74 デイジー
Ж
「うん、美味しい」
一口食べるなり、ロベルトは言った。
「本当ですか」
ポラは嬉しそうに目を輝かせた。
彼女にしては珍しく興奮している。
「ああ、素晴らしい味だ。昔を思い出した」
「昔?」
「店長は昔、富裕層地域でシェフをやっていたんです」
横からルナが口を挟んだ。
「プリメーラ、で?」
「はい。有名な店でオーナーシェフをやっていたんです」
「へえ」
俺は感心して、思わず頷いた。
「そりゃあ腕が良いわけだ。でも、どうしてそんなすごい人が、こんなところで」
「古い話だよ」
今度はロベルトが遮るように言って、ポラの方を見やった。
「それより、このスープ、出汁は何からとっているんだい」
「野菜を数種類と、それからデューの尻尾です」
「デューの?」
ロベルトは眉を寄せた。
デューとはこちらの世界の動物だ。
牛と馬の中間のような見た目をしていて、食肉に良く用いられる。
「はい」
「それは――どこのレストランの料理を参考にしたんだい」
「どこのお店の真似でもありません。私のオリジナルです。実はデューの尾というのは長時間茹でると、とても旨みの詰まった味を出すんです。そして、ここからが肝要なんですけど」
ポラは人差し指を立てた。
「このデューのテイル。食材としてはほとんど廃棄されているんです。だから、非常に安価で手に入る。このスープなら、コストも抑えられると思います」
「……なんと。これは驚いた」
ロベルトは目を丸くした。
へへん、とポラは少し胸を張った。
「あなたは自力でそれを見つけ出したのか」
「見つけ出した、なんて大層なものではないんですけど。食材を試すことが好きで、色々とやっていたら」
「いいや、大したものです。デューのテールは、私の知る限り、数店でしか出されていない秘伝の材料です。あなたはそれを、自力で」
「……え? もうあるんですか」
ポラは目を丸くした。
「ええ」
ポラは喜んでいるような、ちょっと残念なような、微妙な顔つきになった。
そうか。
このスープの上手さはデューの尻尾にあったのか。
そう言えば、元の世界では動物の尻尾のスープなんてのは当たり前にあった。
なるほど、と俺は思った。
俺の元いた世界では当たり前にあったことが、こっちの世界では珍しい。
そういうこともあるんだ。
「そっかー。もうあったんですか。私の発見だと思ったのに」
ポラは肩を落とした。
「いいえ、すごいことですよ。誇っていい」
「じゃあ……このスープ、店のスペシャルになれますか」
ポラは恐る恐る、という風に上目使いで聞いた。
ロベルトは少し考え、申し訳なさそうに「いいえ」と答えた。
「残念ながら、この味ではこの街の人たちには受け入れられない。味が繊細過ぎる。肉体労働に従事し、汗をかき腹をすかせた人たちには物足りない。だからと言って味を濃くすると、今度は尻尾特有のえぐみが増し素材の味と合わなくなる。そして、調理時間の問題もある。デューテールのスープは下ごしらえが大変だ。数人分を作るなら簡単だが、大量に作るとなると人手も時間も足りない。この街の客はプリメーラとは違う。気が短く忙しない人が多いから、なにより早くなくてはいけない。さらに、やはりコストの問題もあります。素材の値段はともかく、この街にはデューの尻尾を安定的に納品してくれる業者がいない。そうなると、流通を安定させるためにはやはりお金がかかる」
話し終えると、ロベルトはすまなそうに眉を下げた。
ポラは少し俯いて「……そうですか」とつぶやいた。
「あはは。やっぱり、素人の浅知恵でしたね。プロに料理を提供しようなんて浅はかでした」
ポラは自嘲気味に笑った。
恥ずかしそうに目を伏せている。
そんなことはないですよ、とロベルトはポラの肩に手を置いた。
「この料理、とても心に沁みました。この繊細で優しい味は、あなたの性格そのものだ」
ロベルトは心から嬉しそうに微笑んだ。
ポラは少し照れくさそうに目線を逸らして、あーあ、と伸びをした。
「やっぱ簡単じゃないですねー。また一から考え直しましょうか」
ポラには悪いが、俺は思わず少し笑ってしまった。
やっぱり、今日のポラさんは珍しい。
そんな風に思いながら、ホクホクに茹でられたトツバの実を口に放り込んだ。
うーん。
やっぱり美味い。
Ж
「じゃあ、私、後片付けをしてきますね」
食事を終えると、ルナがそう言って立ち上がった。
「あ、いいよ。俺がやるから」
そう言って、俺も立ち上がる。
「いえいえ。ポチさんは、みなさんと会議を続けてください」
「でも」
「いいんです。私、これくらいしか役に立てませんから」
ルナは俺を制して、皿を重ね始めた。
それを両腕に抱えて、どたばたと走り出す。
うーん。
危うい。
「いい子でしょう」
ハラハラしながら見ていると、ロベルトが言った。
「自慢の従業員なんです。彼女がいるおかげで、このお店はとても明るくなるんです」
「ああ、なんとなく分かります」
思わず苦笑した。
給仕としてはともかく、人間としてはきっと最高なんだろう。
でしょう、とロベルトは顔に皺を作って笑った。
「優しい子だし、よく働くし。こんな店にはもったいない若者だ」
「あの子、ここは長いんですか」
「3年くらいになるかな。ウチのが亡くなってしまう少し前に来てくれた」
「ウチの?」
「ああ、ごめんごめん。私の妻のことだ」
ロベルトはそう言うと、目線を背中の壁の方へ向けた。
つられて見やると、そこにはセピア色の写真が飾られてあった。
美しい顔立ちをして、透かし細工のペンダントを首に付けた、上品そうな女の人。
「店名の『デイジー』というのは彼女の名前なんだ。言ってみれば、この店は彼女の形見だ」
俺は少し驚いて目を開いた。
「……そうだったんですか」
「だからこの店は残しておきたかったんだ。デイジーの生きた証のようなものだから」
デイジーズ・ファン、か。
きっと、仲の良い夫婦だったんだろう。
「……綺麗な人ですね」
「そうかい?」
ロベルトは少し照れくさそうに笑った。
「とても聡明な女性でね。長い間、このフリジアの歪さに疑問を持っていた」
「歪さ、ですか」
「うん。この街では、富と貧困が隣り合わせになっているだろう? 孤児が餓死している数百メートル先で、金持ちが高級シャンパンを飲んでいるんだ。私たちと彼らには、何の差があるというのか。自らはとても裕福な家柄に育ちながら、いつもそういうことを考えている女性だった」
ロベルトは一旦言葉を止め、額縁の中のデイジーを見た。
それから、彼女に語り掛けるように、
「ゲットーの貧しい人たちのために店を開きたいと、独立する時にこの場所を選んだのも彼女だ」
と言った。
「優しい人だったんですね」
「ああ。だが結局、その優しさが仇となった」
ロベルトは短く首を振った。
「くだらない揉め事だったらしい。この街では年に1000件は起こるような、当たり前の喧嘩だった。だが、その当たり前の出来事でデイジーは死んだ。不良同士のいざこざに巻き込まれてね」
当時を思い出したのか、ロベルトは目を伏せた。
「思えばあの時も、私はこの店を畳もうと考えていた。いいや、違うか。当時の私は多分、人生そのものを放棄しようとしていたんだろうね。デイジーがいなくなって、もう何もかも、どうでもよくなっていた。だが――」
ロベルトは厨房の方へ眼をやった。
「だが、ルナちゃんがいてくれて救われたんだ。あの子はデイジーがストリートで見つけて来た孤児だったんだがね。きっと、妻を亡くした私を憐れんでくれたんだろう。失意のどん底にいる私を、ずっと励ましてくれた。来る日も来る日も、励まし続けてくれたんだ」
そう言うと、ロベルトは愛しいものを見るように目を細めた。
二人は親子ではなかったが、彼はルナを自分の娘のように思っているのかもしれない。
「優しい子、なんですね」
「ああ。いつまで経ってもミスが多いけどね。でも、才能の溢れる未来有望な良い子だよ」
「才能?」
俺が聞くと、ロベルトは「ああ」と頷いた。
「彼女は絵が上手くてね。いつか、絵描きになりたいと言っていた。この店の看板もかつてはあの子に書いてもらっていた。レタリング、というのかな。文字を芸術的に変化させる技術にも長けていたよ」
へえ、と俺は頷いた。
失礼ながら、意外だなと思った。
あんなに不器用そうなのに、繊細な仕事が出来るもんなんだ。
「この街が、憎くはありませんでしたか」
突然、それまで黙っていたポラが口を開いた。
「この街が?」
「ええ。悪党だらけのこの街が。きっと、こんな貧困街でなければ、あなたの奥さんが死ぬことはなかったはず」
「……そうだなあ」
ロベルトは肩を竦めた。
「どうだろうかな。そうだとも、そうじゃないとも言えないな。デイジーも私も、この街の住人は嫌いじゃなかったからね」
「こんな治安の悪いのに?」
「うん。荒っぽい人間は多かったけど、それすらも彼女は愛していたように思う。だから私も……憎み切れない」
なるほど、とポラは頷いた。
「あなたもデイジーさんも、なかなかの変わり者のようですね」
「そうかもしれないね」
ロベルトは苦笑した。
「ポラさん、あなたはこの街のこと、お嫌いですか」
「ええ。大嫌いですね」
「では、どうして出て行かないんです?」
ポラはうーん、と少し考えた。
「それ以上に嫌いな街が多いから、でしょうか。消去法です。私はいろんな国を見てきましたが、ろくな町がなかった。特にこの国の富裕街は最悪ですから」
ロベルトはあははと笑った。
「なるほど。同感です。しかし、他にも理由はあるんじゃないですか」
「他の理由?」
「この街には仕事がある」
「確かに。それもありますね」
「つまり、良い仲間がいる、ということではないですか」
「さて。それはどうでしょうか」
「シーシーちゃん、良い子だもんね。きっと、仕事も充実してるんだろう」
「後半は当たってます」
ポラは肩を竦めた。
ロベルトはあははと笑った。
その時、厨房の方からガシャーン、という皿の割れる音がした。
「あ、またやったな」
ロベルトは参ったなと頭を掻きながら立ち上がった。
「俺も行きます」
思わず立ち上がると、ロベルトはいいからいいからと俺を制した。
「君たちはここでゆっくりしててください。そうだ。ついでにお茶も入れてきますよ」
「それじゃあ悪いですよ」
「いいんですよ。あなたたちはこの店のために来てくれたんだ。ゆっくり、アイデアを出しててください」
ロベルトはそう言って、足早にかけて言った。
「……ゆっくり、か」
俺はポラを見た。
「どうします? ポラさん」
「どうしますって、何がですか」
「なんか俺、あんな話を聞いちゃったら、なんとしてもこの店を立て直したくなっちゃったんですけど」
「同情で助けられるなら、とっくにシーシーちゃんがなんとかしてます」
「そうですけど――」
やっぱ厳しいなあ、リアリストさんは。
「まあ、ゆっくり考えましょう。明日の朝まではまだ時間があります」
「明日の朝?」
「ええ」
「こ、今夜はここに泊まるんですか?」
「もちろん」
「明日は朝から用事があるんじゃ」
「だから、朝までは粘ると言ってるんです」
「い、いいんですか?」
「仕方ないですね。効率が悪いから、徹夜はあんまりしない主義なんだけど」
ポラはそう言うと、よいしょ、と立ち上がった。
「ちょっと、ロベルトさんとお話をしてきます。細かい話、聞いてみなくちゃ」
ポラはキッチンの方へと歩いていく。
その背中を見ながら、俺は思わず、にんまりと笑ったのだった。
やっぱポラさんって……最高だ。