95 ロベルトとヨシュア
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遡ること数分前。
ワインセラーの階上では、ロベルトが心配そうに扉の前で下の様子をうかがっていた。
「おっさんよぉ、そんな心配しなくても大丈夫だと思うぜ」
ヨシュアが指のささくれをを弄びながら言った。
「そ、そうだろうか」
「ああ。ポラさんに任せときゃ余裕だ」
「たしかにあの子は口が上手い、けれど……」
「そうそ。なんつっても、一流の交渉のプロだからな」
「交渉のプロ?」
「知らねえの? えーっと、なんつったかな。ネゴなんとか」
「ネゴシエーター」
「そう、それ」
ヨシュアはニシシと笑いながらロベルトを指さした。
「尊敬してんだ、俺ぁ。ろくに文字も読めねぇ俺からすると、あの人はマジ神なの」
「……なるほど」
「あの白木綿海賊団の乗組員だぜ。あのミスティエが認めてるんだから、ただもんじゃねーよ」
そう言って、まるで自分のことのように胸を張る。
「ミスティエ?」
「んーだよ。おっさん、白木綿のミスティエも知らねえのか」
ヨシュアは半眼になり、呆れたように言った。
「キミは何でも詳しいね。驚いたよ」
ロベルトは感心したようにうんうんと短くうなずいた。
ヨシュアはふーんと彼を見た。
今どき珍しい好々爺だ。
「でもよぉ、おっさん。おっさんも酔狂だよな。あんなヤベー奴を従業員に雇うなんて」
「ヤベー奴?」
「殺し屋だよ。えっと、今はルナっつーんだっけ。やっぱ同情したのか? あの女に」
「なんのことだい?」
「なんのことって、あんたんとこの給仕だよ」
ヨシュアは階下を指さした。
「今そこで閉じこもってる、あの女」
ロベルトは顔を顰めた。
そして、ヨシュアに詰め寄った。
「どういうことだい、それは」
「どういうことって――あれ? おっさん、もしかして何も知らねーの?」
「教えてくれ。君は、ルナちゃんのこと、何か知っているのか」
「……まいったなあ」
ヨシュアは目線を外し、がりがりと頭を掻いた。
「これ、もしかして言っちゃいけなかった系か?」
「そんなことはない。教えてくれ。殺し屋とは、いったい何のことなんだ」
ヨシュアは少し躊躇った。
もしかすると、あとでポラに怒られるかもしれない。
ポチにどやされるかもしれない。
うーん、とヨシュアは顎に手を当てて考え込んだ。
その時、その横を一陣の風が吹いた。
彼らには視認できないほどのスピードで、何者かがすり抜けた。
「ま、いいか」
数秒考えた後、ヨシュアはそのように思い直した。
だって口止めされてねーし。
ヨシュアは知っていることを話した。
ルナがマフィアに所属していたこと。
そこで暗殺者として生きていたこと。
そのことを、デイジーも知っていたことまで。
「そ……それは本当なのか」
ロベルトは聞き終えると、そう呟いて自分の顔を両手で抑えた。
そうだよ、とヨシュアは言った。
「今は何か腑抜けみたいになってっけどな。昔はそりゃあ怖かったぜ」
ロベルトは血の気の引いた青ざめた表情で項垂れた。
「し、知らなかった。私は、何も知らなかった。ルナちゃんが、そんな風に生きていたなんて」
はは、と乾いた笑い声を出す。
足の力が抜けて、ついにその場に膝をついた。
「なんて間抜けなんだ、私は。いいや、違う。私には、勇気がなかったんだ。今思えば、おかしい態度のときは何度もあった。知ろうと思えば、いつでも知れたのに。私は――雇い主として失格だ」
ロベルトは懺悔するように言った。
謎が全て解けたような気がしていた。
あの子は、デイジーにだけそのことを話していた。
私には、きっと言えなかったんだ。
私が拒絶することを恐れて。
だから、あんなよそよそしい態度になっていたんだ。
ロベルトは目をぎゅっと閉じた。
あのポラという子の言うとおりだ。
私は、彼女に謝らなければならない。
あの子にもっと向き合って、もっと相談に乗ってやるべきだったのに。
ルナは、きっとそうして欲しかったはずなのに。
「別にそんな自己嫌悪になるようなことじゃねーべ」
と、ヨシュアが言った。
ロベルトはヨシュアを見上げた。
「あんたさ、ここであの女を食わせてたんだろ。何年も育ててやったんだろ。十分だぜ、それで」
「ヨ、ヨシュア君」
「この街で、親みてーな奴がいるなんてのは、それだけで幸せなことだ。それも、あんたみたいなまともな親なら言うことなしだ」
「しかし、本物の親なら、彼女の異変に気付くはずでは――」
「あんたさ、ドブに落ちたパンを食うために人を蹴り飛ばしたことあるか?」
ロベルトを遮り、唐突にヨシュアはそんなことを問うた。
そして、返事を待たず、続けた。
「ありゃあみじめな気分だぜ。とても人間が食うようなもんじゃねえのによ、それを取り合って、他人を蹴落とすんだ。そんでそれを、誰にも取られねえように背中を丸めて食うんだな。ドブの味がするパンを、鼠みてえに貪り食うんだ」
ヨシュアは何かを思い出すように中空に視線を泳がせた。
それから「つまりよ」と言って、人差し指を立てた。
「つまり、フリジアで親がいねえってのはよ、そういうことなんだ」
「……ヨシュア君」
ロベルトは唇を噛み、慰められたように少し笑った。
ヨシュアは小さく首を振り、ロベルトを見た。
「ま、そういうことだからよ。もしも“赤い月”があんたに文句言ったら、俺がぶっ飛ばしてやるぜ。贅沢言ってんじゃねーぞボケって」
ヨシュアは口の端を上げた。
「おっさんはよ、もっと堂々としてろ」
ロベルトはうん、と頷いた。
それから、目端を拭った。
「すまないね。最近、どうも涙脆くって」
「カッカ。今の話でどこに泣くようなとこがあんだよ」
「年のせいだろうかな」
「まだ耄碌すんのははえーだろ、おっさん。この店はシーシーさんのお気に入りなんだ。しっかりしろよ」
「そうか。そうだね――」
と、その時。
いきなり階下から、ドカン、という破裂音がした。
同時に、もくもくと煙や埃が舞い上がる。
ロベルトとヨシュアは目を合わせた。
そして次の瞬間、二人は急いで下へと降りて行った。