麗しの軍神さま
「街道沿い。やはり、迫っているのはエミリエンヌの本隊です!」
魔法使いからの連絡を聞いたロランが、大きな声で第一報を告げて、砦の中はざわめいた。
その後、エミリエンヌ本隊の細かい現在の位置や自軍の様子を伝えてくれるのを、タモンは腕を組みながら黙って聞いていた。おそらくは頭の中で、周囲の地図を思い描きながら現在の情勢を確認しているのだろう。
「よし、無理だ」
数秒後、タモンはそう宣言した。
「逃げるぞ」
立ち上がりながらタモンはあっさりと今の砦を捨てることを告げていた。
「カンナの隊はエミリエンヌは軽く牽制しつつ、東の砦へ。ミハトは、マジェルナの丘に行ってルナたちと合流。しばらくは様子見だ。すぐに攻撃したりしないように。他は僕についてきて」
「はっ」
そう命令するタモンに、カンナやミハトの部隊は逃げるというのに意気揚々と従っていた。最近、軍に入った武官たちはこの有利な地に陣取っていて一度もまともに戦わずに退くことに不満そうな顔をしていた。しかし、カンナやミハトが文句も言わないどころか楽しそうに逃げる準備をしているのを見れば何も言えずに従うしかなかった。
やはり魔法使いから逃げていた時の話を聞いているのも大きかった。何か狙いがあってタモンも逃げているのだろうと皆、自分を納得させて逃げ支度にとりかかっていた。
「砦は、もぬけの殻です」
エミリエンヌは山に登った部隊からの報告を受けて、ちょっと頭が痛そうに額に指を当てながら目を瞑り考え込んでいた。
「いかがいたしますか? 先ほど逃げたカンナの部隊を追いますか?」
「いや、追ってもその先には敵の本隊はいないだろうし、罠があるかもしれない。損害が増えるだけだ……」
副官ケンザからの提案に、エミリエンヌは冷静に答えていた。
「『男王』殿の軍は、プライドとかないのだな」
エミリエンヌがため息交じりに言った。馬鹿にしていると周囲には聞こえたかもしれないが、エミリエンヌ本人はこれは手強そうだと感じてのため息だった。
「元々、山賊みたいな連中と聞きましたし、そういうものなのかもしれません」
若くて凛々しい副官ケンザは、正々堂々と戦いに応じないタモンたちを小馬鹿にしたような態度でそう評していた。
「しかし……これは長引きそうだよ」
エミリエンヌは、困ったようにぼそりとつぶやいた。副官や他の兵たちもエミリエンヌがこのように困ったような表情をすることを見たことがなかったので、口には出さないままで驚いていた。
(しかし、この様に困り、悩んでいる表情も美しい……)
副官をはじめ兵たちも、元々心酔しているエミリエンヌの意外な一面を見ることができて嬉しそうにちらちらと眺めていた。普段は凛々しく、この兵たちが束になってかかっても歯も立たない強さを誇るエミリエンヌだけに、少し弱った時にだけ見せる美しさが尚の事際立っていた。
(『男王』はどうなのだろう。あっさりと逃げてしまったけれど、部下に弱みを見せて厳しい立場になったりしないのだろうか……)
少しの弱音でも、こうして部下たちに動揺を与えてしまうエミリエンヌは、まだ話したこともない『男王』のことを考えている。
(弱みを見せても問題ないくらいに結束しているのだろうか。それとも、最初から『男』というものに特別な……例えば性的な……ものを求めて集まっている群れなのだろうか)
エミリエンヌ自身も、部下たちから時折向けられる視線には気がついていた。ニビーロの特に自分が率いる軍は、規律正しい軍ではある。ただ、やはりどこか荒々しい武官たちが自分を戦士として尊敬してくれているのも受け止めながら、顔や体を見て恋慕している武官たちも多いと感じている。
一般的には、武官たちはあまり武官同士で恋人になったりすることはない。あくまでも基本的な恋愛対象は、剣など握ったことのない娘なのだ。ただ、エミリエンヌの整った顔立ち、鍛え過ぎて美しさを極めている体を見ていると、一度くらい何かの間違いで一晩を共にできたりしないだろうかと武官たちのほとんども思いを馳せていた。しかし、そうは思っても力ずくで強引に迫ったところで勝てる気がしなかったし酒に溺れて前後不覚になったりすることもなかった。今までは。
しかし、今、普段は全く弱みを見せないこの強くて聡明で美しい上官が、遠征先でため息をついて悩む姿を見てこれは寄り添う好機なのではと部下たちは思っていた。
「エミリエンヌ様。お疲れでしょう」
「とりあえず、『男王』軍が使っていた麓の砦がありますので、そこで休憩いたしませぬか」
副官のケンザをはじめ、名門貴族出身の武官たちがここぞとばかりに優しさをアピールしてくる。
「……そうだな。少し休憩しようか」
目標が逃げたのなら、さっさと帰るべきと思っていたエミリエンヌだが、次の行動については決めかねていた。それが、今の彼女を一番悩ませていることだと言ってよかった。
(援軍が来られないように氷が溶けるまで、時間を稼ぎたい……それは分かるが。港町を抑えてしまえば、遠回りでも補給は充分だ)
エミリエンヌはタモンたちの行動の意味を考え込みながら移動する。
「このまま、ビャグンに攻め込もうと思うのだが、どうか?」
砦で、休憩すると言っても武官たちは鎧を脱いだりはしなかった。エミリエンヌも、椅子替わりの木箱に座った際に足だけをわずかにぶらぶらさせてリラックスさせつつ、副官たちに意見を聞いた。
「良いと思います。キト家を抑えそのまま南ヒイロ帝国に攻め込む機会を得れば、この戦争における最大の武勲を立てることもできましょう」
ケンザを始め若い武官たちは、血気盛んにエミリエンヌの提案に賛成していた。
「しかし、当然、その際に我軍の背後を狙うために『男王』は、山に潜んでいるのだろう」
歴戦の武官たちは、血気盛んな若者たちを甘いとでもいいたそうにたしなめる。
「まずはある程度、『男王』の部隊を弱らせてはいかがですか。逃げ場をなくし、兵糧を断つためにも西の方に進軍を」
エミリエンヌの、そしてエミリエンヌ率いる自軍の強さを信じていないわけではないが、ベテランたちはむしろ慎重に足場を固めることを提案する。
「先にツーキやフカヒを攻めるか……」
エミリエンヌの頭にもその方面への進軍はあったので、これに関しては大人しく聞いて頷いていた。
「なりません!」
突然、大きく高い声で武官たちの軍議に割って入ったのは、兵糧管理官という名目で従軍している王族のドミクルだった。
ニビーロ国王の再従姉妹にあたるこの中年女性は武官たちの中にいると社交界のためにキープしているらしい病的に細い体が際立って見える。
肩書きはどうであれ、実際にはただのお飾りでしかないので、面倒くさいことを言われないようにあえていない時に話していたつもりなのに、いつの間にか忍び寄って来られていた。会話を聞かれたことにエミリエンヌは表情を変えることはなかったが、他の武官たちは『げっ』と声に出す者もいるくらいに、嫌そうな顔をしていた。
「国王陛下の命令をお忘れですか。エミリエンヌ殿」
妙に甲高い声でエミリエンヌにも高圧的に問いただしていた。
「忘れてはおりません。ただ、そのために……」
「忘れていないのなら結構です。そうです。『男』を最優先で捕まえろというご命令です」
エミリエンヌが説明をしようとするのを、ドミクルは遮って自分の命令であるかのようにきつく武官たちも見回しながら告げた。
「分散して山に籠もっているなら、好都合ではないですか。さっさと『男』を包囲して捕まえなさい」
戦ったこともないどころか、まともな山に登ったことさえなさそうなドミクルの言葉に武官たちは益々顔を強張らせていた。
「命令は忘れておりませんが、そのために陛下からお預かりしている軍に大損害を出したりしてはいけませんし。万が一、この戦争自体に負けることがあればそれどころではなくなります」
「兵隊など……。こんな田舎の軍は大したことはないでしょう。とりあえず逃さないように取り囲んでいればいい」
兵隊の損害などどうでもいいとはさすがに言わなかったが、明らかにそう言いたい気持ちは伝わってきて、武官たちは今にも殴りかかりそうな表情になっていた。
「『男王』もそこは分かって逃げているのですから……」
「言い訳は結構です。とりあえず『男王』を追わないのは、陛下に対する裏切りとみなします」
いつも表情を変えることのないエミリエンヌもこの言葉には、さすがに不満そうにわずかに口を歪めた。しかし、戦争中に王族のドミクルと問題を起こすのは避けたいところではあるので無理に笑顔を作りだしていた。
「分かりました。こちらも兵を分けてまずは『男王』を追わせましょう」
愚策なことはエミリエンヌ自身はもちろん、他の武官たちも分かってはいた。完全に包囲するなら多くの兵が必要だった。しかし、それでは他の戦いに何もできなくなる。まだモント周辺を制圧したに過ぎなかった。とりあえず『男王』を追っているという姿勢を見せるだけに軍を分けることになる。
「そうです、そうです。トキワナ帝国に『男』を奪われたりしては、何のための戦か分からなくなりますからね」
そんなことは全く考えてもいないドミクルはエミリエンヌの答えに楽しそうに笑っていた。
(こいつは男を手に入れたら、自分もお楽しみになるつもりだな……)
武官たちはそう思いながら睨んでいた。
「ですが、ドミクル様。お願いがあります」
「な、なんだ?」
エミリエンヌの言葉に、邪な想像をしていたドミクルはびくりとして身構えた。
「本国に援軍の催促をしていただきたいのです。出陣する時から要請しているのですが、何故か慎重になっているのかなかなか続いてくる様子がなく……」
「なんだ。そんなことか、分かった。私から陛下にも頼んでおこう」
「助かります。とりあえずモントの周辺を守ってくれる兵があれば、私どもは他に打って出やすくなります。それこそ、『男王』を捕まえることも容易になりましょう」
エミリエンヌはへりくだるわけではないが、丁寧にドミクルを誘導しつつお願いをしていた。ドミクルは怒られたりするわけではないようなので、安堵したように笑顔だった。
エミリエンヌは、そう言いながらも実際には援軍がくれば、モント周辺と『男王』への牽制を任せて、自分は南に侵攻していくつもりだった。
(そうすれば、この戦争に勝てる)
この戦争に負けることをドミクルやニビーロの王族は考えていない。強大なトキワナ帝国が負けるわけがないと思っている。
ただ、エミリエンヌはトキワナ帝国は少し不利になればニビーロのことなど気にせずにさっさと和睦すると読んでいた。
(そして、そのこのままだとその可能性は高い……)
戦局を見ると意外に南ヒイロは頑強だった。まだ幼い皇帝で、内戦で弱っているというのが戦争前の見方だったが、むしろ以前より一枚岩でまとまっている感がある。
(ドミクル様から頼んでもらえれば、出し渋っている援軍も早く到着するかもしれない。そうすれば……)
先ほどのドミクルからの馬鹿げた命令に従う意味も出てくるとエミリエンヌは僅かに微笑む。
(『男王』を牽制しつつ、私は南ヒイロ帝国へと!)
エミリエンヌには、南ヒイロ帝国の首都カーレットまでの道筋が見えている。
彼女の集めた情報によれば、ヒイロ帝国も北の守りは手薄だった。おそらく北ヒイロが手を貸した内戦の影響がまだ残っている。
帝国同士の戦局を変えるには北からの攻めしかないとエミリエンヌは、ニビーロのためにも思っていた。
(そうすれば、交渉次第だが……モントはもちろん、北ヒイロをニビーロの傘下にすることもできるだろう)
決して根拠のない妄想など言わないエミリエンヌの現実的な読みだった。
実際には、帝国領に侵攻してみなければ分からないこともあるだろう。しかし、エミリエンヌは自信に満ち溢れていた。広大な戦場における戦略を立てて、軍を率いて各地を転戦する姿を思い描いては自ら武者震いしていた。
援軍の到着を心待ちにしつつエミリエンヌの軍は一時、モントの城へと帰還する。




