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89 酒場


 Ж


「はー、ボロっちぃとこね」


 第3地区のバルにつくと、プリムは入る前にまず店の全体像を眺めた。


「こんなとこに天下の騎士団長・タガタ殿がいるの?」

「師匠は高い酒が嫌いでね」


 俺は苦笑した。


「けど、ここは別にタガタさんの行きつけじゃないんだ。多分、“仕事相手”に合わせたんだと思う」

「仕事相手?」

「そう」


 俺は頷くと、短い階段を登ってドアを開いた。

 錆付いた蝶番がキィと鳴って扉が開くと、店内の喧騒がわっと外に漏れ出た。


 ホールに入ると、目に入る席は全て埋まっていた。

 仕事を終えた労働者たちで満席である。


「いらっしゃい。ちょっと待ってね」


 走り回る給仕が、こちらを見ずに挨拶をした。

 しばらく所在なく立っていると、両手に空のガラスジョッキを持った見知った女の子が足を止めた。

 “あの人”の付き添いで来ている内に顔見知りになった、パニーニだ。


「あら、ポチじゃない。久しぶりね」

「ポチは止めてって。一応、客なんだし」

「別にいいじゃん。それより、ごめんね、今満席なのよ。ちょっと待ってもらえるかしら」

「ああいや、今日は別に食事に来たわけじゃないんだ」

「え? ああ」


 女の子――パニーニは何かを察したように短く何度も頷いた。


「そういうことね。いつもの奥部屋に来てるわよ」


 どうぞ、とパニーニは先だって歩き出した。


「ちょ、ちょっと待って」


 俺は慌てて彼女を呼び止めた。


「なに?」

「あの……あの人、どんな様子だった?」

「どんなって」

「機嫌、悪そうだった?」

「知らないわよ。ただ、なんかおじさんと膝を合わせて難しそうな話してた」

「やっぱそうか」


 俺は頭をがりがりと搔いた。

 すると、プリムに袖をちょいちょいと引っ張られた。


「ねえ、さっきから誰の話をしてるの? タガタさんに会いに来たんじゃないの」

「師匠も来てるけど、もう一人いるんだよ」

「だから、それは誰なのよ」

「ちょっと、こっちも忙しいんだけど。行くの? 行かないの?」


 パニーニがじれったそうに急かす。


「ああ、行くよ」


 大きくすーはーと息を吐いてから、俺は歩き出した。


「ねえ、誰なのよ」


 歩きながら、プリムがしつこく聞いてくる。

 俺はまっすぐ前を向いたまま、小声で「うちの船長だよ」と短く答えた。


 プリムは目を丸くして、「ウッソマジ!」と言った。


「こ、この奥に――白木綿のミスティエがいんの?」

「ああ。帰るなら、今が最後のチャンスだぞ」

「か、帰るわけないでしょ! あのミスティエに会えるんだから!」


 プリムは興奮したように、んふー、鼻から大量の息を吐いた。

 そして同時に、顔中に汗をかいた。

 どうやら、好奇心と恐怖心が同時に来たらしい。


「落ち着け。落ち着くのよ、プリム」


 プリムは奥の部屋に着くまで、ずっとそのように呟いていた。


 Ж


「なんだ、てめぇ」


 紫のカーテンで仕切られた奥部屋。

 使い古されたソファにどっかりと座ったミスティエは、三白眼でじろりと俺を見るなり、ドスの利いた低い声を出した。


 この威圧感。

 こうして座っているだけで、閻魔大王様のような畏ろしさがある。

 何度会っても、慣れることがない迫力だ。


 やはり――怒っている。

 仕事の話し合いの最中にいきなり割り込んだのだから、当然と言えば当然である。


「どうしたんだ、いきなり」


 タガタが怪訝そうに俺を見た。


「す、すいません。ちょっと、師匠に用事がありまして」


 室内に入るなり、俺は土下座をせんばかりに頭を下げた。


「知らねえよ。いま立て込んでるんだ。帰れ」


 にべもなく言うと、ミスティエは長い脚を組みなおし、オレンジのリキュールグラスを煽った。


「そ、そうは行かないんです。時間があんまり無くって。ちょっとだけ、タガタさんと話をさせてください」

「駄目だ」

「お願いします!」


 今度は本当に土下座をした。


「何度も言わせるんじゃねえ」


 ミスティエは俺の髪の毛を掴んで、ぐいと引っ張り上げた。


「おい、ポチ。あたしの仕事の邪魔をするってのがどういう意味か、わからねえわけじゃねーだろ」

「は……はひ」

「はい、じゃねえ。だったらすっこんでろ。殺すぞ、犬っころ」


 さっさと帰れ、と頭を乱暴に離した。


「ちょ、ちょっと待ってください」

「うるっせえっつってんだろうが!」


 縋りつく俺を、ミスティエはテーブルごと蹴り倒した。

 遠くの方から、キャア、という女の悲鳴が聞こえた。


 やべえ。

 超ご機嫌ななめだ。

 どうやら――タガタとの仕事はなしあいが上手くいっていないようだ。


 ミスティエは俺の首根っこを掴み、ギリギリと締めあげた。


「これ以上何か言ってみろ。本気で殺す。千切る。八つ裂きる」


「ま、まあまあ」


 と、そこで様子を見ていたタガタがとりなした。


白木綿キャラコ君。私の話はもうほとんど終わっていたから、ここは私の顔に免じて許してやってくれないか」

「うるせえ、しょぼくれひょろジジイ」

「しょ、しょぼくれ……?」

「話は終わってても合意には至ってねえだろうが。大体、てめえはどこもかしこも細長すぎるんだよ。手足も無駄に長ぇーしよ。蜘蛛かお前は」

「く、蜘蛛って――私の体は今関係ないだろう」


 タガタはショックを受けたように情けない顔つきになった。

 師匠――コンプレックスだったんですね。


「うるせぇ。とにかくムカついてんだ。ムカついてるときは何やってもいいんだよ」


 無茶苦茶な言い分をまくし立て、さらに俺の首を絞めあげる。

 この人――俺の首絞めるの好きすぎるよ。


「やめたまえよ。冗談でも、それ以上は本当に死んでしまう」

「冗談じゃねえぞ、タガタ。大体、テメーがナシを呑まねえから悪ぃんだ」

「わ、私のせいだと言いたいのかね」

「オメーのせいだろうが。件のカタが付いてたら、このガキなんてどうでもいいんだからな」


 ミスティエは悪魔のような顔つきになり、八重歯を見せてニタリと笑った。


「ホラホラ、どうする? このままじゃ、お前の可愛い弟子が死んじまうぞ」


 タガタは刹那、目を丸くした。

 それからはあと息を吐き、まったく、と苦笑する。


「いやはや、とんでもない人間だな、キミは」

「知らなかったのか、間抜けめ」


 ミスティエは意地悪そうにケタケタと笑った。


 タガタは後頭部をがりがりと搔いた。

 それから、腹の底から、どでかいため息を吐く。


「……分かったよ」

「あん?」

「分かったって言ったんだ。今回のリヴァプール商会のビル入札の件は、見なかったことにする。競争入札経過許可証を、明朝9時までに忘れずに私の事務所に持ってきなさい。ああ、入札参加資格者の氏名リストと関係者全員の押印書も忘れないようにね。それで、当局の方は私がなんとかしよう」


 ミスティエは右の眉をぴくりと上げた。


「本当だな」

「ああ。キース君にも、そのように伝えておいてくれ。ただし、これが最後だよ。次はもう、そちらの都合は考えない」

「もちろんだ」


 タガタはよし、と言って膝を打った。


「さて、それじゃあもう、私とキミの話は終わりだ。これで、もうキミが怒る理由はなくなっただろう。いい加減に、タナカ君を離したまえ。顔色が土色になっている」


 ミスティエはにやりと笑った。

 そこでようやく、俺の首を絞めていた手を緩める。


 俺はゲホゲホと咽た。

 目の端から涙が滲んだ。

 マジで――いやマジで苦しかった。


「そうか。そういうことなら、確かに怒る理由はねえな」


 シャハハ、とミスティエは八重歯を見せて笑った。


「全く、相変わらずやり方が理外だな、キミは。まさか私の弟子を人質にするなんて」

「こいつはあたしの配下もちもんだからな。生殺与奪はあたしが決める」

「キミね。タナカ君の修行を頼むと言ったのはそっちなんだよ」

「知らねえな。もう忘れた」

「なんだい、それは。相変わらずやることが無茶苦茶だ」

「お前は相変わらずのお人好しだな、タガタ。ま、おかげで丸く収まったんだからいいじゃねえか」

「収まったんじゃないだろう。丸型にはめ込んだんだ」

「同じことだ。丸くなればなんでも、な」


 ミスティエはそう言うと、もう一度ふんぞり返り、今度は豪快にあははと笑った。

 

 俺は訳が分からず、きょとんとした。

 だが、急に機嫌が直ったミスティエを見て、なんとなく理解した。


 どうやら――俺は交渉事のダシに使われたようだ。


「これで仕事はひと段落だ。全くいいタイミングでやってきたな、ポチ」


 ミスティエは「よくやった」と言うと、俺の頭を乱暴に撫でた。

 それからぐいと強引に自分の方へと引き寄せ――


 頬にキスをした。


 心臓が止まるかと思った。

 頭が完全に空になった。

 この幸福な柔らかい感触。

 身体が内側から熱くなっていくのを感じた。

 香水をつけているのか、ミスティエはめちゃくちゃ甘くて良い匂いがした。

 

「あ……ありがとうございます」

 

 俺は唇が触れた場所を手で触れながら、ぽう、と湯だった頭で言った。

 あんな目にあった直後だっていうのに、自然とお礼の言葉が出た。

 ドキドキしていた。

 ミスティエに褒められたことが嬉しくてたまらなかった。

 その時に気付いた。


 やっぱり俺――完全に、この人に心を掴まれているらしい。


「で、そいつは誰だ?」


 ミスティエは次に、隅の方で固まるプリムに目を向けた。

 プリムは棒のように硬直していたが、なんとか足を一歩、前に踏み出した。


「わ、私はプリムって言います。『ペイパーカット』という会社で新聞記者をやっています」

「ペイパーカット? ああ、あのうさんくせえタブロイド紙か」

「はい、その胡散臭い新聞屋であります」

「どうして聞屋ブンヤがいんだ」

「あ、あの、私、ポチ――タナカさんと仲良くさせてもらっていて」

「ポチの?」

「はい」

「なるほど。ポチの女か」

「違いますよ!」


 俺は即否定した。


「その、初めまして」


 プリムはぎこちなく頭を下げた。

 あのプリムがガチガチに緊張している。


「なるほどなるほど。ポチの仲間か」


 ミスティエはしばらくプリムをねめつけた後、ワイン瓶をどんと目の前に置いた。

 それからグラスにドプドプと豪快に注いだ。

 

「飲め」


 ミスティエは三白眼で言った。

 プリムはきょとんと眼を丸くした。


「飲め」


 ミスティエはもう一度、言った。


「は、はい!」


 プリムは頂きますと言って、一気にグラスを空けた。

 ミスティエは満足そうに「よし」と呟くと、ここに来い、と広げた自らの腕を指さした。


「へ?」

「ここに来いよ」

「よ、よろしいんでしょうか」

「ポチのツレだ。どうせ()()()なんだろ。あたしが色々仕込んでやるから――」


 こっちに来い。

 ミスティエはそう言うと、妖艶に笑った。

 美しすぎて、視界が傾くような表情だった。


 プリムは少し上気した頬で、はい、と頷いた。

 それからおずおずとミスティエの隣に移動し、ちょこんと座った。


「よ、よろしくお願いします」


 そう言って、初夜を迎える生娘のように三つ指を立てる。

 

 すげえ。

 あの男勝りのプリムが、一瞬にしてめちゃめちゃ女の顔になってる。


「それで」

 タガタがこほん、と空咳をした。

「それで、タナカ君。私に用事というのは、どういう要件だね」


 ああ、そうだった。

 ミスティエのいきなりの暴れっぷりにすっかり圧倒されていた。

 ようやく、本題に入ることが出来る。



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