98 奇跡
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「一件落着、ですかね」
ポラは両手を腰に当て、ふう、と大きな息を吐いた。
「思わぬ展開になっちゃいましたが……まあ、結果オーライでしょう。ポチ君、ご苦労様でした。よく調べましたね」
「はい」
と、俺は頷いた。
「結局、また船長の力を借りちゃったんスけど。でも……正直、俺たちの出る幕は最初からなかったのかもしれないですね」
二人を見ながら俺は苦笑した。
そうですね、とポラは目を細めた。
「とはいえ、そもそもがシーシーちゃんのおせっかいでしたから。その割には悪くない着地だったんじゃないですか」
ポラは少しわざとらしく肩をすくめて見せた。
そりゃそうだ、と思って俺はまた笑った。
大体、シーシーが絡むとろくなことにならないのが常だ。
だけど、極まれにこういうこともある。
つと彼女を見ると、シーシーはヨシュアを四つん這いにさせ、それに跨って遊んでいた。
なんか――また妙なことやってる。
「しかし」
と、ポラはミスティエに目を移した。
「しかし、驚きました。まさか、船長までこの店にやって来るなんて」
「たまたま暇だったんだ」
ミスティエはあっけらかんと答えて、もぐもぐと何やら咀嚼しながら言った。
「しかし、今日は仕事が二つも上手くいった。ポラ。これからまた、忙しくなるぞ」
裏手でピースサインを作りながら、シャハハ、とミスティエは満足そうに笑った。
それから、また手の中にある油紙の包まれた食べ物をむんずとつかみ、豪快にそれを口に放り入れた。
もぐもぐと咀嚼し、美味そうに食べる。
「また悪そうに笑って。今度はなんですか」
ポラはまんざらでもなさそうに言った。
「ところで船長、あなたさっきから何を食べてるんです?」
これか? とミスティエが言った。
「こりゃよ、さっき上の厨房で見っけたんだ」
「厨房で?」
「ここに来る途中、なんか油くせーと思ったら、なんか芋みてーなの揚げててよ。それが妙に美味そうだったから、持ってきたんだ」
ミスティエはそう言うと、またもう一枚、それを口に放り込んだ。
「そしたら本当に美味かった。なんつー料理だ? これ」
ポラははっとした。
「そ、そうだった――そう言えば、ここに来る前、トバツの実を油にかけたままだったんだ」
今更のようにポラは慌てて、ミスティエに詰め寄った。
「せ、船長、それ、どうなってました」
「どうって何が」
「鍋の油の様子です」
「白い煙が出てた」
「そんなに高温になっていたんですか」
ポラは顎に手を当て、少し考える素振りを見せた。
そして、小さく「なるほど」と独りごちた。
「船長、それ、私にも一枚ください」
ポラはそう言うと、ミスティエの腕から数枚、トバツの実をスライスしたものをつまんだ。
そのうちの一枚を口に放り入れる。
カシュ、という小気味よい咀嚼音が、横にいた俺にも聞こえた。
口の中で一口噛んだの瞬間、ポラは目を見開いた。
「ロ、ロベルトさん!」
「な、なんだい?」
ロベルトは目を上げた。
「いつまでバカみたいに抱き合ってんですか! それどころじゃないですよ!」
「バ、バカみたいって」
「分かったんです。油の温度のコツが! トバツの実を綺麗に揚げるには、通常よりも高い温度で、思ったよりずっと長時間揚げる必要があったんです」
「だからそれは一体」
「トバツチップスですよ!」
ポラはロベルトを遮り、強引に立ち上がらせると、持っていたもう一枚のチップスを食べさせた。
「……美味い」
一口食べるなり、ロベルトは呟いた。
「でしょう!」
ポラが大きく何度も頷く。
「お、俺も一枚」
俺は横から手を伸ばして、ポラの手から一枚頂戴して口に放り入れた。
パリッ、と口の中で心地の良い食感が弾けた。
揚げた芋独特の香ばしい味がして、次にさっぱりとした油の甘みが口に広がった。
スッキリとした塩味も利いていて――めちゃめちゃ美味い。
「す、すごいっす! これですよ、俺の世界にある料理は」
それは、完全に“ポテトチップス”を再現していた。
いいや、もしかしたらそれ以上だ。
この風味。
野菜の甘みと塩加減。
完璧だ。
「ちょっと、もう一回上で再現してみましょう」
と、ポラが言った。
「ほら、船長も来てください」
「あぁ? あたしも?」
「当たり前でしょう!」
ポラは叱るようにぴしゃりと言った。
「その時の油の色や切り方を再現しますから。実際に目で見たのは船長だけ。あなたがいないと話になりませんよ。それから――あれ? そう言えば、この塩味、一体どうしたんですか」
言われてみればそうである。
このトバツチップス、ちゃんと塩味がついている。
ああ、とミスティエは短くうなずいた。
「これは適当に机にあったやつをかけたんだよ。なんか味気なかったからよ」
「適当に?」
ポラは口を一文字にして、喜びに打ち震えるように首をふるふると振った。
「て、天才ですよ、船長。この塩分、揚げたトバツの実にぴったりです」
「あん? んだよ、天才って」
「実は私、塩加減も迷っていたんです。何度かけても、どうも違うと思ってて。でもこの塩の塩梅は完璧に――」
「ちょっと待ってください」
ロベルトが横から口を挟んだ。
「この塩はうちのものとは違う。というより、通常の料理塩じゃない。なんというか、もっと混じりけの少ない塩だ」
「普通の料理塩じゃない?」
ポラは眉根を寄せた。
「なるほど、そういうことですか。塩加減の問題ではなく、塩そのものの種類が違ったんですね」
「ミスティエさん、これはどこで」
ロベルトが聞いた。
「だから厨房にあったやつだ。なんか、茶色い袋に入ってた」
「茶色い袋?」
「ああ」
「それじゃあ、やっぱりウチの塩じゃない」
どういうことだ、とロベルトは考え込んだ。
「ウチの調味料でそんな色の梱包をしているものはない」
「どういうことでしょうか。なぜ、厨房に店のものじゃない塩が――」
そこまで言ったとき、俺はハッとした。
すぐにピンと来た。
ポラの方を見やると、同時に彼女もこちらを向いた。
「エリーさんが持ってきた塩だ!」
「エリーさんの塩だわ!」
俺とポラは同時に言った。
「あの塩が、こんなに合うなんて」
「と、とにかく、ちょっと試してみましょう」
ポラはウズウズしたように言った。
たまたまベストのタイミングで船長が通りかかり、たまたまエリーさんが持ってきた塩が料理にベストマッチしたのだ。
この“奇跡”のような出来事に、心が躍らないわけがない。
……いいや、違うか。
少し考えて、俺は首を振った。
もしかしたら、これは奇跡なんかじゃないのかもしれない。
あの人が、今の二人を見て、不思議な力で新しい『デイジーズ・ファン』の看板料理をプレゼントしたのかもしれない。
「よし、それじゃあ早速厨房に戻って、みんなでこの味を再現しようぜ!」
と、俺は言った。
「今夜は長くなりそうだ。ルナちゃん、君はみんなに眠気覚ましのコーヒーを淹れてくれ。シーシーさんとヨシュアは、試食係だ」
「おうポチ公。なーんでテメーが仕切ってんだよ」
シーシーが口を尖らせる。
「まあいいじゃないっすか。今夜は長いです。一緒に頑張りましょう」
ヨシュアはシーシーの手を握った。
うるせー、とヨシュアの顔面をグーで殴った。
「ベタベタすんじゃねーよ。気持ち悪ぃやつだな」
「いいじゃないっすか。減るもんじゃないっすよ」
彼は鼻血を垂らしながら、嬉しそうにほほ笑んだ。
俺は苦笑した。
どうあってもにぎやかな人たちだ。
そして――
最後に、俺はへたりこんだままのルナを見た。
「さあ、ルナちゃん。君も一緒に、厨房に戻ろう」
そう言って、手を差し出した。
ルナは手を伸ばし、だが一瞬、怯んだようにぴくりと手を止めた。
「早くしろよ、ルナ」
と、俺の背後でシーシーが言った。
「うちはブルーソーダジュースだ。フルーツとカスタードクリームをどっさり乗せろ。いつものスペシャルだぞ」
シーシーはへばりつくヨシュアを剥がしながら、口の端を上げた。
ルナは目を少し大きく見開いた。
それから大きく頷くと、
「はいっ! 分かりました」
そう言って、グッと俺の手を握り返し、元気いっぱいの笑顔を見せたのだった。