「シオカラ節」誕生の経緯(2)
そもそも、昨今の芸術活動においてはそれまでの創作者と消費者の関係が大きく様変わりしていると考えています。
今日のインターネットの普及により芸術活動の門戸は開かれ、今やパソコンやスマートフォンがあれば誰でも気軽に作品を発表できる環境にあることはもはや説明するまでもないでしょう。
一昔前までのアマチュア創作活動は所謂アンダーグラウンドな側面が強く、各ジャンルの好事家達が限定されたコミュニティに集って各々の活動を披露していました。
それこそコミュニティ外の不特定多数の人々の目に止まる可能性はまずあり得ないもので、分かりやすく例えるなら昔のコミケ等の同人サークル活動に似た性質を持っているのではないでしょうか。
衆目に晒される作品を披露するにはそれこそ公募により専門家達の厳しい審美眼に叶う他なく、創作者とは正しく選ばれたチート能力を持つ主人公と同義だったのです。
それがインターネットの普及と時勢としてサブカルチャーの世間一般からの受容が上手くマッチした結果、
SNSサイトや動画投稿サイトを中心として所謂「素人」でもコミュニティの壁を超え、それこそ全世界の人々へ己の作品を発表できる機会が増えました。
また、インターネットの特性を生かし作者と読者の距離が急激に縮まり、リアルタイムで読者の反応が返ってくるようにもなりました。
作者にとっては読者からの「面白かった」という声が比較的容易く拾える結果となり、あくまでも自己満足でしかなかったものが、他者理解という外の世界からの受容を通じて今までは選ばれし者しか甘受出来なかった陶酔に浸ることが出来るようになりました。
しかし、誰でも時間と場所を選ばず、しかも金銭的な負担もなく自由に創作出来るこの環境において、少なからず「勘違い」をする方々も見受けられるようになったのです。
今までは「プロ」として認められた人物しか味わえなかった感覚を享受することで、自らもまた「作家」を気取る者が後を絶たなくなったのです。
私は密かにそれを「作家ごっこ」と呼称しているのですが、予め断っておきますと、その行為自体は私は勿論肯定もしなければ否定も致しません。
むしろ青年期特有の思い上がりや根拠のない自信については自らも似たような節がありましたので、微笑ましくさえあるぐらいです。
ただ、この度問題として指摘させて頂いているのは、図々しくもプロならいざ知らず、それを他人に対しても押し付けていることなのです。
さて、前置きが大分長くなってしまいましたが、話を戻しましょう。
先程の問題のツイートに対して自称ネット小説家の皆様は、作家とあろう者が読者様の感想を拒否するなんてとんでも無い、とばかりにか弱い乙女に対してにべも無い対応した作者に対して寄って集って糾弾を繰り返していましたが、そこに私は「作家ごっこ」を見たのです。
私は前述の通り違和感を覚えたので、問題に目を向けて貰うためこのようなリプライを飛ばしました。
「これって結構難しい問題だと思います。
プロが同じ台詞を吐いたなら物議を醸すこと受け合いですが、アマチュアはあくまでも趣味ですからね。
アマチュア作品においては読者と作者の立場は同等だと私は考えてるので、作者側にも感想を拒否する権利はあるかなと考えます。」(原文ママ)
補足させて頂きますと、『小説家になろう』に代表されるSNS投稿サイトは基本的に誰でも無料で投稿、閲覧出来ます。
この「無料」というところが今回の問題の核なのです。
作家に限らず、現代社会においてプロとアマチュアの境界線は「料金」が発生するかどうか、という所だと私は考えます。
勿論、作品のクオリティや芸術性などそれ以外の要素も多分に含まれてはおりますが、結局のところはそこに「金額」という価値が生まれるかどうか、という点に収束する気がしてならないのです。
ことライトノベルに代表されるエンタメ色が強い作品は商業的な価値に重きを置かれることが多く、マーケティングにより消費者に求められる作品を生み出す側面も有るのではないかと感じており、その定義からいくと顧客である読者の声にも耳を傾ける必要も自ずと生じてきます。
しかし、アマチュア作品は別です。
そこに利益を生み出すことを課せられているという命題が与えられていない以上、作者と読者という関係性はあくまでその文字通りの関係でしかなく、金銭が直接絡むこともないので資本主義的な生産者と消費者、売り手と買い手といった構図は成り立ちようがありません。
ですが、ここで、アマチュア言えど自費出版や投げ銭のシステムが有る、という低俗な反論が返ってくることでしょう。
それについては余りに浅はかと言わざるを得ません。
動いている人間、投資している金額、全て桁違いなのです。
見下すような言い方になりますが、所詮アマチュアが同人活動の一環で精々数十部ほど刷ったり投げ銭で数百円から数千円稼ぐのと、社員を少なくとも複数人擁する出版社を通して書店に並ぶような作品を出すのとでは課せられている責任が天と地ほど差があります。
無論、作家一人で背負わされているものでは無いことは自明の理ですが、それでも売上の根幹を占めていることには変わりはありません。
アマチュアは売れなければ最悪自分の財布を痛めるだけで済みますが、プロではそうはいかず、出版社はヒット作を作らなければたちまち経営が立ち行かなくなりますし、作家にとっても生活がかかっています。
最も、純文界隈を筆頭に、近年は兼業作家も当たり前になりつつあるようですが。
いずれにせよ、のぼせ上がるのも分からなくもないですが、文芸界に関わらず、プロとアマは隔絶された世界を見ているのです。
そのことを踏まえて、改めてもう一度私の弁を述べさせて頂くと、読者に顧客という属性が付かない以上、そこに立場上の優劣は存在しないことになります。
折角書いた作品を多くの方に読んでもらいたい、というのは作者の人情でしょうが、あくまでも読む読まないは読者の自由ですし、書く書かないも、そこに金銭という責任が生じない以上、作者の自由です。
この真理が横たわっている限りは感情的な問題を除けば、作者と読者は同じ投稿サイトの利用者でしかない、という結論に行き着きます。
つまりは、作者も読者を選べるのです。
読んで欲しく無ければ勝手に非公開に出来るし、貰った感想が気に食わなければ投稿するなと文句を言って構わないのです。
別に、自分が好きで書いているだけなのですから。
それを商品でもないのに勝手にああだこうだ言うのも本来はナンセンスですし、それこそ皆様が日頃から使われる、「嫌なら読むな」です。
ただ、このことすら理解していない方々も少なくないのが現状です。
例えば、「感想屋」問題や、「#RTした人の小説を読みに行く」問題。
ご説明させて頂くと、読者に恵まれないweb小説作品に対してTwitter上で読者募集をかけたり有償で作品を読み感想を書くサービスにおいて読者側と作者側でトラブルになっているもので、犬も食わないような地獄絵図があちこちで広がっているのです。
もう少し詳しく述べると、読みに行くと約束しておきながらいつまで経っても読みに来ないという不義理であったり、書かれた感想が作者にとって受け入れざるものであるものとして依頼者に噛み付たりといったもので、私としては双方共に呆れ返るばかりでした。
私としては、作者は読者に感想を貰うこと自体、価値を求めるべきではないと考えています。
作家側から見れば感想を貰えば励みになるでしょうし、しかもそれが好意的なものであれば、自己肯定感に満たされ天にも昇る気分を味わえるでしょう。
しかしながら、読者が感想を書こうが書くまいが作品にとっては本来は何の関係もないのではないでしょうか。
感想が沢山付いているから面白い作品である、という見方も一理あるでしょうが、あくまでそれは結果としてついてくるものであり、作品そのものの本質からはかけ離れている気がしてならず、
そして、自称web小説家の皆様が何故「感想」が欲しいのか、という理由については、正しく自分本位な承認欲求に基くものだと思えてならないのです。
先程の「感想」が欲しい、という作者様の中には自分の作品を客観視出来ないので輪読のような形で読んでもらって意見を拝聴したい、という殊勝な作者様も居ることは居ましたが、中には、いざ返ってきた率直な感想を素直に聞き入れられず反発してしまう幼稚な作者様も多数見かけ、そこにはやはり根底には自らを褒めて貰いたいという見えすいた考えが隠し切れていませんでした。
よくTwitterのTLで叫ばれる「作者を本当に応援しているんだったら感想を書け」という厚かましいにも程がある弁もここに帰結しているのでしょう。
しかし、自己表現を多くの人に見てもらって評価してもらいたい、皆に認められたい、という想い自体は私は否定するつもりはありません。
むしろ文芸に関わらず芸術活動をしている人間にとっては当然抱く健全な欲求です。
ただ、この度問題とさせて頂いているのは、その自己承認欲求が肥大化してありもしない義務を読者側に押し付けているその姿勢なのです。
たとえ作品が面白かったとしても感想を書く書かないは読者の自由ですし、その意見に振り回されて過剰に反発したり、あまつさえ感想が貰えないことにいじけて筆を折ると喚くのは作者の器の小ささを露呈するばかりで見苦しいことこの上ないと言わざるを得ません。
貴方がたは本当は小説ではなく、小説を書くことでちやほやされる自分が好きなのではないかとこれまた下衆の勘繰りをしたくなるほどです。
勿論、品性に欠ける単なる誹謗中傷に対しては大いに怒るべきだとも思いますが。
同じことは読者側にも言えます。
私が言うのも何ですが、偉そうに評論家振って頓珍漢な意見の押し付けをする輩もまた手に負えないところ。
例えば、私が見かけた「自称」感想屋は取るに足らないような文法の誤用を指摘して鬼の首を取ったかのように作者の不手際を糾弾する者がいました。
私に言わせればそんなところよりもまず触れないといけないところはごまんとあるだろうと思わずにはいられなかったのですが、当の本人は批判もどこ吹く風、といった具合で、恐らく今日も程度の低い添削もどきを作者に押し付けているのでしょう。
俎上に上がった例の「感想屋」はもっと質が悪いと感じました。
実態としてはTwitter上でweb小説の「ポジティブ」な感想を書く、という一見何の問題もないようですが、これを「有料」でやる、と平気で喧伝していたのです。
金払ってくれたら俺がお前の作品褒めてやるよ、と言ってるようなもので、私が現役の時分なら人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と吐き棄てるのですが、何故か利用者が後を絶たないと聞きます。
そこまでして自分を肯定してもらいたいならキャバクラに行った方がよっぽどマシに思えてならないのですが、中高生のお坊ちゃん達は大人の遊びはまだ出来ないでしょうから、成人してから訪ねてみて下さい。
恐らく「感想屋」よりよっぽど気持ち良くしてくれます。
そう、百歩譲って的外れな批評崩れの感想を書き連ねるのはまだ許せるとしても、彼等の真に罪深いのは、それで小遣いを稼ごうとしている意地汚さなのです。
私が出会った感想書きも「自分が金銭を請求するのは自衛の為」だと嘯いていましたが、いったい何から自分を守る必要があるのか、ほとほと理解に苦しみます。
プライドの高さだけは一丁前なところは「自称」ネット小説家と何ら変わらず、正に似たもの同士であるのが面白いところで、「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない」とはよく言ったものだと思います。
そんな「評論家ごっこ」をする方々には、そんなに自らの発言に箔をつけたいのであれば、まずはそれ相応の教養を身に付けてからにしましょう、と一言付け加えておきます。
ここらで切り上げて話を纏めますと、要は、作者も読者もSNSではそれぞれの分を弁えた言動を心掛けましょう、ということです。
恐らく大多数の方々は私にそんなこと言われるまでもなく理解されているでしょうが。
また横道に逸れてしまったので話を戻しますと、残念ながら折角私が一石を投じるべく放った発言に関しては一切反応がありませんでした。
そればかりか、態々別のリプライで、
「誰にでも感想を書く権利があります」
と逆に返す刃で斬り付けられてしまったのであります。
これには私は甚だ落胆しました。
しかも表現を和らげて「難しい問題ですが」と濁してるにも関わらず、この発言に関して取り上げられることもなく、被害妄想のような響きですが、一笑にふされたように感じてしまったのです。
私が義憤に駆られたのはその時でした。
取り巻きの自称web小説家達に対して、
「そこまで言うなら遠慮なく、自らがweb小説に対して不満に感じているところをぶちまけてやろうじゃないか、なんせ、『どんな感想でも貰ったら嬉しい』らしいじゃあないか。吐いた唾飲み込むなよ?」
と、その時私は初めて、その時当該作者様を非難した自称ネット小説家の皆様に無勝手流に率直な感想をぶつけてみる悪魔的な実験を思い付いたのであります。