87 涙
Ж
赤い月の名前は移民系密集居住地を震撼させた。
彼女は来る日も来る日も人を殺した。
政治家もマフィアも官憲も。
相手の素性など構わず、命じられるがままに仕事をこなした。
そうしてバーギトは日に日に勢力を伸ばした。
勢力圏に苦慮していた移民系マフィアだった組織は、徐々に支配を拡大させていった。
麻薬と殺し、暴力で成り上がるしかない彼らに、ルナはなくてはならない存在となっていた。
他方、ルナの『SDX-37』体は蝕まれて行った。
最初は助力のつもりで使用していたが、その頃にはもはや、彼女は薬なしでは生きていけない体になっていた。
既に心も身体もボロボロの状態だった。
きっとこの街の片隅で、野良猫のようにひっそり死んでいくんだろう。
彼女はぼんやりとそのように考えるようになった。
朦朧として思考すら覚束ない中で、毎日毎日、終末を感じていた。
やがて身体に支障が出始め、暗殺は少しづつ減っていった。
その代わりに、ボスの家に呼ばれるようになった。
ルナはボスのお気に入りだった。
仕事は少しづつ変わっていった。
いつの間にか、外に出ることすらなくなっていった。
だが、薬は止めなかった。
やめられなかった。
そうしないと気持ちが沈み、手が震え、まともに動くことすら出来なかった。
どこで間違ったんだろうか。
私はどうしてこんな人間になったのだろうか。
豪華なベッドの上から、朦朧としたまま窓外の月を眺める毎日だった。
そんな折。
ルナはデイジーと出会った。
Ж
デイジーはタガタの属する自警団の一員だった。
マフィアに利用されている子供たちを助けるという任務に就いていた。
どのように調べたのか、彼女はルナの素性を知っていた。
ある日、掃除婦を装って彼女はボスの家にやって来た。
デイジーが密偵であると知った時、彼女は自分を殺すものだとルナは思った。
もしかしたら、最初はその予定であったのかもしれない。
タガタによる指示があったのかもしれない。
だが、デイジーはルナにこう問うた。
「あなた――ここから出たい?」
ルナは首を傾げた。
「……分からない」
「分からない?」
「ねえ、教えて。私はまだ生きているの」
ルナは問うた。
戯れで言っているのではなかった。
彼女は本当に分からなかった。
自分が生きているのか、それとももうとっくに死んでしまっているのか。
記憶はもうほとんど持たず、昨日のことさえあやふやだった。
「あなたは生きてるわ」
デイジーはそのように応じた。
窓から月光が差し込み、彼女の真っ白い肌を照らしていた。
ルナは切って張り付けたような乾いた瞳で、彼女を見返した。
幽霊のような目だった。
「父さんを殺したの」
と、ルナは言った。
「なに?」
「私、父さんを殺したの」
「……そう」
「きっと、私はこの世に生まれてはいけなかったのよ。父さんの言っていたことは本当だったんだわ」
ルナはうわ言のように言い、中空に視線を漂わせた。
「そんなことはないわ」
デイジーはルナの手を取った。
「そんなことはないのよ。あなただって、望まれてこの世に生まれ落ちたんだから」
「……望まれて?」
「そう。あなたも私も同じ。神の子よ」
デイジーは言いながら、ルナを揺すった。
ルナは力なく上半身を成すがままにされながら、「嘘よ」と呟いた。
「嘘に決まっているわ。だって――だって私、人を殺してばかりだもの」
右目から一筋、涙が伝った。
何故かその時、とても悲しい気分になった。
私は“あの人”によく似ている。
絶対に似たくないと思っていた、あの人に。
それが、とても悲しかった。
「あなたは生きているわ」
デイジーはもう一度、言った。
「あなたは、生きているのよ」
その夜。
デイジーはマフィアの家からルナを連れ出した。
Ж
モスクを改装した病院のような場所へ連れていかれた。
闇医者に、重度の依存症であると診断された。
そこでまず、薬を抜く作業が始まった。
禁断症状は凄まじいものだった。
前後不覚に陥り、気分が落ち込み、廃人のように動けなかった。
或いは、腕の内側で大量の虫が蠢いているような錯覚に陥ることもあった。
一日中半狂乱になって拘束具をつけられたままベッドの上でのたうちまわることもあった。
3か月ほど経つと離脱症状が落ち着いてきた。
そうすると、頭も随分とハッキリしてきた。
ルナは絵を教わった。
リハビリの一環だったが、ルナは夢中になった。
夢中になって、あらゆるものを描いた。
花や木、それから街の風景を描くことが多かった。
不思議なことに、筆を持つと心が落ち着くのだった。
しばらくすると、今度は身柄をレストランに移された。
そこで働くようにとデイジーに言われた。
その店にはデイジーの夫であるロベルトが働いていた。
ルナは身分を隠して働き始めた。
デイジーはロベルトに「更生中の女の子だ」ということのみを伝えているようだった。
しばらくは平穏な日々が続いた。
ロベルトは優しく、給仕の仕事も楽しかった。
彼女は生まれて初めて“普通”の生活を知った。
だが、平和な時間はそう長くなかった。
しばらくすると、合成麻薬の後遺症が再び出始めたのだ。
禁断症状は治まったままであったものの、手が震え、足がもつれた。
粗悪な不純物の混ざった麻薬、『SDX-37』特有の副作用であるらしかった。
店で失敗することが増えた。
注文を覚えきれなかったり、足がもつれて皿を割ったりした。
絵も書けなくなった。
古くなった看板を新しくするとき、ロベルトにレタリングを頼まれていたが、それも出来なくなっていた。
これではここでの仕事が務まらない。
ルナは焦った。
役に立たなければ、また別の仕事をさせられるのではないかと思った。
しかしロベルトもデイジーも、彼女を責めなかった。
どんなにミスをしても笑って許してくれた。
こんな人間を見たことがなかった。
利用価値のない自分を見捨てない人間がいることが不思議だった。
しかし、それも長くは続かないだろう。
雇用とは同情だけではできない。
優しさと仕事は全く別の話なのだ。
「今日は話があるんだ」
落ち込む日々を過ごしていると、ある日、閉店後にロベルトから改めてホールに呼び出された。
「ごめんなさい」
と、ルナは謝った。
「いつも、お皿を割ってばかりで。本当にすいません」
ルナはぺこぺこと何度も頭を下げた。
それでも、クビになりたくなかった。
ここを追い出されたら、もう行くところはない気がした。
ロベルトは「本当だな」と言って腕を組んだ。
「もう何枚割ったかな」
「すいません、すいません」
「はっきり言って、かなり店側が負担してる」
ルナは俯いた。
やっぱりそうか、と思った。
これでまた、路上生活に戻るのか。
それとも、デイジーはまた違う仕事を紹介してくれるのか。
いいや、それはないだろう。
今の私に勤まる仕事などありはしないのだ。
「目を瞑って」
ロベルトが言った。
「目を?」
「うん」
「一体、何を」
「いいから」
ルナは訳も分からずに言う通りに目を瞑った。
身体が小刻みに震えていた。
怖ろしかった。
なぜこんなに怯えているのか、自分でも分からなかった。
怖いものなど何一つなかったはずなのに。
捨てるものなど、もう何一つ残っていないはずなのに。
ロベルトやデイジーに“要らない”と言われることは、心が張り裂けるような恐怖だった。
「もういいよ」
合図があって目を開くと、目の前には見たこともないほど大きなケーキが用意されていた。
横にはデイジーもいた。
どういうことかと理解できず、ルナは縋るように二人を交互に見た。
「ルナちゃん、誕生日を覚えてないんだってね。だからデイジーと二人で話し合って、今日を誕生日にしたらどうかって話になったんだ」
「た、誕生日――?」
「ほら、今日はキミがこの店に来て、丁度一年だろう」
ロベルトは少し照れ臭そうに笑った。
「あの、お皿は」
「皿?」
「は、はい」
「さっきから一体、何のことだい」
「私、いっぱいいっぱい、割っちゃったから」
「なんだい、そんなこと。随分と今さらじゃないか」
「でも、お店の負担になってるって」
「ああ、そうだね。それじゃあこれからはもっとうんと働いてもらって、皿代も返してもらおうか」
ロベルトは頬をほりほりと搔きながら言った。
「さあ、蝋燭の火を消して。一緒にケーキを食べよう」
「あ……ありがとうござ」
言葉に詰まり、ルナは両手で顔を覆った。
途端に、両目から涙が溢れた。
どんなに堪えても、どんなに拭っても、とめどなく流れ続けた。
ルナはその場に立ち尽くして、肩を揺らしながらいつまでも泣いていた。
「全く、泣き虫な子だね」
デイジーはそう言って、ルナを抱きしめた。
その横で、ロベルトはおろおろしていた。
ああ、なんてことだ。
温もりに包まれながら、ルナは思った。
人生とはなんて数奇なんだ。
まさかこの私に、こんな幸せな刻が訪れるなんて――。
Ж
ある日。
“バーギト”のボスがルナを探している、という話を耳にした。
血の気が引いた。
用なしになったルナに何故拘泥するのかとデイジーは訝ったが、彼女には心当たりがあった。
あの男は、自分に惚れているんだろう、と。
ルナは密かに貯めていたお金を使って、『SDX-37』を買った。
それは、バーギトから身を護るためだった。
『SDX-37』の力が無ければ、もう刺客には勝てないと思った。
自分だけなら殺されてもよかった。
しかし、あの二人を殺させるわけにはいかなかった。
医者にはもう二度と使用してはならない、と言われていた。
一度でも使えば、また依存状態に引き戻され、禁断症状に襲われる。
今度は、命に関わるぞ、と。
だが、それでよかった。
この命は、ロベルトとデイジーのために使おうと思っていた。
ルナはあの二人を、本当の父親と母親のように想っていた。
“事件”が起こったのは、それから一月後のことだった。