69 約束
Ж
二人きりになると、急に静けさが耳を打った。
静寂に慣れてくると、今度は徐々に遠方の喧騒が蘇った。
だがそれ以上に、どくんどくんという自らの心臓の音が煩くて仕方なかった。
俺とリュカはお互いに、なかなか口を開けなかった。
聞きたいことや言いたいことは山ほどある。
伝えたいことは言い切れないほどある。
そのはずなのに、俺たちは微妙な距離をあけ、お互いに目をそむけたまま沈黙していた。
声を出せば、終わりが近づいてしまうような予感がしていた。
俺はバレないように、ちらとリュカの横顔を見た。
あどけなさは消え、凛とした女性の顔だった。
壊された教会。
オペラ鑑賞会の夜。
残された時間はもう、わずかだ。
「……ごめんな」
やがて、俺は口を開いた。
「結局、俺は何にもしてやれなかったんだな。お前はトートルアに戻り、また辛い日々を過ごさないといけない」
俺は唇を噛んだ。
思わず下を向くと、額にはらりと前髪が垂れた。
自分の無力が情けなくてしょうがなかった。
ミスティエにあれだけお膳立てしてもらったのに、リュカを解放してやると宣言したのに――結局はリュカを解放してやれなかった。
バチュアイからも、元老院からも。
「謝るのは私の方です」
だっていうのに、リュカは目を伏せ、謝罪した。
「実は、ポラさんの言っていることは、正確に言えば半分は外れているんです」
「ポラさんの言っていること?」
そう、とリュカは頷いた。
「私は確かにリクタさんを助けるためにバチュアイと手を組むことを選んだ。しかし、それだけではない。私は父の敵と闘うために、味方を欲していた。悪が必要だった。それも、元老院にも対抗できるほどの巨悪が必要だったんです。そしてそれは多分、元老院から国を取り戻したいという感情ではなかった。あなたを助けたい、という正義感でもない。あれは――ただの私憤だった」
リュカは俯き、小さく首を振りながら自嘲気味に笑った。
「醜い復讐心に駆られた私に、果たして王の資格があるだろうか」
俺は何と返してよいか分からず、しばらく沈黙した。
軽々に言葉を返すことは出来ない、と思った。
何しろ、リュカは何百万と言う人間の頂点に立つ人間だ。
そんな人物の悩みに、何の知識も経験もない俺が、どんな台詞を言えるというのか。
ふと見ると、いつの間にかリュカの瞳が、俺を見ていた。
寂し気な、何かに縋るような目。
それを見て、余計な考えは吹き飛んだ。
「あるさ」
思うままに、俺は言った。
「だってお前、優しいもん。俺、マジでバカだからよくわかんないけどさ、なんつーか、そういうのはきっと、王様に必要なことなんだと思うぜ。だとしたら、お前は十分に資格がある。立派な王様になれる」
我ながら呆れるほど陳腐な激励だった。
しかし、リュカは少し驚いたような表情になった後、ほっとしたようにゆっくりと目を細めた。
「不思議だ。あなたに言われると、本当にそうである気がしてくる」
「そうだろ? 任せとけって。俺、自分には自信ないけど、人を見る目には自信あるから」
俺は胸を張り、満面の笑みを浮かべた。
「お前は、痛みや苦しみを知ってる。そう言う奴は信頼できるんだ」
なるほど、とリュカは穏やかに言った。
「それは例えば、白木綿の人たちのことですか?」
「え?」
「信頼できる人間のことです」
リュカは破れた窓の外に目をやった。
「白木綿海賊団。あなたたちは、互いに信頼し合っている。言葉に出さなくとも尊重し合っている」
「そ、そう、かな。確かに俺はみんなを信頼してるけど――船長たちは、俺のこと信じているのかは……ちっと分かんねーな」
リュカはくすりと笑った。
「信頼されてますよ。こうして今、私たちを二人きりにさせてくれること自体が、その証拠です」
「どういうこと?」
「ポラさんの言った通り、私とリクタさんは立場が違う。もしも私たちが感傷に流されたら、互いに密通し合い、情報を流すかもしれない。白木綿の船長はプロフェッショナルだと聞いてます。あなたを信じていないなら、こんな機会は決して許されないでしょう」
確かに、言われてみればその通りだった。
ミスティエはあくまでディアボロの依頼で動いている。
密通の約束をするかもしれない、こんな会合を許す道理はない。
「しかし、ポラさんと、それからミスティエ殿は私の我儘を聞いてくれた。信頼し、別れの時を作ってくれた。ミスティエさんに、ありがとうと伝えておいてください」
リュカはぺこりとお辞儀をした。
俺は「ああ」と呟くように言った。
「伝えておくよ」
“別れ”。
その言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
……すげー嫌な響き。
「リクタさん」
リュカが言った。
「一つ、お願いがあるのですが」
「お願い?」
「はい」
リュカは胸に両手をあて、俺の眼を見つめた。
「な、なんだよ、改まって」
「これからのことです」
「これからのこと?」
はい、とリュカは言い、破れた窓の方に目をやった。
「これから、私とリクタさんは遠くの国で、それぞれ離れて生活していきます。立場上、連絡を取り合うことも出来ないでしょう」
「そう……だな」
「であれば、私があなたのことを知る術はなくなる。だから、今、頼みたいのです」
リュカはぎゅっと拳を握った。
そして最初は呟くように、だがやがて語気を強めながら言った。
「あなたには今のまま、変わって欲しくないのです。今の、朴訥で、優しくて、真っすぐなあなたでいてほしい。どんな辛い現実や理不尽に見舞われても、悪に染まることなく、どうか……どうかそのままでいて――欲しい」
リュカの黒目がちな両目が潤んでいた。
無垢な瞳に耐え切れず、なんだよそれ、と言って、俺は目をそらした。
「お前、最後の頼みがそんなんでいいのかよ」
「そんなこと、ではないんです。私にとってはとても大事なことだから」
そう言って、祈るように俺を見る。
俺は肩を竦めた。
「言っとくけど俺、お前が思ってるほどいい人間じゃねーぞ。それでも、いいんだな?」
「うん。それでいい」
「分かったよ。じゃ、約束する。出来る限り、変わらないようにするよ」
照れ臭くなって、俺は後頭部をがりがりと搔いた。
「……ありがとう」
リュカは目を瞑って微笑んだ。
そして――一粒の涙が頬を伝った。
「な、なんだよ。泣くほどのことか」
俺は拗ねる様にして、口を尖らせて言った。
リュカが何を欲しているのか、正直、その時はよく理解できていなかった。
「それじゃあ、もう行かなくては」
リュカが言い、手を差し出した。
「ああ」
俺は無理に笑顔を作り、じゃあな、とその手を握り締めた。
「ヨシュアやプリムたちにも、よろしく伝えておいてください」
「ああ」
「とても楽しかった。あなたたちのことは忘れない」
そう言うと、最後にもう一度微笑み、リュカは手を放した。
そして踵を返し、歩き出した。
胸の内が苦しくて仕方なかった。
俺は知らなかった。
友達との別れが――こんなにも辛いなんて。
徐々に小さくなっていく背中。
きっと、彼女にはその小さな身に余るほどの、苛烈な運命が待っているんだろう。
それを想うと、俺は祈らずにはいられなかった。
ああ、神様。
リュカを――俺の友達を、どうか守ってあげてください。
そのように思っていると、つと、身廊の真ん中でリュカの足がぴたりと止まった。
そしてそのまま、動かなくなった。
どうしたのかと訝った――
次の瞬間。
リュカが急に向きを変え、俺の方に全速力で走って来た。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
俺は両手を広げて、彼女を抱きとめた。
「リクタ! リクタぁ!」
リュカは俺の耳元で泣きじゃくった。
「私は、お前が恋しい! お前と別れたくない!」
涙が、俺のうなじにポタポタと落ちる。
「俺もだ、リュカ」
短く言って、ぎゅっとリュカを抱きしめた。
美しい髪の毛を撫で、柔らかい頬に自らの頬を寄せた。
熱く火照った小さな体は、子犬のように小刻みに震えていた。
ああ、俺はなんて馬鹿なんだと思った。
リュカが成長しただなんて、そんなのは大間違いだった。
リュカは、心細いのを隠して、泣きたいのを堪えて――我慢していただけだったんだ。
「リクタ。私はお前の友達だ」
と、リュカが言った。
「ああ、友達だ」
俺は強く頷いた。
「ずっと、この先も私と友人でいてくれるか」
「ああ」
「ずっとずっと、だぞ」
「当たり前だろう。お前のことを嫌いになんて、なるもんか」
「もっと、もっと言ってくれ。そういうことを、私の記憶に残るように、たくさん」
「ああ、何度でも言ってやる。俺は、ずっとこのままだ。このままで、お前を好きでい続ける」
「絶対、だぞ」
「絶対だ」
「絶対に、絶対だ」
「ああ、絶対だ」
リュカは何度も同じセリフをねだった。
だから俺は同じ言葉を繰り返した。
飾らず、そのまんまを言い続けた。
運命を信じている、とリュカは言った。
なら、俺も俺の運命を信じよう、と思った。
今日、リュカと出会えたことは、きっと意味があることなんだ。
そうであるなら――神様はきっと、まだ続きを用意している。
だから俺とリュカはまたいつか、出会えるはずなんだ。
そうして、何度も確認し合いながら、俺たちはいつまでもそうやって抱き合っていた。
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「リュカ皇子」
やがて声がして、目をやった。
教会のくず落ちた入口に、リングイネの姿があった。
「もうお時間がございません。まもなく、ここに使節団がやってきます」
「ああ、分かった」
リュカはそう言い、惜しむように俺を見つめた。
それからぐいと涙を拭い、俺から身を放す。
「なあ、リクタ」
「なんだ」
「最後にもう一つだけ、我儘を言わせてくれ」
「我儘?」
「そうだ。これは、お前にしか頼めないことだ」
リュカはにこりと笑った。
「トートルアで武装蜂起が起きたら、お前も必ず、ミスティエたちと共に国にやってきてくれ」
「それはもちろん、そうするつもりだけど」
「必ずだ。そして国に来たら、民の声を聴いてくれ」
「ど、どういうことだよ」
「お前に、私を裁いてほしいのだ」
リュカはそこで一旦言葉をきり、真剣な面差しで俺を見た。
「私はこれから王となる。清も濁も学び、それを実践していくことになるだろう。その過程で、恐らく私は変わる。変わらざるを得ない、と思う。そしていつか、私とリクタが再開を果たしたとき、もしも私が、王として、国を、民を統治するものとして、人道を見失い、間違いを犯していたら、お前の眼から見て、そのように見えたとしたら、その時は……その時はお前が――」
お前が私を殺してくれ。
と、リュカは言った。
突拍子もない言葉に、すぐには言葉の意味が理解できなかった。
リュカが何を言っているのか、腑に落ちて行かない。
「な、なんだよ、いきなり。お前、一体何を――何を言ってるんだ」
俺は聞いた。
だが、リュカは応えなかった。
その代わりに、笑窪を作りながら微笑んだ。
そして、
「ではさらばだ、友よ」
リュカはそう言い残し、踵を返した。
待ってくれと叫んでも、今度はもう、彼女が振り返ることはなかった。
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教会内に一人残され、俺はしばらく呆然としていた。
辺りが静まり返り、遠くの騒音が消え去るまでそうしていた。
家に戻ろうと思った。
ふと見ると、教会内は酷くがらんとしていて、ポラもエリーもみないなくなっていた。
わずかに残った海軍兵士の間を抜けて、俺はギネーア・オペラ大劇場を後にした。
富裕層街の安全な夜道を歩いていると、斑柄の野良猫が目の前を横切った。
ガス灯に照らされたその猫は土壁を登り、俺を一瞥すると、軽快に奥の方へと歩き去った。
それを目で追っていると、不意に、涙があふれた。
一旦流れ始めた涙はとめどなく溢れて、止まらなくなった。
俺は名もない路傍に立ち尽くし、背を丸めて慟哭した。
リュカとの別れが悲しくて仕方がなかった。
あいつをもっと助けてやりたかった。
あいつの重荷を、少しでも肩代わりしてやりたかった。
――強くなってやる。
荒ぶる決意に、身が震えるようだった。
つと見上げると、夜空に浮かんでいたはずの赤い満月は、いつの間にか消えていた。