97 真実
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「ポチ君」
ポラが口を開いた。
「ずいぶんと劇的に現れましたが、くれぐれも慎重に言葉を選んでください。もしも慰めのために場当たり的なことを言っているんなら――」
本気で怒りますよ。
ポラは俺を睨むように見て、そう言った。
珍しく感情を露わにしている。
だが、きついその言葉とは裏腹に彼女の口吻には棘がなく、むしろ何かを期待しているかのようだった。
「当然です」
俺は頷いた。
「ちゃんと裏取りをとっています。俺も、ポラさんの仕事を傍で見てきましたから。不確実なことは言いません」
「裏取り、というと」
「プリムと船長の力を借りて、当時の事件を調べてきました」
「船長が――?」
ポラは驚いたように目を見開いた。
俺はそうですと言うと、ルナの方へと近づいた。
「ルナちゃん。ちょっと、俺の話を聞いてくれないか」
ルナは返事をしなかった。
ただ、意思のない人形のように地面を見ていた。
聞いているのかどうかさえ分からない。
それでも、俺は口を開いた。
「結論から言うと、ルナちゃん、デイジーさんは君が殺したわけじゃないんだ」
ルナの体がびくりと震えた。
彼女は顔を上げて、口をぱくぱくとさせた。
言葉は出てこなかったが、どういうこと、と動いているように見えた。
「実は、さっきまで俺は“バーギト”の本部ビルにいた」
「バーギトのビル?」
ポラは眉根を寄せた。
「はい。ここからすぐ近くにある、メラー通りの一際大きなビル舎です。あそこにいる、ボスに会ってきた」
「バーギトの今のボスって言ったら――トラオレの息子か」
ヨシュアが口を挟んだ。
俺は「ああ」と頷いた。
「“バーギト”はヌンド大陸の血を引く一族が支配する移民系マフィアだ。今は表向きおとなしくしているが、どうやらこの息子が切れ者で、近年はフロント企業を上手く運用して順調に資金を増やしてる。“とある人”の見立てでは、時期が来れば一気に勢力を伸ばすと言われてるらしいんだけど――」
「そんな話はいいです」
ポラが聞いた。
「余計な蘊蓄は今この場では必要ありません。大事なことだけ話しなさい。あなたは、どうしてバーギトのアジトなんかに行ったんですか。トラオレの息子と3年前の事件に、どんな繋がりがあるんです」
「分かりました」
頷いてから、俺はルナに目を移した。
「では、3年前の事件の話をします。ルナちゃん。君は、3年前のあの日、デイジーさんと路上を歩いているとき、二人組の男に出くわした。その二人はバーギトのボスと、組織の殺し屋だった。そうだね?」
ルナははいともいいえとも答えなかった。
俺は構わず続けた。
「その時、トラオレと殺し屋の標的は当然君だった。二人はルナちゃんに襲い掛かる手はずだった。だがその時、一番最初に動いたのはデイジーさんだった。彼女の方から、二人に襲い掛かったんだ」
「デイジーさんの方から?」
ポラが聞いた。
「どういうことですか。なぜ、デイジーさんが」
「トラオレはデイジーさんの仇だったんです」
俺は彼女の方は見ず、ルナを見つめたまま言った。
「奴は彼女が長年追い続けた、殺したいと思っていた相手だった。二人には、浅からぬ因縁があったんです。だから、トラオレを見た瞬間、デイジーさんは我を失った」
俺は半歩、ルナに近づいた。
ルナは少しうつむいて、やがて、首を横に振った。
「ルナちゃん。あの時のことをよく思い出してほしい」
俺はさらに説明を続けた。
「デイジーさんはトラオレを視認するなり、発作的に攻撃を開始した。だから、奴らは急遽、狙いを君からデイジーさんに変更したんだ。君を殺る前に、まずはデイジーさんから殺そうと思った。そしてデイジーさんが危ないと感じた君は、咄嗟に力を解放した。赤い月としての“能力”を使うしかなかった。そして、だから君のそれから先の記憶はなくなってしまった。タガタさんから聞いている。“赤い月”は感情が高ぶり、能力を発動したとき、一時的に記憶が無くなると」
俺はさらにもう少し、ルナに近づいた。
彼女は呆けたように、泣きはらした瞳で俺を見上げていた。
「そうして記憶が戻った時、君の目の前には3つの死体があった。殺し屋とトラオレ。そして、デイジーさんだ。そして君は、一番にデイジーさんに駆け寄った。すると、首筋にナイフの刺し傷があったのを見つけた。それを見て、君は確信したんだ。我を失った自分が、デイジーさんを殺したんだと」
ルナは小刻みに震えた。
当時を思い出したのだろうか。
怯えたような表情を見て、胸が疼いた。
だが――と、俺は下腹に力を入れた。
彼女の思い込みを解くには、正確にあの時のことを思い出してもらう必要がある。
「だけど、事実はそうじゃなかった」
と、俺は言った。
「実際は、デイジーさんは殺し屋に殺されていたんだ。それも、彼女の方から攻撃を仕掛け、トラオレを守ろうとしたせいだった」
「まるで見てきたように言いますね」
朗々と語る俺を、ポラが遮った。
「なぜ、そこまで詳細を言い切れるんでしょうか。憶測だとしたら、想像が過ぎる」
「もちろん根拠はあります」
俺は頷いた。
「実際に、事件を目撃していた人間がいたんです」
「なんですって?」
「実はその時、現場にはもう一人、人間がいたんですよ。その男は近くにあった雑居ビルの陰に隠れて、一部始終を見守っていた。その人物こそが――トラオレの一人息子である、バルバトフです」
ルナの目の色が変わった。
頬が強張り、いっそ恐怖に満ちたような表情になっている。
そうなんです、と俺は続けた。
「全てはバルバトフが仕組んだことだったんです。バルバトフはその時、ある細工をした」
「ある細工?」
「奴はルナちゃんが目覚める前に、彼女が護身用に持っていたナイフを使って、デイジーさんの遺体に、その首筋に刺し傷を作った。そうして、“致命傷を捏造”したんです。“赤い月”が、彼女の母代わりであるデイジーを殺したと思い込むように」
「そんな」
ルナはそこで、ようやく声を発した。
「そんなまさか……そんなこと、信じられない」
「ポチ君。それは本当なんですか」
さらにポラが聞いた。
「ルナさんが信じられないのも無理はない。私から見ても、バルバトフの行動は非合理的すぎる。彼には、そんなことをする意味がないでしょう」
「意味はあるんです。なぜなら――彼は、ルナちゃんを、いや、“赤い月”を憎んでいたから」
「憎んでいた?」
「そうです」
俺は再びルナに目を移した。
「詳しい話は知りません。だが事実、俺は彼自身から聞いたんです。“赤い月”が憎かった、とね。だけど――ここからは予想になるけど、恐らくはそんな単純な感情ではなかったと思う。それはもしかしたら、憎しみ以上に澱んだ想いだったのかもしれない。そうでなければ、彼はその場で“赤い月”を殺して、それで終わりにしたはず。だが、それでは気が済まなかった。ある意味で、憎悪よりも偏執的な感情だった。バルバトフはそこで、“赤い月”が一番苦しむ方法を思いついた。それが、彼女が親代わりだと思っている人間を、“彼女自身が殺したと錯覚させること”だった」
ワインセラー内は静寂に満ちていた。
誰もが話に聞き入っていた。
なんてこと、とポラが微かに呟くのがやけに耳についた。
「これが3年前にあった事件の真相です」
と、俺は言った。
「だからルナちゃん。君は、デイジーさんを殺してなんかいないんだ。あれは操作された記憶だったんだ」
俺はルナを見据え、念を押すように続けた。
「もう一度、いいや、何度でも言うよ。君はデイジーさんを殺していない。トラオレに襲い掛かったのも、デイジーさんからだったんだ。だからもうこれ以上、苦しむ必要はない。君に落ち度はない」
ルナは呆けたように動かなかった。
あまりに予想外のことに、言葉が上手く頭に入っていかないのかもしれない。
無理もない。
これまで3年以上、彼女はずっと嘘の記憶に苛まれて来たんだ。
「……本当なの?」
やがて、ルナは呟いた。
「本当に、私は、デイジーさんを――お母さんを、殺していないの?」
「ああ。間違いない」
「でも……でも、やっぱり信じられない。ポチさんの言葉が本当だって、どうしても」
「本当だぜ」
突然、今度はまた別の女性の声がした。
わざわざ来てくれたのか、と俺は思わず頬が緩んだ。
振り向くと、やけにスタイルの良い美女が、階段に足をかけて何かスナックのようなものを食べながら立っていた。
「キ、白木綿だ!」
場違いなヨシュアの叫び声が室内に響いた。
ミスティエはぎろり、とヨシュアを一瞥した。
ヨシュアはその視線に射抜かれ、一瞬だけ体を硬直させたが、しかし、白木綿海賊団の熱烈なファンである彼は、次の瞬間には「すげー……本物だ」と、彼女と目が合った喜びで恍惚の表情を浮かべて、体をぶるりと震わせた。
「あ、あなたは」
「そいつの飼い主だよ」
ミスティエはルナに目線を戻すとクックと笑い、また一つ、持っていた菓子を口に放り込んだ。
「安心しろよ、小娘。今、ポチが言ったことはまるっきり、全部本当だ。まあよ、バルバトフをここに連れてきて、本人に説明させてもよかったんだけどよ。あいつは腐っても組織の大親分だ。ボスにはボスなりの面子ってもんがある。それをやっちまったら立場がねえ。だがま、お前が望むなら、今からでもここに連れて来てやってもいいぜ。バルバトフにはそれだけの責任があるからな」
「責任――?」
「事態をややこしくした責任だよ」
ミスティエは肩をすくめた。
「しかしまあ、こんなとこにヤクザものが来るのはそこのジジイも嫌だろう。だから、お前もポチを信用しとけ。ポチで足りねえっつーんなら――白木綿んとこの“海賊旗”を賭けてもいいぜ」
そう言って、八重歯を見せ、にやりと笑った。
海賊が海賊旗を賭ける。
それはつまり、海賊にとって命より大事な“誇り”を賭けるという意味だ。
長い間、裏の世界を生きてきたルナが、そのことを知らないわけがないだろう。
「ああ……ああ、なんてこと。なんてことなの」
ルナは宙空に視線を漂わせた。
そして、足もとが覚束ない様子で数歩よろめき、右の眼から涙を流した。
「私が殺したんじゃなかった――」
ルナはしゃくりあげながら呟いた。
それから、よろよろとロベルトの方へと歩いた。
「ロベルトさん」
と、ルナは言った。
「ごめん。ごめんなさい。でも、私が、私と言う存在が、あの日、トラオレを呼び寄せたことには違いない。ロベルトさん、本当にごめ――」
と、そこまで言った時。
パンッ、という乾いた音が室内に響いた。
ロベルトが、ルナの頬を叩いた。
「ロ、ロベルトさん、いったい何を――」
俺は思わず、二人に駆け寄ろうとした。
しかし――すんでのところでミスティエに首根っこをつかまれ、引き戻された。
そして耳元で、
「すっこんでろ、ドアホ」
と、ミスティエに怒られたのだった。
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室内には、再び沈黙が落ちた。
ルナとロベルトは向き合い、お互いに見つめあっていた。
ルナは叩かれた頬を手で押さえながら、寄る辺ない表情で怯えたようにロベルトを見上げている。
他方、ロベルトの方はと言うと、まるで睨むように目線を強めていた。
「どうでもいいんだ」
と、ロベルトは言った。
「君がデイジーを殺したかどうかとか、デイジーの死が君のせいかどうかとか、そんなことはどうでもいいんだ。私は、私たち夫婦は、ルナちゃんのことを愛しているんだから。誰がなんと言おうと、ルナちゃんを信じると決めているんだから。そんなことは取るに足らない、瑣末な出来事なんだ。そんなことより――そんなことより、どうして君は、自分が苦しんでいることを私に話さなかったんだ」
ロベルトの声は震えていた。
それから、切り傷や火傷あとの残る料理人の手で、ルナの頬に手を当てた。
「いいかい。君は、私とデイジーの人生を変えた子なんだ。神の子なんだ。子供がいなかった私たちに、神様がくれたプレゼントなんだ。君は知らないだろうけどね、君が来る前の彼女はとても辛そうに生きていたんだ。でも――でも、君がうちに来てから、デイジーは本当によく笑うようになったんだ。いつも暗い目をして、なにか使命を全うしようとする彼女の目から、怒りの色が完全に消えたんだ。そうしてくれたのは、君なんだよ。そんな子を――そんな娘を、私が赦さないはずがないだろう!」
ロベルトは両目から涙を流した。
そして、それを拭おうともせず、叫ぶように続けた。
「謝る必要なんかない。償う必要なんかない。ルナちゃん――いいや、ルナ。お前は正真正銘、私とデイジーの子供だ」
ロベルトは優しく、ルナの華奢な肩に手を置いた。
「確かに、これから先はどうなるか分からない。私は馬鹿だから、もしかしたら君を傷つけてしまうこともあるかもしれない。未来は不確定で、不明瞭なことだらけだ。だけれど、確かなことがひとつだけある。それは、私たちはお互いに、お互いの存在が必要だということだ」
ルナは顔を両手で覆った。
そして涙を流しながら、うん、と頷いた。
崩れ落ちそうになったルナを、ロベルトはその魂ごと覆いこむようにして抱きしめた。
ルナは泣き顔のまま、ロベルトの胸に顔を委ねた。
疲弊しきっていたものの、その表情は幸せそうだった。
その時、紛れもなく。
俺の目には、彼らは本物の親子のように見えた。