『本当にご夫人たちは仲がよろしいですよね』
タモンはビャグンの街には一晩泊まっただけで、翌朝にはすぐに南ヒイロ帝国に向けて出立しようと準備を進めていた。
夫人たちが合流したこともあり、馬車も警備の兵も格段に増えてビャグンの街の中心にあるマジョリー宅に人が集まり慌ただしく人が行き来している。
「エミリエンヌ様。先日は取り乱してしまい申し訳ありませんでした」
馬車に荷物と人を載せている喧騒の中で、イリーナは深々とエミリエンヌに対して頭を下げていた。
(今日はずいぶん落ち着いて、余裕があるように見えますね)
エミリエンヌは十歳以上も年下のイリーナをじっくり観察する。
(タモン陛下が子どもに手を出すことはないでしょうけれど、ご機嫌をとるために一晩ずっと一緒だったというところでしょうか)
おそらく予想通りだと思うのだけれど、自分でも良くわからないくらいに心がざわついているのも感じていいた。
改めてじっくりと見てみれば、さすがの風格と振る舞い。礼儀正しくも可憐な容姿が愛らしい幼い女の子にしか見えない。
しかし、エミリエンヌはどう扱っていいのか困りながら笑顔で応じていた。
そもそも彼女は皇女殿下で、頭を下げさせるなどということがエミリエンヌにとっても恐れ多いということがある。
今は、南ヒイロ帝国から離れていると言っても、やはりがあればその影響力は計り知れなかった。それに、今は皇女ではないなどと言っても、北ヒイロの王の嫁ではある。
(やはり、どこか怖いですね……)
皇帝の血筋に生まれた威厳というものを感じていた。
そしてやはり先日の迫力のある鋭い声と視線がエミリエンヌにわずかな恐怖を与えていた。戦場で数万の敵と相対しても先頭で全く怯むことのないエミリエンヌが怯えていると言ってよかった。
「私のことは先輩と呼んでください。頼りにしてくだされば嬉しいです」
小さな女の子が胸に手を当てながら、遥かに背が高く一回り以上も年上のエミリエンヌに対してそう宣言した。
「え……あ、はい」
意味がわからずに困惑していたが、しばらくしてどうやら後宮に入るという話を受けての発言だとやっと気がついた。
「あ、いえ。私は……あの……タモン陛下の妻になるわけではありませんので……」
何となく雰囲気に流されて、握手までして承諾するところだった。自分としてはそんなつもりはないと……ないと思いますとエミリエンヌらしからぬ歯切れの悪い言葉で説明していた。
「あら。そうなのですね」
イリーナは意外そうな表情を浮かべた。
無理に強気の演技をしていたという自覚はあるのだろう。力を抜いたイリーナだったが、この小さな女の子はエミリエンヌの本音を探るかのようにじっと見上げた視線でみつめていた。
「分かりました。では、タモン陛下を支えていただけるようお願いいたします」
「あ、いえ。私は……」
配下に加わるわけではない。そこは否定しなくてはという思いがあるのと同時にタモンを支えたいとは思っているので返事に困ってしまった。
「よろしくお願いしますね」
「は、はい」
にっこりと笑うイリーナに思わず頷いてしまうエミリエンヌだった。
返事に悩むとかそれ以前に、幼女のにこやかな笑みにエミリエンヌが気圧されたままだったけれど、そんな様子を気にもとめずにイリーナは振り返って馬車へ向かって歩いていった。
エミリエンヌは少し緊張から解き放たれて、やっと身も心も楽になっていた。
「どうしました? 私たちが心配でしたか?」
エミリエンヌは少し後ろで見ていたタモンの気配を察して声をかける。
タモンは、『あ、気がついていた?』とでも言うように大きな木の幹からひょっこりと顔を出してエミリエンヌに並んだ。
「イリーナ様は、一晩でずいぶんと上機嫌になりましたね」
エミリエンヌは、馬車に乗り込むイリーナを見送りながらそうつぶやく。
「あはは。うん、まあ、よかったよ」
笑いながら、タモンはエミリエンヌの背中にそっと手をまわした。
(もしかして、拗ねているように聞こえてしまったでしょうか)
エミリエンヌは先程の自分の発言を思い出しながら、現在のタモンの態度を考えてみると恥ずかしい気持ちになってきてしまう。
『昨晩は、あの娘を可愛がっていたのですね。そうですか』と拗ねている自分を、タモン陛下が低姿勢で機嫌をとっているように周囲には見えてしまうかもしれない。
(まあ、でも、その通りかもしれませんね……)
実際には自分は嫉妬して拗ねているのかもしれないとエミリエンヌは冷静になる。今まで毎日、面倒なくらいに通ってもらっていたのに、今は綺麗な夫人たちに捕まってしまっているタモンを見て過ごす時間が多くなり、寂しいという気持ちもあるのかもしれないと思う。
(でも、悪い気はしませんよね……)
今、エミリエンヌの機嫌をとろうとしているタモンの姿を見てちょっとだけ優越感のようなものを感じていた。
「タモン殿も色々なところに気を使って、大変ですね」
タモンの方に振り返って、エミリエンヌはそう軽い調子でささやいた。
「エミリエンヌに比べれば、全然、楽な立場ですよ」
少しからかったつもりのエミリエンヌだったけれど、優しい口調で同情するように言われてしまう。それはその通りで夫人たちの間をあっちにいったりこっちにいったりしてご機嫌をとっているのとは、次元が違う悩みをエミリエンヌは抱えていた。
「こういう話ができるのが、いいのかもしれませんね」
タモンはぼそりとつぶやいた。
夫人たちには話せないことも自分には相談できると言われて、エミリエンヌも少し落ち込んでいた気分が一気に晴れるのを感じていた。
「旦那さま!」
そう声をかけて屋敷から飛び出してきたのは、マジョリー夫人だった。
もっとタモンに近づこうかと思っていたエミリエンヌは、びくりと慌てて横へとずれた。
「私も帝国へ行きますわ」
マジョリーは力強く宣言した。
マジョリーは先日のドレス姿などとは違い、パンツ姿に上着は膝の部分までふわりと広がっていたけれど前後で大きく割れていて騎乗だってなんなくこなせそうな姿だった。
肌の露出は少なく格好良い姿なのに、やはり可憐な美しさを感じてエミリエンヌは思わず見とれてしまう。
しかし、そんな視線には慣れているのかマジョリーはエミリエンヌの方を向くこともなくタモンの真正面まで歩いていった。
「マジョリー。大丈夫なの?」
タモンはちょっと不安そうな視線を屋敷の方に向けていた。
「うちの親は心配ですけれど……監視もつけておきました」
マジョリーは笑顔でそう言った。
タモンの後ろからエミリエンヌは、その様子を見てしばらく考え込んでいた。
『心配です』という言葉が『何か余計なことをしでかさないか心配です』という意味だと理解するのにはしばらくの時間がかかった。
「それに私だけ留守番なんて寂しいですから」
マジョリーはタモンに片手を触れながらそう言った。
少し後ろで見ているだけのエミリエンヌも、マジョリーがタモンに向けたその視線に思わずどきりとしてしまっていた。
(なるほど、『誘惑』とはこうして行うものなのですね……)
素直にエミリエンヌは感心していた。
照れすぎて壁があるわけではない。だからといって媚びているようにも見えない気さくな距離感……と思わせておいて、一気にタモンの懐に入って仕留めるようにようにそっと手をタモンの腕に重ねて、寂しがる甘えた上目遣いで見つめていた。
(まあ、私にあんなこと真似できるわけがないですが……)
「お任せください。すでに根回しは済んでおります。帝国の社交界をこちらの味方にしてみせます」
マジョリーは胸を叩いて力強くタモンに宣言する。
「はは……なんか、マジョリーも言い方がエレナみたいになってきたね」
「エレナお姉さまみたいと言われるのはなんか癪ですわ」
嫌でそっぽを向くような仕草をしたけれど、笑顔だった。エレナみたいだと言われるのも本当は嫌ではなさそうだとあまり深くは知らないエミリエンヌにも伝わってきていた。
「エミリエンヌ様も、どうぞよろしくお願いします。一緒にタモン様を支えていきましょう」
ふいにマジョリーはタモンの後ろにいたエミリエンヌに握手を求めて手を伸ばしていた。
エミリエンヌは面食らっていた。
自分のことは相手にされていない。もしくはわざと無視しているのだと思っていた。
それだけに、この笑顔には抵抗しづらい。
おずおずとエミリエンヌも手を伸ばして、握手を交わした。
「よろしくお願いします」
「それでは出発いたしましょう」
エレナは、馬車に乗り込むとそう宣言した。
走り出す馬車からエレナは見送ってくれる人たちににこやかに手を振って挨拶をしていた。ここはマジョリーの邸宅なのだが、エレナはまるで自分の家であるかのようにねぎらっていた。
エレナの隣にはタモンが座り、反対側にはマジョリーが当然のように座っていた。
三人とも少し狭いと思いながらも、これはいつもの座り方で何も疑問は感じない。久しぶりなので嬉しくさえなってしまうのだが……。
「イリーナちゃん。いくらなんでもそこは特等席が過ぎるのでないかしら」
エレナはかなり怒気を孕んだ声でイリーナに文句を言う。タモンの膝の上に座っているイリーナは特に恐縮したようすもなく受け流していた。
「私だけ反対側なんて寂しいですから」
イリーナのその言葉に、エレナはむっとしていたし、マジョリーも少し困った顔をしていた。
(助け舟を出したのは失敗だったでしょうか……)
エレナとマジョリーはタモンの背中越しに目を合わせてそんなことを考えていた。
今まではとても大人しくてエレナたちにも従順だったイリーナだったけれど、どうも今朝からはタモンの近くにいることを譲ろうとはしない。
その点に関してはかなり強情になっていると二人の正妻も困った顔をしていた。
「まあ、イリーナちゃんごと可愛がればいいんですよ」
マジョリーは難しいことを考えるのを諦めたかのように、膝の上にのっているイリーナに左手を伸ばして右手はタモンの背中に伸ばして二人まとめて抱きしめた。
「きゃっ」
可愛らしいイリーナの悲鳴に、エレナも少し不服そうながらもマジョリーの真似をして二人をまとめて抱きしめていた。
「本当にご夫人たちは仲がよろしいですよね」
エミリエンヌはその様子を後ろの馬車から眺めてしまい。ぼそりとつぶやいた。
ずっと全てが見えるわけではないので、最終的に四人がくっついている光景だけを見てそれがいつもの光景なのだと思ってしまう。
タモンたちに続く馬車には、エミリエンヌの他にはエリシア宰相が乗っているだけだった。
エミリエンヌの存在をなるべく秘密にしておきたいと思慮した結果、お目付け役としてエリシア宰相が同席している。問題はなぜかエリシアはエミリエンヌには冷たい態度だということだった。
元々やや気まずい空気の馬車は、さらに緊張度を増してしまったような気がしてエミリエンヌは後悔していた。
「そうですね。ニビーロでもありえないですか?」
それまで馬車に乗り込んでからは一言も喋らなかったエリシアは、わずかに笑みを浮かべて答えていた。
「……はい。ニビーロ国王陛下の周囲は皆、仲悪そうです」
ついまた余計なことを言ってしまったと思うエミリエンヌだった。
「その……南ヒイロ帝国と共に攻め込むように説得するためにご夫人たちもご一緒に向かわれているのでしょうか?」
「はい。ご夫人たちはすごいですからね」
エミリエンヌが気まずさから少し話題を変えたいと思って言った言葉に、エリシアはにこりと笑って答えた。
「エミリエンヌ様にももちろん、協力していただきますよ」
「え、はい。分かっております」
エリシアの鋭くなった視線に怖いものを感じて何事だろうと思ったけれど、帝国の主戦派が勝つように協力しろという当初からの話なのだとすぐに理解した。エミリエンヌとしては自分が何かの役に立つのかは分からなかったが、そこは一度、協力すると言った以上はできるかぎりのことはする覚悟を固める。
「それでは」
エリシアは馬車内で腰をかがめながら立ち上がると、エミリエンヌの方の席にやってきて隣に座った。
「まずは、脱いでいただきましょうか」
耳元でエリシアは囁いた。




