「シオカラ節 感想」解説(2)設定
「シオカラ節」として活動しているにあたり自称web小説家の皆様のTwitterを拝見していると、作者の皆様から「なろう」等の小説投稿サイト批判や、ご自身の作品が読まれないことへの嘆きがよくTLに流れてきていました。
自分の作品が評価されないのは読者が幼稚で自分の作品を理解してくれない所為だとか、投稿サイト側が安易な商業主義に偏っている所為だ、と気炎を上げている方々が少なからずいらっしゃいましたが、私に云わせるとそれよりももっと根本的な原因があると思えてなりません。
ご自身の作品が読まれないのは宣伝不足やサイトの仕様によるものではなく、ズバリ、「話が面白くない」からです。
作者様からすれば身も蓋もない話かもしれませんが、サイトの陰謀論や自作自演によるPV数稼ぎ疑惑なんかよりよっぽど真実でしょう。
この事実から目を背け続け、Twitter等で同じ境遇の自称web小説家達と傷の舐め合いをしてクダを巻くのも楽しいのかもしれませんが、文芸に真摯に向き合っているとは到底見えません。
勿論、それらの行為自体咎められるものではありませんが、こともあろうに時にはプロ作家の批判まで平気で行うのが彼等の面の皮の厚いところ。(芥川賞作家を掴まえて酷評された方もいらっしゃいました)
それには流石の私も空いた口が塞がりませんが、その臆病な自尊心と尊大な羞恥心を捨てない限り、作家としての成長は望むべくもないでしょう。
勿論、面白くない作品=悪だとは述べませんし、プロでなければ文壇批判もしてはならないというつもりも更々ありません。
しかしながら、件の作者様達は一様にあわよくばプロの物書きになりたいと言わんばかりの見えすいた下心を隠し切れていない方々ばかりで、文壇批判にしても自己欺瞞的な拙い主張だらけでした。
これでは世に言う「意識高い系」と呼称される人々のマインドと何ら変わりがなく、私も苦言を呈さずにはいられなかったのです。
では、「話が面白くない」理由は何なのか。
その根幹は、作品の「設定・ストーリー」に魅力がないから、と言い換えることが出来ます。
また前置きが長くなりましたが、本章では作品の根幹に関わる「設定・ストーリー」に関して私の弁を述べさせて頂きます。
まず、面白い作品における「設定・ストーリー」とは何なのか、という本論に入る前に、近現代小説の定義・遍歴を抑えておきたいと思います。
現在では所謂『純文学』『大衆小説』『ライトノベル』『児童文学』等のカテゴライズがされておりますが、日本近現代文学においては、その源流は坪内逍遥『小説神髄』でしょう。
それまでの文学作品といえば、戯作と呼ばれる通俗的な話が主流でした。
江戸時代の大衆小説と呼ばれるもので、人情本や滑稽本、ちょっとエロい遊びについて書かれた洒落本、現代のライトノベルに通ずる読本など、多岐に分かれますが、主な特徴としてはあくまでも『虚実』であること。
むしろ江戸時代の文学の方が現代文壇に近いものがあるのがお分かりでしょう。
ただ、現代大衆小説との違いとしては、善人はあくまで善人、悪人はあくまでも悪人といった書かれ方しかされておらず、
人間の内面的多様性にあまり踏み込んでいない点が挙げられます。
これに時代が進み明治時代になると、海外の思想、文化が流入し、むしろこれらを積極的に取り入れようという動きが始まります。(仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』など)
また、従来の小説に道徳的、政治的な色合いを含めた作品も発表されるようになります。(矢野龍渓『経国美談』など)
これらの風潮に待ったをかけたのが、坪内逍遥の『小説神髄』だったのです。
坪内逍遥は、著書『小説神髄』にて、作りごとではなく、小説には人間の心や現実をありのままに映し出すこと(写実)が必要なのだと説いています。
当時西洋から流入した、所謂『ロマン主義』(理想主義)文学への反発ともいえ、それに二葉亭四迷によって完成された言文一致体が合流し、永井荷風、島崎藤村、田山花袋によって『自然主義』文学として確立します。
しかし、この写実的な文学表現においてその結果、小説の内容は事実そのままが理想であるという認識が徐々に浸透していき、その流れはもっぱら作家の身の回りや体験を描く私小説に「矮小化」してしまう向きもありました。
それに意を唱えたのが志賀直哉、有島武郎等の白樺派で、写実のみを追い求める自然主義に反発し、人間の理想を個人主義、自由主義的な発想をもって追求したのです。
更に白樺派の理想主義が現実にそぐわないものとして芥川龍之介、菊池寛等が新現実主義を主張し、リアリズムに回帰する動きも現れます。
また、社会問題としての労働小説(プロレタリア文学)も弾圧を受けながらも小林多喜二等によって大成されました。
そしてそれが二十世紀に入り、戦後を迎えると『第三の新人』と呼ばれる人々に受け継がれ、また、通俗小説と呼ばれた大衆小説も戦後の解放間が満ち溢れる中で台頭します。
そして「内向の世代」を経て村上龍や高橋源一郎に代表されるポストモダン文学が現れ、村上春樹がニヒリズムとアイデンティティの喪失をテーマとした文章で一躍脚光を浴び、現在に至ります。
ここまで書き連ねてきましたが、要するに何が言いたいのかというと、近現代日本文学においては写実と理想、全体主義と個人主義という対立構造が見てとれ、紆余曲折を経て現代へと受け継がれているのです。
もう少し分かりやすく整理しますと、
・プレモダン文学(前時代的文学)【明治期】
自然主義文学と理想主義文学の対立構造の確立
↓
・モダン文学(近代的文学)【大正〜昭和前期】
プレモダンからの脱却、社会革命的全体主義文学の隆盛
↓
・ポストモダン文学(現代文学)【昭和後期〜】
個人主義による内面的表現に重きを置く
という流れになるのではないでしょうか。
言葉の定義については諸説あることは勿論、私自身専門家でも何でもないので予め間違いがあることはお詫びしておきます。
ただ、何故こんな退屈で長ったらしく、知識人振った日本文学史擬きの文章を書き連ねたのかと申し上げますと、『純文学』も『ライトノベル』も「小説」であることには変わりは無く、日本近現代文学の変遷を無視してライトノベルを語ることもまたナンセンスだと思ったからです。
そして、ライトノベルも内包されるサブカルチャーにおいても、これらの図式が成り立つのではないでしょうか。
サブカルチャーに置き換えますと、
・プレモダン
手塚治虫を起源とするジュブナイル的娯楽作品
熱血主人公を軸とした友情・努力・勝利を理想とした
男根主義的作品
・モダン
『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』に代表される、内向的主張と精神的リアリズムの追求
・ポストモダン
『セカイ系』に代表される外界と自己との関係性を描いた作品
『異世界転生』に代表される、「虚構」と「現実」の融和
と私は解釈しております。
そして、ライトノベル自体もまた近現代文学作品から影響を受けているといっても過言ではない気がします。
分かりやすい例でいうと、「やれやれ」系主人公。
ラノベ界隈でもポピュラーな存在として時折揶揄されますが、その源流まで遡っていくと、村上春樹に行き当たります。
他にも、後述する『異世界サンドイッチ』問題等も、その根底には理想 対 写実の構造が根を張ってたいたりと、自称web小説家の皆様が日頃別物と捉えていらっしゃる『純文学』も、それが小説である以上、似たような問題を抱えているのです。
そういう意味では、近現代文学の成り立ちを踏まえておくのも、ライトノベルとはいえ無駄な作業ではないと考えます。
それ即ち、「貴方にとって、小説とはどういうものか」
という作家のモットーに帰結するものだからです。
さて、それを踏まえて現代のエンタメ作品ついて考察させて頂くと、先程の構造を踏まえれば、サブカルチャーにおいても理想主義、新現実主義、個人主義という変遷が当て嵌められるのではないでしょうか。
このことを踏まえて現代のエンタメ作品の構造を分析すると、
プレモダンとモダンの融和としてのポストモダン、という見方も出来るのではないかと考えます。
異世界転生物を例に取ると、理想主義的な虚構世界【理想主義】に現実世界の主人公【自然主義】が転生という形でやってくる、という風にも解釈出来ます。
そしてそれは異世界転生物に関わらず、現代のエンタメ作品の一つのテーマのように思えてならないのです。
ここで初めて、現代エンタメの創作法として度々見かける、
「大きな嘘をひとつだけついたら、あとはディテールに至るまでリアルを追求せよ。」
という言に繋がります。
つまりは、理想主義的な虚構を一つ主題として定義し、そこを新現実主義的な要素を隙間なく肉付けすることで作品世界の構築を図る、という形です。
この形式は特にスポーツ物において顕著であると感じられ、現在人気博している『ダイヤのA』『ベイビーステップ』『ジャイアントキリング』などの作品は全て「リアリティ」がウリになっている作品です。
リアリティに拘泥しすぎるとエンタメとしての魅力が壊死してしまうのでバランスは大事ですが、ジャンルに関わらず大ヒット作品にはこの図式が存在しているのではないかと感じるところです。
しかしながら、web小説におけるアマチュア作品はこのセオリーに則って書かれている作品は余りに少ないのが現状で、これこそが「なろう」小説が玉石混交とはいうものの石しかない、と揶揄される原因に思えてならないのです。
それを履き違えて読者に責任を擦りつける作者の皆様には、最早怒りを通り越して呆れるばかりなのがこの頃です。
では、ここから本題に移りましょう。
私の感想で、特に物議を醸した感想として、『bulg』問題というものがあります。
ご存じない方もいらっしゃるかと思いますので今一度ご説明させて頂くと、とある作品(前章で取り上げた『感想欲しい』作者様のものの一つ)に対して私が付けた感想が余りに酷いものとしてちょっとした炎上模様になりました。
その感想で指摘させて頂いた問題が、ハイファンタジーにおける設定・世界観について。
特に槍玉に上がった私の弁として、「都市名などの作品世界の固有名詞が英語的表現とドイツ語的表現が混在しており、作者のその場の思い付きでテキトーに付けられている」
というものがありました。
これについて取り巻きの作家様からは非難轟々、私は激しく糾弾されることとなりました。
返って来た反論を纏めますと、
「そもそも実在しない『異世界』において現実世界の言語の隔りなど存在せず、造語に関して茶々を入れること自体がナンセンス」
「自分の作品で付けた造語に関して必ず意味を持たせないといけないというルールなどない」
というものでした。
中には、
「その感想を書いた方、えらいミスをしています。
ドイツ語の街をあらわす語尾、bulgではなくburg(城)だと思うのです。西洋語においてLとRは全く別物。間違えるなんて恥‼︎
知ったかの言うことなんて気にしないでください‼︎」
というご指摘まで頂戴することとなりました。
賜ったご意見については至極ごもっともで、また、自らの傲慢無知を露呈し恥をかく結果に終わったのですが、しかしながらこの弁で私が本当に提起したいことはその奥に介在しているものだったのです。
それは、物語の世界観についてのディテールの問題。
そもそも、小説はあくまで『虚構』の世界です。
事実を加工して創作される私小説や時代小説、もっと大きな括りではエッセイや随筆などもそうでしょうが、それを文章として書き著すには作者のフィルターを媒介として発信されます。
つまりは、神でもない限りは事実を純度100%で読者に提示することはほぼ不可能と言っても良く、ましてや現実に立脚しないファンタジーにおいては一からセカイを作り上げなければなりません。
分かりやすく喩えるなら、箱庭ゲームにおいて無の空間から大陸を創造し、そこで生きる生物を創り、行動規範である宗教や思想といった概念を生み出し、街を作り、国を作り……、といった、まるでMinecraftをやるかのように地道な骨を折る作業が本来は必要であると感じるのです。
しかしながら、我々が人間である以上、真に『虚構』の世界を作り上げるなど不可能に近いと言わざるを得ません。
なぜなら、人間というものは多くの場合、自らの「経験」や「知識」から物事を判断するきらいがあるからです。
それ即ち、何かを生み出すとき、人は自らの識っていることが根底にあるということになります。
この場合、例えばファンタジー世界を創造するとして、その多くは中世ヨーロッパの世界観を下敷きにしています。
それはファンタジーの古典、それこそ西洋よりもたらされた作品のある種懐古趣味的な作風に由来するものだと考えられますが、昨今の「なろう」ファンタジーにおける問題点は、そこに読者が「虚実」を感じられない、ということにあるのです。
もう少し詳しく述べさせて頂くと、多くの「なろう」作品の世界観は既存のエンタメ作品の模倣ではないか、ということになります。
つまりは、ゲームや大ヒットファンタジー小説の世界観をそのまま間借りしている、ということで、正しく二番煎じというやつです。
例えば、webファンタジー小説でよく見かける、角ウサギやウォーウルフ、ゴブリン、スライム。
どれも皆一様に同じ特徴を呈しており、web小説におけるファンタジー世界は全て繋がっているのではないかと思えるほどです。
作品世界にしても、魔王と亜人と人間での三竦みの戦いをグダグダとやってみたり、エルフは皆美人で人間の味方であったりと、似たような設定ばかり溢れ返っていました。
要するに、作品世界にオリジナリティが全く無いのです。
ここで、過去、私の感想に対して「独創性に偏っている」とのご指摘を頂きましたが、私に言わせると、その指摘自体がナンセンスです。
貴方がたは自らの作品を「一次創作」として発表しているにも関わらず、既存作品を露骨に連想させるようなもので本当に良いと思うのでしょうか。
少なくとも、商業では通用しないでしょう。
読者も似たような作品を読むなら、先行する傑作を読む方が遥かに楽しい時間を過ごせます。
或いは、大ヒット作品の続きを読むような感覚で似たような作品を探して読まれるだけでしょう。
オリジナリティが無い作品を一次創作で出されるのであれば既存作品の二次創作をやられる方がよっぽど有意義ではないかと感じるところです。
ただ、最近では商業作品においてもヒット作の二番煎じを平気でやる作品もまた目立つようになり、それこそアマチュア作品においては二番煎じどころか出涸らしになってしまっている作品も多く見られるところです。
「なろう」ファンタジーの世界観が「ナーロッパ」と揶揄されるのもこれに起因するところが大きいのではないでしょうか。
いずれにしても、なぜ「異世界転生」物に代表されるweb小説におけるファンタジー作品が酷評されるかというと、どれもこれも代わり映えしないハリボテのような世界観やキャラクターばかり見せられ、読者も飽き飽きしているからだと推察します。
しかし、断っておきますが、何も私は誰も見たことの無いような摩訶不思議アドベンチャーしか見たくない、と申しているのではありません。
むしろ、そんなことが出来るのはごく一部の限られた天才だけであり、プロの商業作家の作品でも多くは何らかのモチーフが介在していると感じるところです、。
では、自称web小説家の作品と面白い作品における世界観の違いとは何なのか。
それは、先程から申し上げている通り、設定に「虚実」があるかどうかと考えます。
断っておきますと、「写実」と「虚実」は全く異なるものです。
エンタメ作品において写実を追い求めようとすると、何処までいっても「嘘」の世界であるので、必ず矛盾が生じます。
それが、「異世界サンドウィッチ」問題の本質でしょう。
ご存知ない読者の方向けに掻い摘んで説明致しますと、あるファンタジー作品において、サンドウィッチを食べるシーンがあり、それについて物申した感想においてちょっとした論争になっていたのです。
所謂、中世ヨーロッパにおいては近代以降の食べ物である「サンドウィッチ」が出てくるのはおかしい、という「写実」派と、舞台は異世界であり中世ヨーロッパではないのだから「サンドウィッチ」が出て来ても構わないという「浪漫」派に分かれた形で、おそらく双方建設的な議論が行われないまま終息したのでしょう。
これについて述べると、ただえさえ『虚構』の極地のようなジャンルにも関わらず、下敷きとなっている中世ヨーロッパの史実と照らし合わせれば不整合が生じるのは当たり前のことではあります。
それを鬼の首でも獲ったかのように騒ぎ立てる評論家もどきの方々にも閉口しましたが、しかしながら、そのような指摘を受ける作品側にも問題はあります。
それは、作者が「サンドウィッチ」が存在することによる違和感を消し切れていない、ということなのです。
どういうことかと申しますと、例えば『鋼の錬金術師』。
押しも押されぬダークファンタジーの金字塔ですが、その世界観においては前時代的な錬金術とアンマッチしたスチームパンク的な事物がよく登場します。(汽車やホットドッグ、図書館、自動車など)
しかし、それについて我々が違和感なく作品世界に没頭出来るのは、つまりは説得力があるからです。
噛み砕いて説明させて頂きますと、作品世界において詳しい世界観の情報を、説明文での押し付けではなく場面描写や情景描写によって自然に読者へ刷り込んでいるのです。
ですから、ブレダがホットドッグを齧っていようが違和感どころかむしろ一つのキャラクターを際立たせる描写として読者に受け入れられるのです。
これこそが正に私が主張する「虚実」なのです。
では、多くのwebファンタジー小説を見てみますと、情景描写や場面描写における世界観の共有をおざなりにしている所為で、読者が己でそういった情報を補完しながら読み進めていかなかければなりません。
そうやって読み進めていく内に、いきなり「サンドウィッチ」が出て来ると、読者は面食らいます。
それまで何となく中世ヨーロッパ的な世界観を想像して読み進めていたのに、いきなり近現代の世界の事物が登場するのでそれも無理からぬ話でしょう。
さらに悪いことに、多くの作品ではそういった違和感を無理矢理捻じ伏せる様な面白い話の筋を見せられる訳ではなく、正しく文章で宙に浮いたような形で「サンドウィッチ」だけが残ってしまうのです。
しかも、ファンタジー作品においては現代が舞台の作品とは違い、現実世界を離れた幻想的な世界を追体験できるのが魅力の一つだと考えます。
その特徴においては世界観におけるこの違和感は致命的な欠陥ともいえ、読者にハリボテ感を覚えさせてしまうのではないでしょうか。
しかし、何度も言うように、私は昨今蔓延るこの中世ヨーロッパ的世界観のテンプレートそのものを批判している訳ではございません。
むしろファンタジー物を書く上では避けては通れない問題だとも感じます。
ただ、多くのwebファンタジー小説作品で怠っているのは、そこに作者独自の思想的観点が入っていないことだということなのです。
思想的観点、というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、要はドラゴン一つとっても各々がイメージする姿というのは微妙に違う訳で、そういった作者の想像する世界を文章にもっと落とし込まないといけない、という話なのです。
そして、それこそが私の提唱する設定のオリジナリティに帰結するところで、一言で表すなら、もっと作者様の言葉で貴方の創造したセカイを見せて下さい、ということです。
ただ、よし、分かった、とは言っても、中々読者を満足させるようなセカイを書くのは難しいでしょう。
それは何故か。
おそらくプロットを書いていない、もしくは不十分だからです。
ことファンタジー作品に置いては現代のように風習や事物を一言で片付けてはハリボテにしかならないので、作品で言及するしないに関わらず、緻密な設定が必要になるでしょう。
そして、それには下敷きとする世界観、例えば中世ヨーロッパならその時代の風俗、思想、宗教についても概観くらいは理解しないといけないでしょうし、「虚実」を補強する格好の材料ともなります。
ギルドや王宮が存在するならその組織構造や関係性もある程度細かく決めておいた方がよろしいでしょう。
そういった設定をきちんと整理し、物語において読者に提示出来れば、例え異世界にサンドウィッチがあろうが下手なツッコミは飛んでこなくなるのではないでしょうか。
勿論、プロットを練れば誰でも臨場感がある魅力的な世界観を打ち出せることが出来るかというと、それはまた別の問題で、最終的には書き手の感性次第といえるでしょう。
どれだけ綿密に作品世界を構築しても、そこに読者が魅力を感じられ無ければ作者の自己満足でしかなく、そこで、作者の感性が重要になってくると感じます。
無論、アマチュア文壇ではそれでも全然構わないのですが、私如きにここでまで虚仮にされては流石に貴方がたの沽券に関わるでしょう。
では、感性とは何なのか、そんなことは私にはとても言語化できることではありません。
煽るだけ煽って梯子を外してしまったのは大変心苦しくはあるのですが、こればっかりは作者の才能によるところが大きく、これぞ正しく文才と言い換えてもいいのでは無いのでしょうか。
しかしながら、感性が無かったら面白い作品が書けないとも言い切れず、というのも、感性もまた磨かれるものだと思うのです。
その多くが様々な知識や経験に基づくものであるのではないか、というのが私の弁で、菊池寛の「二十五歳未満の者、小説を書くべからず。」という言も、よく言ったものだと思います。
では、若輩者に傑作は書けないのか、というと、そんなことは無いのもまた私が論ずるまでもないでしょう。
経験や知識は完璧でないにしろ、「読書」で補完出来るからです。
そこで、私はくどいようですが、特に学生諸君にはアニメやマンガだけでなく本を読んで欲しいとも願うのです。
大仰な言い方ですが、本を一冊読むことに一人の人間の人生を追体験出来、そこから色々なことを識れることでしょう。
それこそ私自身学生時分に余り本を読まなかった経験から、老婆心ながら申し上げておきます。
ここで、話としては一区切りつきましたので、次話ではいよいよ自称web小説家のストーリーについての問題点について述べたいと思います。
もしよろしければ、引き続きお付き合い下さいませ。