頼れる正妻
「ランダの兵が消えたぞ」
ミハトは二日後の朝、つい数時間前とは全く違って見える景色に驚きながらタモンに報告しに駆け込んできた。
まだ遠くに撤退していく兵の姿は見えるけれど、朝日に照らされた美しい草原を遠くまで眺めて、こんなにも山からの景色が美しかったのだなとタモンたちも見とれていた。
前日からもうほとんど組織的な攻撃はなくなっていたが、見た目にも圧迫した緊張から解き放たれてタモン軍は全員が晴れやかな気持ちで歓喜の声をあげていた。
「ランダの軍は、闇にまぎれて撤収した模様です」
ロランはそう報告する。
分かりきった報告ではあるし、こちらが察することもできずに鮮やかに撤収されてしまったのは、失態ではあるけれど厳しい状況で頑張ってくれたロランたちを労った。
ロランもずいぶんと顔も鎧も汚れていたけれど、心の底からのいい笑顔で応じてくれていた。
「カンナ様が地方豪族の兵をまとめて向かってきているとのことです」
「キト家の軍も、関門を突破して草原まででたようです」
次々と良い報告を受けて、今まで何事にも動じないように見えたタモンも、緩やかな表情で聞くともうその場で倒れこんで休んでしまいそうなくらいに力が抜けていた。
「姉者なら、負けることはないと思うが、追撃の軍を出す」
ミハトだけは元気に、そう言い放った。ここ数日間、散々攻撃をされて我慢をしなければならなかったから、その鬱憤を晴らしたいという思いがあるのだろう。ミハトの部隊も士気が高く雄叫びをあげていた。
「じゃあ、ミハトに任せるよ。食料も全部渡すからちゃんと食べさせてね」
これから大規模な軍勢同士の決戦があると予想されるのだが、もうタモンは妹たちを遠足に送り出すくらいの穏やかな笑顔で話していた。
「はっ! 必ずや我らが主に勝利を!」
ミハトに倣って、他の兵たちも一斉に片膝を地面についてタモンへの勝利を誓った。
「『我らが主』だって。うーん、偉くなっちゃって、格好良いなあ」
タモンの先輩のマイは、先日の兵士たちの声真似をしながら、後輩を茶化していた。
「え? ど、どなたですか、こちらの方は?」
「旦那さまに……抱きついて……う、浮いています?」
タモンはロランやコトヒたちを連れて、再びフカヒの街を訪れた。二人の嫁がエトラ家の人たちに守られながら、軽く微笑みながら出迎えてくれる。街の偉い人から挨拶も押しのけてでも、二人の嫁は嬉しそうにタモンに抱きつこうとしている最中だった。
最初はおんぶしているのかと思ったけれど、自分たちの旦那さまの首に手を回しているその女性はよく見ると浮いていて、さらにじっと目を凝らしてみると透けていてその女性の手を通してタモンの顔が見えていた。
「数日ぶりですね。先輩」
エレナとマジョリーが手を取りながら怯え、タモンの後ろにいたコトヒが『また現れた』と言いたそうなとても嫌そうな顔をしている中で、タモンは平然と会話を続けていた。コトヒの中に入って抱きついてからは消えてしまい。このフカヒの街に戻るまでの二日間、現れることがなかった。
「この体で魔法を使うと、かなり魔力を消耗しちゃうんだよね。存在が消えてしまいそうなくらいに。あとコトヒちゃんの体を借りてエッチしたのが気持ち良すぎて昇天するところだった。」
マイも動じることなく、すぐに消えてしまったことの説明をしながら冗談を言っては笑っていた。
「それで? こちらが……」
マイは、視線を前に向けてエレナとマジョリーの姿をじっと見た。普通の人間ではなさそうな存在にじっと見つめられてしまうと二人のお嫁さんはまた一緒にびくりと怯えて一歩下がってしまう。
「二人がタモン君のお嫁さん? すごい。綺麗なお嫁さんだね。やるなあタモン君、昔は自分からはなかなか手も握れない奥手な男の子だったのに」
友好的に近づいて褒めてくれたので、エレナとマジョリーはちょっと安心した表情になった。ただ、その後は旦那さまのことを昔から良く知っていますよというアピールをしてきたので、内心ではちょっと嫉妬しながら話を聞いていた。
「私は、そうね。タモン君とは昔からの知り合いで……そうだね。憧れの初恋の人って感じかな」
「いや、先輩。別にそんなのでは……」
最初は否定するような仕草だったけれど、珍しく照れまくりにやけた表情のままでちょっと曖昧なままにしているタモンを見て、二人のお嫁さんは完全に対抗心を燃やしていた。
「旦那様、お疲れでしょうから、まずは少しお休みになっては? お風呂にまずは入入りましょう」
マジョリーは、いつも以上に積極的にタモンの手を取って労っていた。体がだいぶ汚れている後ろの兵たちにも同じように提案して優しいところをアピールしていた。
「そうですね。私の親からもお話があるとのことですので、その後でご挨拶に伺わせます」
エレナの方はすでに段取りを整えて、できる妻であることをアピールする。
腕こそ絡ませないながらも、ぴたりとタモンの横に寄り添っていた。
(すごいなあ。タモン君もだけれど、二人のお嫁さんも……)
コトヒはタモンの後ろから、そんな二人のお嫁さんに挟まれている様子を、手持ち無沙汰で眺めているだけだった。半年前は捨て犬のようで、保護して気楽にかまってあげられた少年が、今は汚れていてもきらびやかに見える。あの三人の間にはとても入っていけそうにないと、横を向きながらため息をついていた。
「ふふん。また手伝ってあげようか?」
コトヒの横にはいつの間にかマイが浮いていた。
「ふああ、な、何が? い、いえ、結構です」
コトヒの考えていることは全部お見通しのように、マイは微笑しながらコトヒの瞳の奥を覗き込んでいるようだった。近くで見るとマイの体が浮いていて、更に透けていることに気がついてしまうので、まるで幽霊に魅入られたみたいに感じてしまいコトヒは内心では怖くて逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「ふうん。まあ、いいわ。そのうちまた手伝ってあげるね」
マイは、コトヒからすればありがたいような、怖いような言葉をかけて少し高く空中に浮いていた。
「タモン君。それとエトラとキトのお嬢さん」
マイは、そのまま宿舎の方に向かってしまいそうなタモンたちを呼び止める。
「休んだあとで、ちょっと私に付き合って欲しいのだけれど」
「何を……?」
タモンは、聞き返している途中でだいたい内容を把握したようだった。ただ、エレナとマジョリーは、不気味さと嫉妬からやや距離をおいて訝しげな表情でマイを見つめていた。
「そう。私の体を取り戻さないとね。そのために、お嫁さん二人の力も必要なのさ」
「え?」
エレナとマジョリーは、同じような反応と表情で『なんで私たちが』と嫌がっていたけれど、タモンが申し訳なさそうにお願いをする仕草をしていたので疑問には思いながらもタモンの両腕にしがみつきながら承諾した。
「あと、コトヒちゃんも」
「ええっ?」
もう魔法使いの興味の対象が移ったと思い完全に油断していたコトヒは、目の前に浮かびながら振り返ったマイの言葉に再び怯えながら何度もうなずいていた。タモンたちが了承しているので仕方ないということもあるけれど、また体を乗っ取られてしまうよりは大人しく従って自分の意思で動いた方がましと思うしかなかった。
「いや素晴らしい。素晴らしい。さすがは『婿殿』」
数刻後エレナの親でこの街を実質的に支配する大商人ライヒは、低姿勢でタモンにすり寄ってきていた。先日、会見をした当初の高圧的な態度を覚えているタモンからすれば、吹き出しそうになるくらいの見事な手のひら返しだった。
そうは言っても軽く一風呂浴びて、妻二人とコトヒとともにのんびり休んでいるところに待ちきれずに踏み込んでくる強引さは健在だった。
「難しい課題でしたランダ軍の撃退を果たしていただき感謝しております。我が陣営としても準備する時間を稼ぐことができました」
まるで、ライヒからの依頼で撃退したかのような話しぶりだとタモンは内心では苦笑いしていたけれど、特に口出すこともなくそのままにしておいた。
「問題をクリアしたからには、エトラ家は全面的に協力してくださるということでいいのでしょうか?」
タモンが口を出す前に、エレナが威圧的に問いただした。
「もちろんでございます。王妃さま」
親子の間での冗談めかした何か芝居がかったやり取りなのかとタモンは思ったけれど、ライヒは本気で自分の娘に対して汗を流しながらほとんど平伏していた。
「エトラ家で雇っております兵を全て婿殿にお預けいたします」
ライヒは、頭を下げながら剣を差し出した。実際に戦場で使うような剣ではなく儀式用に飾りの多い短い剣だった。普通に考えれば指揮権を象徴するための剣であって、一時的にせよ忠誠を誓いエトラ家と兵をタモンに預けるという儀礼なのだということは分かるのだけれど、武官からではなく商人からの剣をそのまま受け取っていいのか少し戸惑っていた。
「ご安心ください。エトラ家には、ばれたらとても困るような取り引きがいっぱいあるのです。ふふ」
ライヒの実の娘であるエレナが、タモンの耳元で囁いた。
(なるほど、慌てたように宿舎に尋ねてきたのは公になるとまずいランダの軍との取り引き案件があるということか……)
タモンからすれば背筋に寒いものを感じずにはいられなかったけれど、エレナが味方でよかったとは安堵して剣を受け取った。
「新しい北ヒイロの王の誕生に乾杯いたしましょう!」
やましいことをごまかすかのように、ライヒは大きな声で大げさな祝いの言葉をならべ、酒を持ってくるように促した。
確かにこれでヨム家との戦いは、戦局は有利になったと言っていい。しかし、さすがに気が早い宣言だった。
「どうぞこれからもエトラ家をご贔屓に」
タモンとしても拒むようなことは何もなかったが、酒も揃わないうちにタモンと娘の顔色を窺いつつ揉み手をしながら乾杯しようとするライヒはちょっと面白いと思った。
同時にこれくらいの態度の切り替えがでなくては大商人にはなれないのだろうなと感心していた。
(しかし、王とかやめて欲しい)
本気でタモンはその大げさな名称だけは阻止したいと思うのだった。




