ヨム家と皇女
「南より参りましたイリーナと申します」
もうすっかり日も暮れてから、イリーナはタモンに伴われてヨム家の部屋へと挨拶に訪れていた。
開放的な木造の作りの部屋を初めて見るイリーナは落ち着かない様子で部屋中を見回している。椅子の無い部屋というのもあまり記憶がないので、どうしていいのか戸惑いながらタモンを真似して床にぺたりと座り、コトヨとコトヒ姉妹が出迎えるために姿を見せると、そのまま平伏して二人へ挨拶をした。
「イリーナ様。そ、そんな、頭を下げなくても」
姉のコトヨの方は、そんな態度をされてしまいとても慌てていた。
「噂の皇女様ですね。うわ。可愛い」
そんな姉とは違い妹のコトヒは、遠慮することなく近くに歩み寄っていくとイリーナに声をかけていた。
そのまま、イリーナの手をとって挨拶をしたので、自然とイリーナも顔をあげることになる。最初は戸惑った表情を浮かべていたけれど、コトヒの何も含むところのない笑顔で褒められるとイリーナも頬を赤く染めながら笑顔になっていった。
「コトヒ。いきなり失礼でしょう」
あまりこの様に急に親しくされることのないイリーナは戸惑っていたけれど、不快ではなかった。
「いえ、その……。むしろ嬉しいです」
イリーナは遠慮がちながらも、この機を逃してはいけないと勇気を出して二人にアピールしていた。
「そうだよね。堅苦しいのよりいいよね」
コトヒは、許可をもらったので遠慮なくイリーナの肩を抱きながら密着していた。
「全く、もう……。本当に不快でしたら言ってくださいね。イリーナ……さん」
「は、はい」
コトヨも、イリーナの気持ちが分からないわけでもない。
ヨム家の跡取り候補として小さい頃から、少し年上の人にもかしずかれてきた。遊び相手にとあてがわれた他の部族の子どもでさえ、やはり何か失礼があってはいけないと遠慮がちで、もしちょっとコトヨが泣くようなことがあれば向こうの親が謝りにきてしまう。そんな子ども時代を振り返れば、こうやって遠慮せずに近づいてくれるお姉さんがいてくれる方が嬉しいのだろう。
(帝国の子息ともなれば、私などよりももっとすごい重圧と孤独があるのでしょうね……)
そう思えば、自分自身も妹のコトヒが見せる屈託ない笑顔にだいぶ救われてきたし、今もイリーナが嬉しそうに話している姿を見れば何か心の安らぎになればいいと思うのだった。
「それにしても、十歳なのにしっかりしているね」
「え、いえ、そのようなことは……」
「またまた~。ショウエよりもずっとしっかりしているよ」
コトヒはイリーナに密着して、楽しく会話しながらも、部屋の扉の横で立っているショウエに話は飛び火していた。
「失礼な。我の方がしっかりしていますとも」
「十歳と本気で張り合わないの、ショウエちゃん」
コトヨの言葉に、この部屋中が笑いに包まれた。
ショウエは、イリーナに一番近い歳だし、良い話し相手になってあげて欲しいとコトヨは思うのだけれど、そうは言っても子どもの頃の五歳差は大きいからあまり友達という感じにはなれないだろうかと、まるで母親のように頭を悩ませていた。
「それで? タモン君は何をしにきたのでしょうか?」
コトヨは、悩んでも仕方ないと諦めつつ、後ろに座っているタモンに声をかけた。
「え? イリーナを紹介して、今日はキト家に来る日だからそのまま泊まるつもりなのだけれど……」
タモンは返事をしながら、コトヨの声や視線が冷たいことに気がついて段々と声が小さくなっていった。
帰ってきたばかりでヨム家にやってきて、むしろ大喜びされて迎え入れられると思っていたタモンは、静かに怒っているように見えるコトヨに戸惑っていた。
「な、何か怒ってる?」
「いえ、別に……。ただ、タモン君はもう私のことなど興味ないのかと思っていましたので……」
気の所為ではない。明らかにツンとした態度で、わずかに横を向かれてしまってタモンは慌てていた。
「そ、そんなことあるわけないでしょう」
慌てて立ち上がり、コトヨの側へと近寄っていく。
(何か機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか……)
何も悪いことはしていないと思ったけれど、帝国では色々な女性と親しくしていたとすぐに思い出していた。そして、そもそも誰が見ても政略結婚だとは分かるけれども、今、こうして可愛らしい若い嫁を連れてきているのだ。
(あれもこれも、今後のために仕方がなく……)
そうは思ったけれど、特に親しくしていたラリーサの豊満な体を思い出してしまい言葉が出てこなくなっていた。
「私のところに泊まらずに、さっさと帝国に行ってしまったではないですか」
「え? あ、あれは、時間がなかったので……」
出かける時の話なのかとタモンは意外に思いながらも、それなら深刻な事態にはならないだろうなと少し安心はしていた。ただ、こういった時にどうやって嫁をなだめていいのかはまださっぱり分かっておらずに精一杯謝りながら話しかけるだけだった。
「もし、あのまま、タモン君が帰ってこなかったら私はどうすればいいのですか」
「ごめんね。ごめんね」
良くわからないけれど、とりあえず謝り続けているタモンの姿を、イリーナは心配そうにじっと見ていた。
「あの……。何やら険悪な雰囲気なのですが、もしかして私のせいで……」
「ううん。イリーナちゃんは気にしなくていいよ。あれはうちのお姉さまが拗ねているだけだから」
「拗ねていらっしゃる?」
イリーナは、コトヒに顔を近づけて、ヒソヒソと話をする。
「ええと……。コトヨ姉さまは、やっと初めてタモン君と夜を一緒に過ごせると思って期待して待っていたら、そのまま帝都に行ってしまったので姉さまは拗ねているのです」
「は、初めて……夜を一緒に……」
イリーナは単語だけを繰り返して、これでもかというくらいに顔が真っ赤になっていた。
「あ」
箱入り娘中の箱入り娘であるイリーナには、まだこんな話は早かったかと反省していた。
「コ ト ヒ」
二人が話している声が聞こえてしまったのか、姉が静かに怒っていてコトヒは戦慄してしまう。生まれてからずっと優しい姉から、こんな殺意の籠もった視線を向けられたのは初めてだった。
「あは、あはは、イリーナちゃん。ボクとちょっと隣の部屋でお話ししようか」
「はい、ぜひ」
冷や汗を流しながら、コトヒはイリーナの手をとってそう提案するとイリーナも、空気を察して素直に応じていた。
(聡明な子ね)
コトヒは感心しながら手を繋いで隣の部屋へと逃げ込んだ。途中でショウエにも目配せすると、ショウエもすぐに察してコトヒについて隣の部屋へと移動してきた。
「さて……二人っきりにしてあげたけれど」
隣の部屋に入るとすぐにコトヒは、柱にピタリと背中をつけた。幼い二人もコトヒを真似してすぐ隣で同じように壁に張り付いていた。
残してきた二人の様子を窺うためだった。
ヨム家の宮は、他の宮の様にきっちりとした木の壁や扉で区切られていたりはしない。部屋と部屋の間は布があるくらいで防音とは程遠い。外はともかく、宮の中は、隣の部屋の声を聞くのは簡単なことだった。
「もし、あのまま帰ってこなかったら、私はタモン君の妻なのに一度も抱かれることなく死んでしまうことになっていました」
コトヨの意地悪な声が聞こえる。タモンは、先程のコトヒが話していることも含めて、何に拗ねているのかは理解したけれど、結局のところ謝るしかなかなさそうだった。
(二人っきりになって、大胆になってそうですね)
隣の部屋で盗み聞きをしている三人は、目を合わせると力強く頷いていた。
恥ずかしいくらいに拗ねながら甘えている姉とそれを宥めているタモンのやり取りが何回か続いた後は、隣の部屋が静かになる。
(こ、これは……)
息を殺して、三人は柱から縦に連なって隣の部屋の様子を覗き見た。
そこには、抱き合いながら唇を重ねる二人の姿があった。一度、顔を離して二人はしばらく見つめ合うとコトヨは座っているタモンの太ももに完全に乗るようにして密着すると再び唇を重ねていた。さっきよりも更に密着しているなかで、唇を重ねるだけではなく、口を吸い合っている音さえ隣の部屋まで聞こえてきてしまう。
(お姉さま。大胆!)
僅かな嫉妬心はどこかに吹き飛んで、コトヒは今までじれったくてしかないと思っていた姉の積極的な今夜の行動に喜んでいた。興奮したまま、若い二人も引っ張って、さらに部屋の奥へと連れ込んだ。
「ど、どうかなさいましたか?」
もっと刺激的なこの場面を見ていたかったイリーナとショウエは、ちょっと不満そうに、そして何か問題があったかと思いながらコトヒに額を突き合わせて聞いていた。
「この後は寝室にお姉さまを運んでいくことになると思うから……」
そう言えば、あの部屋は玄関入ってすぐの客人を出迎えるための部屋だったと幼い二人も思い出していた。あの部屋であのまま続きをしていては、もし誰か来客があった時に大変な場面に出くわすことになる。
「お姉さまの寝室は、そこの廊下を通った先だからこの部屋の横を通るってこと」
そう言いながら、コトヒは二人の手を引っ張り、更に奥の物置部屋へとこっそり移動して身を潜めた。
「寝室……に運ぶ……」
イリーナはその言葉だけで、色々と妄想が止まらなくなり真っ赤になった頬を冷ますために自分の両手を当てていた。
「先程のお話からすれば、コトヨ様は初めての夜ということになりますでしょうか?」
「え?」
イリーナが気合いを入れて何を聞いてくるのかと思ったら、あまりにも欲望に溢れた質問だったのでコトヒも困った顔になってしまった。
「し、静かに」
変なやり取りをしている間に、床板が軋んだ音がした。
三人とも物陰に隠れながら、徐々に大きくなる音の方に注目する。
コトヨをお姫様抱っこしながら、タモンが歩いてくる姿が徐々に見えてくる。コトヨはタモンの首に手を回しながら恥ずかしそうにしながらも期待に溢れた潤んだ瞳で自分の主人をじっと見つめているのがイリーナにはとても印象的に映った。
「はわあああ」
廊下を大きく軋ませた音をさせながら、タモンとコトヨが部屋に入ったのを確認すると三人とも変な声を出していた。
「いいです。素敵です」
イリーナとショウエは素晴らしいものを見たという感動に身を震わせていた。コトヒは二人のそんな様子を、ちょっと大げさでおませなんだなと笑っていた。
「私も、いつかあの様に運んでもらえるのでしょうか。……早く大きくなりたいです」
でもイリーナの表情はあまりにも真剣だったので、コトヒも笑うこともたしなめることもできなくなっていた。完全に箱入りで育って、まだまだ恋に恋する小さな女の子だけれど、いきなりよその国に嫁がされてしまった。だからと言って、今、愛してもらえるわけでもない。
コトヒは、イリーナの手を握る。今までは何不自由なく生きてきた気楽な皇女様がやってくるのだなくらいにしか思っていなかったけれど、境遇に同情するとともに応援したいような気持ちがコトヒの中に芽生えていた。
「大丈夫、イリーナちゃんは、いい旦那さんに嫁いだから……ゆっくりと待ちましょう」
「……はい!」
応援してもらっているのが分かって、イリーナも元気な笑顔で応じていた。
「とりあえずですね……イリーナ夫人様」
「は、はい?」
「私の部屋もあの廊下の先にあるのですが……」
改まった態度でコトヒが言うので何事だろうと思っていたら、意外な話をされてイリーナも困惑していた。
「決して、隣の部屋から声が聞こえてきてしまった時に一人だけだとモヤモヤしてしまうとか、そのようなやましい理由ではありませんが……」
コトヒの言葉に、イリーナはつい声を出して笑っていた。
「よろしければ、イリーナ夫人と親睦を深めるたいと思っているので、今夜、お泊まりになりませんか?」
「はい。喜んで!」
即答するイリーナだった。
「いいですね。私たちも将来の初夜のために参考にしなくては……」
聞き耳を立てる気満々なことを隠そうともしないショウエは、イリーナにそう言いながらうなずきあっていた。
「ショウエは、別に参考にすることないでしょ。自分の部屋があるのだからそこで寝なさいよ」
「そんな! コトヨ様のお部屋からは遠いではないですか!」
意地悪をいうコトヒに涙目で訴えるショウエだった。
結局、三人での親睦会は無事に行われた。




