90 ディアドラ
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俺とタガタは隣の部屋(と言っても薄いカーテンで仕切られただけだが)に移動し、二人きりになった。
それから俺は氷水を一杯飲み干すと、早速タガタにデイジーという女性を知らないかと問うた。
「デイジー=ウッドワードか」
タガタは呟くと、少し眉間に眉根を寄せた。
「知ってますか、タガタさん」
俺が前傾姿勢になってもう一度問うと、ロベルトは短い沈黙の後、口を開いた。
「懐かしい名前だな。確かに彼女はかつて、我々の組織に所属していた」
「や、やっぱり」
「しかし、デイジーは数年前に亡くなったはずだ。不良共の喧嘩に巻き込まれて」
「そうなんです。その時の事件を追って、今日、俺はここに来たんです」
「どういうことだい、それは」
「実は――実は、彼女は不良たちに絡まれて死んだわけではなかったんです」
タガタの眉間の皺がさらに深くなった。
どういうことだね、と声を低くした。
俺はこれまで調べたことを説明した。
慌てているせいで話は前後して、少し要領を得なかったが、どうにか伝えた。
聞き終えたタガタは「……なるほど」と呟き、右手で頬を擦った。
「教えてもらえませんか。彼女のことを。そうすることで、あの時の事件の謎が解けるような気がするんです」
「あまり構成員の話を漏らすことはしたくないが――いいだろう。キミはもう私側の人間だ」
「あ、ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。その方が、デイジー本人のためになると判断しただけだ。ここで一々情報管理の講釈は垂れないが、ただしくれぐれも、私の信頼を裏切るような真似はしないように」
タガタはキツイ口調で釘を刺した。
俺は「はい」と言って顎を引いた。
「最初に言っておくが、私はそれほど詳しいわけではないからね。デイジーは所属期間も短かった。それに、彼女の所属は支部であり、本部で指揮を執っている私とはあまり接触がなかった」
「知っていることだけで構いません」
「それから、これから話すことはほとんど人伝である上に、全てが終わった後に聞いたものだ。故に、情報に揺らぎや齟齬があるかもしれない」
「それも構いません」
お願いします、と頭を下げる。
「分かった」
タガタは額に手を当て、ウィスキーの入ったグラスを傾けた。
それから、やや目線を上げ、思い出すように語り始めた。
「デイジーの本名はディアドラ=ラフィーヤ=ウッドワード。プリメーラの一等地に御殿のような居を構えるウッドワード卿の娘だった。ウッドワード家と言えばこの国でも有数の名家で、元は爵位を持ったフリジアでも指折りの家柄だ。彼女は絵に描いたようなお嬢様で、プリメーラで何不自由なく暮らしていた。やがて同じく貴族の男と結婚をして、子を産んだ。一人娘だった」
どきりとした。
貴族の男。
それは恐らく、ロベルトではないだろう。
「これは想像になるがね、恐らくは何不自由のない幸せな家庭だったはずだ。この国は権力者や金持ちが暮らすにはうってつけだからね。社会制度も労働環境も、金があればあるほど有利になる。そう言う仕組みだ」
「それなのに――何故、デイジーさんは自警団に入って活動家に」
タガタは少し間をあけた。
そして一瞬目を伏せ、今度は俺の目を見た。
その暗い眼差しを見て、俺は心臓が高鳴るのを感じた。
デイジーには一人娘がいた、とタガタは語った。
しかし、俺が聞いた限り、彼女に子供がいたなんて話は一つも出ていない。
嫌な予感がして、全身が総毛立つようだった。
俺は祈るように膝の上で手を組んだ。
手に平にはびっしりと汗が滲んでいた。
「娘が殺されたのだ」
と、タガタが言った。
「む、娘さんが――」
「移民系マフィアで構成された強盗団だった。突然、家に押し入られたんだ。何故ウッドワードが狙われたのか、それは分からない。とにかく、家にいたものは皆殺しだった。とはいえ、死んだのはほとんど女中や奉公人だ。その日は、ウッドワード一族は会合に出ていたからね。たまたま風邪をひいて家で留守番をしていたデイジーの娘は、その場で子守りと一緒に射殺された」
ごくり、とつばを飲み込んだ。
地獄のような光景が、頭に浮かんだ。
「その移民系マフィアっていうのは、もしかして」
「バーギト、ではないよ」
タガタは短く首を振った。
「その時、まだバーギトは存在しなかったからね。だが、言うなら奴らはその前身と言うべきかもしれないな。何しろ――後にバーギトの大親分となる、トラオレが所属していたんだから」
「と、トラオレって――まさか、それじゃあ」
「察しが良いな」
タガタは少し物憂げな表情になった。
「その通りだよ。デイジーは“バーギト”に復讐するために、我々の元へやってきたんだ。一人娘の仇をとるために、ね」
完全に繋がった。
俺は思わず、拳をぎゅっと握り込んだ。
真実は、予想していたものとはまるで逆だった。
デイジーはルナを通じて“バーギト”と関係を持ったわけではなく――
“バーギト”を追っている内にルナと出会ったのだ。
「では、デイジーがトラオレの邸宅へ侵入したのは」
「恐らく、奴を暗殺するためだったんだろう」
「トラオレを――殺すために」
「自警団に入ってから、彼女はとにかく組織のことをよく調べていた。同時に、貧しい人たちのことについてもね。貧困層地域に住みたいと言い出したのもそれからだ。そして――そこで、偶然ルナに出会った」
つまり、ルナを助け出したのはたまたまだったのか。
「その時、トラオレ邸で何があったのかは知らない。とにかくデイジーはトラオレの暗殺に失敗し、代わりにバーギトの殺し屋を連れ出した。そしてあろうことか――彼女と共に一緒に住み始めた」
「どういう――心境だったんでしょうか」
「さてね。仇の組織に所属する重要人物を更生させるなんて、想像もできない」
俺は俯いた。
その時のデイジーの気持ちに想いを馳せた。
「それからしばらくして、デイジーは我々の組織を抜けた。だから、それからのことは分からない。数年後、街の不良たちに殺されたと聞いて、心を痛めたよ。しかしまさか――あのニュースがでっち上げだったとはね」
タガタは呆れたように言い、首を振った。
デイジーはルナと知り合い、組織を抜けた。
それは即ち、復讐をやめたということではないのだろうか。
もしかすると――と思った。
もしかすると、デイジーはルナに、自分の一人娘を重ねたんじゃないだろうか。
これから、ルナを自分の子供のように育てて行こうとしたんじゃないだろうか。
そのために、復讐を止めたのではないだろうか――
「ちょっと待ってください」
そこまで考えた時、俺の脳裏である考えが瞬いた。
それでは、あの事件の日。
デイジーとルナの前に、バギートのボスと殺し屋が現れた時。
一体、何が起こったのか。
俺は、全く見当違いなことを考えていたんじゃないか。
即ち――
「デイジーさんとルナちゃんの関係は思っていたものと反対だった。それはつまり――あの事件の時の出来事も、全て逆だったんじゃないか」
俺は一人ごちるように言った。
タガタは額に手を当て、少しため息を吐いてから、「私もそう思う」と呟いた。
「あの事件のとき、路上にはルナさんを取り返しに来たトラオレがいた。トラオレはデイジーの仇だ。大事な一人娘を殺した、憎んでも憎んでも足りない仇敵。恐らく、彼女は頭が真っ白になったはず。そして、その後に芽生えた感情は、私たちには計り知れないものだったのではないか。ルナさんと平穏な日々を過ごし、胸の内に仕舞っていたものが、一気に爆発したのではないかと、そんな気がする」
「一気に爆発、というと」
「つまり、トラオレがデイジーたちを殺そうとしたのではなく――」
デイジーの方がトラオレを殺そうとしていたのだ、とタガタは言った。
戦慄が走った。
思わず、口元に手を当ててしまう。
そうだ。
俺も――そう感じた。
あの時、あの刹那。
殺し屋とトラオレがルナに襲いかかったのではなく。
デイジーが奴らに飛び掛かったのかもしれない。
だとすると――俺たちが考えていたことと、真逆のことが起こったことになる。
俺の脳はほとんど自動的に、勝手な想像を始めた。
ルナの前にトラオレが現れた時。
ルナは、とっさにトラオレに向って攻撃を開始した。
デイジーを守るために、先制攻撃を仕掛けたのだ。
ルナは護身用のナイフを取り出し、トラオレに向って特攻した。
だがそこで、予想外のことが起こった。
デイジーがトラオレを見た瞬間、我を忘れてやつに向って走ったのだ。
同時に攻撃を仕掛けたことで彼女たちは衝突し、ルナは誤って味方を攻撃してしまった。
そんな光景が、目の裏で広がった。
「しかしまあ、いずれにせよ推測の域を出ない。あの瞬間、何が起こったのかは、今となってはもう誰にも分からない」
その通りだ。
結局、そこに戻ってしまう。
今考えたことも、全ては憶測の域を出ない。
どんなに真実に近寄っても、それ以上は踏み込めない。
それからタガタは「恐らく、ルナさん本人にもね」と付け足した。
「ルナちゃん本人にも?」
「キミの話を聞く限り、ルナさん――いや、“赤い月”は、脳内のリミッターを解除することで秘めたる力を発揮するタイプだ。簡単に言うと、プッツンするわけだね。そう言った能力者の力というのはまだ解明されていないが、過去の例から見ると、彼女にその時の記憶は恐らく残っていないだろう」
そうですか、と俺は肩を落とした。
事件の真実は、現場にいた人間にしか分からない。
そしてその場にいて、生き残っているのはルナだけ。
その彼女の記憶がないなら――もう知る術はないだろう。
「……ロベルトさんは」
と、俺は言った。
「ロベルトさんは、どこまで知っていたんでしょうか」
「さあね。それも分からない。ただ、デイジーは全てを隠していた可能性もあるだろうね。その方がロベルト氏に危険が及びにくい。しかし、その辺りについて私よりキミの方が詳しいんじゃないかね?」
タガタは顎をさすった。
「どういうことですか」
「キミはロベルトさんに直接会ってるんだろう。ルナさんにも、ね。そして、レストラン『デイジーズ・ファン』の常連客でもあった。彼は、どんな男だった?」
「良い人でした。優しくて、料理の腕が上手で。とても活動家の夫という感じはなかった」
「そうか。ならば、それが答えなんだろう」
タガタは少し声を落とし、グラスの淵を指でなぞった。
「デイジーさんは肝心な情報だけ隠して過ごしていたんだろう。目的があったにせよ、ロベルトさんとの平穏な暮らしも守りたかったのかもしれないね」
俺は唇を噛んで俯いた。
『デイジーズ・ファン』。
その名前の意味が、重く肚の底に沈んでいった。
しかし。
であれば――もうこれ以上は調べようがない。
俺は、ルナを信じていた。
あの時、何が起こったのかは分からない。
しかし、どんなに記憶が無くなろうと、プッツンしようと、ルナがデイジーを殺すとは思えなかったのだ。
その想いが、俺を突き動かしていた。
真実を明らかにすれば、ルナちゃんの苦しみから救うことが出来るのではないか。
それを証明したかったのに。
だが、ここまでのようだ。
完全に、袋小路だ。
これ以上は、もう調べようがない――
――辛気くせー話してんなあ
突然、仕切られたカーテンの向こうから声がした。
俺とタガタは同時に目を上げた。
シャッとそれが引かれると、脇にプリムを抱えたミスティエが立っていた。
「せ、船長」
「白木綿君」
今度はてんでに言った。
「酒が不味くなるんだよ、ボンクラども」
「すいません。聞こえていましたか」
「ったく、ボンクラどもが。要領の得ないことをグダグダ言いやがって」
ミスティエは俺たちを見下ろした。
そして――
「さっさと行くぞ」
と言った。
「は?」
「は、じゃねえ」
「い、行くって、どこに」
「デイジー殺しの真相を調べに、だよ」
ミスティエは腰に手を当て、ふんと鼻を鳴らした。
「ポチ。今日の仕事はテメーのおかげで上手くまとまった。だからギャラの代わりに、お前の案件を手伝ってやる」
「ま、マジですか」
一瞬だけ喜んだが、すぐに下を向いた。
「ただ――俺、もうこれ以上、行くべきところが分からなくて」
「馬鹿野郎が」
ミスティエはチッと舌打ちをした。
「行くべきところならあるだろうが」
「――え?」
「この事件の本当の主人公だよ」
「本当の……主人公?」
俺とタガタは互いに目を合わせた。
そして、同時に首を捻った。
「白木綿君、キミは何か知っているのか」
「知らねえよ。知らねえけど、少し考えればわかる。神は天にあり、禍福は糾える縄の如しだ。一見上手くいってるやつほど、実は苦しんでるのさ」
「どういう意味ですか、それは」
「まだ分からねえのか。やつの異常な嫉妬に」
「嫉妬?」
タガタは顔を顰めた。
「ど、どういう意味だい、それは」
「っとに、どんくせー奴らだ。なあ? プリム」
ミスティエはそう言うと、プリムの首筋にキスをした。
プリムは上気し火照った顔つきで「……はい、ミスティエ様」と呟いた。
完全に堕ちている。
二人は一体――あのカーテンの向こうでナニをやっていたんだろう。
「まあいい。ここでウダウダやっていても、しょうがねえ。そいつに会いに行くぞ、ポチ」
ミスティエはそう言うと、脇に置いていた大剣を背負うように担いだ。
俺はごくりと喉を鳴らした。
「船長、あなたには本当に真実が分かったんですか」
俺の問いに、ミスティエは無言でにやりと笑った。
いつもの勝者の笑顔。
それ以上、もう返事は必要なかった。