68 淑女
Ж
「おーおー、派手にやってくれたのう」
クロップは破壊しつくされた教会を眺めながら言った。
強い顎髭を絞り、呆れたように苦笑している。
「ここも大事な遺産なんじゃがのう。やれやれ、酷い有様じゃ。貴重な聖櫃や遺構が台なし。こりゃあ考古学徒が見たら卒倒するぞ」
バチュアイが教会から出ていくと、クロップとタガタはそれぞれ兵に命令をし、その足ですぐにミスティエの方へ向かった。
事情を聴くためだったのだろうが、二人は彼女の様子を見ると目の色を変え、慌てて救護班を呼んだ。
白い修道服を着た男たちが簡素な担架を運び入れ、ミスティエを乗せて連れて行ってしまった。
「白木綿海賊団のリクタ=タナカだな」
しばらくすると俺の元にも海軍の下士官が数人やってきてそのように言った。
俺がそうだと答えると、奴らは不思議そうに俺を見た。
「お前がバチュアイと闘ったのか」
「ええ、まあ」
「それにしては――ミスティエよりも傷が浅いようだが」
「それは……たまたまで」
「たまたま?」
「ええ」
「ともかくリュカ皇子を護ったのはよくやった」
「いえ、それは、その」
俺は口ごもった。
リュカを護ったなんて、口が裂けても言えなかった。
俺は何も出来なかったんだ。
そのまま黙り込んでいると、彼らは後で海軍本部に出頭して来いと命じた。
俺ははい、と頷いた。
すると彼らは、踵を返してさっさと行ってしまった。
煩わしい。
申し訳ないけど、そいつはサボってしまおう。
どうせ、今後の外交のために、トートルア国やリュカのことを詳しく聴取したいだけなんだろうし。
「お疲れさん」
目を上げると、クロップがいた。
「あ、ああ、お疲れ様です」
「お前さん、ただの海賊ではないと思ったが、ふむ、これは想像以上だったかの」
クロップは教会内を改めて見回しながら言った。
「別に。俺は何者でもありませんよ」
俺は力なく首を振った。
クロップはふむ、と目を細めた。
「まあいい。今日は帰ってゆっくり休みなさい。じゃが、どうやら色々と聞かねばならんようだ。悪いようにはせんから、落ち着いたら一度顔を見せにおいで」
「しかし」
「尋問しようというわけじゃない。上には話をつけておくから、第一海軍卿室に直接やってきなさい」
クロップから直接釘を刺されてしまい、結局は観念してしまった。
さすがにこの人には逆らえまい。
俺ははい、と頷いた。
それから海軍はリュカを元老院の元へ連れていこうとしたが、リュカはそれを固辞した。
あとで自らトートルアの使節団と合流する旨を伝え、保護の必要はないと応じた。
Ж
海軍がいなくなる(といっても数人はまだ残っていたが)と、また教会内は静かになった。
俺は改めて破壊された教会内を見まわした。
身廊は抉れ、石畳は剥がれ、ステンドガラスは割れている。
象徴であるパイプオルガンは途中で折れてぶら下がり、聖櫃を守る十字架も中央に巨大な穴が開いてしまっていた。
まるであらゆる天災が通り過ぎた後のような有様だ。
よく――生き残れたな。
俺は大きく息を吐き、その場にぺたりとへたり込んだ。
危険が消え去ると、急に全身から力が抜けた。
「……リュカ。大丈夫か」
俺はリュカに目を移した。
彼女は所在なさげに虚空を見つめていたが、俺の言葉でびくりと小さく体を震わせると、肩を竦めてこちらをむいた。
「ああ、大丈夫……です。お前――あなたは大丈夫ですか」
わざわざ“お前”を“あなた”に言い直す。
何故か敬語だ。
俺はなんだよそれ、と言って苦笑した。
「とりあえず、俺は大丈夫そうだ。なんか知らないけど――いつの間にか治ってる」
「本当か? かなり手ひどく攻撃されていたが」
「うん。リュカがあいつとやり取りしている間に、すっかり回復したみたいだ」
「そうか。それは、はあ、よかった」
それだけ言って、ぎこちない笑みを浮かべた。
纏っていた光は消え、すっかり元のリュカに戻っている。
とはいえ――やはり以前とどこか雰囲気が違った。
態度も口調も変わってしまっている。
そのせいか、俺とリュカの間には微妙な空気が流れていた。
――いいや、違うか。
この奇妙な雰囲気は、俺の方が作っているんだ。
そう。
俺はまだ、納得できていない。
リュカは、バチュアイと手を組むと言っていた。
はっきり言って、信じられない暴挙だと思った。
リュカには、どういう意図があるんだろうか。
なぜ、あんなことを言ったのか。
あんな凶悪な海賊と手を組むなんて――リュカにとってもトートルアにとっても、決して良い出来事とは思えなかった。
そのことが消化できず、ずっとモヤモヤしている。
聞きたいことは山ほどある。
しかし、それを今、直接聞いてしまうのは躊躇われた。
リュカは、もう俺の知っているリュカではない気がした。
最恐の海賊と呼ばれるバチュアイと対等にやりあった彼女は――
もはや本物の王であるかのように見えた。
だから、やっぱり変わったのは俺の方なのだ。
「お疲れ様です」
声がして目を上げると、ポラが立っていた。
「あ、ああ、ポラさん。本当に疲れました」
俺ははあと長い息を吐き、頭を下げた。
「すいませんでした。勝手に行動してしまって」
「そうですね。本当に、困ったものでした。貴重な魔具も壊れてしまったし」
皮肉っぽく言って、ポラは笑った。
俺は慌ててもう一度、今度は大きく頭を下げた。
「本当にすいません。あれ、レアものだったんですよね」
「そうです。しかも、船長のお気に入り」
「やべえな……どうしよう」
今さらのように、俺は慌てた。
ポラはアハハと笑った。
「ま、私の方から上手く言っておきます」
「すいませんけど、お願いしますね……つか、そう言えば、船長は大丈夫なんでしょうか」
あれだけ傷めつけられたのだ。
大丈夫なわけはない。
「大丈夫だと思いますよ」
だって言うのに、ポラはケロリと言った。
「あ、あの怪我で、ですか」
「ま、丸一日も休めば、通常の生活が送れるようになるんじゃないでしょうか」
俺ははあと声を漏らした。
やっぱ……あの人も普通じゃない。
「あの人、本当に人間なんですかね」
「それを言うならポチ君の方がおかしいですよ。もうすっかり治ってるみたいだし」
ポラは呆れたように肩を竦めた。
俺は自らの掌をグーパーさせた。
体の痛みは完全に引いている。
ただ俺の場合は、恐らく魔具を使っていたからじゃないだろうか。
「それじゃあ、船長からの伝言です」
一人で首を捻っていると、ポラが言った。
「伝言?」
「はい。怪我が治れば、船長はまた別の仕事に入ります。依頼はいくらでも入ってますから、当分は会えなくなる」
俺はははと笑った。
死線を潜り抜けた直後だというのに、もう次の仕事のことを考えているのか。
全く、なんて忙しい人。
「では」
ポラはこほんと空咳をした。
「『今日の力をいつでも引き出せるようになれ。でなければトートルアには連れていかんぞ』だ、そうです」
「き、厳しいなぁ、船長は」
俺は後頭部をかいた。
ポラはくすりと笑った。
「それだけ期待をしているということでしょう」
ポラはそこでリュカに目を移した。
そして、慇懃に頭を下げ、最大限の敬意を示した。
「リュカ皇子。お初にお目にかかります。フリジアで白木綿という海賊の一員をやっている、ポラと申します」
「ポラ殿、ですか。リクタ殿の仲間でございますね」
「ええ。うちのポ――リクタがご迷惑をかけました」
「とんでもない。彼は終始、素敵な青年でした」
「それは買いかぶりでございます。この男はただの掃除夫で、ムッツリスケベで、ロリコンで身の程知らずで、世間知らずの茶坊主でございまして。皇子におかれましては、努々(ゆめゆめ)このド変態に騙されぬよう申し上げます」
「い、言い過ぎではないですか」
リュカは少しムッとしたように言った。
ポラはくすくすと笑い、失礼しましたと頭を下げた。
「しかし、リュカ殿。先ほどは見事な渉外でございましたね」
「……いえ」
「顔を上げてください。あなたはあのバチュアイを、武力以外で見事に制しておられた。同じ交渉を生業としている身として、心根が震えました」
ポラは心底感心したというように言った。
「ちょっと待ってください」
そこで、俺は思わず口を挟んだ。
「あの、ポラさん。正直、俺には理解できないです。リュカは、どうしてバチュアイなんかと手を組んでしまったのか。戦闘を止めろと説得するのはいいです。しかし、共闘まで約束してしまうのはどう見ても悪手だ。そのせいで、リュカはこれからバチュアイのようなロクデナシと共に国を動かさなくてはいけない。なあ、リュカ。お前、なんであんな馬鹿なことを」
俺はリュカを見た。
リュカは気まずそうに目をそらした。
「リュカ。こっち向けよ。こっちを向いて、ちゃんと説明してくれ」
思わずリュカに詰め寄る。
だがリュカはやはり俯いたまま、俺を見ようとはしない。
「馬鹿者はポチ君です」
背中から声がして振り返ると、ポラがニコニコと笑っていた。
「どういう意味ですか」
「馬鹿だから馬鹿と言っただけです。この大馬鹿者」
「ポラさん。あなたはまさか、リュカがバチュアイのような悪人と手を組んで正解だったと言うんですか。そのせいで、リュカがこれからどれだけ苦労すると」
「黙りなさい」
ポラはぴしゃりと言って俺を遮ると、俺の胸倉を掴んでグンと引き寄せた。
物凄い力に、俺は驚いた。
それからポラは俺の顔に自分の顔を近づけ、笑みを消して言った。
「ポチ君。あなたは、リュカ皇子の気持ちが分からないんですか」
「リュカの――気持ち?」
「そう。皇子は、とても重い決断をした」
「知ってますよ。だからその決断が間違っていると、俺は」
「ではどうすればよかったと?」
ポラに言われ、俺は口を噤んだ。
「あの時、完全形態になったバチュアイの強さは誰にも止められなかった。船長でも、ポチ君でも、恐らくはクロップさんでも無理だったでしょう。それほどまでに、あの時の奴はどうしようもなかった」
「しかし、何も手を組む必要は」
「無かった、と言い切れますか?」
ポラは語気を強め、さらにぐっと手に力を入れた。
「バチュアイは甘い男ではありません。あの時、我々が助かるにはバチュアイにとって“白木綿を殺せない理由”が必要だった。ただ単に“殺すな”と頼み込んだだけで“はいそうします”なんていうわけにはいかなかった。それには、まずはバチュアイを損得で縛り、論理の世界へと引き込む必要があった」
「論理の世界――?」
「そうです。あの男にはプラスもマイナスもない。本能のみで動くような男です。だからまず、リュカ皇子はあの聖なるオーラと見事な口上を以て、奴の価値観を揺さぶったわけです。その上で、私たちの命を奴にとって価値のあるものにした。バチュアイに“殺すわけにはいかない”と思わせた。そして――」
いいですか、とポラは言った。
「ここからが大事なことです。ではなぜ、リュカ皇子はわざわざそんなことをしたのか。国のために? いいえ、違う。それは偏に、ポチ君、あなたのためだった」
「俺の、ために」
「そう。皇子は別にポチ君を見殺しにしてもよかった。いいえ、トートルアの為政者として考えるなら、むしろその方が都合がよかった。大人しくしてさえいればバチュアイがリュカ皇子を殺すことはしないでしょうし、そもそも私たちは皇子の敵なんですからね。しかし、彼女は危険を冒し、あえて奴を仲間に入れた。何故か。そうしないと、ポチ君、あなたが死ぬからです。断言してもいいですが、あの時、あなたを助けるにはああするしかなかった。つまり皇子は――国とあなたを天秤にかけたわけです。それほどまでに」
あなたに死んでもらいたくなかったんです、とポラは言った。
「そんな皇子の苦悩を、ポチ君は理解してますか」
俺は目を見開き、何か反論しようと口を開けた。
だが、ポラの言うことは100%正論で、俺は短い息を吐くだけで、また口を閉じ、結局は俯いた。
悔しくて、拳を握った。
結局――俺は何も出来なかったわけだ。
ポラはそこで、俺の胸から手を離した。
それからやれやれという風に溜息をついて、
「全く、なんて鈍感な人なんですか。正直に言って、ここまで子供だとは思いませんでした。船長ならぶん殴ってるとこですよ」
と、呆れたように言った。
「何故――何故、俺のためにそこまで」
俺は唇を噛んだ。
膝をつき、背を丸め、項垂れた。
「なぜも何も――」
「ポラさん、もうやめてください」
なおも口を開こうとするポラを、リュカが制した。
そして、無言で首を横に振った。
「そうですか。いえ、そうですよね」
ポラは失礼しましたと言って、小さく頭を下げた。
「さあ、そろそろ行かれたほうがよろしいですよ。安全が確保されれば、直にトートルアの使節団も来られるでしょう」
ポラは外に出るよう促した。
リュカははい、と俯くように頷いた。
「ちょ、ちょっと待って」
歩き出すリュカの背中に、俺は思わず声をかけた。
だが――二の句が出てこない。
なんと声をかければ良いか、分からない。
「……リュカ」
やがて俺は、ぶんと頭を下げた。
「すまない。俺、なんて言ったらいいか分からないけど――とにかく、ごめん」
リュカは半身だけ振り返った。
「リクタさん。あなたが謝る必要は何もない。私はあなたに、感謝しているのですから」
「感……謝?」
「ええ。でもあなたはきっと、私が何を言っているか、分からないでしょうね」
リュカは微笑んだ。
随分と大人びた笑みだと思った。
ここに至って、ようやく俺は気付いた。
そうなのだ。
リュカはあの時、変身したわけではなく――成長したのだ。
失われた時を取り戻すかのように、一夜にして大きく精神が成育した。
間抜けな俺なんかよりも、もっともっと成熟したんだ。
「――ポラ殿」
リュカはポラへと目を移し、言った。
「一つ、お願いをしてもいいだろうか」
「お願い、ですか」
「はい」
「はあ、なんでしょうか」
「少し奇妙に思われるかもしれませんが、その、あの」
リュカはそこで言葉を止め、ちらと俺を見た。
それから思いつめたような表情を浮かべ、少しだけ上目使いの三白眼になり、おずおずとこう言った。
「最後にリクタと――リクタ殿と二人きりにさせてもらえないでしょうか」
「……なるほど。あまり感心はしませんが、いいでしょう。しかし、それが奇妙だなんて思いませんよ。私も一応、女ですから」
ポラはにこりと微笑むと、淑女に対して敬意を表すように、スカートの裾を摘まんで優雅に礼をした。