「大好きですよ。お兄ちゃん」
「そんなはずは……対魔法用の鎖で拘束し、口も塞いでおいたのに」
ショウエはそう言って、ヴァレリアを捕まえていたはずの場所に慌てて駆け寄った。
そこには、ただ床に鎖と口を塞いでいた布が残されていた。鎖は拘束した時のままで錠もそのままだった。妙に濡れているのが気にはなったが、血というわけでもなさそうだった。
改めて近寄って確認しても、忽然と姿を消したとしか思えずにしばらく呆然とする。
「元々、魔法で作った偽物みたいなものだったんじゃないのか?」
アランは、タモンと一緒に近づいてきてショウエに声をかけた。
「それでしたら、対魔法用の鎖で縛った時点で消えます」
いつの間にかそれまで空を飛び回ってトキワナの近衛兵を撹乱していた魔法使いピアが、主人の元へと戻ってきていた。
「……なるほど、それもそうか」
アランも、タモンと同様に魔法使いとの戦いに明け暮れていたのだろう。自分では魔法は使えないが、対処の仕方はよく分かっているようにうなずいていた。
「ピア。帝都に結界は張れるか? 怪しい魔力だけではなく、物理的に小動物であっても外には出られないようにしたい」
「お任せを。元々、準備はしておりました」
こうなると魔力で抜け出したのではない可能性も考えないといけないとアランは言う。
それは、この広い帝都マツリナで封じ込めるのはとても困難な仕事になるのだが、ピアは頼もしく承諾する。
「よし。それじゃあ、頼んだぜ。相棒」
ピアの肩を笑顔で叩き、他の部下たちにも指示を出すとタモンの元へと近寄ってきた。
「なあに、これでやつらの本当の本拠地が特定できるかもしれん。むしろチャンスだ。ピアたちの報告を待つとしよう」
タモンに向かって話しているのだが、横にいるショウエを慰めようとしているのだという気がした。
格好良くて、一見自分勝手に見えてもどこか気配りを忘れない。タモンは益々、このアランという男を尊敬しつつ、同時に劣等感を抱きながら向かい合っていた。
「その間に少し……話をしないか」
アランはそう言ってタモンを隣の部屋へ誘った。
「ショウエちゃんと……そちらの皇女さまは、どういう関係なんだ?」
まだまだ騒がしい玉座の間から少しだけ静かな隣の部屋に移り椅子に腰掛けたところで、タモンについてきて左右に立っている二人に視線が止まった。
「ショウエは、私の軍師です。クリスティアネさまは……」
「タモンさまの妻となります」
クリスティアネは満面の笑みで答えると、アランはしばらくは真面目な顔を保ったままでうなずいたが、頭を下げたところで吹き出していた。
「くっくっくっ、タモン殿も、可愛い顔してやってることはやってるねえ」
「い、いえ、まだ……そんな関係では……」
アランがにやにやと笑いながらいうのだが、タモンは実際のところクリスティアネのことはまだ良く知らないままだった。
見目麗しい美少女だとは思うし、クリスティアネの言う通り人質のような婚姻関係を結んでしまうのが和睦条件としては落とし所だとは思って納得してはいるが、何を考えているのかはよく分かっていなかった。
「そう決まりました。ですよね!」
タモンの両肩にしっかりと自分の両手を載せてクリスティアネは念押しする。
意外に押しの強い皇女さまの様子を見て、アランは益々楽しくなりながらタモンの表情を眺めていた。
「聞けば南ヒイロ帝国のイリーナ皇女ももうすでに妻にしているとか、いやあ、俺もそういう強引に有力者と繋がるために皇女さまを落とすところは見習わないとな」
「……クリスティアネさまにはまだ何もしておりません」
からかっているだけなのは分かっている。こんなやり取りがちょっと懐かしいとさえ感じるところもあった。
ただ、まだ幼い皇女さまたちを騙して篭絡しているかのように言われるのはクリスティアネのためにも強く否定したかった。
「あはは。……さて、男二人でどうしても秘密の話……というわけじゃないが、お二人にはあんまり理解できない話だと思うが、それは大丈夫かい?」
アランはからかうのはほどほどにして、真面目な表情へと戻っていた。
「ショウエには、聞いておいてもらった方がいいと思います」
タモンがショウエが何か言うのよりも早く答えていた。賢いショウエはきっと何かのアドバイスをしてくれる。今ではないかもしれない。将来のことであっても聞いておいてもらった方がいいと思った。
さらに反対側に立っているクリスティアネの方を見たけれど、こちらはどう扱っていいのか分からなかった。
トキワナ帝国の代表者として聞いておいてもらった方がいいのか。
いや、きっと帝国とはあまり関係のないと思っていたけれど、出会ってからの意味深な発言を思いだしつつとりあえず一緒に話を聞いてもらうことにした。
「クリスティアネさまも、どうかお座りください」
タモンは自ら椅子を引きエスコートした。
トキワナ帝国の皇女として、それとも人質兼タモンの未来の妻として扱えばいいのだろうかと悩むが、とりあえず今は、何かすごい魔法使いの一人としてアドバイスをもらえればいいかと割り切っていた。
「タモン殿は、どの程度、昔の記憶があるんだ?」
アランの率直な質問に、タモンはしばらく考えこんでいた。
「マイは学校の先輩で……一緒にあの変な粘菌生物と戦って……そして……」
『僕は負けたのだろうか』とタモンは頭を抱えた。
「そう、マイ殿は魔法使いの元祖だ。俺たち旧人類の中で彼女とその仲間の女性たちだけが侵略者に対抗できた」
「侵略者……対抗……」
時々、東京の街で仲間と一緒に戦いに明け暮れていた一瞬がフラッシュバックすることがある。
筆舌に尽くしがたい重圧の中だったのに、今のタモンは輝かしい日々のように思えてしまう。
「あなたは対抗部隊のリーダーとしてよく戦った」
アランは、今までの軽口とは違う真面目で尊敬をこめた声で『あなた』と呼びかけていた。
「しかし、あなたは妹さんが反対勢力に殺されてしまったのを境に、戦うことを放棄してしまった」
「放棄……」
アランの説明に思い出したくない記憶を思い出してきてしまいショックを受けているタモンの横で、意外にも声をあげたのはクリスティアネだった。
「いえ、違います」
「何?」
「タモンさまも妹の命を奪ったのは、反対勢力ではなくて、ただの陰謀論者です。あの侵略者も本当はお前たちが作っているのだろうというよくある妄想に取り憑かれてしまった……ただの一般人でした」
それまでは肩書きと見た目の美しさだけを見ていてクリスティアネがどんな人間なのかはあまり気にしていなかったアランが、目を見開いてクリスティアネの方を見つめた。
「君は……? 何者だ?」
「お話ししたとおりトキワナ帝国の皇女クリスティアネです。ただ、今はタモンさまの妹である紗綾さまの魂が私の中に住んでおります」
「え?」
アランは驚き、タモンも驚きつつも、やっと『そういうことか』とクリスティアネの言動に納得していた。
「『だから、あれはお兄ちゃんの失敗じゃない。ただの事故だから、気にしないで』と沙綾さまが伝えて欲しいと申しておりました」
そっと机に載せているタモンの手に、クリスティアネは両手を重ねていた。
「あ、ああ……」
タモンは言葉にならない声を出しながら机の上で頭を抱えていた。
思い出してきた記憶が急すぎて多すぎて、どんな感情なのかはタモン自身でもよく分からなかった。
人類存亡がいきなり自分と先輩の双肩にのしかってきた重圧。
身を粉にして戦ってきたなかでの世界が裏切ってきた絶望。
それでも、人類のために戦ってきた中での痛恨の失敗。
しかし、今日、いきなり目の前に現れた少女があれは失敗なんかではないよと言ってくれた。
思い出した話は壮大すぎて、そして嘆き悲しんでいいのか、僅かな光に喜びを見出していいのかも急すぎる話になって気持ちが追いついていかなかった。
「気にすることはないさ。もう、全部終わった話だ。何千年も前にさ」
アランも手を伸ばし軽くタモンの腕を叩いた。
冷たく突き放すかのような口調だったが、タモンの過去を知っているだけに慰めてくれようとしていることはタモンにも伝わってきた。
「人類が一丸になっていれば、勝てたかもしれないけれど、大人たちは足を引っ張りあった。少年少女に責任なんてあるわけがない」
自嘲気味にアランは笑っていた。大人の一人として足の引っ張りあいに苦労して、辟易もしていたのかもしれないとタモンは勝手に思った。
タモンにとっては眠っていた直前の記憶なので気にするなと言われても難しいと思ったけれど、ただそれはきっとアランにとっても同じなのだろう。
もう昔の話だ。大したことはない。
周囲から見ればそう思うことだろう。
ただ、忘れたいのだ。忘れないとやっていられないという思いは、世界中でこの男二人だけが共通して持っている感覚なのだろうとタモンはアランに対してぎこちなく微笑んでいた。
「……なるほど、魔力を増幅するために古の大魔法使いナンバー2である沙綾さまの魔力を、クリスティアネ皇女さまにつぎ込んだ結果がこれだと……」
アランは視線をクリスティアネに移して、物珍しいものでも見るようだった。
「はい」
「タモン殿に対抗する策だとすれば間抜けな話だ」
クリスティアネの話を聞いて、アランは鼻で笑っていた。結果的にクリスティアネは正気を保ち、タモンの側に親しみを感じるようになってしまったのだから。
「……そうは言っても対抗できるくらい巨大な魔力を持っているのが、他になかったってことか」
「はい、普通はすぐに取り込まれてしまって、魔力元の意識はなくなってしまうものらしいですから、それほど危険には思っていなかったのでしょう。……タモンさまもそうでしょう?」
「そうだね。大魔法使いコソヴァレの意識はもうほとんど僕の中にはないね」
タモンは、知らないはずの魔法をすぐに詠唱できてしまうようなことはある。ただ、もう魂だけになっていた大魔法使いコソヴァレが自分の中に入ってきたあの夜からコソヴァレの声を聞いたことはないとしみじみ思い出していた。
「ただ、私と沙綾さまは相性が良かったのかもしれません。魂の有り様がきっと似ているのでしょうね。沙綾さまの意識は私の中でずっと存在し続けております。ですので……」
クリスティアネは、不意に顔をあげたタモンの方に真っ直ぐに向いてこれ以上ない爽やかな笑顔を浮かべながら言った。
「大好きですよ。お兄ちゃん」
美少女からの真っ直ぐな言葉は、もちろんタモンにとっても嬉しかった。沙綾が今、一瞬だけ生き返って自分を許してくれたような気になった。
それは目頭が熱くなるくらいの喜びなのだが、それと同時に、直視できないくらいに照れてしまう。
「えっ、いや、あのいきなり何を……」
照れているタモンの様子を、今度はアランも楽しい演劇でも見るようにニヤニヤ笑ったままだったし、隣でショウエも目を輝かせて観察していた。
「沙綾さまのお気持ちです。でも、私も沙綾さまの記憶を共有してから、ずっと素晴らしい方だと思っておりました。いつも素直になれずについ憎まれ口ばかり叩いてしまった沙綾さまの分まで、好きだと言ってあげますので」
(今、妹の沙綾がクリスティアネさまの中で恥ずかしくて暴れているんじゃないだろうか……)
そんな想像をしたけれど、クリスティアネは全く動じることがなくぐいぐいと押してきていた。
「これからは、沙綾さまの分も私がお支えいたします。ぜひずっとお側においてくださいね」
両手でタモンの手を包み込みながら、そう懇願していた。ほとんど話してもいないときからなぜ自分に好意的なのかが疑問だったが、それに関して腑に落ちた気がした。
「ありがとう」
簡単な言葉を言いながら、タモンは目を潤ませていた。
ずっと妹を助けられなかったことを後悔していた気がする。もう本人はこの世界にはいないかもしれないけれど、その言葉でタモンの魂はやっと救われたような気がしていた。
「あー。うん、でも……」
「どうかなさいましたか? お兄ちゃん」
少し煮え切らない態度になったタモンに対して、さらにもう一歩踏み込むクリスティアネだった。
「いや、なんとなく妹の意識がある人を妻にするというのは、ちょっと抵抗があるな……なんて」
冗談めかして笑った言葉に、クリスティアネは真顔で答えていた。
「体は私ですから、大丈夫です。必ずや元気な子どもを産みますわ」
有無を言わさず力強い表情でクリスティアネは宣言する。
「それとも、私の婚姻を反故にしてヒイロの北だけ戦争を続けたいとおっしゃりますの?」
クリスティアネは笑顔だった。
(こういうところは、南ヒイロの姉妹と似ている気がする)
冗談だと分かってはいるけれど、皇女ならでは圧力を感じてタモンは内心では冷や汗を流していた。




