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67 教唆

 

 Ж


「……リュカ」


 俺は置かれた状況を忘れ、思わずしばし見惚れた。

 すぐ目の前にいるのに、時や空間を隔てているような現実感のない神々しさ。


 その時俺は――皇子リュカこそ、この汚れた世界で最も清廉で美しい人間なんだと理解した。


「ここまでだと言っておる。リクタから手を放せ」


 リュカは言った。


「何が起こったのか知らねえが――勘違いしてんなよ、ガキが」

 

 バチュアイは不愉快そうにチッと舌打ちをした。

 すると皇子は、聞き分けのない子を見る母親のように、微かに苦笑した。


「バチュアイ。リクタから手を放せ。放さないならば、お前の計画もこれまでだ。トートルアをお前の遊びには使わせない」

「どういう意味だ」

「リクタを殺せば、私はトートルア国第一皇子としてお前を国から排除する。そう言っているのだ」


 バチュアイ粘着性の唾液で糸を引かせながら口を開け、にたりと笑った。


「ははァ、ガキめ、笑わせるじゃねえか。お前に一体、何ができるっつーんだよ」

「出来る出来ないではない。やるのだ。国に帰ったら私は“奴ら”と戦う」

「奴ら?」

「元老院だよ」


 リュカは言い、顎を上げた。


「お前が? あの糞汚ぇジジイどもと?」

 バチュアイは肩をすくめて、嘲るようにクハハと笑った。

「くだらねえ冗談だなァ」


 冗談ではない、とリュカは言った。


「私はこれから王となる。国のため、そして国民のために生きるのだよ。私はもう――逃げることはしない」


 リュカはバチュアイを睨みつけた。

 バチュアイはやはり薄ら笑いを湛えたまま、からかうように首を曲げた。

 

「妄言だなぁ、皇子。国ために生きるも何も、今のお前には味方も知恵も、何もねえだろ」

「たしかにそうだ。だが、元老院にも敵がいる。そして、奴らとて一枚岩ではない。あのような非人道的な組織だ。不満を持つ因子――真っ当な教皇や貴族はあるだろう」

「へ。なんだ、そいつらを取り込むと言いてえのか。お前みてえなガキについてくる奴なんていんのか」

「さてどうかな。それじゃあ、その前に――」


 そうだな、とリュカは微かに口の端を上げた。


「バチュアイよ。まずは貴様を口説いてやろうか」

「は?」


 バチュアイは目を見開いた。


 意想外の言葉だったのだろう。

 その時――奴の顔からずっと漂っていた薄気味の悪いあの嗤いが消えた。


 バチュアイが驚くのも無理はなかった。

 なにしろ、俺も耳を疑った。

 

 皇帝リュカが――蛮族バチュアイを口説く、だって?


「……何言ってんだ、お前ぇ」


 バチュアイは睨むようにリュカを見た。

 リュカはそれをしっかり見返し、目をそらさずに口を開いた。


「お前は自らが強いことに倦んでいる。生きることに飽きているのだ。だから、この世の成り立ちを全て破壊したい。それしか苛立ちを解消する方法が思い浮かばない。人を殺せば、社会を壊せば、世の中が面白くなると思っている。だがそれは妄想だ。お前はただ、自分の思うようにならないからと暴れているにすぎない。さながら腹をすかせた乳飲み子のように、ゆりかごの中で泣きわめいているのだ」


 バチュアイの表情が怒りに歪む。

 リュカは構わず続けた。


「キュリオを殺し、ディアボロを殺し、普く海賊を皆殺しにした先にあるのは、今よりももっと乾いた世界だ。力が全ての世界になれば、きっと大いなる虚無がやってくる。暗黒の力はやがて暗黒へと回帰するだけなのだ。そうなればお前はまたすぐ足らず、渇き、苦悩することになる」

「……知った風な口を」

「ああ、気に障ったならすまない。つい、な。お前はどうにも、他人のように思えないのだ」


 リュカは口の端を上げた。


「私には、お前の過去など知りようもないがな、しかし、お前の気持ちが私にはなんとなく分かるのだ。その眼。その貌。お前は――どこか私に似ている」

「似ているだと? 俺とお前が?」

「お前にも苛烈な過去があるはずだ。私と同じように、忌まわしく血塗られた過去がな。そのおぞましい姿がその何よりの証左。人を呪い、世を憎み、そうしてかろうじて生きてきた身体だ。きっと――」


 きっと、辛かったろう――と、リュカは目を細めた。


「うるせえ。だから知った風な口を利くなと言ってるだろうが。おめえみたいなガキに、この俺の何が――」

「私には歪なそのお前の姿は悲鳴に見える。お前の存在そのものが、その殺意そのものが、まるで誰かに向けて助けてくれと大声で救いを叫んでいるように見える」

「うるせえっつってんだろうが!」


 バチュアイは不愉快そうに顔を顰め、そう怒鳴った。

 狼狽えている。

 リュカの言葉の一つ一つが聖なる鏃となって、奴の心根に突き刺さっている。


 俺は驚いた。

 いつの間にか――バチュアイが押されている。

 あれほど凶悪で理不尽で、あらゆる人間に支配的だった男が。


 リュカの言葉と、その清廉なオーラに圧されているのだ。


 リュカはせせら笑うように、口の端を上げた。


「どうした。同情されることは辛いか。理解されることは痛いか」

「喋るなと言ってんだろうが! 適当なこと言ってると脳みそごと首を喰いちぎるぞ、糞餓鬼」


「喰ってみろ」

 リュカは言葉を止めない。

「だが、そうすればお前の臓腑はらわたはたちまちの裡に腐って落ちていく。私も死ぬが、お前も死ぬ。その覚悟があるなら、私を五腑に収めるがよい」


 リュカの瞳がさらに、燃える様に赤く染まった。

 その深紅の瞳で三白眼になり、バチュアイを睨みつけた。


「お前にとって、この私は毒そのものだ。対であり、相克なのだよ」


「なんだそりゃあ」

 バチュアイは俺の首から手を放し、リュカの方に向いた。

「くだらねえハッタリ言いやがる。俺が元老院の顔色を窺って、お前を殺さねえと思ってんのか?」


 リュカは目を瞑り、ゆっくりと首を振った。


「私は信じているだけだ」

「信じる?」

「お前は私を殺さない」

「本物の馬鹿野郎だな。ジュベ海賊団の頭領である、この俺を信じるとは」

「いいや、貴様など信じてはいない。私が信じているのだ自分だ。自らの運命を信じている。私が選ばれた民ならば、貴様のような下賊などに殺されることはない」


 クハハ、とバチュアイは笑った。


「小癪だな。面白い。なら殺してやる。お前のその勘違いをここで今すぐ証明してやる」


 バチュアイはリュカの首に手を伸ばした。

 節くれ立って鋭利に尖った指先が、リュカの柔らかな肉へ向かう。

 

 やめろ――


 叫ぼうとしたが、喉が潰れて言葉にはならなかった。


 リュカが殺される――

 俺は刹那、計り知れない恐怖を感じた。

 

 友達が目の前で殺されるという恐怖。

 この世で、それ以上に怖ろしいことがあるだろうか。

 俺は身動きも出来ず、かといって目をそらすことも出来ず、ただ震えた。


 バチンッ


 しかし、俺の想像は現実のものとはならなかった。

 リュカに触れる寸前、バチュアイの腕が弾かれた。

 

 バチュアイは思わずのけ反った。

 それから驚愕の表情を浮かべ、目を丸く見開いてリュカを見た。


 奴の掌はシュウシュウと音を立て、煙が上がっていた。

 傷口は酷く爛れて、黒く焼け焦げていた。


 俺はごくりと喉を鳴らした。

 聖と邪。

 リュカの言葉は――単なる脅しではなかった。


 バチュアイを滅する存在があるとすれば、それはきっとリュカしかいない。

 なんの根拠もないのに、俺にはそんな予感がした。

 不死で邪悪なこの男の命に届くのは――リュカの聖なる力しかない、と。


 バチュアイは自らの腕を掴み、驚愕の表情を浮かべた。

 そして「てめぇ……」と呟く。


「バチュアイ」

 と、リュカは言った。

「お前はただ、強いものと戦いたいのだろう? そして、今の海賊たちの関係を壊したい。だがその野望はくだらないものだよ。私なら――私なら、それをよりももっと面白いものを、()()()を提供してやれる」


「もっと面白いもの」

「そうだ。破壊よりも意味のある生き方だ。そのために、私に協力してくれ。新しいトートルアを創り上げるために」

「新しいトートルア、だと?」


 バチュアイはぶっと噴き出した。


「カハッ。お前、正気かよ。政が死ぬほど嫌いのこの俺と、国を創ろうというのか」

「おかしいか?」

「ああ、おかしいね。完全にイカレてるぜ、お前は」

「その通りだ。私はどうかしている。お前のような狂人と手を組もうというのだからな。だがそれでいい。この世界の本性ははしたない蛇だ。ならば、躊躇いなど不要」

「どういう意味だよ、小僧」

「私は元老院を殺すのに、手段は選ばんということだ」


 リュカの身体の光がその光量を増した。

 バチュアイはそれに晒され、眩しそうに目を細めた。


「さて、どうする。いくら相克の相性でも、戦闘能力だけ言えば私とお前では雲泥万里。お前なら、私の首をハネることくらい容易く出来よう」

「……」

 

 バチュアイは無言で、値踏みするようにリュカをめつけた。


 教会内に沈黙が落ちた。

 随分と長い間、バチュアイはリュカを眺めていた。

 

 何を考えているのか。

 既に人外となった奴の瞳からは、その思考は読み取れなかった。

 バチュアイの双眸は、最早、人間のそれではなかった。


 しかし確かなことは、明らかにその殺意が薄れていることだった。

 あんなにも無節操にまき散らされていた悪意が、今はなりを潜めている。


 迷って、いるのか?

 この暴力の権化のような男が――逡巡している。


 Ж


 バチュアイとリュカは無言のまま、長く見つめあっていた。

 奇妙な静寂は、見ているものを疲弊させた。


 一触即発。

 俺たちは、バチュアイが恐ろしかった。

 奴の心根次第でこの沈黙はすぐに弾けて、次の瞬間には全員殺されてしまうことだってあり得るのだ。


 つと、バチュアイが動いた。

 再び、無造作にリュカへと手を伸ばしたのだ。


「や……めろ」


 今度は体が動いた。

 俺は這うようにして、バチュアイから庇うようにリュカの前に移動した。


「よい」

 しかし、リュカは俺を退けた。

「リクタ。ここは私に任せてくれ」


 リュカはバチュアイに臨んだ。


 バチュアイの腕はリュカの頭の直前で止まった。

 手をかざすようにして、そのままの格好で静止した。


 そのポーズに、どういう意味があるのかは分からなかった。

 しかし――二人は何かしら会話をしているように、俺には見えた。


 瞳孔の細く縮んだその人外の眼が、かっと見開いた。

 不思議な表情だった。

 怒りも憎悪も、何もない貌。

 

 そして、俺は見た。

 刹那、リュカの発する光に照らされたバチュアイの顔が――人間のそれに戻ったのだ。

 体は異形のままなのに、顔だけが無垢な少年の顔。

 見知らぬ面相だったが、どこか、元のバチュアイの面影が残っていた。

 あれは――かつてのバチュアイの顔なのか。


 だがそれはあまりに一瞬で。

 次の瞬間には、もう元の相貌に戻っていた。


 Ж


「バチュアイ=シルベストル」


 と、その時。

 沈黙は意外な形で破られた。


 いきなり巨大な爆発音がして、教会の入口と窓が同時に破られたのだ。

 そしてそこから、ラングレー海軍の海兵と、それからフリジア自警団がなだれ込んできた。

 その先頭にいたのは――クロップ大将であった。


「そこまでだ」

 クロップは半身になり、戦闘態勢をとった。

「バチュアイ。貴様がプリメイラで暴れることは許されんぞ。ただの海賊同士の小競り合いならば看過できるが、船長クラスが出てくるのであれば話は別。これ以上やるなら、もはや海軍ワシらも黙ってはおれん」


 バチュアイは「クロップか」と呟き、肩を竦めた。

 

 両者の間は約50メートル。

 彼らにとっては、十分に間合いの範疇だ。


「あーぁ……面倒くせぇのが来たなァ。すげー冷めちまう」


 バチュアイは半眼なり、ため息交じりに呟いた。 

 それから「面倒くせぇ」と呟き、苛立たし気にボサボサの金髪頭を掻きむしった。


「人が考え事してる時によぉ、邪魔するんじゃねえよ」


 そして奴は急に白けた表情に戻ると、「まあいいや」と呟き、自らの身体からワルキューレを追い出したのか、元の人間の姿に戻った。


「……まあいい。面倒くせぇから、今日はもう終いだ」

 

 バチュアイはジャラジャラとピアスを鳴らしながら頭を振り、背を丸め、首を曲げてリュカを一瞥した。


「おい、クソガキ。テメーはどうしようもねえ世間知らずの青くせえアホだ。だがな」

「クソガキじゃない。リュカという名を呼べ」

 リュカが遮る。

「呼び直せ。私とお前はパートナー。あくまでも対等なのだから」


「うるせえ。テメーなんて糞餓鬼だ」

 バチュアイはベぇと長い舌を出した。

「だが――面白い糞餓鬼だ。この俺を武力以外に使おうという人間は、初めて見た」


 バチュアイはそう言うと、伏せるようにして目線を外した。


「使うわけじゃない。力を貸してくれと言っている」

 リュカは穏やかな目でバチュアイを見た。


「なんだその顔は」

 バチュアイは不愉快そうに顔を歪めた。

「勘違いするなよ。俺ぁ別に、国盗りに興味があるわけじゃねえ。ただ――お前は元老院のジジイどもより面白そうだというだけだ。ここで殺すのは如何にも勿体無ぇと、そう思っただけだ」

「十分だ」


 リュカは短く頷いた。

 バチュアイは顎を上げた。


「とんだ邪魔が入った。だから、話は国に戻ってから聞いてやる。手を組むかどうかはそれからだ。連絡を入れて来い。くれぐれも――」


 ジジイ共に悟られるんじゃねえぞ、とバチュアイは言った。


 リュカは目線を強めたまま「分かった」と言い、顎を引いた。

 それから、少しだけ悲しそうに微笑んだ。


 Ж


 一旦は踵を返したバチュアイはつと足を止め、くるりと向き直して俺の方に歩いてきた。


「命拾いしたな、犬っころ」

 バチュアイは息がかかりそうなほど顔を近づけ、目の前でそう言った。

「多分、お前とはそう遠くない未来にまた会うことになる。そんな予感がするんだよ。その時、もう一回、闘ってやる。だが」


 バチュアイはそこで言葉を止めて、俺の手を取った。

 指から魔具である指輪を抜き取る。

 そしてそれをパキキ――と握りつぶした。


「こんなチートは無しだ。次は正真正銘、てめぇの力で強くなってろ」


 そう言い残すと、バチュアイは背を丸め、ヨタヨタと歩きながら教会から出ていった。


 

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