96 懺悔
Ж
「近寄らないで!」
ロベルトとヨシュアが階段を降りてワインセラーに入ったとき、室内ではルナとポラたちが対峙していた。
ルナはほとんど泣いているような顔をして、ワインオープナー用の小刀を二人に向けていた。
一目で、いつもの彼女ではないことが分かった。
彼は戸惑い、何が起こっているのか、それを把握することに精一杯だった。
ルナはロベルトたちがいることにも、恐らく気付いていない。
驚きと共に、ずきりと胸が痛んだ。
なんて――なんて顔をしているんだ。
「ルナさん。落ち着いて」
と、ポラが言った。
「ち、近寄らないでって言ってるでしょ」
「ごめんなさい。私たち、やり方を間違ったみたい」
「あなたたちの問題じゃない。間違ったのは私なんだから」
「あなたは間違ってない」
手のひらを向け、優しく諭すように言った。
まずい、とポラは思った。
あのルナの瞳。
ルナは今、少しばかり正気じゃない。
展開の急激な変化に、心がついてきていないのだ。
やはり、強引に押し入ったのは間違いだったか。
「あなたは間違ってない。ただ、スタートが遅れただけ。これから始めればいい」
「始める? 一体、何を始めるの」
「あなたとロベルトさんのお店を、です。大丈夫。全てを話せば、きっと上手く――」
「そんなことが出来たら最初からしてるわよ!」
ルナは怒鳴った。
それからゆらりとよろめいた。
赤い髪が顔にはらりとかかる。
「……あなたたちは真実のこと知らないからそんなことが言えるのよ。私は……私は、本当はこの店にいちゃ行けないんだから」
「そんなことはない。ここにはあなたの仕事がある」
「もうやめて。優しい言葉をかけないで。私に構わないで」
「ウダウダうるせーなー」
シーシーが不愉快そうに口を挟んだ。
「だからオメーはよ、イチイチ面倒くせーんだよ。これ以上ごちゃごちゃ言ってるとうちの銃でぶっころムグッ――」
ポラはシーシーの口を塞いだ。
シーシーは暴れたが、渾身の力で「お願いですから黙っててください」と懇願すると、ようやく渋々引き下がった。
「とにかく落ち着いて話を聞いてください」
と、ポラは言った。
「私は人を見る目には自信があります。あなたの雇い主であるロベルトさんなら受け入れてくれる」
「知った風な口をきかないで」
ルナは目をぎゅっと瞑った。
「私は、ロベルトさんから一番大事なものを奪ったんだから。あの人の、一番大切な人を――」
「……ルナちゃん?」
と、そのとき。
ポラたちの背後から、ロベルトがルナを遮って口を開いた。
「な、何の話だい? 君たちは一体、何の話をしているんだい? ルナちゃんが私の一番大事なものを奪ったって、それは一体どういう――」
ロベルトはよろよろと前に歩み出た。
いけない。
今二人を突き合わせるのは非常によくない。
ポラは咄嗟に彼を制そうとして腕を伸ばした。
だが、その手は何者かに掴まれた。
目を上げると、今度は珍しくまじめな顔つきになったシーシーが、ポラを見ていた。
テメーも邪魔すんじゃねー、と目が語っていた。
ポラは短い間、シーシーの瞳を見つめた。
見つめながら、しばし思案した。
そして結局、彼女は納得したように一つ頷くと、ロベルトに伸ばした手を引っ込めたのだった。
Ж
「ねえ、ルナちゃん」
と、ロベルトは言った
「教えてくれ。君は一体、何者なんだ。そして、一体、何をしたんだ」
ルナは恐怖に引きつった顔になった。
「ロ、ロベルトさん」
「実はさっき、キミの過去をそこにいる少年から聞いた。この店に来る前、ルナちゃんがどういう組織に所属して、どういう仕事をしていたのか。だが、私はキミの口から直接聞きたい」
ルナは唇を震わせながら俯いた。
それから絞り出すような声音で「出来ません」とつぶやいた。
「私がやったことを知ったら、絶対にロベルトさんに嫌われる。恨まれるんです。多分、ロベルトさんも今、この瞬間は許してくれる。君は悪くないと言ってくれる。でも、心の中に残るんです。一生、心の中に疑念が残り続けるんです。それだけのことを――私はやったんです」
ルナは力なく俯いた。
ロベルトは少し黙り、考えてから口を開いた。
「なるほど。君の言い分は分かったよ、ルナちゃん。……だが、それでも私は聞かせてほしい。私を、信じて――」
「ロベルトさんのことだけじゃないんです!」
ルナはロベルトを遮り、叫んだ。
それから、ほつりほつりと言葉を紡ぎだした。
「……私は、私自身が信じられないんです。今まで、なんとか自分を誤魔化して生きてきました。本当はあのとき、すぐに死のうと思ったんです。でも――でも、私にはデイジーさんのほかに、もう一人大切な人がいたんです。ロベルトさんが――あなたがいたんです。そのことを……思い出したんです」
ルナは焦点の合わない眼をして、がたがたと震えた。
凍えるように、自分を抱きしめる。
だがそれでも、彼女は言葉を止めなかった。
その時には、もう止められなくなっていた。
自分でも分からない内に、長い間ずっと堰き止めていたはずの感情があふれ出していた。
「ロベルトさんは、私を愛してくれていた。私は、ロベルトさんが私を本当の娘だと思ってくれていることを理解していた。だからこそ、ロベルトさんは私までいなくなったら、きっともう立ち直れないと思った。だから、ロベルトさんのために生きようと、そう思った。ロベルトさんは優しいから、私を許してくれると思った。ロベルトさんは、優しい……から」
ルナはそこまで言うと、持っていたナイフを床に落とした。
それから両手で顔を覆い、肩を揺らして慟哭した。
「でも、信じきれなかった。ロベルトさんにまで嫌われちゃったら、私はもう、生きている意味がないんです。生きる理由がなくなっちゃうんです。例えロベルトさんが許してくれても、いつか嫌われるんじゃないか、ふとした瞬間に、やっぱりこいつは許せないと思いなおすんじゃないか、そんな風に勘ぐって生きることは、耐えられそうになかったんです。だから……だから……」
ルナは顔を上げた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「だから――だから、言えなかった! 言いたかったけど、言えなかったんです!」
ルナは半狂乱になり、ロベルトに駆け寄った。
そして、彼の足もとに縋りついた。
「ごめんなさい! 許してください! 私は、あなたの大切な人を奪ってしまった! あなたは私の恩人なのに! 私はあなたのおかげで人間に戻れたのに! あなたは私を愛してくれたのに! 私は――私は」
私は、デイジーさんを殺してしまったんです!
ルナはそう言い、ロベルトの足先で土下座するように、体を丸めて泣いた。
罪人が神様に許しを乞うように。
みじめに、みっともなく泣き続けた。
くず落ちる彼女の姿を見て、ポラは自分が思い違いをしていたことに気付いた。
腹を割って話し合えば全て上手くいくだなんて、誤解を解けばうまくいくだなんて、そんな浅薄な考えは間違いだった。
優しい人間同士でも、いいや、優しい人間同士だからこそ、真実を知って苦しむこともある。
ロベルトが彼女を許すことは簡単だ。
いいや、きっとロベルトはルナを赦すのだろう。
しかし、それではい終わりと言うわけには行かない。
人生は小説や童話ではない。
ハッピーエンドのその先も、彼らの人生は続くのだ。
当たり前の生活の中で、まかり通らぬ場面にも出くわすだろう。
二人の間で争いが起きたとき、意見の相違が生まれたとき。
その時、ロベルトの頭にデイジーの死がよぎることもあるかもしれない。
恋人だろうが家族だろうが関係ない。
愛に必要なものは忍耐だ。
しかし。
では、一体どうすればよかったのか。
ロベルトとルナは真実を知らぬまま、お互いに不信感を抱きながら暮らす方がマシだったのか。
ロベルトはルナに拒絶されたと抜け殻のように生き、ルナは本当のことを言えぬ呵責に苛まれて暮らせばよかったのか。
ポラには判断がつかなかった。
暫くの間、誰も口を開かなかった。
あのシーシーさえ黙り込んでいる。
ワインセラーには奇妙な沈黙が落ちていた。
ひんやりと冷えた地下室内。
その中で、ただ、少女の哀れな慟哭だけがどうしようもなく響いていた。
「そうじゃない」
つと、背後から声がした。
ポラのよく知っている声。
平凡だけど、耳障りの良く通る声。
これまで、何度も不思議な力で苦難を打開してきた声だ。
「ポチ君」
と、ポラは言った。
ポチは肩で息をしながら、ポラに向かって無言で頷いた。
頼もしい顔をしていた。
いつの間に、こんな表情をするようになったんだろう。
ポラは刹那、場違いにそんな風に思った。
「そうじゃないんだ、ルナちゃん」
ポチはルナの方を見た。
そして、少し息を整えてから、彼は語り始めた。
「3年前のあの日、あの時、起こったこと。それは、君が考えていたこととは全く別だったんだ」