっているのが、自分でもわかる。

「行きなさい」

 もう一度、父に促されて、俺は黙って頷いた。

 車から降りて、救急車の隣を通り抜ける。祖父母宅は、都内にしては大きめの一軒家。玄関口まで点々と並んでいる飛び石の列。俺はその秩序を無視して、駆け足で進んだ。進んだ先、観音開き式の古い玄関が大きく両面とも開かれていた。

 玄関口に、母と、そして祖母の姿。救急隊員が、慎重に担架を運び出しているところだった。

「通ります!」

 と、大きな声で、隊員に呼びかけられて、俺は咄嗟に、端に避けた。

 担架の上に、寝ころぶ人を、俺は、見ることが、出来なかった。

 端に寄って、ただ、暗い空をポォっと見て。担架が行き過ぎるのを、待った。心臓が、破裂しそうなくらい鳴っていて、頭の後ろ辺りがガンガンした。

「湊」

 呼ばれて、反射で顔を向けると、祖母が手招きしていた。俺は、ふらふらと、呼ばれるままに、近寄った。

「びっくりしたでしょう、ごめんね」

 祖母は動揺を見せずに、平素通り、キリッとした目で俺を見た。

「ねぇ母さん、父さん大丈夫よね、倒れたって、どんな感じで……?」

 母が、祖母の腕にそっと触れながら、眉根を潜めて弱い声を出した。

 祖母は、母の肩に触れて、言った。

「大丈夫かは、わからない。覚悟しなさい。母さんは今からあの人の保険証とか着替えとか、一通りを準備するから。あなたは救急車に同乗して。あの人についててあげて」

 祖母の判断は早かった。

「湊も、一緒に行きなさい。お母さん、ひとりじゃ心細いでしょうから」

 俺が、小さく頷いたタイミングで、父がひょこひょこと下手くそに走って、玄関までやってきた。こちらのやり取り、話し声が聞こえていたようで、

「僕が残って、香子かおるこさんの手伝いをするよ。準備が出来たらすぐに車で追いかけるから、搬送先の病院が決まったら連絡をして」

 香子とは、祖母の名である。

「さぁ、行って」

 普段、物腰柔らかで、少し頼りない父が、その時は、なんだか心強く思えた。

 救急隊の声が響く。

「同乗者の方、乗ってください」

 母が、俺の背中に手を回した。

「みなと、行こ、」

 俺はまだ、声も出せない。促されるままに、母の後に続く。

 そこからの記憶は、曖昧だ。

 病院に担ぎ込まれた、祖父。

 全面が白い、救急搬送専用の治療室。

 俺と母は、待合室のような場所に案内された。そこには、俺たちの他にも、六名ほど、待っている人がいた。皆、一様にソワソワと、不安な面立ちで、治療室を見ている。

 治療室からは、うめき声や、治療器具、金属のはじける音が、やたらと響いてきた。俺はただ黙って、母の隣に座っていた。

 母がポツリと、

「湊がいて、よかった」

 と言った。それから、

「あの人は、不死身なんだろうなぁって思ってた」

 とも、言った。

 祖父は、そういう人だった。俺は、そこでようやっと声が出た。小さな声で「俺も、そう思ってた」と、言った。母は、口元だけで、笑った。

 看護師らしき女性が、治療室から出て、待合室にやってきた。

槙村まきむらさま、いらっしゃいますか」

 母が立ち上がる。神妙な顔をした看護師に導かれて、俺と母は、治療室へ入った。

 治療室には、医師の男性がひとり。看護師らしき若い女性が三人。

 簡易ベッドに、祖父が横たわっていた。

「槙村さーん、娘さんとお孫さんがいらっしゃいましたよー」

 医師が、祖父の耳元で、大きな声で言う。俺は、そこでやっと、祖父の顔を見た。祖父は目を閉じて、眠っているようだった。

 顔が、青白く、呼吸器が付けられていて、少し、息苦しそうに見えた。

「父さん」

 母が言った。独り言のような、こぼれ落ちる声だった。俺は、またしても、声が出ない。

「お父さん」

 母が、先ほどよりも、少し大きな声で呼びかけるように言った。すると、祖父はゆっくりと目を開けた。

 目を開けて、俺と、母を、見た。

 ガッチリと胸元を掴むみたいに、強い視線で、コチラを見た。

 俺は、後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。いつもの祖父の、強くて明るい、少年のような目だった。

 祖父は、俺と母を視認して、呼吸器の中、ゆっくりと、右の口先だけをあげて、ニヤリとした。

「じぃちゃん、」

 俺は、口元から、思わず、情けなく呟いた。いつも俺が喋る時「湊ぉ、お前、もっと腹から声出せぇ、男だろぉ」と豪快に笑って、背中を叩いてくる祖父だった。ああ、こんな、弱っちい声を出したら、また「聞こえん聞こえん!」なんて言って、笑われるな、と思った。

 その日。

 後から追いかけてきた祖母と父の到着を待たず。あっという間に、祖父は旅立った。

 まだ七十九歳だった。

 病院嫌いで、病気知らず。

 いつでも明るく、まさに自由人。

 イケメンで、プレイボーイなんて呼ばれて。

 女の人が大好きで、口説くのも上手く、モテまくった人だった。

 そして、何歳になっても、悪戯が大好きで、子供のような人だった。いつも俺を巻き込んで、小さな悪戯をしては、祖母と母に大目玉をくらって。正座で怒られながら、それでも祖父は楽しそうにニシシと笑っていたものだった。

 俺は、親戚中から「生き写しだなぁ」と、ジロジロ見られるくらい、祖父と顔が似ている。そして、そのことが、心底嬉しく、誇らしかった。

 俺は祖父が大好きだった。

 大好きだったのだ。

 *

 祖父が亡くなってすぐ、祖母が葬儀屋に連絡をした。

 気が強く、いつでも凛としている祖母だ。悲しみの顔をチラリとも見せず。祖父の死に顔を見て、

「よくぞ、我が家で死んだ」

 そう一言、声をかけた。

 それから、テキパキと動き回る。呆然としている母を口先で動かす。父と俺はただ、女性たちが動くのを、見つめるばかりだった。

「いつかこの人がどっかの国でどっかの女と勝手に死んでも、バイクで事故を起こして勝手に死んでも、とにかく、どうにか出来るようにってね、結婚した時から、覚悟なんて出来てるのよ」

 祖母は言った。その言葉に、俺は、フッ、と思わず、ほんの少しだけ、笑った。祖母がどれほど、祖父のことを理解していたのか。

なんだか惚気られたような気分になったのだ。

 *

「人が死ぬって、なんかもっと、ドラマティックな感じだと思ってたけど、なんだかほんとに、サッパリ逝っちゃって……こんなに現実味がないものなのねぇ……」

 葬儀が一通り終わった後、母が言った。人が引いて、ガランとした葬儀場。パイプ椅子に座って、どこか遠くを見つめる瞳で。

 その瞳は、深い悲しみに沈んでいるというより、単に疲れているだけのように見えた。

「すごい、たくさん来たね、人。友達、多かったもんね、じぃちゃん」

 俺は椅子には座らずに、立ったままで言った。夏場に制服のブレザーを着るのは、暑苦しかったけれど、脱ぐ気にはならなかった。

 祖父の葬儀、参列者は後を絶たず。式は、夜遅くまで続いた。祖母は最後まで立ったまま、シャンとして、喪主を勤めた。

「一週間分くらい、疲れたわ」

 祖母が、母の隣に座って、ようやく気が抜けたように言った。

 夏は人が死にやすいのだろうか、火葬場に空きがなく。葬儀を先に全て済ませて、明日の朝早くに出棺の予定になっている。

「朝に見送るって、なんだか父さんらしくてよかったかもね、夜じゃ、なんかイメージと違うわ」

 母が言った。祖母は平然と、

「嫌ね、いつでも良いわよ、そんなの。それに、夏場は早い方が良いのよ、腐っちゃうから」

 と、言った。母も「あー、そっか」と、普通に返事をしている。俺は、なんだかひとりだけ、ひとりだけ、異世界にいるみたいな気分だった。

(女の人って強いな……男は……いや、俺は、そうでもない、)

 俺は、顔立ちこそ、祖父にそっくりだが、中身は父親に似ている。

 父は、母よりも年下で、婿養子である。そして母には、祖父と祖母の強いところを全部まとめて引き継いだみたいな豪胆さがある。いつも、俺と父は、母と祖母の最強女性陣に歯が立たない。

「空子さん、香子さんも、そろそろ部屋で休んだらどうですか。お疲れでしょう、あとは僕がやりますよ」

 なにやら外で葬儀屋と話していた父が、大きなビニール袋を抱えて戻ってきた。

「換えのドライアイスをもらってきました……湊、手伝ってくれるか」

「うん」

 俺が小さく頷くと、父は目を細めて笑った。

「男手が僕だけでなくて、よかった」

 父から受け取ったドライアイスの入っているビニール袋は、ずっしりと重く、確かに男手が必要だと思った。

「家から棺出す時も、湊がいてくれて、助かったよ」

 祖母が言った。

「ウチは、子供が空子だけだったからねぇ……あんたが結婚してなかったら、ほんとに大変だったわよ、きっと。私とあんたでなんとかしなくちゃいけなかったんだから」

結婚できて、息子ができて、よかったわね

 祖母は、母の顔を見て、カラカラと笑って、立ち上がった。

「それじゃぁ、お言葉に甘えるから、あとはよろしくね」

 母は、祖母の言葉に失笑して、それからゆっくり立ち上がった。

「ごめん、母さんもマジで疲れたから、ちょっともう、休むわ」

 母の手が、俺の背をポンと叩いた。

「湊、夏休みで良かった。学校あったら、しんどいわ、これ」

「母さん、会社は?」

「近親者が亡くなった時の休暇ってのがあるもんなんですよー」

 母は、うーん、と伸びをすると、その場で黒いハイヒールを脱いだ。ストッキングをはいた足で、ぺたぺたと歩き、祖母の後に続いて、式場横にある親族用の宿所に向かった。

 残された俺と父は、しばらく無言で彼女たちの背中を見ていた。

「空子さんが、大泣きしちゃったら、どうしようってずっと思ってたけれど、なんだか強いな、杞憂だったかな」

 父が言った。

「俺も、なんか、もうちょっと暗い感じになると思ってた」

「まだ、受け入れられていないのかもしれない。湊もそうだろう?通夜でも葬儀でも、泣かなかったね」

 父の言葉に、俺は言った。

「男は、そう簡単に泣くもんじゃないって、じぃちゃんが、」

 幼い頃から、度々そう言われて、育ってきた。父は「そうかぁ」と、優しく笑った。

「偉大な人だなぁ」

 ドライアイスの袋を見つめながら、父は言った。声には、悲しみと、切なさと、寂しさが混ざっていた。

 祖父の棺を、丁寧に開けて、ドライアイスの交換をする。祖父はもう、とっくに祖父ではなくなっているような雰囲気で。俺は、棺の中を見ても、なにも思わなかった。なにせ、昨日今日と、ずっと見ている。衝撃は、最初だけだった。慣れてしまえば、なんだかモノのように見えてきてしまって、胸に迫る何かは、遠くへ消えてしまっている。

「そういえば、今日、湊と同じくらいの歳の子が来ていたね」

 父がせっせと作業をしながら、言った。俺は、ふっと視線を上げて、父を見た。

「湊は気付かなかった?なんか、すごく雰囲気のある子だったなぁ……綺麗な子だったよ、男の子」

 俺は、ああ、やっぱりアレは、綺麗という表現で正しいんだ、と。なんだか変に安心した。

「見たよ、めちゃくちゃ泣いてたね……どこの人だろう」

「そういえば、そうだね。どういう関係の人だろうか……?」

 父は首を傾げて、それから、そっと棺の中の祖父の顔を見つめた。

 なにせ祖父は交友関係の広い人だった。俺は、あの人も祖父の友達かもしれない、と思っていたが。流石にどうだろう。見た目の年齢は、それこそ俺と同じくらい、高校生くらいに見えた。

(一緒にいた女の人も、すごく綺麗な人だったな……)

 母と同じくらいの年齢の女性であったが、顔立ちが日本人らしくなかった。どこか、外国人風の顔立ちで、例の彼と同じく、睫がとても長かった気がする。俺も、父に倣って、棺の中、祖父の顔を見つめた。

(ねぇ、じぃちゃん……あれ、どこの誰?)

 心の中で、問いかける。脳内の祖父が、最期の時と同じように、ニッと口先だけを上げて笑った。

 *

「愛人っ!?ハ?な、なに、それ!?待って、なんの話!?」

 葬儀が全て終わって、数日後。

 日曜の朝だった。

 俺は、母の大きな声で、パッと目を覚ました。あまりの大声に、言葉のひとつひとつが、俺の部屋にまで降るように届いたのだ。

「自由人だ、自由人だとは思ってたけど、そこまでだったなんて……ちょっと待って、母さん、待ってってば、衝撃が大きすぎて頭がついてかない」

 俺は、ベッドから起きあがると、寝起きの顔のまま、部屋を出た。俺が部屋を出たところで、ちょうど、向かいにある父の部屋の扉も開いた。父も、俺と同じく母の大声で起きたようだ。

「おはよう、湊……なんだか事件の予感だねぇ」

 父は、無精ヒゲをポリポリと指先で引っかきながら、のほほんと言った。俺は、父と違って、あまりヒゲがはえるタイプではない。父にちょっとした羨ましさを含む視線を向ける。

「人が死ぬ以上の事件はないから、まぁ……」

 俺は言った。

 祖父が死んだ衝撃は、まだずっと、俺の胸をドンドンと叩いていた。悲しみよりも、まだ、驚いている。葬儀も終わって、日常が少しずつ戻ってきているのに。

 父が俺の背中を、ポンポンと優しく叩いた。

「まぁ、アレだね、空子さんをあまり刺激しないように、平然とした顔でリビングに行こうね」

 母の声は、リビングから響いてきていた。会話はまだ、続いているようだ。相手はおそらく、祖母だろう。

 俺と父は、そっと、足音さえも忍ばせて、リビングへ続く扉をあけた。予想通り、母は少しイライラとした様子であった。リビングを無作為に歩きながら、携帯を耳にぴったりとあてている。

「ねぇ、その遺言って、本当に効力のあるものなの?父さんのその場限りの……なんていうか、飲んだ勢いとか、そういう落書きじゃなくて?ちゃんと、なんだ、印とか?してあるわけ?……はぁ……なんなのよ、そういうとこだけ、ちゃかりしっかりしてるんだから……まぁ、そういう人だったわよね、父さんは……」

 母は、立ち止まり、額に指先をあてて、天井を見上げて、目を閉じた。ハァー、と長いため息が漏れる。

 俺と父は、そっと、リビングのダイニングテーブルに座った。普段通りの感じで、パンと目玉焼き、ヨーグルトの朝食が用意されていて、父は手を合わせ、小声で「いただきます」と言った。視線だけで促され、俺も手を合わせる。

「いただき、ます」

 俺も、小声で言った。

 母は、ようやく俺と父が起きてきたことに気がついたらしい。チラリとこちらを見ると、電話口に、

「ちょっと時間ください。あとでまたこっちから連絡するから……そう、今日は休み。っていうか、どうせ今日、遺品整理でそっち行く予定だったから……そうだね、うん、昼過ぎに、行くわ」

 じゃぁね、と言って、母は電話を切った。

「おはよう」

 母はそう言って、父の隣に座った。父は柔らかい声で「おはよう」と返した。

「空子さん、朝食ありがとう。今日は僕がやろうと思っていたんだけど、寝坊しちゃったかな」

「ううん、なんか、最近あんまり眠れなくてさ。起きちゃったから。それに、朝早くから、衝撃的な電話がね、おばあちゃんから……」

 そこで母は再び、深い深いため息をついた。そして、地の底を這うような声で、

「ねぇ、お父さんにさ、愛人がいたんだって……ついでに子供も」

 そう言った。母の言葉に、父はヒタッと動きを止めた。

 俺は、「愛人」という言葉を脳内で思い浮かべる。今朝、聞こえてきた母の言葉にも、その単語があったなと思い出したから、驚きはしなかった。

 が、意味がいまいち、よく、わからない。

「愛人、って?」

 俺が言うと、父は微妙な笑い方をして、母は苦虫を噛んだような顔をした。

「おばあちゃんが遺品、整理してたら、遺言書が出てきたんですって。ご丁寧に封印までついて。そんでそこに、借金はないけど愛人と、その子供がいるから、俺が死んだら、その人たちのこともよろしくどーぞって書いてあったんだって」

 母は言った。俺はトーストをかじって、それから、再び考える。

 祖父の愛人。

 そして、その子供。

「俺には、ばぁちゃんがもう一人いて、母さんには義理の兄弟がいるってこと?」

 俺は言った。母は、ううう、と唸り声をあげて、テーブルに突っ伏した。

「私、一人っ子じゃなかったのかっ……そしてそれを四十代も後半で知ってしまって……?今更、どう接しろっていうのよねぇ、義理の兄弟ですって言われてもさぁ……」

 母の声は、心底困惑していた。俺も、脳内で想像する。まだ見ぬ、もう一人の祖母、そして、おじさんだか、おばさん。

 あまりピンとこなかった。

「その人たちのことも、よろしく、というのは……遺産の分配という意味のことなのかなぁ」

 父が控えめに言った。

 祖父は生涯現役で造船業に携わっていた。造船業の中でも、大型船の修繕などを担当していて、所謂、職人であった。

 十代のころからずっと、船の修繕を仕事としていた祖父だ。その腕前は一級品であったと、葬儀の席で祖父の会社の人に聞いた。

 今の時代、船の修繕業の手練れは、なかなかいないらしい。

「ウチの若いのを、もっと、もっと、鍛えてやって欲しかったです」

 そう言って、その人は、グズグズと泣いていた。そんなだったから、祖父は仕事に困ったことは生涯一度もなく。どちらかと言えば、いつでも引っ張りだこ状態だった。高収入であったし、貯金もそれなりの額、あったようだ。

「遺産の分配なんて、どーでも良いのよ、もう、好きにしてって感じ。母さんがまだ生きてるから、とりあえず、母さんの良いようにさえしてくれれば、私はなんも文句ない」

 母は言った。

「お金を渡して、はい、おしまい!って出来るなら、そっちの方がよっぽど楽よ……でも、なんか、そうはいかない気配を感じる。私はそれが怖い」

「そうかぁ、空子さんの勘は当たるからなぁ〜……」

 父が眉をハの字に垂れさせながら、答えた。

「とりあえず、直接母さんとちゃんと話すわ……まずはそっから……どうせ今日、向こうの家の整理、手伝うつもりだったし……」

「俺も行く」

 静かに言った。母は、苦笑して「あんた受験生でしょ〜」と呆れた声を出したけれど、すぐに「まぁ、いっか」と言った。

「時に、勉強よりも大事なことは、あるものだよね」

 父も母と一緒になって、頷いた。

 昼過ぎに祖母の家に行くと、玄関に見慣れぬ靴があった。どう考えても、祖母のものではない。

 母は、それを見て「ゲ」と一言呟いた。一緒についてきた父も「ありゃー」と、真抜けた声を出す。玄関が開く音を聞きつけて、祖母が奥から出てきた。

「いらっしゃい、待ってたわよ。お昼は?もう食べたの?」

 祖母は澄ました顔で、ニッコリしている。

「母さん……まさかとは思うけど……」

 母がジトッとした目で祖母を見つめると、

「だって、あなた、ゴチャゴチャ煩いんだもの。とりあえず、会ってみて、直接いろいろ、話した方が良いでしょう。顔を見てみたかったし」

 ケロリと言った。

 俺は、玄関の靴をもう一度見る。女性のハイヒール、もうひとつは、男物の革靴。

 革靴といっても、父が会社に履いていくようなカッチリしたものではなかった。白地がメインで、甲の部分は茶色、結び紐は黒だ。

(愛人の子供って……おじさん、っていう年齢じゃ、ないのか……?)

 俺は、まだ見ぬ愛人の子を、自分の母と同じくらいの年齢だと想像していた。

 けれど、それにしては、靴のセンスが若い。

「応接間でくつろいでもらってるから。ねぇ、私たち、お昼まだなのよ。あんたたちもまだなら、なにか取ろうかと思ってね」

 なにがいいかしらね、祖母はマイペースに言った。母は、すでに帰りたいという顔をしている。頭が重そうだ。そういう表情をしていた。

 祖母が俺に視線を投げて、言った。

「湊、お寿司好きだっけね?」

「嫌いじゃないよ。嫌いなもん、あんまりないから」

 俺は答えた。すると、祖母は、うーんと唸って、

「湊くらいの年頃の男の子って、なにが好きなのかねぇ。あんたが良い子すぎちゃって、よくわからないんだよねぇ」

 そう言った。その言葉に、俺も、母も、そして父も、首を捻る。祖母は、ニヤッと笑って、

「あの人ね、めちゃくちゃ若い愛人つくってたのよ。空子、あんたと同じ歳」

 そう言った。その言葉を受けた時の、母の変顔を、俺は生涯忘れられそうにない。

 目玉が飛び出るとは、正にこのことかと思った。

 *

 よろよろする母に歩く速度を合わせながら、応接室へ。広い部屋の襖をあけると、二人分の視線がパッとこちらを向いた。

「あ」

 俺は、思わず声を出した。

「ああ」

 父も、同じような声を出す。

 応接間のソファーに座っていたのは、あの日、葬儀で見た親子だった。母と同じ歳くらいの外国人顔の女性、それに、葬儀でボロボロ泣いていた美しい青年。

(やっぱり、親子だった……)

 俺は思った。

 応接間にいる彼は、さすがに天使には見えなかったけれど。それでも、日曜の昼、日差しに薄く溶けていきそうな色合いをしていた。

俺がジッと見つめていると、彼は立ち上がって、こちらへやってきた。

「ねぇ、キミ、葬儀で目、あったよね?顔が父さんにそっくりだったから、オレ、めっちゃ驚いちゃってさ」

 間近にやってきた彼は、猫のようなアーモンド型をした大きな茶色の瞳をしていた。睫が長くて、頬に陰が落ちている。髪もふあふあとした茶色。前髪は眉より少し上あたりで短く切られているけれど、頬にかかる部分の髪は長い。後ろ髪、襟足だけが、尻尾のようにサラリと長くて、二の腕あたりまでありそうだった。葬儀の時は、結んでいたのだろうか、尻尾の部分に気がつかなかった。

 そして、俺は、彼が祖父のことを「父さん」と呼ぶのに、驚いていた。

 そうか、そうだ、彼にとって、祖父は、祖父ではなく、父だったのだ。

「近くで見ると、ほんと似てる。ねぇ、めちゃくちゃモテるでしょ?」

 彼はニッと笑って言った。細められた瞳が、悪戯に光る。

 モテるでしょう?という質問は、実際よくされる。俺は平然とした顔で「そうですね」と答えた。

 俺の顔は、眠そう、または何故か「甘い」などと表現されがちである。

 幅広のくっきりとした二重。垂れ目気味で、目の下、涙袋の膨らみがしっかりと線を描いている。瞳も髪も、黒くて、唇は薄め。ついでに耳たぶも薄い。ピアスの穴を開けやすい耳だと、祖父に言われたことがあった。祖父は、左耳にだけピアスをつけていた。

 彼はこちらにむかって、そっと手を伸ばしてきた。俺は少し驚いて、体が固まった。指先を目線だけで追う。

 彼の指が、俺の重めの前髪をチョイチョイと避けた。額に、わずか、指先が、触れた。

 俺がまばたきを三回すると、彼は満足げに笑った。

「うん、良いね。前髪、もうちょい短くした方が良いかもよ。顔が隠れてるの、勿体ない」

 前髪は、俺の目を半分くらい隠している。意図して伸ばしているわけではない。たまたまだ。ここのところ、忙しくて、というか、現実が現実味を帯びていなくて。全てのことが、なんだかお座なりで、感覚が鈍なのだ。全部、どうでも良いことのように、ただ、流れていく。

「あの、すみません、この子、あの人に似て、なんだか自由な子で……」

 ソファーから腰を浮かせて、愛人らしき女性が、ペコリと頭を下げた。それに合わせて、母が半笑いみたいな表情で、頭を下げた。

 祖母は、何事もないかのように、

「空子、あんた不細工な顔してないで、座りなさいな」

 と、言った。

 母は、言いたいことがごまんとありそうだったが、上手く言葉に出来ないようで、余計に変な顔をしていた。

 祖父の愛人は、青山寿々あおやますずかさんという人だった。母と同じ歳の四十八歳。横浜の港近くに住んでいて、お母さんはイギリス人だそうだ。

 現在、自宅近くでバーを営んでいるらしい。祖父とは、イギリスで知り合い、子供もイギリスで産んだとのこと。

 その子供、母の義理の弟となる青年。彼は、青山千翼ちひろと名乗った。千の翼と書いて、千翼、ちひろ。今年で二十歳になると、彼は言った。

「湊よりも、二歳、お兄ちゃんだねぇ」

 父が、のんびりとした口調で言った。わざと、のんびりと。その隣で、母が頭をグラグラさせているからだ。誰かが過度のパニックを起こすと、近くにいる人間は、逆に冷静になるのかもしれない。

「今、四十八歳で……えっと、ち、千翼くん、二十歳ってことは、二十八の時に産んだってこと、ですよね……?」

 母は、震える声で言った。寿々花さんは、俯きながら「……はい」と答えた。

 祖母が、平坦な声で、

「確実に、あの人との子だと言えるのよね?」

 と、言った。父は無言だ。加えて、俺と、千翼という名の青年も。ただ見守る男たちという図式。

 けれど、全員が、祖父のことを思い浮かべていた。

 不思議な空間だった。

 緊張と緩和が、穏やかな波のように、寄せては返している。

「念のため、鑑定結果を、お持ちしました……」

 寿々花さんは、そっと応接テーブルにクリーム色の紙を置いた。その紙を、誰も手に取ろうとしないまま、話は進む。

「あの人が死んだことは、どこでお知りになったの?」

 祖母が言った。

かいさんの、会社の方が……教えてくださって……会社の方たちと一緒に、よくウチの店にお酒を楽しみにいらしていたので……」

 海、とは、祖父の名だ。かい、と読む。名は体を表す、まさにそういう人だった。

 祖母は、笑った。

「よかった。あなたのことを知ったのが、本当につい先日だったから。私からは、お知らせ出来なかった。あなたたちが葬儀に来てくれて、あの人も喜んでいると思う」

 寿々花さんは、瞳を潤ませて、言った。

「私は、海さんを愛していましたけれど、でも、本当のご家族がいらっしゃることは、知っていましたし、ご迷惑を……いえ、もうかけていますが、これ以上の、ご迷惑をかけるつもりは、ありませんので……本当に、あの、遺産の話だとか、そういうことは、一切、なにか、求めたりすることも、ありませんのでっ、」

 必死の言葉だった。華奢な肩が、手が、細かく震えている。

 祖母は言った。

「そうはいきませんよ。遺言書にねぇ、しっかり書いてあるもの。よろしくって。だから、そんな顔しないで、寿々花さん、これから私たち、よろしくしなくちゃいけないのよ、あの人がそうしろって言うんだから」

仲良しにならなくちゃぁね

 祖母は、寿々花さんの指先を握った。キュッと強く。寿々花さんは「でも……」と小さく言った。

 その声をかき消すように、母が「あー!」と、叫んだ。

「っていうか、普通、自分の娘と同じ年齢の人と浮気する!?なんなのあのオヤジ!?ただのエロオヤジかよ!?ほんっと、自由にもほどがあるわっ!!こんな美人の人生めちゃくちゃにしおって、あやつは!!なに考えてんの、ほんと!!墓から引きずり出してやりたいっ!!!」

 母は、仕事が相当忙しくなると、時々、こういう口調になる。父が「空子さん」と、呼んで、背中を撫でて宥めた。

「空子、引きずり出しても、もう骨しかありゃしないよ」

 祖母がケラケラ笑う。母は言った。

「寿々花さん、ウチの父が本当に申し訳ないことを……っていうか、どうやってこんな美人引っかけたんだマジで……今まで、つらくなかったですか、大丈夫ですか、ほんと、父さん、自由なのは良いけど、限度ってもんが……」

 ほとんど独り言のようだったが、それでも母は、しっかりと彼女を見据えていた。

「この調子じゃぁ、他にも愛人がいるかもねぇ。なにせ仕事の関係やら、なにやらで、世界中を飛び回るような人だったから……」

 祖母は「やれやれ」と言ったけれど、半分以上は笑っている。

 母は、青年にも向き合って、言った。

「千翼くんも、ごめんね。突然、こんな、おばちゃんな義理の姉が……いや、姉とか、おこがましいか……お母さんと同じ歳だしね、なんていうか、ごめんねとしか、言えないんだけど……」

 青年は、首を振って笑った。サッパリとした、華のある笑い方だ。口先が、カモメを飛ばした絵図のように、ニュンっと上がっている。そして、笑顔のまま、言った。

「今日、母さんが叩かれたり、オレが酷い目で見られたり、そういうことがあるかもしれないって、ちょっとだけ思ってた。けど、よく考えたら、父さんが選んだ奥さんが、そんな狭量な人のはずがないし、父さんの子供が、そんな偏屈な人のはずがないし、全然、緊張する必要ないよなぁって。今、それを実感してる」

 その気取らない喋り方に、彼の母親の方が、肘で小突いた。

「千翼」

 咎めるように名前を呼ばれて、青年は小さく舌を出した。

 それを見て、祖母が「いいね」と笑った。

「やっぱりあの人の子って感じするわ。私は女の子しか産めなかった。男の子がいたら、どうだったかしらって、ずっと思っていたの。寿々花さん、ありがとうね」

 祖母の言葉に、寿々花さんは、ついに少し泣いた。

「こんなに、迎え入れてもらえるなんて、思ってもみなくて」

 鼻をスンスンいわせて、寿々花さんは言った。祖母は「今日からアナタたちも、家族だよ」と言った。母も、なんだかいろいろ、戸惑いながらも、その言葉を受け入れたようだった。そっと寿々花さんの腕に触れて「よろしくね」と言った。

 昼ご飯に、応接間のテーブルを囲んで、寿司を食べた。大人たちは昼からビールをあけて。寿々花さんは、自分の店を持っているだけあって、お酒を注ぐのが上手かった。

「店を持ってるなんて素敵ね……なんでバーなの?」

 母が尋ねると、寿々花さんは柔らかく笑った。

「祖母の代からイギリスでバーをやっていて……私の母も今は向こうで祖母の店を継いでいて。父も、それを手伝っています。だから、私も、日本で店をやろうって決めていて」

「どうして、日本で?」

 祖母が聞いた。寿々花さんは、少し迷ってから言った。

「私、育ちは日本なんです。父の故郷で育ちました。イギリスよりも、日本が好きなんです。海さんと知り合ったのは、たまたま、私が夏休みを利用してイギリスに遊びに行っている時で……」

「そうだったのねぇ」

 祖母は、ずっと笑って話を聞いていた。酒が入って、美味しいものがあると、女性は饒舌になるらしい。随分と盛り上がって、いろいろなことを話していた。

 父は、コップ一杯だけビールをもらい、それだけでウトウトと船を漕いでいた。酒に滅法弱い質だ。

 俺は、腹がいっぱいになったので、空いている皿を片付けようと、そっと立ち上がる。女性陣の会話を邪魔しないように、気をつけながら。彼女らの話に、俺は特に興味がなかったから、退屈だった。

 応接間を出て、廊下を辿って、台所へ。流しに立つと、背後でそっと人の気配がした。ちらりと振り向くと、千翼と呼ばれていた青年がいた。

「オレも手伝う」

「……いえ、お客にさせたら、ダメでしょう」

 俺が言うと、彼は頬を膨らませた。

「もう家族だって、さっき話したじゃんかー」

 俺は、なんとも言えずに黙った。家族、と言われても。俺にはあまり、関係がないような気がしていたのだ。

 母の義弟、となると、俺には叔父さんが出来たということだ。それだけだ。

「ねー、みなとって、どういう漢字?」

 彼は、俺の隣に立って、こちらの顔を覗き込んでくる。やけに距離感の近い人で、そういうところが祖父に似ていると思った。

(なんか、雰囲気も……)

 醸し出す空気感、自由で、奔放な、まるで風のような印象。ああ、この人は、本当に祖父の子なんだなぁと実感する。

「さんずいに、奏でるっていう字で、湊です」

 俺は答えながら、流しの蛇口を捻る。使った皿を、水に浸しながら、気配だけで、相手を探った。彼はご機嫌な様子で、取り巻く空気は華やいでいる。

「へぇ、オレ、てっきり普通の、あの港っていう字かと思った。いいね、湊。奏でるってきれいな字だ」

 彼は言った。そして、

「みーって呼んで良い?」

 と、言った。唐突に。

「……なん、で、ですか?」

 俺は思い切り、眉間に皺を寄せる。

「なんでって、かわいいから。みーくん?みーちゃん?でも良いけど、みーって呼び方が一番かわいくね?」

 彼は、俺の肩に腕を回して、至近距離で、また瞳を細めた。彼の目の中、虹彩がキュッと縮まったように錯覚する。俺は、その瞳と、瞳を縁取る長い睫と、彼の内側を見つめようとした。

 けれど、あまりにも整っていて、恥ずかしくなって、出来なかった。

「湊って、そんなに呼びにくい名前でもないでしょう」

 俺は言った。彼は、

「オレのこと、ちーって呼んで良いから」

 と、笑う。俺は、「千翼さん」と呼んだ。

「えー?なんで、さん付け?!」

「あなたの方が年上だからです」

「敬語もやだー」

「やだと言われましても」

「たった二歳しか変わんねぇーじゃん!」

 千翼さんは、不服そうに言い募った。

(たった二歳……されど、立場は……)

 全然違う。俺は孫。彼は息子。

 そこで、ようやっと俺は、いろいろなことを理解して、母さんと同じように白目を剥きそうになった。なんてことだ、と思った。

「なぁ、みーは高校生?今、夏休み?」

「だから、みーってやめてください。猫じゃないんですから」

 俺がそう言うと、千翼さんは、ますます楽しそうに笑った。

「確かに!猫みたいだな。オレ、猫飼うの夢だったんだ」

 千翼さんは、俺の肩を抱いていた腕を解いて、その手で俺の頭を撫でた。頭を撫でて、それからついでのように、耳元をコショコショされた。

 俺は、突然のことに吃驚して、思わずその手をペシッと払いのけた。

「あ、すんません」

 咄嗟に謝る。千翼さんはニッと笑った。

「みー、耳真っ赤。なに?触られるの、苦手?」

 俺は、水に浸した皿を、スポンジで洗い始める。顔を見られたくなかった。

「初対面で、こんな風に触ってくる人、あんまりいませんよ、普通」

 俺は言った。千翼さんは、「そっか」と納得したように言った。

「オレ、子供のころ、ちょっとの間だけど、イギリスで育ってるから。日本人の距離感ってのと、ズレてんのかも。イヤだった?」

 イヤだったか、と聞かれると、難しい。俺は、歯切れ悪く「イヤ、ではないです、けど、」と言った。千翼さんは「マジ?良かった!」と、あっさりとした声で言った。

「みー、これからよろしく。仲良くして」

 俺は、曖昧に頷いて、皿洗いの続きに勤しんだ。千翼さんは、洗った皿を、布巾で手際よく拭いてくれた。

 そのうち、未だアルコールにへろへろしながら、父がやってきた。女性陣は、共通の男についての話題で、随分と盛り上がっているらしい。

「亡くなっても、大層モテるなぁ、海さんは……」

 父は、ふふふ、と笑った。千翼さんもつられて笑うから、俺も少し笑ってしまった。

 千翼さんは明け透けで、裏がなくて。けれど、なにか悪戯を企んでいる猫のような人だった。

 それが、はじめてちゃんと二人で話した時に感じた印象だ。その印象は、今も変わらない。葬儀場で見た天使は、もうどこにもいなかった。

 千翼さんは見た目に反して、とても人間らしく、その性格は、やっぱり祖父にそっくりな気がした。

 *

 八月になった。

 あの日から、うるさいくらいに千翼さんから連絡がくる。携帯がうるさい。

 俺には友達がそれなりにいるが、俺を含め、割りとみんな、マイペース。そしてなにより受験生だ。夏休み、塾や講習会で、受験生は大忙しなのだ。

「千翼さんと連絡先、交換したの、間違いだったかもしれない」

 俺が呟くと、父が笑って言った。

「どうせ香子さんのところで会っちゃうよ」

 父は、早めの夏休みを取ってきた。

 毎日のように、俺と父は揃って祖母の家に行って、遺品整理を手伝っている。寿々花さんと千翼さんは、あの日、一度横浜の自宅に帰って、それからはずっと、祖母宅に泊まっているようだ。

 祖母が「寂しいから、よかったら泊まって」と言ったらしい。寿々花さんは、毎日横浜から通うつもりでいたらしいのだけれど。

 祖母が「お願い!みんなでいた方が、楽しいのよ」と懇願して、ようやっと頷いた。母は、葬儀などで休んでいた分、大層に忙しいらしい。夜まで働いては、自宅ではなく、祖母の家に帰って、泊まる。母が帰ってきたタイミングで、俺と父さんは自宅に戻る。

 それを繰り返していた。

 祖母は俺と父にも泊まるように言ったけれど、なにせコチラは受験生だ。

「一応、勉強してるから……」

 俺はそう言って、祖母の申し出をそっと断った。

 俺と父は、今日も二人、ゆっくりと祖母の家に向かって歩いていた。

 今日は土曜日なので、祖母宅には、母もいるはずだ。その道すがら、携帯が鳴って、千翼さんから「おはょ」というメッセージが届いたのだ。

「……父さんは、スズさんのこと、どう思う?」

 俺は、言った。最近では、寿々花さんのことを、みんなスズさんと呼ぶ。

「千翼くんじゃなくて?」

 父は言った。

「どっちでも良いけど……」

 俺は、黒いサンダルを履いた自分の足先を見て言った。

「湊は、二人が嫌い?」

 父が尋ねた。俺はすぐに首を振る。

 二人とも、良い人だと思うし、そもそも祖父の選んだ人と、その息子だ。嫌いになれるわけがなかった。

 幼少期、俺は、祖父母宅でを過ごすことが多かった。父母が共働きで忙しかったからだ。祖父も現役で働いてはいたけれど、よく仕事をサボって家に帰ってくるような人だったから、たくさん遊んでもらった記憶がある。

 今思えば、同時期に千翼さんの面倒も見ていたことになるのだから、そのバイタリティーたるや、目を見張るものがある。

 少なくとも、俺は寂しい思いをしたことなど、全然ない。祖父が大好きで、今も大好きで、その背中をいつでも憧れをもって見つめていた。千翼さんは、どうだったのだろうか。

「最近、空子さんの帰り、遅いでしょう?十時過ぎとか。遅くなって、クタクタになって帰ってきた空子さんをね、スズさんが、おかえりなさいって笑顔で迎えるの、僕はアレが好きだなぁって思ったよ。空子さんもさ、もうちっとも緊張してない風じゃない。素が出てるというか……アー疲れたぁーって呻いてさ」

「姉妹みたいだよね。母さんが姉かな?」

 俺が言うと、父は吹き出して笑った。

「それを言うなら、湊と千翼くんも兄弟みたいだよ」

 俺は下唇を小さく噛んだ。

「そうかな」

 俺が言うと、父さんは「思春期の弟と、弟に構ってもらいたくて仕方ないお兄ちゃんかな」と言った。

 祖母の家の玄関を開けると、扉の開閉音を聞きつけて、千翼さんがヒョイと顔を出した。

「みー、おはよ!」

「だから、みーってやめてくださいよ」

「そのやり取り、毎日やってるねぇ」

 父さんは、愉快そうに笑ってリビングへと向かった。俺は、靴を脱いで、揃える。

 千翼さんの革靴が散らかっていたので、ついでに揃えた。

「みー全然返事くれないじゃん。携帯見てる?」

「見てます。千翼さん、革靴で暑くないです?」

「見てるなら返事ちょーだいよ」

 千翼さんは唇を尖らせて、俺の着ているシャツの袖を子供の力で引っ張った。相変わらず距離が近い。

 千翼さんからは、すっかり祖父母宅の匂いがしていて。俺は、若き日の祖父と一緒にいるような、そんな変な錯覚をした。

「会うから別に良いかなって思って」

 俺が言うと、千翼さんは「まぁ、そうね」と笑った。

 二階から、祖母の大きな声が「千翼ーちょっと来てー」と呼んだ。

 もうすっかり、祖母は馴染んで、彼のことを「千翼」と呼び捨てる。

「みーも来たよー!!」

 千翼さんは大きく答えた。すると祖母の声は楽しげに「じゃぁ、湊もー」と言った。追加注文されてしまった。

「なんか重いもの運ぶのかも。二階、書斎あるもんね」

 千翼さんが言った。俺は頷いて、千翼さんの後に続いて二階にあがった。

 遺品整理というのは、残されたモノの多い少ないに関わらず、時間のかかるものなのかもしれない。

 二階の書斎には、祖母だけがいた。よく祖父が座っていた肘掛け椅子に座っている。

「母さんたちは?」

 俺が尋ねると、祖母は「下で洋服ダンスと格闘中。昨日の夜にね、へそくりが二十万くらい出てきたのよ、洋服ダンスのあちこちから。面白くなっちゃったみたいで、空子が張り切ってる」と言った。

 祖父は衣装持ちだった。洋服ダンスも沢山あったし、収納ボックスみたいなものの中にも服をしまっていたような気がする。

 千翼さんがクツクツ笑った。

「香子さん、こっちの家が落ち着いたら、横浜のウチにも来て。全然広くないけど、そっちも遺品整理しないといけない。父さんがウチに置いてた物なんて、あんまりないんだけど、香子さんにとって、大事なものがウチにあるかもしれない」

だから、ちゃんと、香子さんの目で、見てね

 千翼さんは、祖母の手をそっと握って言った。祖母は、嬉しそうにその手を握り返す。

「横浜ね、いいわね。ロマンティックで、港町は大好きよ」

 祖母は、自分の声が消えていくのを、そっと見守るような顔をして、書斎の、どこでもない所を、空を、見つめた。

「ばぁちゃん……」

 俺が声をかけると、祖母は、ぼんやりと遠い所にいるような顔のまま、こぼれる声で言った。

「思い出っていうのは、ダメだね。いつの時代も生者を殺しにかかってくる。奴らは凶悪さ。見つめすぎては魂を取られる。そっと傍らに、寄り添うくらいでないとね、仲良くするもんじゃぁない」

 俺と千翼さんが黙っていると、祖母はゆっくりと、コチラの世界に帰ってきた。そして、口先をきれいに上げて、赤い口紅の乗った唇で微笑んだ。

「あんたたちに、昔話をしてやろうと思ってね。こういうのは、一応若いのに受け渡しておくのが、ジジィババァの義務だから」

 千翼さんは、祖母の近く、床にちょこんと体育座りをした。

「戦争の話?」

 千翼さんは祖母に尋ねた。祖母は、首を振る。

「そんな大層な話じゃない。私もあの人もね、あんまり知らないんだ、戦争のことは」

戦後、世の中が大変だったことだけは、肌身で感じていたけれどね

 祖母は言った。終戦の年、祖父は六歳、祖母は三歳だったはずだ。俺は最近、夜中に日本史を頭に詰め込んでいる。受験のためだけに、記憶している知識くらいは、ある。

「みーもおいでよ、座って」

 千翼さんが、自分の座っている横をトントンと叩いた。俺は、素直に従ったが、少し距離を置いて座った。けれど、俺が距離を置いた分、千翼さんはズイッと寄ってきて、肩と肩がぶつかる。

 俺は視線で抗議したけれど、千翼さんは祖母の顔をじっと見ていて、こちらをチラリとも見てくれなかった。

「見てごらん。これ、私とあの人の結婚式の写真」

 祖母の座る椅子のすぐ横にある、文書き机。机上に乗っていた、古くて分厚いアルバム。祖母は、重そうにアルバムを持ち上げ、俺たちに開いて見せた。

 焦げ茶色をした写真の中に、若き日の祖父母が写っている。

「みーにそっくり。ほんとに似てるね」

 千翼さんは言った。

「そうかい?私は湊の方が格好良いと思うけれどねぇ」

 祖母が、ふふふと笑う。俺は、一人、なんだか頬が熱かった。

 写真の中の祖父母は、美しかった。祖父は、普段よりもずっと真面目な顔をしていて、袴姿が格好良かった。祖母も、今以上に凛と冴えた美しさを携えていて、白無垢が似合っている。

「洋装でも撮ったの。当時では珍しかったものよ」

 アルバムを一枚めくると、そこには洋装姿の祖父母が写っていた。

「ドレスは自分で作ったの。空子の結婚式の時も、私が作った。母さんから聞いたことない?」

 祖母が誇らしげに言った。千翼さんが目を輝かせる。

「香子さん、すご!ウエディングドレスって作れるの?」

「母さんから聞いたことある。ばぁちゃん、裁縫の学校行ってたんでしょう?」

 俺が言うと、祖母は「ドレスメイクの女学院だよ」と訂正した。

「その当時、ドレスメイクの女学院に通うのなんてね、最高にハイカラだったんだから」

 祖母は胸をはって、そう言った。

 時は戦後から、ようやく十年ちょっと経った頃。

 日本人の底意地と勤勉、努力根性によって、国はどうにか息を吹き返してきたところだった。

「はじめてあの人に会ったのは、私が十六歳の時。お花の稽古に行く途中の道すがら。夏の終わりだったと思う」

 私の母はね、戦中、私を産んですぐに病気で亡くなって。私は、当時、通信係として仕事をしていた父に育てられたわ。

 私の上には、病弱な姉がいて……覚えてるかしら?湊が八歳くらいのころに亡くなった、桃子ももこおばさんね。

 私は幼い頃から姉の看病をしながら、家事をしたり、お稽古に通ったりしたわ。父はね、男手ひとつで女の子二人を育てるのに不安があったのでしょうね、女の子のやりそうなお稽古ごとを片端から私にやらせたわよ。

 私は、お花もお琴もお歌もお茶も、あまり好きでなかったけれど、お裁縫だけは好きだった。

 その日は、残暑が厳しく、暑い日でね。私は、庭に咲いていた竜胆の花を摘んで、お花の稽古に向かっていたわ。丘の上にあった自宅から、緩やかな下り道を歩いていたの。

 暑くて、紫色のハンカチーフを握ってね、額の汗を拭いながら歩いていたわ。

「よぉ、そこのお嬢さん」

 坂道がおわって、ようやく平地に出たところで、私は声をかけられた。左手には田圃が広がっていて、右手は木々の茂る林。

 声は、道の端に植わっていた大きな杉の木から聞こえてきたように感じたわ。

 私がそちらを向くとね、白い半袖シャツを着て、膝丈の紺色ズボンを履いた男の人が立っていたの。

「それが、あの人との出会いよ」

 私は暑いのが苦手でね、少し苛立っていたの。立っているだけでも汗が出るような湿度でね、お花も持っていたし、知らない男性に話しかけられて、それも軟派な話し方をされてね。無視して通り過ぎようかと思って、私は足を進めたわ。

「待てって、お嬢さん。あんただよ、あんた。花を抱えてるお嬢さん」

 私が通り過ぎると、背中側から再び声がしたわ。慌てるでもなく、低く、落ち着いた声で、呼び止められて。そもそも、その時、その道には私と彼しかいなかったからね、私に話しかけてるんだってことは、わかっているわよ。

「それなのにねぇ、気付かれなかったとでも思ったのかしらね。わざわざ、花を抱えているお嬢さん、だなんて」

 慌てない口振りにもね、軟派がお得意な人だってことは、すぐにわかったわ。

「なにか?」

 これ以上、変に絡まれても嫌だわ、と思ってね、私は立ち止まって、彼の顔を見た。彼は、澄んだ瞳で、まっすぐに私を見つめたわ。初対面なのに、そんな風に見つめられて。私は、まだ少女だったから、それだけで少しドキドキしてしまって、今となっては、それがなんだか悔しいわね。

「あんた、丘の上の大きな屋敷のお嬢さんだろう」

 若き日のあの人は、太陽の下、ニッと笑って言った。

 私の父は、結局のところ、戦争中もずっと国に仕えていた人だったからね、それなりにお給金はもらえていたみたい。良い暮らしをしていたことは、間違いないわ。

「それこそね、あの人の呼んだとおり、お嬢さんだったのよ、私」

 あの人は、私の手にしているハンカチーフを指して、言ったの。

「あんた、紫色が好きなのか」

「どうして?」

 私は確かに紫色が好きだけれど、初対面の人に言われることでもないわ、と思っていたら、

「あんた、着物からハンケチから、抱えてる花まで、全部紫色で、面白いことになってんぜ?」

 なんてことを言われたの。

 お陰様でね、この歳になっても、その時、どの着物を着ていたか、どのハンカチーフを持っていたか、はっきりと覚えてしまっていてね、まったく、憎らしい人よね、それも作戦だったのかしら?

「用事がないのでしたら、失礼します」

 私は、ムッとなって、それに全身紫色な自分が恥ずかしくなって、ツンツンして言ったの。あの人は、私がつれなくすればするほど、なんだか楽しそうだった。

「用事ならある。お嬢さん、あんたの抱えている花、一本だけ、俺に分けてはくれまいか」

 竜胆の花を指して、あの人は言ったわ。

「これから兄者たちの墓参りに行くもんでね。手ぶらというのも、難だろう。その辺りで野の花でも摘もうかと思っていたのだが」

 その時、彼は私よりも少し年上に見えたわ。その兄上たちの墓参りと言ったらねぇ。

 当時は、戦後から十三年。私だって、そこまで世間知らずのお嬢様ではなかったわ。

「お兄さま方は、御国の為に、奉公されたのですか?」

 私は慎重に尋ねたわ。彼は言った。

「上の兄は十八で海軍入り、宝船大和と運命を共にした。下の兄は十七で空軍入り、神風となって御国に尽くした。俺ぁ、兄らよりもずっと後に産まれた。母御が、このままでは子をみんな取られてしまうって嘆いてな。俺が六つの時に戦争は終わった。生き残ったのは、俺だけだ」

 あの人の物言いは、全然湿っぽくなくてね、私はその事については、気に入ったの。

 戦争の後、なんだかみんな、暗くてね。躍起になって、なんとか国を元通りにしようって。しゃかりきになってはいたけれど、なんだか本当に、心の底の部分が疲れ切った人が多かったのよ。

 私は言ったわ。

「そういうワケでしたら、このお花、全部差し上げますわ」

 するとあの人は笑って言ったの。

「いいや、一本だけで十分さ」

 私が「なぜ?」と尋ねると、彼は言った。

「花は、兄嫁に贈るもんだ。だから一本で足りる」

 なんでも、彼の上の兄様には奥方がいて。子はなかったそうだけれど、戦地に赴いている兄様に代わって、家のことをしっかとしてくれる方だったそうよ。

 幼いあの人の遊び相手もよくしてくれたって。けれど、夫が戦地に散ったと知らせがあった翌晩に、「ワタクシも、そちらに向かいます」と、書き置きをされて、自決なさったそう。彼は、本当に悔しそうに言ったわ。

「兄嫁の自決に、親父は天晴れ、立派であると手を叩いていたけれどな、母御はこっそり泣いていらした。今は兄者たちと一緒に眠ってらっしゃる。とても器量好しの人だった。勿体ないことだ」

 美人が死ぬのは、勿体ない、美人は生きているだけで、世のため人のためになるのに、本当に勿体ないことだ、ってね。

「そのように大事な人であったのなら、なおさら、全部お持ちください」

 私は言ったの。彼は、笑って答えたわ。

「兄者たちには、花の善し悪しなぞ、わからぬ。供えたところで、喜びもせぬ。それなら酒やおはぎの方がうんと喜ぶ。それに、兄嫁は花の好きな人だったが、質素倹約の人だった。だから、一本で良い。良いのだ。その代わり、だ」

お嬢さん、あんたの名を教えてくれまいか

 私は、なんとも言えない、不思議な気持ちになったわ。初対面の人に、名前を教えるなんて、ちょっとはしたない気持ちもしたし、けれど、悪い人ではなさそうな気もしたし、やっぱり軟派だわ、とも思ったの。

「教えてくれないのであれば、丘の上のムラサキ嬢と呼ぶことにするぞ」

 彼は言った。私は、あまりにもセンスがなくて笑ってしまった。

「なんですか、それは、やめてくださいな」

 そして、生意気に思われても構わぬという気概で、言ったの。

「まずはそちらから、ご身分を明かされてはいかがです?」

 あの時代、女が男性にね、そんな風な口をきくのは、なかなかとんでもないことだったの。

 私は、よく父上から「もう少し、淑やかにしなくては、嫁の貰い手がいなくなってしまうよ」と嘆かれていたものだった。

 でも、彼はちっとも嫌そうな顔をしなかった。それどころか、「気に入った!」と叫んだのよ。

「あんた、良い女だな。前々から、見かける度に良い女だとぁ、思っていたが、想像以上に好みだ!仲間連中は、あんなお嬢様、ちぃとも相手にはしてくれねぇだろうから、諦めろって口を揃えて言いやがったが……やっぱり決めた。俺ぁ、気の強い女が好きでね、俺が死んでも、絶対俺の後なんか追わない女がいい。俺が死んで、そのことに清々して、大いに笑うような女が好みだ。ついでに、胸の小さい女が好きだな。あんた、全部が丁度良い。俺は、あんたに惚れた!」

 私は、ちょっとだけ、良い人かもしれない、なんて思った自分を恥じたわ。初対面の女子を前に、胸元をジロジロ見るなんて、低俗にも程があるというもの。それに、血も涙もない女、みたいな言い方をされて、とても腹が立ったの。

 私は、怒って口もきかず。竜胆の花を、それでも一番きれいに咲いているのを一輪。彼の亡くなった兄嫁様のためだけを想って、差し出したわ。

「おお、ありがとうな」

 彼は言った。

 私は、さっさと立ち去ろうと歩き出した。彼は私のあとをついて歩きながら言った。

「俺ぁ、川向こうに住んでる。あんたの家からも近いだろう、橋を渡ったすぐそばの槙村という家だ。まぁ、ほとんど家にはいつかねぇが……槙村の家の、海と言えば、俺のことだ」

「かい」

 あまりにも一方的に、でも楽しそうにあの人が話すものだから、私はつい、聞いてしまった。

「そうだ、うみ、という字を書いて、海だ」

 大層なお名前だこと、なんて思ったわ。

 私は、言った。

「ほとんど家にもいつかないで、こうして胸の小さな娘を狙って、軟派なことをしていらっしゃるの?随分とご立派なのね」

 彼は、ちっとも気を悪くしなかった。

「いんや、仕事だ。俺は船を修繕する仕事をしている。ああ、船大工とは違うぞ。戦争が続けば、海軍にと思ってのことだったが、今では造船ブームだからな。仕事が多くてかなわん。だが、楽しい!俺は機械をいじるのが好きでな」

 私が想像していたよりも、なんだかずっとちゃんとしていて、私はそのことに、吃驚したの。その頃、輸出業が盛んになっていたことは、女の私でも知っていたことだった。

「俺は自分の名が気に入っている。親父殿がつけた名だそうだが、よく付けてくれたと思っているし、名に恥じぬ生き方をするつもりだ。海のように広く、自由で、深い!」

「残念ながら、あなたは軽率に見えます」

 私は笑ったわ。

「おい、こちらは名乗ったぞ、ムラサキのお嬢さん。そっちの名くらい教えてくれ」

 彼は、私から貰った一輪の竜胆で、私の頬をチョイチョイとくすぐった。もう、仕方のない、子供のような人だと思った。

 けれど、なんだか楽しくなった。

「香子です。香りという字に、子供の子」

 私は答えた。彼は、ぱぁと明るい顔になって、少しだけ耳元を赤くして、

「香子、香子か、良い名だ。ステキじゃないか、香子」

 歌うように言ったわ。それから、大きな手のひらで、そっと私の頭をポンと撫でたの。

 父以外の男の人に、そういうことをされたのは、はじめてだったから、驚いた。固まってしまった私に、彼はうっとりとした顔で、言ったわ。

「香子、俺の嫁になってくれ」

 まっすぐな瞳が、私を見ていた。私が言うのもアレだけれどね、やっぱりあの人は、美丈夫だったから。

 少女の私は、心臓が飛び出てしまうかと思うほどに、高鳴ってしまった。けれど初対面よ、そんなの、請け合えるはずがなかった。

「突然言われても、困ります」

 私は言った。

 父の許しがなくては、と思ったし、なんで私に言うのかしら、本当に結婚がしたいのなら、家の方に申し出てくださいな、と思った。

 彼は言った。

「結婚は、好いた相手と自由にするべきと俺は思うがなぁ。それに、突然じゃないぞ、俺ぁ、ずっと前から、あんたを良いなと思っていた。声をかけたのは今日が初めてだが、そんなことは些細なことだ」

「あなたにとって、些細でも、私にとっては些細ではありません!」

 私は、足が浮くような気持ちになりながら、早足に歩き出した。お稽古に行かなくては、遅れてしまいそうだった。

 そういう余所事を考えないと、恥ずかしくて、照れくさくて、どうしようもなかったの。求婚されたのなんて、はじめてだった。

「香子」

 彼は私を、もう追いかけようとはしなかった。

 私の背中に向かって言ったわ。

「俺ぁ、諦めないぞ。きっとお前さんを嫁にする。俺とお前は、運命だと感じるのだ」

 私は、とうとう駆けだして、一生懸命、お稽古場に向かったわ。耳の奥で、彼の声が木霊してしまって、しばらくの間、随分と煩わしい思いをした。

「すご、ドラマっぽい!そこから父さんの猛アタックがあって結婚したの!?」

 千翼さんが興奮気味に、祖母に詰め寄った。

さっきまで体育座りをしていたのに。いつの間にか、正座になり、またいつの間にか、膝立ちになっている。

「それがね、その日からずっと、私だけが変に意識をしちゃっていてね、あの人からは、なんにもサッパリ、音沙汰がなかったのよ。酷い話よね?」

 祖母は、思い出の中の少女のように、若々しく、軽やかに笑った。

「私とあの人が再会したのは、それから二年後のことよ」

 はじめて声をかけられてから、二年後。

 私は十八歳、あの人は二十一歳。

 もうすっかり、彼のことなんて知らないわ、なんて思っていたけれどね、心のどこかでは、たぶん、ずっと待っていたのだと思うの。変な話よね、あんな風にね、軟派にされただけなのに。私ったら、本当に少女だった。

 私は、お裁縫好きが高じて、ドレスメイクの女学校に通っていた。学校でいつも私に良くしてくれる先輩がいてね、私なんかよりも、ずっと本当にお嬢様で。

 ある日ね、船上パーティーに誘ってくれたの。

「誰かを誘っていらしてね、ってね。もちろん、男の人のことよ?そんなこと、急に言われても困るわって私、断ろうと思ったの。でもね、自分で作ったドレスを着て、船の上でパーティーなんて……どう考えてもステキじゃない?私、なんとしても行きたいって思ってしまった」

 きれいな紫色の、竜胆の花の色の布を買って貰ったわ。丹念に型紙を作って、美しいドレープを入れて。渾身の力を振り絞って、ドレスを作った。

「でも、当日。ドレスを着て、招待状を持って、船に乗って。すぐに後悔した。だって、みんなステキなスーツを着た男の人と一緒なんだもの。ひとりぼっちで乗り込んだのなんて、私くらいなものだった」

 あーあ、酷い話だわぁ、って私は思ってね。気取ったカクテルグラスでオレンジジュースを飲んで、正しく壁の花。

 船はゆらゆら、暢気に揺れて。

 私は、帰りたいなぁと思ったけれど、もうとっくに海の上。

 船が予定のコースを一周しない限り、陸地には降ろしてもらえない。

「シンデレラみたいだね」

 千翼さんがニコニコして言った。祖母は「あら、いやだ」と言って、

「私はドレスを自分で作ったのよ?魔法で出してもらったお嬢さんと一緒にしないで頂ける?」

 サッパリした声で、得意げな顔をした。俺は、そのやり取りが少し可笑しくて、フッと笑った。笑ったら、千翼さんに肘で小突かれた。目が合って、二人してフフッと笑った。

 書斎中の空気が滑らかで、柔らかくて、丸かった。

 懐かしい記憶の温かさが、祖母の体から水蒸気のように発されていて、それを肌で感じている気分だった。

「私は、その船の上で、あの人と再会したのよ」

 祖母は続ける。

 退屈を持て余して、私は、ぼんやりと立っていた。船の上には、ダンスホールがあって。

煌びやかなシャンデリア、赤色の絨毯の上、みんな楽しそうに踊っていた。

 ピアノの音色が美しく耳に届いていたけれど、私はクサクサした気分だったからね、あーあ、眠くなりそうだわ、なんて思ったわ。

「そんな時だった。ダンスをしている人々の間をね、真っ白な制服姿の男の人が、堂々とこちらに歩いてくるの」

 真っ白な、制服。船乗りさんの制服よ。スッと爽やかに青色のラインの入ったやつ。帽子まで真っ白。

「周りがみんな、黒のスーツ姿の男性ばかりだったから、その人は目立って仕方なかった。それもダンスをしている人たちの間を、突っ切って歩いてくるのだからね、みんな何事かという目で、その人を見ていたわ」

 その男の人は、ただ真っ直ぐに私の所までやってきた。そして、私の目の前で、帽子を取って、

「よぉ、また会ったな、ムラサキのお嬢さん」

 そう言って、ニッと笑ったの。

 私は、その時になってはじめて、あっ、と気が付いた。帽子に制服で、なんだかカッチリした格好だったからね、声をかけられるまで、全然気が付かなかったのよ、私。

「あなた、」

 私が吃驚した顔をしていると、彼はニヤニヤしながら言った。

「なんだい、おひとり様かい?素敵なボウイフレンドは見つからなかったか」

「わ、私は、あなたと違って、軟派な人付き合いはしないの。あなたの方こそ、なんでこんなところに……」

 私が尋ねると、彼は「俺は仕事よ」と言った。そういえば、船に関わる仕事をしていると言っていたな、と思い出したわ。

 彼は、目を細めて、じっくりと私を見つめた。その瞳がね、なんだか優しくて、輝いていて、私は目が離せなかった。

 声も出せずに、ただ、見つめ返した。

 彼は言った。

「なぁ、あんた、俺の名前を覚えているかい」

 私は、答えた。

「海さん、でしょう」

 彼は、私に名を呼ばれて、心底嬉しそうな顔をした。そして、私の手を取った。恭しくなんてこともなく、サラッと手を繋いで。

「踊ろう、香子」

 と言ったの。

 私は、彼が私の名を覚えていたこと、名を呼んでくれたことが、嬉しかった。みんなが私たちを見ていたわ。

 私の紫色のドレス、彼の白い制服が、ダンスホールの真ん中で、くるくる回る。

 私も彼も、ダンスがとても下手だったからね、だって、踊ったことなんて、あまりないもの。学校でダンスのレッスンもあったけれどね、そんなの、ほんの少し習うだけなのよ?

 とても上手くなんて踊れなかった。でも、楽しかったわ。

 彼も私も、相手の服の裾やら、靴やら、踏んだり蹴ったりして。

 その度に、二人でクスクス笑った。やがて、音楽が止まって。周りの人たちがお相手にお辞儀をしているのを見て、私も彼にお辞儀をした。

 彼は、私に頭を下げることはしなかった。

 私の手を、グッと引き寄せて、腰を抱き寄せられた。驚いて固まる私を見つめて、彼は言った。

「香子、やっぱりお前、俺の嫁になれ」

 ダンスホールの、ど真ん中よ?

 信じられる?

 いろんな人の視線が、私たちを突き刺すようでね。ああ、もう、なんなの、この人は、どうしてこんなに、無神経で、傲慢なのかしら。私は、そう思った。思ったけれど、笑ってしまった。

 こんなにも、私を求めてくれる人がいるなんて、こんなにも、私を笑わせてくれる人がいるなんて、こんなにも、無邪気で放っておけない気持ちにさせる人がいるなんて。

 私は言った。

「私はお嬢様なの。一生、私に貧しい思いをさせないって、約束できる?」

 彼は、私の言葉に、ワッハッハ!!と、大声で笑った。そして、言った。

「よしきた!!任されよう!!」

 満面の笑みでね。

「やはり、俺とお前は、運命だ!」

 あまりにもキッパリと断言するものだからね、私も、もうそれでいいわ、って思った。そう思ったのよ。

 祖母は、遠き日を見つめているのだろうか、無垢に美しく瞳を輝かせて、

「めでたし、めでたし……なんてね」

 と言って、話を締めくくった。

 俺は、やっぱり祖父のことが大好きだな、と思った。おそらく、千翼さんも同じように思ったのだろう、俺の隣で、彼は大きな瞳を細めていた。

 祖母は言った。

「私がボケる前に、誰かに話しておきたかったの。ただの惚気話。ドラマティックでしょう?」

 結婚した後は、まぁ、あの人のあの性格ですからね、大変なことばっかりだったのよ、ほんとにもう、フラッと何処かに出掛けて行って、しばらく帰ってこなかったり、女の人としょっちゅう遊びに行ったりで、私は怒鳴りっぱなし。

「でも、慣れるものね」

 祖母は笑う。

「お陰様で、約束通り、借金もなく、お金に困ることは本当に一度もなかったし。一人っ子で、女の子だったけれど、子供にも恵まれて、かわいい孫もいて。この歳になって、スズさんや千翼にも出会えた」

 祖母は、アルバムをパラリパラリとめくって、それから、机の上にゆっくり戻して立ち上がる。

「私からの話しは、これでお終い。なんの役にも立たない昔話だけれどね」

 それでも、若いのに引き継いでおけばね、記憶の中で、あの人が生き続けるでしょう?

「よく言うじゃない、誰の記憶からも消えた時が、その人が、本当に死んだときだって」

 俺は、自分の心臓が、トットッと静かに高鳴るのを感じた。それが、興奮なのか、不安なのか、悲しみなのか、なんなのか、よくわからなかったけれど。

「今、湊と千翼に話したから、これでしばらく、あの人は死なないで済むわね」

 よかったよかった、と祖母は言った。千翼さんが、横で小さく「うん」と言って、

「覚えておく、オレ、ちゃんと覚えておくね」

 そう言った。

 祖母は満足げに、うんうん、と頷いた。俺は、なにも言葉が出てこなかった自分が、少し恨めしい。

 *

 夏は、蜃気楼のように、ぼんやりと過ぎていった。

 祖父母宅は、日々、少しずつ片付いていき、祖父の気配は、ゆったりと細波が砂浜を洗うみたいにして、薄れていく。

 最初の方こそ、テキパキと片付けをしていた祖母や母、スズさんであったが、夏の半ばを過ぎたあたりから、段々と皆、動きが緩慢になっていった。

 不要だと判断されたものは、さっさとスッキリ片付けられた。今は、微妙に難しいものばかりが、残されている。

 思い出の染み込んだもの。思い入れが強く残っているもの。祖父を彷彿とさせる象徴的なもの。祖父自身が大切にしていたもの、など、など。

 それらの品を、取り出しては眺め、また元の場所に戻して。情に引きずられるようにして、ただ、緩く、時が過ぎていく。

 祖父母宅の明度が、じりじりと少しずつ下がっていくのを、俺は感じていた。

(全く勉強する気になれず……夏休みも残り僅か……)

ちゃんと勉強してるの?

宿題は終わったの?

 なんて、母からチクチク小言をぶつけられて過ごす夏休みだと思っていたのに。誰も、なにも、言わない。

(宿題だけは、ギリ、終わりそうだけどな……)

 その他は、全く手付かずだ。

 志望校、なんていうのも、いくつか考えていた。過去問題集なども買ってあったし、そういうものを日々こなしていく夏休みになると疑っていなかった。

「はぁ……」

 ため息は、乾いた喉を通り過ぎて、静かに部屋に消えていく。祖母から昔話を聞いて以来、俺と千翼さんは、二階の書斎整理を任されていた。

(あんな思い出、聞かされた後に整理して、なんて言われてもな……)

 書斎にはアルバムが沢山並んでいて、どれも処分など出来そうにない。が、祖母は言うのだ。

「私だって、もう歳なんだから、そろそろ身辺整理もしておかないと。私が死んだら捨てるなぁ、と思うものは、今、捨ててしまって構わないわ」

 キリッとした顔で、そんなことを言いながら。そのくせ、あの日以来、自分は決して書斎を見ようとはしないのだ。

「困ったな……」

 俺は思わず呟いた。書斎が片付く気配が、全くない。中身を確認するために、俺と千翼さんで広げたアルバムたちが、どんどん床に堆積していくばかりである。

 片付けているのか、散らかしているのか、さっぱりだ。

 書斎は、まるで思い出の花が、いっせいに咲いてしまったようで。俺と千翼さんは、毎日、その濃密な香りに当てられて、酔ったようになっていた。あまり書斎に籠もりすぎると、酸欠のようにクラクラする。

(千翼さん……はやく戻ってこないかな……)

 今日も今日とて、朝から二人で書斎の整理をしていたのだが。途中、千翼さんが、

「みー、アイス食べたくない?」

 と、言い出した。書斎の冷房は、あまり利きが良くない。俺は素直に「いいですね」と言った。

 千翼さんは、少し汗ばんだ額に、短く切りそろえられている前髪を張り付けて笑った。

「んじゃ、コンビニ行ってくる。なんがいい?なにアイス?」

お兄さんが奢ってあげる

 俺は「一番高いやつをお願いします」と言って、小さく頭を下げた。千翼さんは「こんにゃろめ」と言ったけれど、楽しそうに階段を下っていった。

 ひとり書斎に残されて、俺はますますボーッとなってしまった。日焼けてセピア色になっている写真たちを、指先でそっと撫でる。

(俺は、あんまり、写真、撮らないからなぁ……)

 自分が死んだ後は、どうなるのだろうと考えた。アルバムは、あまりない。写真なんて、撮ったとしてもほとんど携帯に保存されて、それで終わりだ。

(俺が死んだ後は……)

一体、なにが残るだろうか……

なにを、残して欲しいだろうか……

 考えても、特別なにも、思いつかなかった。

(俺、もしかして、大事なもん、あんまり、ないのかも……)

 俺は、なんだか自分が寂しい人間のように思えて、再びため息をついた。大袈裟だな、とは思いつつ。自分の人生自体が、なんだか虚しく、意味のないもののように感じられて、胃の奥がズンと重くなった気がした。

「ぁー、あ……」

 俺は、書斎にゴロンと横たわった。

 開いた状態で床に置いていたアルバムを、何冊か背中に下敷きにした。背骨にアルバムの背の部分や、厚い表紙の角があたって、寝心地は最悪だ。

 それでも、座っていた時よりは、深く呼吸出来るようになった気がした。俺は、ゆっくりと、大きく、深く、息を吸った。

 そして、目を閉じる。

 祖父とふたり、書斎で世界地図を広げて、笑い合ったことを思い出した。小学生の頃だ。

「湊、どこに行きたい」

 祖父は「世界中、どこにでも行けるぞ」と、ハッキリ言った。

 どこにでも行ける、海を渡って、どこまででも行ける。

「俺は船乗りだからなぁ、どこにでも連れて行ってやろう」

 祖父の笑った顔、口元に出来る皺が好きだった。大きな乾いた手が、俺の頬に触れる。頬をふにふにと撫でられて、俺はくすぐったくて笑った。

 世界は広く、そして果てしなく見えたけれど、祖父と一緒ならば、本当に、どこまででも行ける気がした。そう思うだけで、目の前の世界まで、広々として見えたものだった。幼い頃、俺にとってこの書斎は、世界へ飛び出していくための拠点、広い世界の入り口のような場所だった。

 本特有の、紙とインクの匂い、それに、日の光と、少しの埃っぽさ、文書き机の横にある出窓、白いレースのカーテン。

 なにもかもが、あの時のままなのに、祖父だけがいなくなってしまった。

(心にぽっかり、穴が……)

 とか、よく言うけれど、それはもっと痛いものだと思っていた。実際には、なんだか穴があいた分、バカになってしまったような感覚だ。

 モノゴトが良く考えられない。唖然、呆然、そんな感じ。

 誰かが階段をのぼってくる音が耳に響いた。キィ、と蝶番が鳴いて、書斎の扉が開いた。

 俺は目を閉じたまま、深く呼吸を続ける。

「あれ、みー、寝ちゃった?」

 千翼さんの声が、柔らかく降ってくる。ついこの間まで、知らなかった人だ。

(じぃちゃんの代わりに、千翼さんが書斎にいる……)

 それはとても、不思議な感覚だった。

「みぃー?」

 千翼さんの声が、あまりにも耳元近くで聞こえたので、俺はゆっくり目をあけた。想像以上に、顔が近かった。

「あ、おきた」

「寝てません」

「うそー、スヤスヤしてたじゃん」

「してないです、近いです」

 千翼さんは笑った。笑って、

「みーの顔、すげぇ好きだから、近付きたくなる」

 そう言った。千翼さんみたいな綺麗な顔の人に、言われたくないなぁ、と俺は思う。

「アイス、買ってきたんですか?」

「買った買った〜。香子さんたちにもあげてくる。みーはどれがいい?」

 千翼さんがビニール袋をガサガサと開いて、中を見せてくれた。高級アイスのカップが三個。あとは棒付きのアイスキャンディーが三本。

「これは……カップは女性陣でしょうね」

 俺が苦笑すると、千翼さんは「やっぱ?」と言った。

「いやぁ、全員分カップ買う金は持ってなかった〜」

「俺も一緒に行けば良かった」

 俺が言うと、千翼さんは、

「カップが良かったら、今カップ取っちゃいなよ、早い者順!」

 そう言った。いや、そんなにどうしても、カップアイスが食べたいというわけではない。ただ、千翼さんにだけお金を出させたのを、申し訳ないと思っただけだ。

「俺はコッチで大丈夫です。溶ける前に母さんたちに差し入れた方が良い」

「休憩にしよ。みーもおいで、下で食べよ」

 千翼さんは、俺の手を引っ張って起こした。床に散らばる思い出たちを、ほんの少し蹴ったり踏んだりしながら、俺は千翼さんと階下へと向かった。

 女性陣は、アイスクリームの到着を大いに喜んだ。リビングにあるコの字型の大きなソファーに座って、皆で休憩をした。

 今日は、母が会社を休んで朝から整理をしていて、父は会社だ。千翼さんは、律儀に父の分までアイスを買ってきてくれたので、棒アイスがひとつだけ、冷凍庫に仕舞われた。

 スズさんが美味しい珈琲を入れてくれて、リビングは良い香りに包まれる。母は、イチゴのアイスを大きく掬って食べながら、

「あーーー、生き返るーーー」

 と、地の果てから響くような低い声で言った。

 リビングと祖父の部屋は襖で仕切られているだけで、つながっている。俺は、振り返って、祖父の部屋を覗いた。襖は開けっ放しになっていて、中の様子が伺えたのだ。

「空き巣に入られたみたいになってるねぇ〜」

 千翼さんが俺の肩ごしに祖父の部屋を見て言った。俺の背中にぴったりくっつきながら。

 祖父の部屋には、祭壇が設けられ、菊の花と骨壺が置いてある。

「千翼さん、暑い」

「アイス食べてるでしょー」

「口しか涼しくないんですよ」

「え〜」

 千翼さんは、真抜けた声を出したけれど、なんだか楽しそうにしている。それを見て、祖母と母が笑った。

「仲良くなったもんで」

 母は、良かった良かった、と言った。スズさんが「すみません、千翼はなんだか、こう、ちょっとリズムが……」みたいな事をゴニョゴニョ言った。

 確かに、千翼さんのリズムは独特だと思う。マイペースを極めた感じで、そしていつでも自然体だ。

「千翼、アイスごちそうさま。お金は?」

 祖母が言った。

「今はいーや。今度、みーと遊びに行く時、たくさんお小遣いください!」

 千翼さんは答えた。スズさんが「コラー」と小動物のような声で怒った。祖母は「ははは」と笑う。

 スズさんは、怒っても全く怖くない。それに引き替え、俺の母は怒ると相当ヤバい感じに怖いので、俺は千翼さんが少し羨ましい。

「なに、あんたたち、どっか遊び行くの?」

 母が言った。思い出したような声で「そういや、夏休みだもんねぇ〜」とも。

 祖母とスズさんも、ああ、そういえば、という顔をした。俺はソーダ味の棒アイス、最後のひとくちを丁寧に食べた。

 アタリだ。

 未だ背中にくっついている千翼さんに「アタリでした」と言った。千翼さんは「やったね」と静かに笑った。

 母が珈琲を飲んで、ホゥ、と息をつく。

「夏休みかぁ〜……なんか時間がねー、変な感じなのよねー、父さんがいなくなってから……実感がまだ、イマイチ薄いし……遺品整理は心の整理〜なんて、職場の人からも言われたけど……心の整理もなにもねぇ〜……なんか、感情が、どっかにいっちゃったみたい」

湊、あんた宿題ちゃんと終わるの?

 ついでのように言われた。俺は「なんとか、たぶん」と答える。母は苦笑した。

 祖母が言った。

「教科書には載っていないことを学んだ夏だったんだから、それで良いんじゃないの。湊、物心ついてから身近な人が亡くなるのははじめてでしょう。こういうのは、直面しないとねぇ……言葉で説明できるものでもないから」

 スズさんが「そうですね」と小さく呟いた。母は「私のおじいちゃんが亡くなった時って、どんなだったっけなぁ〜」と、ぼんやり言った。

 千翼さんが、アイスを食べ終えて、俺の耳元で小さく「みー、見て」と言った。

「オレもアタリ」

 フッと目を細めて、猫のように笑う千翼さんを見て、俺も笑った。運が良いのか、悪いのか。アイスが当たることは、嬉しいことなのか、そうでもないのか。

 そういう簡単なことさえも、なんだか曖昧に思えた。麻痺したようになった、この心は、元に戻ることは、あるのだろうか。

 そもそも、元は、どんな感じだったのかも、よく思い出せない。

 昔、祖父と一緒に棒アイスを食べたことがあったのを思い出す。あの時は、二人してハズレだった。それでも「つめてぇなぁ〜、空みたいな色してんなぁ〜」と言って、アイスを食べていた祖父は、幸せそうだった。一緒に食べた俺も、楽しかった気がする。

 祖父はいつでも、楽しそうだった。

(楽しい、って、どんなだっけな……)

 今は、なにをしても、楽しくない気がするし、嬉しくない気がするし、なにをしても、辛くない気がするし、大変じゃない気がする。

 人がいなくなるより大変なことは、この世の中には、ないのかもしれない。

 そして、あんまりにも大変なことに直面すると、人は頭の機能を停止させてしまうのかもしれない。

(高三の考えるようなことじゃないな……)

 俺はひとり、苦笑した。どんどん馬鹿になっている気がした。そんなに成績は悪い方ではなかったのに。

 何度も言うが、俺は顔だけは祖父にそっくりだ。けれど、中身は父によく似ている。真面目だし、安全な道を選びがち。よく言えば安定しているが、悪く言えば、つまらない男だ。突出して出来る何かも、ない。

 だから、いつでも祖父が眩しかった。気の強い祖母や母を、尊敬している。穏やかな父やスズさんには、共感を覚える。

 そして、千翼さんが、俺は、まだ、よくわからない。

 好かれているのだろう。

 嫌われるよりはずっと良い。

 不思議な人だ。

 俺は彼を、どう思っているのだろう。

 俺の背中にくっつくのに飽きたのだろうか、千翼さんは、ソファーの上に体育座りをして珈琲を飲んでいる。

 体育座りが好きなようだ、よくそうしている。俺がジッとその姿を見ていると、千翼さんは「ん」と言って、手のひらを差し出してきた。

 俺がわからない顔をすると、千翼さんは「棒、ちょーだい」と言った。アイスの棒だ。

「洗って、とっとこ。今度みーと遊ぶとき、コンビニ寄って、もう一本もらお」

今度は外で食べようよ

 千翼さんは言った。そして、俺の手からそっと棒を引き取ると、ぺたぺたと流しに歩いて行った。

 千翼さんは裸足で、スリッパも履いていない。フローリングの床に、足音がぺたぺた響くのが、なんだか子供みたいで可愛らしいと思った。

 *

 九月になった。

 新学期がはじまる。

 俺は、どうにかギリギリで宿題だけを終えて、登校した。久しぶりの制服が、なんだか窮屈だった。夏休み中に背が伸びたのかもしれない。ズボンの裾が足りない感じがしたし、逆にウエストは緩くなった気がした。

 俺は、学校がはじまることで、そこでようやく、なんだか日常を取り戻したような気持ちになった。何事もなかったかのように、世界が回っていることを、登校初日にようやっと、肌で感じて、理解したように思う。

 人が死んでも、世界は変わらず、進んでいく。夏は終わるし、季節は巡る。

 もうすぐ祖父の四十九日が行われる。

(四十九日も経った気がしない……)

 九月になっても夏の暑さは健在で、入道雲こそ浮かんでいないが、ここのところ、快晴続きだ。

 俺は、ボケボケした頭で、暑いなぁ〜、と思いながら通学路を歩いていた。

 すると、後ろから、トンと軽く肩を小突かれた。

「よ、久しぶり」

 同級生の柏木かしわぎだった。

「はよ」

 俺が言うと、柏木はツリ気味の目を細めて笑った。

「なに、眠そうな顔じゃのぉ」

「生まれつきですー」

 眠くなくても、眠そうな顔だとよく言われる。

「女子にモテそうなツラで羨ましいことで」

「あんまキョーミないけどね」

 俺がスンとして答えると、柏木は「ロックだねぇ〜」と言った。これは彼の口癖だ。柏木とは、小学校六年生の時からの腐れ縁だ。小学校六年生の秋、彼が転校してきて仲良くなった。

 それから中学高校と、付き合いが続いている。軽口を叩くタイプではあるが、柏木は頭が良い。歳の離れている兄の影響で洋楽ロックにハマり……その時から「ロック」という言葉が口癖になり……洋楽の歌詞を読むためにと勉強をして、あっという間に英語を習得した。

 けれど、地の頭はバリバリの理系という、なんとも風変わりなヤツである。

「まぁ、でもアレだよなぁ〜、学校はじまると、強制的に朝起きなくちゃいけないの、ツラいよなぁー、俺、夜型だから」

 柏木は言った。俺は「なー」と、曖昧に返事をする。朝型も夜型もなく、俺はちっとも夏休み中勉強をしなかった。

 結局、予備校の夏期講習にも顔を出さず。母さんに「あんた予備校行かないなら、夏期講習キャンセルすれば?」と八月のはじめに言われて、言われるまま予備校自体を辞めてしまった。

 母は、「もう私は自分のことで手一杯なので、各自、好きにして」と、あらゆるモノゴトを放棄していた。

 俺も、まだ心の中がゴワゴワしていた時期だったので、半分以上、自暴自棄だった。

 教科書に書いてあることよりも、もっと考えなくてはいけないことが、別にあるような、そんな気持ちだったのだ。

「湊、どした。なんか元気ないのぅ」

 柏木は俺の生返事に、顔を覗き込むようにして言った。

「元々、元気いっぱいってタイプじゃねーけど、なんか暗いじゃんか」

 柏木は、いつも革靴の踵を踏んでいる。地面を擦るようにして歩く音が、通学路に響いた。

(夏休み前、この音を聞きながら、また新学期なーって、別れた……そのときは、じぃちゃんはまだ、生きてた……)

 それを思うと、心に薄靄がかかるような気分になって、俺は「はぁ、」とため息をついた。

「なに、そんな新学期、嫌なんか」

 柏木が言った。俺は、軽く首を振る。

「なんか、夏休みはじまってすぐ、じぃちゃんが亡くなって」

 なるべく、なんでもない風を装って、俺は言った。柏木は、眉間にキュッと力を入れて、口をヘの字にして「そぉっかぁー」と言った。通学路、丁度十字路に差し掛かったところで、

「おはよーさん」

 と、また声がかかった。

 怠そうに制服を着崩して、あくびをかみ殺しながら、加美長真宏かみながまひろが歩いてきた。真宏とは中学の時からの友人だ。どちらかと言えば、無気力無感動タイプの人間。気が長くて、穏やか。流れるように、淡々と日々を過ごしている。

 俺は学校で、柏木、真宏の三人で過ごすことが多かった。

「はよーっす、まひろー」

 柏木が挨拶した。俺も「はよー」と言った。

「なに、暗いじゃん」

 真宏が俺に向かって言った。

「湊、夏休み中にじーちゃん亡くなったんだと」

 柏木が代わりに説明してくれた。真宏は「えー」と抑揚のない声で言った。

 柏木が「お前は感情というものを捨ててしまったのかね」と苦笑する。真宏は言った。

「いやぁ、人が死ぬって、どういう感じの事か、いまいち、ピンとこなくて……コメントが見つからない」

 正直な友人だ。俺は真宏の言葉に笑った。

「俺も。なんか未だに、実感ないし。でもお陰様で受験は詰んだ。完全にヤバい。予備校辞めたし、宿題しかしてない」

 俺が言うと、柏木が再び「ロックだねぇ〜」と言った。真宏は「俺はなんもなかったけど、寝てたら夏休み終わったなー」と言った。

 柏木は「お前のはロックじゃない」と苦笑した。

 始業式が終わり、教室で九月以降の色々な日程が確認された。模擬試験の予定や、センター試験対策の休日講習会について。

 教室全体は、少し張り詰めた空気を宿していて、居心地が悪かった。皆、真剣な顔をして、手帳にメモを取ったり、参考書を睨んだりしている。

 俺は担任の話しをボーっと聞きながら、窓の外を見ていた。俺は窓際の、真ん中あたりの席。廊下側の席の一番前、真宏が担任にペンっと頭を叩かれた。

「加美長、初日から堂々と寝るな」

「ぅいー」

 やる気のない真宏の声が小さく響いて、教室に少し笑いがこぼれた。俺も、笑った。

 日常の空気は、そこにあるだけで、尊いものなのだと、ぼんやり思った。

(なんもなくて、ちょっと退屈なくらいが、一番平和かも……)

 休み時間、俺と真宏は柏木に宿題を見て貰った。真宏は、宿題さえも半分ほどしか終わらせていなかった。

「キミはせめて、友人のノートを写してやろう、くらいの気概を見せなさいよぉ」

 柏木が呆れた声を出した。

「写すのさえ怠い……」

 真宏は、目を細めて神妙な顔で言った。

「なんでそこでそういう真面目な顔をするかね。どう思うよ湊くん」

「いやぁ、真宏が柏木のノート写したら、どうせ一発でバレるだろーよ」

 俺はまた、笑った。

「えー?じゃぁバレないように湊のノートにしとけ、真宏!」

「はい、聞き捨てならないですねー」

 俺が言うと、柏木がカラカラ笑った。真宏も笑って「だから、写すのだりーって。どっちか、写しといて」と言った。

 柏木が結構な力で真宏の頭をペイッと叩いた。

「空っぽな音がしたぜ、ロックだな」

「いや、今ので更に脳細胞死んだよね。責任とって写しといて柏木くん」

 真宏は、またもや真剣な顔をして言った。俺が、ふふっと笑うと、柏木が、今度は俺の頭をくちゃくちゃに混ぜ撫でた。クシャクシャに乱れた髪を見て、真宏が「ロックじゃーん」と言って緩く笑った。

 学校が終わって、家に帰ると、なんだか家がガランとして見えた。

 母と父は仕事に行っている。夏休み中、ずっと祖父母宅に通っていたせいか、自分の家なのに、なんだか変な気持ちになった。

 夏中ずっと一緒にいた千翼さんの姿が見えないのも、不思議だった。俺が玄関をあけると、いつもヒョコッと顔をだして、「みー、おかえりー」とか、「みー、おはよー」とか、笑っていた千翼さんだ。

(なんか、毒されてる気がする……)

 俺は思った。学校で、いつもの友達に再会したからだろうか。現実と夢がゴチャゴチャに絡み合っているみたいな、そんな気分。

 自分が、今、どこに立っているのか、自分が一体、何者なのか。そういう土台みたいな部分が、曖昧になっていて、心が宙に浮いている。

 俺は自分の部屋に行って、荷物を置き、制服を脱いだ。部屋着に着替える。

(制服、ちょっと小さくなったって、母さんに言うべきか……でも、あと半年くらいで卒業だしな……)

 卒業、という言葉が、まだ、他人事のようだ。

(受験、どうすんだろ、俺……)

 卒業してしまったら、どうなるのだろう。

(俺は、どこに、行くんだろう……)

 急に、よくわからない不安が胸に広がった。机の上には、夏休み中にやる予定だった、志望校の過去問題集などが詰んである。一度もページを開くことなく、夏は終わってしまった。

 勉強机の前に座って、そっと、問題集の冷たい表紙を撫でる。

(千翼さん……今日、ばぁちゃんちにいるのかな……)

 九月になって、スズさんと千翼さんは、横浜の自宅に戻った。

 スズさんは横浜でバーを経営している。八月の終わり頃まで、お店はお休みにしていたそうだが。最近は、午前中に祖母宅へやって来て、夕方になると横浜へ戻ってお店を開いているらしい。

 千翼さんはと言えば、相変わらずのマイペースで。スズさんと一緒に横浜へ帰る日もあれば、祖母宅に泊まっている日もあるようだった。

(連絡、してみようかな……ばぁちゃんち、いるなら、会いに……)

 そこまで考えて、ん?と疑問符が浮かんだ。

「別に、用事は、ないな……」

 会って、どうしようというのだろうか。

「はぁ……」

 ため息が漏れた。俺は、一人っ子として生まれ育ったので、ひとりで過ごすことには、なんの抵抗も不安もない。むしろ、ひとりの時間を大事にしたいタイプである。

(この夏休みが、賑やかすぎたんだ……)

 千翼さんがやたらとくっついて、構い倒してきたせいで。なんだかひとりでいる、この静けさが、落ち着かなくなってしまった。

 茹だるような酷暑の中、常に近くに他人の体温があった。嘘みたいな現実だ。

(そういえば……)

 俺は思う。今までずっと、四十八年間、一人っ子だった母は。唐突に弟が出来たことを、どう思ったのだろう。それも、二十八歳も年下の弟だ。

(実は兄弟がいましたー、って言われたら、俺なら、どう思うだろ……)

 嬉しいような、いや、でもやっぱり嫌かもしれない。今まで全部、全部自分のものだったのに。兄弟がいれば、半分こになってしまう。

(いや、歳が離れすぎてれば、そんなことは……)

 考えないかな、とも思ったけれど、そうでもないかもしれない。

(愛情が……)

 考えて、自分でも少し気持ち悪いな、と思ったけれど。スズさんと千翼さんのことを知った時。確かに俺は、じぃちゃんの、祖父の愛情が、分散されたような、そんな気持ちになって、少し、寂しかった。

「そう思うと、ばぁちゃんとスズさん、うまくやれてるの、すげぇよなぁ……」

 オトナになると、そういう度量というか、心の許容量みたいなものが、大きくなっていくものだろうか。

(四十九日には、千翼さんも来るよな、きっと……)

 俺は、グンと伸びをして、仰け反るような体勢で、壁にかかったカレンダーを見た。

 九月の二週目の土曜日、四十九日の法要をする予定になっている。四十九日って、どんなことするんだろう、そう思って、俺は携帯を開いた。検索をしようと思ったのだが。

 携帯を開いたら、千翼さんからガンガンに連絡が来ていて、驚いた。何事か、と思ってメッセージを開けば、

「みーが学校でめっちゃ暇だよーー」

 というような内容ばかりで、笑ってしまった。散歩にでも出掛けたのだろうか、外の風景の写真や、野良猫とのツーショット写真。それに今日のおやつ、などが送られて来ていた。

「絵日記かよ」

 思わず、そう呟いてしまう。

(相当、暇してるな……)

 わかっている、本当は、暇ではないのだ。

 書斎の整理整頓は、結局夏には終わらなかった。やるべき事はある、けれど、やりたくないのだろう。

(俺が受験勉強しないのも、そんな感じ……)

 見ないようにしている、ような、感覚。勉強するのが嫌なわけではない。

 なんだか、気持ちが、そっちに寄り添えないような、そういう、あんまりにもそぐわない感じというか。

「人はそれを、逃げ、というものかねぇ……」

 俺は、天井を見上げた。情けないような、切ないような、虚しいような。

 胸にスースーと穴があいている。呼吸するたびに、体に風が通っているような感じがする。

 深い呼吸を繰り返しても、空気が入っていかないような。

 俺は、携帯の連絡先から千翼さんの番号を開いた。開いたけれど、やっぱり閉じた。

「はぁー……」

 久しぶりの登校だったからだろうか、体がグッタリ疲れた気がした。俺は立ち上がって、ベッドに向かって転がるようにダイブした。

 目は冴えている。眠くはない。けれど、目を閉じた。

(しんどい……)

 なにが、しんどいのかは、わからないけれど。

 *

 学校がはじまって、四日目のことだった。

 俺はいつも通りの時間に家を出て、いつものように、柏木と真宏に会った。別に、待ち合わせをしていたわけではない。毎日のように、たまたま、会う。

「はよ」

 眠気をはらんだ声で、挨拶を交わす。

 ブラブラと学校までの道を歩いていると。曲がり角から唐突に、人影が出て来て、立ちはだかった。

 俺たち三人の前、対面になるかたちで、ドンと胸を張り、腰に両手をあてている。

「……千翼さん、」

 俺は、まばたきを三回してから、ボソッと声をだした。

「声が小さい!!」

 千翼さんは言った。その言いぐさは、まるで祖父そのもののようで、俺は一瞬、胸の奥がギュッとなった。

「なになに、誰?」

 柏木が興味深そうに千翼さんと俺を交互に見た。真宏がふぁっ、とあくびをする。

「みーってば、なんで全然返信くれないの!?めっちゃ連絡してんのに!香子さんの家にも来てくれないし!なんで!?オレ、つまんないんですけどっ!?」

 千翼さんは、真面目にご立腹のようで、綺麗に整えられている眉をキッと上げている。

「なに、湊、みーって呼ばれてんの?かわいーね、猫かよ」

 真宏が笑った。俺は、耳の裏側が熱い。真宏のわき腹を肘で小突いた。

「千翼さん、絵日記みたいなの送られてきても、なんて返せばいいか、わかんないっすよ」

 俺は言った。千翼さんは「絵日記じゃねーし!」と、まだ怒っている。

「既読スルーはモテないぞっ!」

 千翼さんは言った。

「すんません」

 俺は、素直に謝る。謝るより他に、なにを言えば良いのか、わからなかった。

「ね、ね、誰よ、湊、知り合い?」

 柏木が言った。俺は、苦い顔をする。なんと説明して良いか、謎だった。祖父の愛人の息子、というのは、なんだろうか。

「親戚、みたいな……?青山千翼さん」

 俺が紹介すると、柏木は「ロックな髪型してるなぁ〜」と言った。

 千翼さんは、その言葉に、やっと怒った顔をやめた。嬉しそうに「でしょ?わかっとるね、そっちの君!」と言って、襟足の尻尾をサラッと右手で撫でた。

「千翼さん、今日、帰り、ばぁちゃんの家、寄りますから……俺ら、これから学校だし」

「いいじゃん、サボっちゃいなよ」

 千翼さんはサラリと言った。

「みー、全然行きたそうな顔してないし」

 俺は、なんだか頭の中が、もやもやした。薄灰色のガーゼみたいなもので、脳味噌をくるまれたような。なんとも言えぬ、曖昧な感覚。図星を指されたような、そうでないような。

「行きたい行きたくないとか、そういうんじゃないでしょう、学校は」

 俺は言った。千翼さんは、眉根を寄せて、わからないという顔をする。

「行きたい、行きたくない、じゃなかったら、なんなの?」

 千翼さんの問いに、俺は、また頭の中が混乱する。

「いや、普通、行くでしょ」

「普通?ってなんの普通?誰の普通?みーの中の普通?」

 千翼さんは、意地悪ではなく、ただ興味深そうに言った。俺は、なんと答えようか、考える。世間一般で言うところの普通、とか、常識的には、とか言ったところで、通用しそうにない。

 真宏が「おもしれぇー人だね」と、ポツンと呟いた。

「ねぇー、学校なんて良いからオレと遊ぼうよー、暇だよー」

 千翼さんは言った。俺が「ワガママ」と言うと、彼はニッと笑った。

「ワガママは良いことさ!我がままに生きることこそ、人の本分である!」

 その言葉は、どこかで聞いたことのあるものだった。どこか、なんてのは、ひとつしかない。これも祖父のよく言っていた言葉だ。

 俺が長く細いため息をつくと、横にいた柏木が、そっと言った。

「ここで俺が、高校の学費を支払っているのは親だから、通わせて貰っている身分の俺らは、行くとか行かないとか、そういったことを決める権利は持っていないのではないか?っていう発言をするのは、やっぱり野暮かな?」

 内緒話の声だ。柏木の声に、真宏が「それは野暮でしょう、柏木くん」と答えた。ロックじゃねぇよ、と付け加えて。

「青木さんだっけ?」

 真宏が言った。

「青山さんだ」

 柏木が言った。

 真宏は「あー」と、間延びした声を出す。

「青山さんは、アレでしょ?湊を連れて行きたいんでしょ?で、湊はあんまり学校行く気分でもねーんでしょう?じゃぁ、いいんじゃん。せんせーにはなんとなく、うまく言っとく」

 真宏の言葉に、柏木が笑った。

「湊、真宏のうまく言っとくは信用するなよ。ぜってーうまく言わないから」

「じゃぁ、柏木うまく言って」

 真宏は、柏木の言葉に全く気分を害することなく、笑って言った。柏木は、やれやれ、と大袈裟に言って「仕方ないですねぇ〜」と笑った。

「湊がマジなら、うまく言っとくさ」

 友達二人になんだか背中を押されている。だが、肝心の俺は、どうしたいのか、よくわからない。俺が黙って、微妙な顔をしていると、千翼さん含む三人の視線が痛い。

 どうするの、どうするの、という目だ。

(いや、俺にどうしろっての……)

 全く、困った連中だ、と思うけれど、一番困ったヤツなのは、俺自身だ。

 どうしたいのか、なにがしたいのか、全然わからない。

「真面目すぎか、湊」

 真宏が言った。

「夏休み中に出来た美人の彼氏が、遊んで欲しいって言ってんだ。これをスルーしちゃぁ、ダメじゃないの?」

 にやにやとして、俺を横目に見てくる。柏木が「え、そうなの?!」と、素直に驚いた。

「いやいや、なんでだよ」

 俺は、真宏がどうしてそういう思考になったのか、見当も付かない。千翼さんが嬉しそうに「彼氏だって〜」と言った。言うまでもなく、男同士だ。なにが嬉しいのか。

「親戚だってば」

 俺が言うと、真宏は「あー、そうだっけね」と言った。そして、ふわっと、付け加える程度に、

「青なんちゃらさんが来たとき、湊が珍しくさ、随分、嬉しそうな顔したから、そういうアレなのかと思った」

「青山さんな。いい加減、その頭の容量どうにかせんかね、受験生よ……そのくせ、発想力はワールドワイド!昨今のジェンダーレス社会よ、男女の区別なんてのぁ、もう古い……ロックな世の中さ」

 柏木は独特の声色で、演説のように言った。

俺は、自分が嬉しそうな顔をしたという自覚がない。

 けれど、ここ数日、千翼さんの絵日記みたいなメッセージを繰り返し読んでいたことは間違いないし、携帯を開く度に、連絡をしようか、迷っていたのも事実だ。

 会いたかったのかもしれない、という、ひとつの可能性が、俺の中で小さく光っている。

「ってか、俺ら遅刻するから、先行く」

 真宏が言った。普段、遅刻など微塵も気にしないくせに。

「まぁ、そういうことだ、湊くん。何処へなりとも、来るも来ないも、行くも行かぬも君次第!ロックな決断を祈る!」

 柏木までそんなことを言って。二人はさっさと歩いていってしまった。

 残された俺と千翼さん。千翼さんは、完全に勝った!という顔をしている。

「いや、そんな誇らしげな顔をされても……」

 俺が渋るのを、さっぱり無視して、千翼さんは、

「どこ行く!?どこ行こっか!?」

 と、俺の右腕を掴んで、ぶんぶん揺らした。俺は夏の間、伸ばしっぱなしになっていた前髪を、左手で引っ張る。そうすると、目の前にカーテンが掛かっているような、即席の暗がりが出来て、ほんの少し、落ち着くのだ。

「みー、目ぇ悪くするよ?」

 千翼さんは、俺の顔を下から覗き込むようにして言った。俺と目が合うと、千尋さんは、ニッと笑う。

 長い睫に縁取られた、茶色の瞳が、キラキラと見つめてくる。

 俺はとうとう、降参だと思った。

「とりあえず、家、行きましょう」

 俺は言った。制服のままウロウロするのは、さすがにマズい。千翼さんは楽しそうに「行く行く!」と言った。

「みーの家、行ってみたいって思ってた!」

「マンションだし、普通の家ですよ。ばぁちゃんちよりも全然狭いし」

 千翼さんは、

「オレんちも狭いよー、香子さんのうちが特別に広いんだって」

 と言って笑った。

「……っていうか、母さんたちに、なんて言い訳しよ……」

 真宏はアテにしないとして、柏木なら、多分、先生にうまいこと説明してくれるだろう。だが、学校から保護者に連絡を入れられたら、一発でバレる。

 どうにかして理由をつけて、母に今日休むことを伝えなくてはならない。

 俺が携帯を開いて、低く唸ると、千翼さんは、

「やっぱり香子さんの家、行こ!」

 そう言って、俺の手を引っ張った。

「え、なんで」

「空子さん説得するより、香子さんに言った方が絶対早いと思うから」

 千翼さんは笑った。

(……確かに)

 母より祖母の方が、ずっと難易度が低い。

「っていうか、みー、ほんと真面目。学校サボるくらいでなんだよー、そんな真剣な顔しちゃってさ〜」

やっぱ、孫の代になっちゃうと、血筋は薄まっちゃうのかなー?顔はそっくりなのにね!

 千翼さんは、歌うように大きな声で言った。まるで悪気なんてない声だから、俺も腹が立ったりはしないけれど。なんだか寂しく、切ない気がした。俺の中に流れる祖父の血は、やっぱり薄いのだろうか。

(顔立ちばっかり似てもなぁ……)

 そんなのは、ちっとも意味がないみたいに感じられた。千翼さんは、正しいと思う。学校をサボることくらいで、一体なんだと言うのだろうか。学校をサボることくらいで、どうして俺は、こんなに気合いを使わないといけないのだろうか。

 どうしてこんなに、諦めた、みたいな、仕方なく、みたいな気持ちになって、千翼さんのせいにしようとしているのだろうか。どうして、自分の意志で、動けないのだろうか。

(情けな……)

 俺は千翼さんに引かれる腕を見つめて、その腕を、まるで祖父のもののように思った。

 俺は、千翼さんが羨ましい。あの人の子供である、千翼さんが、羨ましい。俺より近い位置で、色濃く、祖父の血を継いでいる千翼さんが、羨ましい。

 祖母の家に着くと、千翼さんは玄関で大きく、

「ただいまぁー!」

 と、叫んだ。千翼さんに負けないくらいの声で、祖母が「おかえりー」と言ったので、俺はそれに驚いた。

 元々、元気で強い女性ではあるが、ここ最近、更に元気になっている気がする。祖母が廊下を歩いて玄関に顔を出した。そして、

「あれまぁ」

 と言って、笑った。

「湊もおかえり」

 祖母はニヤニヤと、目を細めている。千翼さんは言った。

「学校行くとこ、連行してきちゃった。ねぇ、今日からしばらく、みーは学校お休みでもいーでしょ?」

「しばらくってなんですか」

 俺はすぐさま、文句を言う。今日だけの話にして欲しい。そして、言った後に、やっぱり俺は真面目でつまらない人間だなぁ、と思った。

 学校には行くものだと思っているし、宿題はするものだと思っている。ついでに受験勉強もするべきだと思っている。けれど、これに関しては、どうしてか出来ていない。

 出来ていない罪悪感が、腹の底でグルグル渦を巻いて、重くなってきているところだ。祖母は言った。

「とりあえず、あがっていらっしゃい。羊羹あるよ」

「食べる!!」

 千翼さんがハーイと手を上げて、答えた。朝から羊羹。さっき、朝食をとったばかりなのに。

 食べられなくはないけれど、なんだかそれは、ものすごく非日常だと俺は思った。

 リビングで、熱いお茶と羊羹をもらった。祖母は、俺たちの対面に座って、ニコニコしている。

 上品に切られた羊羹は、有名な店のものらしい。仏前に供えるために、ご近所さんがくれたものだと祖母は言った。祖父は甘いものが好きだった。

「今週末、あの人の四十九日の法要だから、とりあえず、それまでには帰ってきてね」

 俺が学校を休むことを、祖母は、なんてことないように許可した。あまりにサッパリと言うものだから、俺はひっくり返った声で、

「え、いいの?」

 と言った。祖母は笑う。

「学校くらい、なんてことない。それより大事なことがあったりするし、なかったりする。まぁ、そんなの、どうでもいいのよ」

「テキトーだな……」

 俺が呟くと、祖母は、

「テキトーくらいの気持ちじゃないと、もうやってらんないでしょ、私の人生、あの人に出会ってから、ずーっとそうだったよ」

もう死んじゃったっていうのに、酷い話よね、テキトーは、すっかり私の板についちゃった

 千翼さんが「香子さん、すてきだ」と言った。俺も、そう思う。祖母は、当然よ、と笑って言った。

「空子には私から連絡しといてあげる。湊も、たまには好きにしなさいな。あんたは父さんに似て、ちょっと真面目すぎる。あと千翼、あんたも父親に似て、ちょっと自由すぎる。あんまり湊を困らせないこと。いいね?」

 千翼さんは、キョトンとした顔をして、俺を見た。

「みー、さっき困った?」

 千翼さんは、困らせている自覚がないのかもしれない。それとも、しらばっくれているだけかもしれない。

「困りましたね、友達もいたし」

 俺は正直に言った。千翼さんは思い出して、笑った。

「オレ、みーの彼氏だってね。おもしろい友達」

「後日、丁寧に訂正しておきます」

 俺が言うと、千翼さんは「別にいーよ、彼氏で」と楽しげに言った。

「それで、二人はどこに行くのさ」

 祖母は、俺たちの会話を穏やかに聞きながら言った。

「まだ決めてないー。みーは行きたいとこ、どっかある?」

「……突然言われても……」

 俺の中で、遊ぶという事柄のレパートリーは非常に少ない。友達といつも何をしているかと言えば、だいたいダラダラと喋っているか、カラオケか、ボーリングか、ゲームセンターか……思えば、ただ一緒にいるだけ、みたいな時間がとても多い。

 どこかに行く、という思考が、最初からあまりないのだ。

「えー、じゃぁ、横浜行く?オレの地元」

 千翼さんが言った。

「あら、良いわねぇ」

 祖母が言った。

「香子さんも一緒に来る?」

 千翼さんが言うと、祖母は「また今度にするよ」と言った。そして、俺と千翼さんを交互に見つめて、

「ちょっと待ってね」

 と言って、立ち上がった。祖母は、祖父の部屋へと入っていく。なんだろうと思っていると、祖母はすぐにリビングへ戻ってきた。

 テーブルに、二つの封筒がそっと置かれた。なんでもない茶封筒、その表面には、見覚えのある筆跡。

 ひとつの封筒には「湊へ」と書いてある。

 もうひとつには「千翼へ」と書いてある。

 名前の横には、同じ文言で「好きに使え」と。

「これ、父さんの字だね」

 千翼さんが言った。

 俺も、祖父の字だとすぐにわかった。祖父は、その性格からは考えられないほど、丁寧に、文字を書く人だった。きれいで、読みやすい字を。

「前に、空子が洋服ダンスひっくり返してたら、へそくりが出てきたって話したでしょう?これも、洋服の間から出てきたの。渡しておくわね」

 祖母が言った。千翼さんは、封筒を眺めて、それから指先で、そっと表面を撫でて。

「あけていい?」

 と、祖母に尋ねた。祖母が頷くのを見届けてから、千翼さんが封筒の口をひらいた。

「……十万はいってる」

 千翼さんが言った。俺は、その封筒を触るのが、怖かった。祖父の筆跡が目の前にあることが、不思議に思えた。

 祖母が静かな顔で笑った。

「私と空子とスズさんの分の封筒もあってね、金の指輪が入ってた。気に入らなかったら売って金にしろって書いてあった。でもね、気に入る気に入らないの前に、サイズが全然あってなくて、誰も着けられなかったのよ。女三人で笑っちゃった。あとは湊のお父さんへの封筒。イタリア製の万年筆が入ってたみたい。男への贈り物はわからん、すまんって。宝探しみたいだったわ。あの人、自分が死ぬこと、わかってたのかもね」

 祖母の言葉に、俺はこの封筒を用意している祖父の姿を想像した。きっと悪戯をする子供のような顔で、準備をしたに違いない。

 けれど、自分が死ぬことを想定したのだとしたら、それは痛く切ない作業だ。千翼さんが、祖母の顔をじっと見て言った。

「死ぬことは、誰だって知ってるよ」

生きているんだから、必ず死ぬよ、それはみんな、知ってることだよ

 祖母は、一瞬だけハッとした顔をしたけれど、すぐに目を細めて笑った。

「千翼は賢いね。その通りだ。いつの間にか、忘れちゃっていたよ」

 祖母は、そうだったね、そうだったね、と何度か小さく繰り返した。

 千翼さんは、隣に座っていた俺を見て、言った。

「だからね、生きているうちは、自分に正直でいないと、もったいないって思う。だからオレは自由に生きるつもりなんだ。好きなように時間を使うし、好きな人となるべく一緒にいるし、縛られたりしない。あと、生きている間、好きな人のことは、ずっと大事にする」

 大事にする、という言葉を紡ぎながら、千翼さんは俺の手に軽く触れた。俺の心臓が、一瞬大きく脈打った。千翼さんの手は、俺の手を軽く握って、そのままテーブルにある封筒の上へ持っていった。

「みーもあけなよ。大事なもんでしょう?ちゃんと受け取らないと」

 俺は、手の甲に触れている千翼さんの体温に、縋るような気持ちになった。今だけは、手を、離さないで欲しかった。

 けれど、俺の想いは届かない。千翼さんの手は、そっと離れていく。

 取り残された手は、封筒に触れているだけで、なかなか動けない。胸が詰まるような、呼吸が苦しいような気分だった。

 祖母が言った。

「そのお金使って、二人で自由にしてみるといいよ。横浜でもいいし、もっと遠くでもいい。好きなところに行って、好きなように過ごして、四十九日までに戻っておいで」

 俺は、このお金を、そんなことに、使っていいものだろうか、と考えた。もっと、なにか、必要なところで使うべきなのではないか。

(大学の、学費の足しにする、とか……いや、違うか……なんか、困っている人に、寄付する、とか……?)

 俺は、もの凄く重いものを、指先だけで持ち上げるような気持ちで、封筒を手に取った。中には、千翼さんと同じだけの額が入っていた。

 心臓が、ジンジンした。

 頭の中がごちゃごちゃになって、どこか遠くへ行きたいと思った。整理する時間が欲しい。この、どうしようもなく宙ぶらりんになってしまっている、感情の置き所を。

 自分が何をしたいのか、何を感じているのか、一体、今、自分は、どこを生きているのか。

 時間が欲しい。

 叫びだしたいような、衝動にかられる。胸がモヤモヤして、その霧を晴らすために、叫び散らしたい。

「みー、遊びに行こう。そのためのお金だってオレは思うな」

 千翼さんが言った。

 俺は、無言で小さく何回か頷いて、それから「はい」と言った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ