帰国の相談
「捕虜交換で返そうと思う」
いつもの公務を行う部屋で、タモンは窓際の椅子に座って風に吹かれながらそう言った。
タモンのその言葉に、宰相エリシアは普段は冷静な彼女らしくもなく珍しく思いっきり嫌な顔をしていた。
「エミリエンヌ様のお話ですよね? 交換するような捕虜もいないと思いまが……」
タモンの意図は分かってはいるが、エリシアとしては確認しないわけにはいかなかった。
「シュウたちが最初の方の戦いで捕まったままだ」
「それはそうですが、エミリエンヌ殿と釣り合いがとれるほどだとは思えません……」
シュウはミハトの第一の部下だった。突撃隊長と言っていい彼女は、初戦でエミリエンヌの前に勇猛果敢に立ち塞がったが、雲泥の差がある実力は何ともしがたくあっさりと敗北した。
そのあと、処刑されたという話も形跡も発見できず、どうやらニビーロに連れ去られてしまったという報告を受けていた。
「このまま放っておくわけにはいかないだろう」
シュウはモントの町での人気が高い。
放っておくわけにはいかないのはその通りなのだが、シュウはあくまでも部隊長でしかない。それも部隊長の中では一番格下の地位だった。他に捕虜になっている兵を全員合わせても、侵攻軍の総司令であったエミリエンヌと釣り合いが取れるわけがないとエリシアでなくともそう思う。
「それなら、この間の部下たちの解放の際に交渉すればよかったではないですか」
エリシアは分かっていた。タモンがこうなることも見越して、わざと交渉しなかったことも推測できてしまう。
分かるからこそ、なおさら皮肉を言いたくなるというか意地悪もしたくなってしまう。
「ケンザとかいう副官殿でもお釣りがくると思いますが……」
「ま、まあそうなのだが……もう解放してしまったし、過ぎたことを言っても仕方がないだろう」
らしくなく完全に困り果てたタモンの姿を見て、エリシアは満足しつつ諦めたかのように息を吐いた。
「随分とエミリエンヌ様にこだわるのですね」
司令官としても、個人的な武勇も素晴らしいことはエリシアのみならず誰でも認めるところで殺すのは惜しい。それにニビーロに戻せば、おそらく混乱を招いてあわよくば王族と内乱になるだろうという目論見もある。ただ、タモンが無事に帰すことに執着しているのはそういった面だけではないことが分かるのでエリシアとしては少し扱いに困ってしまう。
「ところで、その額の傷はどうなされましたか?」
「あ、いや、ちょっと……」
「エミリエンヌ様のところに泊まって、コトヒ様に引っかかれましたか?」
「……エリシアは何でもお見通しだな……うん、まあ、そう」
エリシアも内心では『いい気味ですね』と最近、色恋沙汰では調子に乗っている主君に溜飲を下げていたが、奥方さまに知られているのならこれ以上、事を大きくして主君とヨム家に亀裂が入れるわけにもいかないと思った。
「はあ……分かりました。それで交渉いたしましょう」
エリシアのその言葉に、タモンは説教から許された子どものように目を輝かせた。
恋は盲目というが、あまりにもいつものタモンらしくない行動にエリシアには不安になってしまう。
「という話になったのですが、いかでしょうか?」
翌日の昼もタモンはトレイに載せた食事を自ら運びつつ、エミリエンヌの部屋を訪ねていた。
「いいのではないでしょうか」
椅子に座ること無く、腕を組んで立ったままでエミリエンヌはそっけなくそう答えた。
「え? 何か、怒っています?」
タモンは料理を机に並べながら、とても一国一城の主とは思えない態度でエミリエンヌの顔色を伺っていた。不機嫌になる理由は色々とタモンは自分の胸に手を当てて考えるまでもなく心当たりがたくさんあるのでこのような態度になっていた。
「……いえ、怒っては……ただ、『男』というのは伝承どおりにやはり『けだもの』なのだと身を持って理解しただけですとも」
冷たい軽蔑したような視線で、見つめられてしまいタモンは動揺して皿に入れたスープが揺れてわずかにこぼれてしまった。
「あ、あの……昨晩は……」
「ふふ、冗談ですよ」
調子に乗りすぎたと青ざめながら反省するタモンに、エミリエンヌは厳しい顔を緩めると笑いながら食事の席についた。
タモンはそんな普通の仕草すら思わずじっと目で追ってしまっていた。今までも、しなやかで美しいと感じていたけれど、今日は更に可憐な可愛らしさが合わさっている気がしてしまう。
「まあ、『けだもの』だと思ったのは本当ですけれどね……」
スプーンを握りながらエミリエンヌはぼそりとそう言ったので、タモンも食事の席につきながら苦笑いになっていた。
「ほ、本当に申し訳なく……」
「まあ、今後は最初のように痛くしないのであれば、全然、構いませんが……」
昨晩も後半のように優しく抱いてもらえるのなら良いのだと、視線を下げながら恥ずかしそうにそういうエミリエンヌに、タモンは許されたのだと思って笑顔になった。
「それで……私を帰国させてしまって、本当によろしいのですか?」
いつもの穏やかな食事風景で他愛のない会話ばかりになってしまいそうな中で、エミリエンヌはやはり聞いておかなくてはとでもいうように背筋を伸ばすとそう尋ねた。
帰国したいのはやまやまなのだが、何かずるいことをしているような気分にもなってしまう。
捕虜の交換とはいえあっさり返しすぎて、タモンに批判が集まってしまわないかと心配にもなる。
(いえ、別に敵国の心配などしている場合ではないのですが……)
余計なことを考えるなとエミリエンヌは自分に言い聞かせた。
今は、どのような辱めを受けようが、何を利用してでも、一刻も早く祖国に帰ることを優先すべきなのだ。そうしなければ、帝国同士の戦争次第ではニビーロ国自体が危機的な状況に陥ると考えていた。
「十分、罰は受けたのではないでしょうか?」
深刻に考え込むエミリエンヌとは対照的に、タモンは口に入れたスプーンを下ろすことなく、緊張感のない表情で答えていた。
「そう……でしょうか?」
今も普通に温かい食事を食べて、夜もベッドで眠れている。昨晩はかなりの辱めを受けたけれど、それもほぼ同意の上でのことだったし、それにタモンの優しさも感じてしまっていた。
「軍神エミリエンヌ殿の名前は、かなり傷ついてしまったと思いますよ。ヒイロでもニビーロでもそれぞれ同情もしてくれていると思いますが」
華々しく総大将として、北ヒイロに乗り込んできたけれど、『男王』は取り逃がし、南への進出は失敗した。換言だと皆、理解しているが謀反を疑われると最高責任者の地位を解任された。
「特に今は、味方に見捨てられて捕虜になると物好きな『男王』に愛妾にと迫られていると民衆は思っています」
「世間の評判などあまり気にしたこともないですが……そうですね」
確かに冷静に自分の状況を振り返ってみると、結構、無様だとエミリエンヌは自分で笑う。
やはり連戦連勝の将軍だという評判だからこそ、今まで許されてきたこともあるのだがそれが無くなってしまうのは痛手なのだと思う。だが、そんな虚像を保っても仕方がないと割り切っていた。
「そうですね。では、お言葉に甘えてニビーロに帰らせていただくといたしましょうか」
再起をかけて……と少し凛々しく言ったその言葉に、タモンは優しくうなずくだけだった。
(もうちょっと……何か……。……いえ、私がもう少しここに残りたいのでしょうか……)
意外な寂しさも感じてしまい。自分に戸惑うエミリエンヌだった。
コトヨとコトヒの怒りを恐れるタモンは、その晩は泊まってはいかずに、エミリエンヌは一人寂しく朝を迎えていた。
長年の訓練の結果、すぐに目が覚めて立ち上がることに何の苦労もなくなっていた。
今までと違うのは身支度を整えようとするところだった。
鏡の前で我ながら気合いを入れすぎていると思うたびに『これはあくまでも敵国の王を誘惑するために』と自分に言い訳していたが、もう普通に帰国させてもらえるのだからもうこんなことをする必要もないはずだった。
「妙な気持ちだ……」
エミリエンヌは鏡の中の自分に話しかけるように一人つぶやいた。
『男王』の伝承にあるような、強引にでも体を重ねているうちに親しく心も開くようになっていったということではないと自分に言い聞かせる。
(そもそも、まだ一晩だけだ……)
快楽に溺れるような余裕さえなかった。
それよりももっと近くにいて話をしてみたいと思う。
それくらいタモンという人に興味を持っていることはエミリエンヌ自身にも意外なほどだった。
(タモン殿が自分の主君であったならいいのに……)
そんな考えが一瞬浮かんでしまって、慌てて頭の中から振り払った。
(私はニビーロの第一の将。私がニビーロに忠義を尽くさなくてどうする)
この戦いの責任も自分にあるのだ。ニビーロを立て直せるのは自分しかいないと決意を新たにしていた。
(戦争が終わり、ニビーロと北ヒイロも和平の後には、また会う機会もあるでしょう)
その時には私はどうするだろうと考えていると、不意にドアがノックされた。
「おはようございます」
「おはようございます。タモン殿、いらっさいま……」
演技ではなく、満面の笑顔で、エミリエンヌはタモンを出迎えた……つもりだった
「ケンザ?」
今朝はタモンだけでなく後ろに、ケンザや数名のエミリエンヌの部下たちの姿があった。
わざわざ髪を整えて綺麗な格好をして、嬉しそうな笑顔でタモンを出迎えているところを部下たちに見られてしまったので、エミリエンヌは気恥ずかしくなってしまう。
「どうした? もうニビーロに戻っていいのだぞ……ああ、私のことなら心配は無用だ。私もすぐに帰国できることになった」
エミリエンヌはなんとか真面目な表情を作り、ケンザたちにそう言った。しかし、ケンザたちは暗い表情のまま無言だった。
「お話があるとのことなので、連れてまいりました」
ケンザたちの後ろからタモンとマキが姿を現した。
北ヒイロの国王が、捕虜にあわせるためにわざわざ解放したはずのその部下を案内してくれている。今、城に人が少ないとはいえ変な光景だと思いながらエミリエンヌはケンザや五人の部下を部屋の中に招き寄せる。
「何かあったのか?」
扉を閉めると、タモンだけが扉の付近で立ったままで、後はニビーロの将兵だけが部屋の中に集まっていた。
「エミリエンヌ様……。エミリエンヌ様は帰国してはなりません」
部下たちの中で一番の老兵が後ろから重そうな口を開いた。
「それは……どのような……」
「先日、エミリエンヌ様のご両親が処刑されました」
まだ笑顔だったエミリエンヌに、ケンザが鋭く、ぼかさずに事実を告げた。
「え? 処刑!? もう政界からも引退して隠居している母上たちが?」
まだその言葉を受け止めきれないエミリエンヌだった。
「軟禁とか幽閉ではないのか? 処刑などされるわけがない。な、そうだろう?」
いきなり処刑などされるなどとは想像もできずに思わず何度も確認する。
「いえ、複数の商人や我が領地の親族などにも聞きました。間違いありません」
ケンザたちは申し訳なさそうに肩を落とし、そう報告した。
「……つまり……これは……」
エミリエンヌも頭に血が昇り、なかなか冷静にものを考えることができなかった。
しかし、しばらくの沈黙のあとで考えたくないが唯一の可能性に行き当たった。
「私がニビーロを裏切ったということになっている……ということか」
「はい。この度の出征の失敗は、エミリエンヌ様が『男王』に寝返ったというためということにされてしまっております」
エミリエンヌの言葉に、部下たちは肩を落としたまま無念そうに涙声でそう答えていた。
「そこまで……!」
悔しそうに呻いた声をあげたエミリエンヌは、そのまま意識を失ったのか片膝をついたのちに倒れこんでしまった。




