幼女な政敵
「陛下。起きていらっしゃいますか?」
宰相エリシアは、タモンの私室のドアに軽くノックをすると返事も禄に確認しないままドアを開けて中へと入っていく。
それはいつもと同じ朝の光景だった。タモンのスケジュールを把握している彼女は、今日は夫人たちの後宮には行かずに、一人で部屋にいて寝ていることを知っている。
「今日の午前はツーキから来る商人たちとの面会の予定になっております」
いつもしっかりしているタモンではあるけれど、自室で寝ている時は心が落ち着いているのか朝もゆっくりだった。まずは窓のカーテンを開けて部屋に光を取り込んでからタモンを起こそうとする。ここまではタモンがこの部屋で寝ている時の朝の習慣になっていた。
エリシアも『仕方がないですね』と文句を言っているようで、表情は穏やかで笑顔を浮かべながら主人を起こすのを楽しんでいるようにも見える。
「おはようございます。エリシア様」
ただ、今朝はタモンのベッドから、予想外の声が聞こえてきてエリシアは目を丸くしてしまう。
「え? ……ああ、イリーナ様ですか」
毛布から上半身を起こして、エリシアの方を見ているのはイリーナだった。小さくて細くて華奢で壊れそうな体と美しい白い肌が見えて、エリシアでさえもどきっとしてしまう。完全に裸でタモンの隣で寝ていたのかと思ったけれど、肩紐がずれおちただけで寝間着は着ていたようなので少し安心していた。
(別に私が安心するようなことではないですが……)
エリシアは、自分の気持ちからも目をそらしつつベッドに近づいていった。
「おはよう。エリシア」
エリシアの声と隣で何やら動いているので、タモンも毛布の中で目を覚ますと挨拶をした。寝転がったままだったけれど、すぐに意識ははっきりしていて寝ぼけていたりすることは少ない。元々なのか、逃亡生活の中でそうなったのかは分からないけれど、エリシアにとってはいつもの朝の光景だった。
「おはようございます。陛下。昨晩は新しいご夫人とお休みだったのですね」
エリシアは別に咎めだてする立場ではないし、そんなことをするつもりもないのだけれど、つい、ちょっと皮肉を言っているような口調になってしまっていることに自分でも気がついていた。
「え?」
驚いたタモンがエリシアの視線の先を追うと、イリーナが特に慌てた様子もなくゆっくりとした仕草で肩紐を直していた。
「おはようございます。旦那様」
下半身は同じ毛布に入ったままで美幼女はすぐ隣で寝ている主人を見下ろしながら微笑む。つられてタモンも幸せな気分になってにっこりと笑ったけれど、横からの冷たい視線に気がついてしまう。
「あ、ええと、別にこれはやましいことをしていたわけではないからね」
慌てて上半身を起こすとエリシアに弁解していた。ただ、上半身を起こした結果、同じ毛布に下半身だけを入れたままイリーナと仲良く並ぶ格好になってより一層、仲良く過ごした事後という雰囲気になってしまっていた。
「昨晩は一緒に寝た仲ですのに、そんな……つれないです」
「ちょ、ちょっと!イリーナ」
イリーナの言葉に、タモンは慌てていた。
(こんな冗談を言う娘なのね……)
エリシアは、意外そうな目でイリーナを見ていた。帝都で出会ってからモントに戻るまではずっと一緒だったけれど、姉の陰に隠れてひたすら大人しい娘という印象しかなかった。
「まあ、正式にご夫婦になられたのですから、別にいいのではないでしょうか。少々、やましいことをしても」
エリシアは、突き放すような態度で『少々』を強調していた。
「だから、していないって」
「政略結婚で、嫁いできた小さな女の子を本当に手を出したとしても、世間の評判が『かなり変態だな』と落ちるくらいです。大したことはないでしょう」
エリシアも冷たい態度をとっているようで、本気で怒っていたり心配していたりはしない。
これはこの主従ではよくあるやり取りだった。タモンの方も分かっているので、本気で抗議しているわけではなかった。
「そうやって、牽制するのはずるいと思います」
しかし、すっと横からイリーナがタモンの腕にしがみつくとエリシアの方をじっと見ていた。まだまだあどけない顔立ちなので分かりにくいけれど、睨みつけていると言ってもよかった。
「あ、いえ、別にお邪魔をするつもりでは……」
エリシアはこの小さな可愛らしい女の子の剣幕に戸惑っていた。
「ここは旦那さ……陛下のプライベートなお部屋です。何をしていようと構わないはずですし、どうして、宰相様が起こしにこられるのですか?」
「え?」
エリシアは、しばらく質問の意味が分からずに考えていたが、確かに帝都ではマリエッタ皇帝もプライベートな建物と公務を行う場所が完全に分けられていたのだと思い出した。タモンやエリシアは、あくまでもマリエッタとは個人的な友人、身の回りのお世話をする名目で帝都には潜り込んでいて、公式には政治的な会合に呼ばれたことはなかった。
「ええと、我が城はイリーナ様がいらした帝都とは違いまして、城も狭いですし、人手不足ですので、公務の予定がある時などは私が起こしにきております」
帝国の元皇女様で今は主君の夫人という立場にどう接していいのか分からなくなってきたエリシアだったけれど、小さな女の子に説明するように膝をかがめつつ丁寧な口調で話していた。
「それでは、明日からは私がお起こしいたしますので、どうぞお構いなく」
幼女がベッドの上で、力強くそう宣言していた。
「なっ、そ、そういうわけには」
思いがけずはっきりと拒絶されてしまったので、いつも冷静なエリシアも少し怒気を含めながら慌てていた。
「陛下の予定を私に教えていただければいいと思います」
イリーナは、そう言ったあとで微妙な笑みを浮かべながら続けて聞いていた。
「それとも、宰相さまは、陛下を起こしに来る口実がなくなると嫌ですか?」
「そ、そんなことはございません」
痛いところをつかれて、エリシアは頭が一瞬、真っ白になっていた。頭脳明晰な彼女も自分の気持ちの深いところは理解できておらずしばらく黙ってしまっていた。
「イ、イリーナ様にずっとお世話していただくと、他の夫人たちがやっかんでしまいます。このような役割は夫人ではない方がした方がいいかと思います」
「それは……確かに」
すでに勝った気になっていたイリーナだったけれど、エリシアの必死の反撃はさすがに鋭い一撃だった。
「で、ですが、それこそ陛下のプライベートというもの。宰相様が配慮するのは違うと思います」
毛布からでてベッドの上に正座して、イリーナは反論していた。ちょっと余裕がなくなったその態度は、ちょっと可愛らしい女の子のものだった。
「イリーナ。朝にエリシアと話す時間も貴重な時間だから、このままにして欲しいな」
犬と猫が睨み合っているような二人を見かねて、タモンは穏やかに仲裁する。
「まあ、陛下がそう言われるのでしたら、エリシア様のお邪魔はいたしません」
やや形勢不利だと自覚していたイリーナは、素直にそう応じるとエリシアに手を差し出した。
「お互いに、邪魔せずに仲良くいたしましょう」
目の前に差し出された手が、どういう意味かわかりかねていたエリシアだったけれど、無垢な笑顔でそう言われてしまうと素直に手を握って握手をするしかなかった。
「それでは、陛下。私は工事中の後宮に帰ります」
イリーナはベッドから飛び降りると寝間着の上に一枚だけ上に羽織って、来た時に持ってきた大きな鞄を持つと大きく一礼した。
「え、あ、うん」
「また今晩よろしくお願いします」
ドアを閉める直前に、にこやかにそれだけを言うとイリーナは部屋から出ていってしまった。
「今晩……も?」
「なるほど……先程の握手は私がこの部屋に毎晩通うのも文句は言わせませんということですか……」
イリーナの交渉の意味が分かって、エリシアはこめかみを押さえた。
「大丈夫、子どもには手を出したりしないよ。安心して。まあ、部屋に来るのは拒めないけれど……」
「帝国との力関係ですからね。仕方がありませんね。まあ、イリーナ様の言う通り、陛下のプライベートは私には関係ありませんし……」
タモンの言葉に、エリシアに拗ねたようにそう答えた。
それは、いつものやり取りだった。お互いにそう言ったあと、二人は目を合わせて笑っていた。
「それにしても、他のご夫人たちとは仲良くやっていらっしゃるとのことですが、どうして私には突っかかってくるのでしょうね」
「マリエッタお姉さんがエリシアのことを寵愛しているから、嫉妬しているんじゃない?」
予想していなかったタモンの答えに、エリシアは目を丸くする。
「寵愛というほどでは……」
と言いながらも、それはあるのかもしれないと照れながらも、本当にその理由だけだろうかと悩み続けていた。
「おはようございます。陛下、イリーナ様」
「おはようございます。エリシア宰相様」
次の日から、朝は二人の挨拶で目が覚めるのがタモンの日課になった。
やや引きつりつつも二人は笑顔で挨拶を交わして、何も問題は起きていないかのようだった。
「陛下、人がいないのでしたら、お姉さまにお願いして帝国から人を連れてまいりましょうか? 官吏でもお世話をする侍女でもお好きなように」
相変わらずベッドの上で、タモンにそんなささやきをするイリーナをエリシアは咎めていた。
「結構です。お気持ちはありがたいですが、お金もありませんので、余計なことをされては困ります」
「はい。差し出がましいことを言ってしまい。申し訳ありません」
二人は、笑顔でしばらく対峙していた。わざわざエリシアのいるところでいうからには、本気の密談ではないのだけれど、エリシアには段々とこの小さな女の子の考えていることが分かってきてしまった。
(いずれ私の地位を狙っているということね……)
意識しているのかまだ無意識なのかは分からないけれど、これはイリーナの後宮が完成するまでの戦いとかそんなレベルの話ではなくって、長い戦いになりそうだということをエリシアは覚悟していた。




