94 地下室
Ж
厨房を出てすぐ右に曲がり、ホールへと至るT字路をそのまま直進する。
するとその突き当りには木製の扉があり、その奥には簡素な階段があった。
そこを一番下まで降りると煉瓦造りのワインセラーがあるらしい。
ポラはロベルトについて、階段を降りて行った。
隣には、何故かヨシュアもついてきている。
「ここに来た当初。ルナちゃんは酷く人見知りでね。嫌なことがあると、ここに隠れたものだった」
カンテラで階段を照らしながら、ロベルトが言った。
「うへ。なんか埃っぽいとこだな。暗ぇし寒ぃし、なんか寂しい場所だ」
ヨシュアは不愉快そうに顔をしかめた。
「ワインは温度が重要なんだ。それから湿度もね。高すぎても、低すぎてもいけない。それらを一定の状態に保つ必要がある。そして何より、太陽光を避けなければいけない」
カンカン、と音を立てて暗がりへと降りていく。
やがて一番下に到着すると、ロベルトは扉に手をかけた。
「……鍵が開いている」
と、ロベルトが呟いた。
「やはり、ここにいるようだ」
ロベルトは扉を押した。
しかし、ガタガタと音を立てるばかりで、それは開かなかった。
「どうしたんですか」
ポラが問う。
すると、ロベルトは短く首を振った。
「中から心張り棒をつっかえているようだ」
ロベルトはそう言うと、扉の方に向き直り、トントン、とノックした。
「ルナちゃん。僕だ。いるんだろう? 開けてくれないか」
中から返答はなかった。
だが、代わりにごとん、という物音がした。
生きている。
そのことに、ポラは自分でも驚くほどほっと胸を撫で下ろした。
どうやら、思いとどまってくれたようだ。
この店にはお前が必要だ、というシーシーの言葉が効いているのか。
それとも、時間が空いて冷静になれたのか。
或いは――
「何があったのか知らないが、ちょっと出て来てくれないか」
ロベルトは優しい声音で語りかけた。
しかし、やはり扉の向こうから応答はない。
ロベルトは首を振り、はあ、と息を吐いた。
「ロベルトさん」
と、ポラは言った。
「少し、二人きりで話させて頂けませんか」
「二人きりで?」
ロベルトは眉根を寄せた。
「お願いします」
ポラが真摯に頭を下げると、彼は唇を噛んだ後、「分かった」と言って階段を登っていった。
「キミも」
ポラはヨシュアを見た。
するとヨシュアは「……へい」と口を尖らせ、渋々上に上がって行った。
よし、とポラは扉に向き直った。
さあ、やるか。
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「聞こえましたか。ロベルトさんには一旦、階上に上がってもらいました」
ポラは口を開いた。
返事はない。
ポラは構わずに話し始めた。
「ルナさん、あなたはロベルトさんに話したいことがあるんじゃないですか。ずっとずっと、話したいと思っていたことがあるんじゃないんですか」
やはり、返事はない。
少し間を開けて、ポラは続けた。
「気持ちは分かります。人に過去を話すことは大変な痛みを伴う。でも、勇気を出してください。大丈夫。きっと悪いようにはなりません。あの人は――」
あなたの家族です、とポラは言った。
今度は待とうと思った。
ここで応答が無ければ処置なしだ。
たっぷりと間をあけて、ポラは壁に手を添えて、「ルナさん」ともう一度彼女の名前を言った。
「……私、どうすればいいのか、分からない」
するとやがて。
中から、掠れるような声がした。
ルナの声だ。
「話さなきゃって、ずっと思ってた。本当のことを話して、ロベルトさんに許しを乞わないといけないって。でも、言えない。言えないんです。真実を言ってしまったら、私が生きていけない」
鼻声で、語尾が震えていた。
泣きじゃくった顔が目に浮かぶようだ。
デイジーを殺した、とルナは言った。
一体、彼女の過去に何があったのか。
ポラには想像もできなかったが、その苦悩は伝わってきた。
きっとルナは、死ぬこともできないのだ。
自分が死ねば、そのことでロベルトが悲しむことを知っているから。
「生きるんです」
と、ポラは言った。
「あなたに何があったのか、私は詳しくは知りません。しかし、生きるんです。私にもあなたと同じような気持ちになったことがあります。いいえ、本音を言えば、今でもしょっちゅうそうなります。だから、気持ちはよく分かる」
ポラは扉を撫でた。
自分でも、不思議な気分だった。
この説得は仕事の一部のはずなのに、ポチからの頼みで仕方なくやっているだけのはずなのに、どうもいつもと調子が違う。
自分らしくない言葉が、頭より先に口をついて出てくる。
ポラは短く息を吐き、続けた。
「私は元奴隷です」
と、ポラは言った。
「今でも背中には奴隷である証拠の刻印が残っています。人に言えないようなことをさせられたし、人に言えないようなことをしてきました。裏切られたし、裏切ってきたんです。その当時のことがフラッシュバックして、ときどき不意に、理由もなく死にたくなる瞬間があります。自分の存在が無価値である気がして、全てを放り投げたくなる。その衝動と毎日戦ってます」
なぜ、こんな話をするのか。
自分でもよく分からない。
ただ、感傷的になっているのは確かだった。
そんなに――私は彼女に生きていて欲しいんだろうか。
ポラは触れていた掌を握りこんだ。
力が入り、手に汗が滲んでいる。
「どうして戦うのか。抗うのか。それは、私には仕事があるからです。私を必要としている人たちがいるからです」
沈黙する扉に、ポラは語気を強めた。
「ルナさん。あなたにもやるべき仕事があるでしょう。過去のあなたがどうであろうと、今、この街で」
「仕事――?」
「レストラン『デイジーズ・ファン』の給仕です。この店にはたくさんのファンがいるじゃないですか。その人たちのために生きるんです。彼らをつっかえ棒にして、歩けるところまで歩くんです」
言い終えると、ポラは最後に一言、「ここを開けてください」と頼んだ。
すぐに返答はなかった。
久しぶりに、ポラは緊張していた。
五分五分だろう、と判じていた。
彼女が今の説得に応じるかどうか。
3分待っても、扉は開かなかった。
強引に開けるしかないか。
それとも、もう少し待ってみるべきか。
ワインセラーなら、オープナーなどの刃物も置いてある。
本来なら、これ以上一人にはさせないほうがいい。
しかし、かといって無理に押し入って刺激するのも—―
「バーカ」
そのように思案していると、突然、背後から声がした。
ポラは驚いて振り向いた。
いつの間にか、シーシーが階段に座っていた。
「し、シーシーちゃん?」
「ウダウダとじゃかましい奴らだな、おい」
シーシーはよっと立ち上がった。
「ったくよー、お前は昔からいちいちやり方がまどろっこしいんだ、ポラ」
「いつからそこに――」
「生きるだ死ぬだ、そんなことは自分で決めることじゃあねえんだよ」
シーシーはそう言うと、大筒を顕現させ、肩に担いだ。
それから大砲の先を扉の方に照準を合わせ、いいか、と上唇をぺろりと舐めた。
「人間は、死ぬ時が来たら死ねばいいんだ。その時が来るまでは、有無を言わさず生きてりゃいいんだよ」
言いながら、大砲のトリガーに指をかける。
「ちょ、ちょっとシーシーちゃん! こんな狭いところでそんなのぶっ放したら――」
「うっせー!」
シーシーはポラの制止も聞かず。
ドカン、とワインセラーの扉に向けて砲弾を撃ち込んだのだった。