70 いつか
Ж
「うぉい! なんだ、その球は! ずりーぞコラ!」
粗末で不細工なバットを握り、ヨシュアが怒鳴った。
「曲げるなつってんだろ! 打てねーんだよ!」
「打てないように投げてるんだよ。ずるいとかじゃないから。そう言うゲームだから」
「うるせー! 男なら曲げるな! 直球で勝負しろや」
石を削って布を巻いただけのお手製ボールを手の中で転がしながら、俺はやれやれと肩を竦めた。
足を高く上げ、外角低め、ギリギリストライクゾーンからボールへ至るスローカーブを投げこむ。
ヨシュアのバットは空を切り、勢い余って尻餅をついた。
審判のトコが「すとらい~く」と間延びしたコールをする。
「だから曲げるなっつってんだろ! 曲げたら当たらねーんだから!」
ヨシュアは顔を真っ赤にして地団太を踏んだ。
「ストレートは全部場外ホームランにするだろ、お前は。これ以上ボールが無くなると困るの。貴重なんだから」
「うるせー! 打てねーとつまらねーんだよ!」
「打てるように練習しようぜ。教えてやるからよ」
俺はにこりと笑い、親指を立てた。
するとヨシュアは「ちきしょー!」と言って、地面を蹴って砂ぼこりをあげた。
「見てろよ! 1週間後には、ぼっこぼこに打ってやる!」
俺は「ああ」と言い、嬉しくて思わず大きく頷いた。
やつの運動神経なら、本当に打たれてしまうかもしれない。
俺も練習しないと、な。
俺は首にかけた布で汗を拭い、空を見上げた。
今日は雲一つない晴天だ。
乾いた風の心地よい、絶好の野球日和である。
あれから。
俺は“地下道の子供たち”と共に、野球チームを作った。
しかし、彼らにはまず“スポーツ”という概念がほとんどなく、楽しさを伝えることに苦労した。
一円にもならないのに体を動かすということが理解できず、最初はヨシュアに強引に誘われた奴らがいるくらいで、メンバーも少なかった。
しかし、彼らには“時間”があった。
子供である彼らには、そもそも仕事自体があまりないのだ。
そうなると、少しづつ暇つぶしに遊びに来るメンバーが増えてきた。
俺は一人ひとりにいちいち感激して、丁寧に野球を教えた。
なんていうか、それは喜びだった。
この世界の子供たちが野球を始めてくれたことが涙が出るほど嬉しかったのだ。
今では20人ほどの少年たちが、ここでバットを振ったりキャッチボールをしたりしている。
新しい“遊び”を、子供たちが楽しみ始めた。
すると意外な現象が起こった。
タガタの話に依れば、ゲットー地域で窃盗や置き引きのような犯罪が減ったのだという。
どうやら、人は暇な時間が増えると悪さをするらしい。
タガタはそのように話し、このフリジアの街を護る自警団の長である彼は、この活動を支援してくれている。
そして、タガタと言えば。
実は今、彼が俺の師匠になっている。
ミスティエの口添えで、自警団の団長から直々に師事してもらえることになったのだ。
修業は途轍もなくきつかった。
しかし、辛くはなかった。
強くなっている、という実感があったからだ。
なにしろ、今の俺には目標がある。
一日も早く、強くならなければならないのだ。
ミスティエに一人前と認めてもらえるくらいに。
そう言うわけで、最近は仕事以外は専ら修行の毎日である。
その中で唯一の息抜きが、この野球活動なのであった。
「にっしっしー」
不敵な笑い声が聞こえて、俺は「げ」と顔を顰めた。
自分の身の丈の何倍もある、巨大な木の棒を担いだ少女が顕れた。
シーシーである。
どこから聞きつけたのか、最近、彼女も時々こうしてやってくる。
メンバーが増えるのは嬉しいんだけど――この人、むちゃくちゃなんだよな。
「次はウチだ、ポチ。これなら、お前のクネクネするやつも打てるぞ」
そう言って、人差し指をくいくいと曲げる。
「い、いや、そりゃ当たるでしょ! そんな馬鹿でかいバットなら」
「曲げてもいいぞ」
「曲げても曲げなくても同じですよ」
「うるせー。ごたくは良いから、早よ投げろ」
シーシーはそう言うと、メジャーリーガーのようにガムをくちゃくちゃと噛みながら、巨大なバットと小さなお尻をフリフリと振った。
俺ははあと大きくため息を吐き、ボールを投げた。
140キロを超えていただろう俺の渾身のストレート。
アウトローでプロでも難しいはずの俺の最強の一球。
全てを込めたその行方は――
グワラガキゴガキーン。
白球は広場向こうのフェンスを越え、その先の工場をも飛び越えていった。
「デーン!」
シーシーはガッツポーズをしながら、ダイヤモンドを回った。
俺はがっくりとマウンドで崩れた。
ああ。
貴重なボールがまた一つ――無くなってしまった。
「ポチ君、まーた打たれたのねー」
プリムの声がして、目を上げた。
彼女は何やら紙を丸めたものを持っており、それを肩でポンポンと叩いていた。
「あの人は反則だよ。つーか、あのバットなんだよ。なんであれが振れるんだよ」
俺は半べそをかいた。
「男がそのくらいで泣かないの。しかし、知らない内にメンバー増えたわねー」
プリムは呆れたように広場を見回した。
「全く、こんな遊びの何が面白いのかしら」
「プリムもやろうぜ。やれば、面白さが分かるはずだから」
「嫌よ。私は二度とヤキューなんてしないから」
どうやら、まだ球拾いさせられたことを恨んでいるらしい。
俺は思わず、苦笑した。
「で、そんな野球嫌いのお前が、今日は何しに来たんだ?」
「何しにって、知らないの?」
「なんの話だよ。先週の強盗未遂事件のことなら、面倒くさいから警察には届けてないぞ」
「そんなことはどうでもいいのよ。そんなことより、ほら」
プリムはそう言って、持っていた紙を広げた。
「これ、ウチの夕刊の一面よ」
「夕刊? ペーパーカットの?」
「そ。一番にポチ君が見たいと思ってさ。早刷りを一部もらってきた」
「どういうことだよ」
俺が聞くと、プリムは腰に手を当て、「リュカ君の記事よ」と言った。
「リュカの?」
俺はプリムからふんだくるようにして、新聞紙を手に寄せた。
『トートルア国王死去からひと月。リュカ皇子が正式に王位を即位した。戴冠式は来週末と見られる』
つんのめるように記事を目で追うと、紙面にはそのように書かれてあった。
そのすぐ横に、写真も添えられてあった。
まだ小さな子供が、大仰な服を着て、大人たちが傅いている光景は異様だった。
しかしリュカの相貌はまっすぐ前を見据え、凛々しい王として威厳があった。
写真越しにも、決意のようなものが感じられた。
「リュカ君、恰好いいわね」
プリムが言った。
「ああ、そうだな」
俺は頷いた。
乾いた風が吹いて、空き地に砂ぼこりが舞った。
そう言えば、リュカと初めて出会ったのもこの場所だった。
あの時のあいつは、世間知らずの生意気な子供だったっけ。
俺はプリムにバレないように、目の端を指で拭った。
「よし、じゃあ俺、そろそろタガタさんとこ行かなくちゃ」
そう言って、プリムに新聞を返す。
「あら。あげるわよ」
「いらね」
「なんでよ。気にならないの? リュカ君のことや、トートルア王国のこと」
「なるよ。でも、俺がジタバタしたって変わらないし。それに」
「それに?」
プリムにせっつかれ、俺はにこりと笑った。
「それに、俺はリュカのことを信じてるし。あいつは絶対、良い王様になれるって」
「……そう。そうよね」
プリムはため息のように言って、微笑んだ。
「みなさーん、差し入れですよ」
声がして、通路の方へと目を向ける。
そこには、貧困地域にはそぐわぬ、清潔な服装をした女性が手を上げていた。
連れの使用人らしき人間が、ボトルの入った木箱を大量に抱えている。
「あ、マリアさん」
俺は手を振った。
マリアがスカートの裾を上げながら階段を降りてくる。
すると、ダラダラと練習をしていた少年たちは急に姿勢を正し、キビキビと動き出した。
俺はくすりと笑った。
いやはや、美女の力は凄いね。
マリアとは、海軍本部へクロップに会いに行った時に再会した。
どうやら彼女も事情を聴かれているようだった。
マリアには、オペラ劇場で起こった『リュカ皇子暗殺未遂事件』への関与があったのではないか、という嫌疑がかけられていた。
もっと端的に言うなら、“ミュッヘン海賊団との繋がりがあったのではないか”という疑いだ。
しかし、彼女の姉が海軍によって救い出され、ミュッヘン海賊団に誘拐されていたことが明らかになり、とりあえず“積極的関与”ではないことは証明された。
とはいえ、それでも反社会組織である海賊に手を貸したことで疑惑は残る。
念のために海軍省内で裁判にかけるべしという意見も出たようだった。
そこで、俺はクロップに直訴した。
リュカが助かったのはマリアのおかげだ。
あの時、姉を人質に取られながら、それでも空間移動の魔石を渡してくれた。
あれがなければ、リュカは2000人の観衆の眼前で、無残に殺されていたのだ。
貢献を称えられることはあっても、罪を問われるようなことはあってはいけない、と。
大した罪にはしないとクロップは渋ったが、俺はそう言う問題ではないと反論した。
彼女は大女優で、その経歴に傷がつくと、もうあの舞台には戻れないかもしれない。
もしも言うことを聞いてくれないなら、俺は、ウェンブリー社によるムンター奴隷制告発事件における海軍の落ち度をマスコミに洗いざらい話すと言った。
するとクロップはようよう、俺の要求を呑んでくれた。
今回の事件は全てミュッヘン海賊団の船長キュリオ=フォーが企てたことであり、民間人に容疑者はいなかった。
マリアと見られた女優は実は偽物であり、本物のマリアもまた、この事件の被害者の一人であった。
強引なシナリオではあったが、全てはそれで手打ちとなった。
そして、そのことをきっかけに俺はマリアと仲良くなった。
彼女に野球のことを何気なく話すと、オペラの女優であり、超セレブであるはずのマリアは、どういうわけか野球のことがすごく気に入ったみたいだった。
それ以来、時間が空くと、決まってこうして練習を見学に来てくれるわけだ。
「やあ、いつもありがとうございます。マリアさん」
俺が言うと、マリアはポッと頬を染めた。
「お礼なんて結構です。これは私が好きでやっていること。私は、ポチ様のヤキューを見に来ることが喜びですから」
「あ、ありがとうございます。……でも、あの、その“ポチ様”って言うの、やめてくれませんかね」
「あら。どうしてですか」
「いやなんて言うか、様付けはこそばゆいっていうか」
「ポチ様はポチ様です。私の、恩人ですから」
マリアはそう言うと、また一歩、俺に迫った。
俺は「はあ」と言って頭に手を当てた。
でもそれなら――せめて『田中様』って言ってほしいんだけど。
しかしどうもあの件依頼、どうもマリアは過剰に恩に思ってくれているみたいだ。
俺は当たり前のことをしただけで、そんな大層なことをしたわけではないのに。
「しかしほんと、マリアさんって不思議っすよね」
「そ、そうですか?」
「うん。でも、すげー嬉しいっす。野球のこと、気に入ってくれて」
俺は満面の笑みを浮かべた。
するとマリアはおずおずと「はい」と言って、耳まで真っ赤にして嬉しそうに微笑んだ。
「……どう見ても、気に入ってるのは野球じゃないみたいだけど」
プリムが呟いた。
「なんか言った?」
俺は顎を突き出した。
その顔を見て、プリムはやれやれと首を振った。
「全く、不思議なやつね。どう見てもボンクラなのに、皇子から女優から海賊から、すごい人間にばっかりモテて」
「なんの話だよ」
「うるさい」
「な、なんだよ。いきなり不機嫌になりやがって」
「私、鈍感系モテ男は大嫌いなのよ」
「だからなんだよ、それは」
「うるさい、いいからさっさと行きなさい。遅刻したら、タガタさんに叱られるわよ」
お、おう、と言って、俺は「じゃあ、また」と二人に挨拶をした。
そうして踵を返し、2、3歩歩いたところで、くるりと振り返った。
「わり。プリム、やっぱさっきの新聞、ちょっといいか」
「さっきの新聞?」
ああ、と言いながら、プリムは脇に挟んだ記事を差し出した。
俺はそれを受けると、リュカの写真の部分だけ千切りとった。
そしてそれを、持っていた数枚のお札に挟んで、それごとポケットに突っ込んだ。
「ポチくん、あなたやっぱり」
「じゃあまたな、プリム」
プリムが何か言いかけたが、俺はそれを遮って走り出した。
強くなる理由が出来た。
この悪党だらけの街で、自分のため以外に、強くなる理由が。
リュカ。
俺はこの街で暮らし、いつかお前の国に行く。
だがそれは、お前を殺すためなんかじゃない。
裁くためでもない。
お前を殺させないために。
お前の力になるために。
そのために――
「よう、タナカ。今日もタガタのとこか」
細い路地に入ったところで、右腕にタトゥーの入ったいかつい男たちから声をかけられた。
ヨシュアと仲のいい、密造酒を捌いている30絡みのゴロツキだ。
俺は「そうっス」と右手で挨拶をし、軽く頭を下げて通り過ぎた。
冷たくなり始めた秋風が、練習で火照った体に心地よい。
通いなれた裏路地を曲がって大通りに出ると、俺はさらに加速した。
最初は遠慮がちに、だけど徐々にスピードを上げて。
そのために強くなって、いつか、絶対に会いに行くよ。
俺はぐっと顔を上げ、フリジアの街を全速力で駆けたのだった。