72 ロベルト
Ж
『デイジーズ・ファン』の玄関戸は施錠されず開いていた。
店内は灯が落ち真っ暗で人がいないように見えたが、ガラス戸に顔を近づけると奥の方にかろうじて明かりが見えた。
ポラと俺がおずおずとごめんください、と顔を覗かせる横を、「ウィーッス」と言いながらシーシーがずかずかと入っていった。
俺とポラはお互いに顔を見、その後ろを恐る恐るついていった。
漏れる灯りに照らされたホールは、外観とは打って変わって清潔に保たれていた。
椅子やテーブルは古くてオンボロだが、テーブルクロスは洗い立て、ガラス製の花瓶には一輪、新鮮な花が刺してあった。
そうなのである。
この店。
外観はおんぼろだが、内装はちゃんとした店なのだ。
「すいません! あたし――またとんでもないミスを」
薄暗いホールを歩いていると、奥から女の子の声が聞こえた。
シーシーは一瞬立ち止まったが、下唇をぺろりと舐め、すぐに駆け出した。
「ウイーッス、親父。来たぞー」
シーシーがずかずかとキッチンに押し入ると、
「あ、シーちゃん」
厨房にいた壮年の男が、突然の来訪に驚いて目を見開いた。
白いシャツに油の沁みついたエプロンを腰で巻いた、少しお腹の出たごま塩頭のおっちゃん。
ここの店主、ロベルトだ。
「すいません! すいません!」
その男――ロベルトの前で、一人の女の子が土下座をしていた。
赤みがかった髪を、おさげで二つに結ってある。
「もういいよ、ルナちゃん。分かったからさ」
ロベルトは優しく声をかけた。
しかし、少女――ルナというらしい――は頭を下げ続けている。
「なんだなんだ、どうしたんだ一体?」
シーシーはキッチンにぶら下がったソーセージをムシャムシャ食いながら言った。
勝手に食うのかよ、と思ったが、彼女の傍若無人ぶりに関しては、もうこれくらいでは驚かない自分がいた。
それがねえ、とロベルトは眉を下げて言った。
「実は今日、ルナちゃんにお使いを頼んだんだけどね。どうやら間違ったものを買ってきちゃったみたいで」
「間違ったもの?」
「そう。新しい料理を作ってみようと、露天街にある色んな店の出汁を頼んだんだけど――」
「油を買ってきちゃったんですぅ」
そこで、女の子が顔を上げた。
ちょっとそばかすが多いけど、とても可愛い子だった。
しかし今は、せっかくの顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
年のころは――俺と同級生くらいか。
「色んな種類の油を、お金の限り買ってきちゃったんですぅ。ごめんなさいぃ」
女の子はまた床に額を擦りつけた。
つとテーブルを見やると、ずらっと様々な缶が置いてあった。
植物油。
ココナッツ油。
オイレンオイル。
その他にも、俺が知らないこの世界特有の油がたくさん。
バリトム・オイルなんてものもある。(バリトムとはこの世界の動物で、カバのような生物だ)
色鮮やかなパッケージと共に、整然と並んでいる。
こりゃあ――酷いな。
いくら料理屋と言っても、こんなに油ばかりがあっても仕方ない。
それにしても――出汁と油を間違うなんて。
このルナって子、相当なドジっ子である。
「いいんだよ、ルナちゃん。私も往生際が悪かった。今さら新しい料理を作ったからって、この店はもう駄目なんだよ」
ロベルトは努めて笑った。
「ニャハハ! こいつは傑作だな! なけなしの金がさらになくなったのか!」
シーシーは腰に手を当て、鼻の穴が見えるくらい体をの反らして笑った。
ルナは縋るように泣きながら「そうなんです!」と言った。
「そうなんです! お金ないのに! 無駄遣いしちゃったんです!」
「救いようがねードジだな! お前は!」
シーシーがデリカシーゼロの言葉を吐くと、ルナはいよいよ恐縮した様子ですいませんと頭を下げた。
「私……本当にドジで。いつも足を引っ張ってばかり」
可哀想なほど怯えている。
参ったなあ、とロベルトは苦笑しながら頭を掻いた。
「そんなに気にしなくていいんだけどね。確かに痛い支出だけど、それでお店がどうこうという額じゃないしさ」
ロベルトは慰めるように言った後、俺たちの方を見た。
「それで、シーちゃん、この方たちは」
ロベルトはそこでやっと、俺たちの方を見た。
「おう、親父。こいつらはうちの部下だ。今日は、この店を潰さないために連れてきた」
「この店を……潰さないために?」
「そうだ。こう見えて、なかなか優秀な奴らだぞ」
シーシーはニシシと笑った。
「……そうでしたか。それはわざわざ、ありがとうございます」
ロベルトは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「いえ。私も、この店のファンの一人ですので」
ポラは言い、にこりと笑った。
ありがとうございます、と柔和な顔でロベルトはもう一度言った。
「しかし、もういいんです。私も色々と試行錯誤しましたがね、ここいらが限界のようで。ルナちゃんには悪いんだけど、もう閉めることに決めたんです」
ロベルトは悲しげに目を伏せた。
「駄目です!」
突然、ルナがガバっと起き上がった。
「絶対に、駄目です! 店長! このお店は、絶対に潰してはいけません!」
「ルナちゃん。もういいんだ」
「よくないです! だって、だってこのお店は――!」
ルナは目を真っ赤にさせながら、声を震わせながらロベルトに迫った。
ロベルトは彼女から目をそらし、参ったな、と呟いた。
「その通りだぜ、オヤジ」
シーシーがルナのあとを継ぐ。
「この店は潰させない。親父の飯を食えないなんて、うちが絶対許さない。白木綿の名に賭けてな!」
そう言って、またテーブルの上に登った。
この人、こういうとこに上がるのが好きだ。
バカと猫は高いところが好き、というのは本当かもしれない。
「勝手にうちの大事なシンボルを賭けないように」
ポラがぴしゃりと言った。
「うっせーバカ!」
シーシーは胸を張り高らかに宣言した。
「いいか! これから、何があってもこの店を持ち直す! 何があってもだ! だからお前らは、死ぬ気で考えるように!」
Ж
「考え方は間違ってないと思うんですよねー」
ホールに戻り、俺たちはテーブルを囲んだ。
リーダーのポラは上座である。
「やっぱり客を取り戻すには、何かきっかけが必要です。きっかけには色々とありますが、その内に一番のサービスである“料理”を持って来るのは自然でしょう」
「しかし、料理だけで人が帰ってきますかね」
「ま、かなり厳しいでしょうね。料理なんて、はっきり言って作れるものは限られてますから。ロベルトさんに今さら高級料理は作れないでしょうし、起死回生の逸品が作れる可能性も低い」
仰る通りです、と一番下座でロベルトが首を垂れた。
「それに、宣伝の問題もあります」
「宣伝?」
「ええ。仮にものすごい料理が開発できても、それを知ってもらわないといけない。そこで問題になるのが、資金不足。このお店にはお金がありません。チラシを配るにしても、広告を打つにしても、相当なインパクトが必要になる」
「それに関しては心配いらねーぞ!」
シーシーがバンバン、と猿のように机をたたいた。
「どういうことです? シーシーちゃん」
「うちらが協力すりゃ良いことだ」
「うちらって?」
「うちとお前だ。ミスティエを呼んでもいい」
「だから、どういうことですか」
「まだ分からねえのか」
シーシーはそう言うと、ポラの横に移動した。
それから人差し指を立てて――
「こいつを使うんだよ!」
そう言って、いきなりそれをポラの胸に突き刺した。
ずむ、と第一関節まで柔らかそうなおっぱいに沈む。
「は、はあ?」
俺は思わず顎を突き出した。
「な、何やってるんすか、シーシーさん」
「うちらが宣伝するんだよ! スーパービューティーのうちらが露出しまくりのコスプレして呼び込みすりゃ、エロさにつられておっさん来まくるぞ!」
シーシーはニャハハと笑った。
それから、ポラのおっぱいをぶにゅぶにゅとついた。
「……」
スパーン。
ポラは無言でシーシーをどついた。
「いてーなコラ!」
「いい加減にしてください。セクハラで告訴しますよ」
「やってみろ! そんな技、うちには効かねーぞ!」
「……意味、分かってないんですね」
「おう!」
二人はそれからしばらくぎゃーぎゃーやりあっていた。
他方、そのころ。
俺は想像していた。
ポラやミスティエが際どいコスチュームを着てチラシを配るシチュエーションを。
――いける。
俺はぐ、と拳を握った。
シーシーは論外だが――ポラとミスティエなら絶対に客を呼べる。
ちょっとお店のコンセプトが変わっちゃうけど――
俺なら絶対に行く。
行って、その店の会員カード作る。
そんな風に考えていると、俺もポラにしばかれた。
「わ、私も協力します!」
ルナがハイ、と手を上げる。
「わ、私、みなさんよりも貧相な身体ですけど、でも、でもでも、出来るだけせくしぃに頑張ります!」
「よし! それじゃあお前はフンドシだ!」
シーシーは立ち上がり、指を指しながら言った。
「ふ、ふんど――?」
「サラシにフンドシだ!」
「そ、それはさすがに」
「出来ないのか?」
「出来……」
ルナはキッと決意を込めた顔で言った。
「出来ます! 私、フンドシ履きます!」
「よく言った! それでこそこの店の看板娘だぞ!」
二人は抱き合った。
「あ、あの、ポラさん」
俺は半ば呆れ気味に二人を指さした。
「どうしましょう。なんか――青春してますけど」
「うん。放っておきましょう。付き合ってたら、話が進みませんから」
ポラはもう、突っ込むこともやめたようだった。
正しい判断だ、と俺はうんうんと頷いたのだった。