66 事件
Ж
青年の名前はリクタ=タナカと言った。
とてもお節介な男で、見ず知らずの自分のことをなんやかやと構った。
政敵の臣子から追われている自分を、特に理由もなく守ってくれた。
彼は海賊だという話だったが、リングイネの話に出てくる海賊とはまるで違っていた。
リクタと出会い、共に行動している内、リュカはまた少し変わった。
共にフリジアの街を歩き、貧困に喘ぐものたちと触れ、世界の仕組みを知った。
彼らは自分と違うと思った。
それは着ているものが違うとか地位が違うとか、そういう飾りのことではなく、人間としての根本に関わることだった。
フリジアでは誰も彼も、自らの境遇に絶望していなかった。
どんなに不格好でも、瑣末でも、みな戦っていた。
生きるとは、ただ息をするということではない。
どうしようもない境遇。
強制的に与えられたシステム。
それらに怯え、身を縮めて、じっと自分を殺して暮らすことではない。
つまり、抗うということだ。
リュカは、生まれて初めて命が惜しいと思った。
自分にも彼らのように生きられる道があるのではないかと、そう思った。
そう思えたのは、やはりリクタがいるからだった。
この男は本当に不思議だ。
脆弱で頭も悪そうなのに、接していると生きる勇気をもらえた。
リクタと言う男には、得も知れぬ引力があって、彼女はそれに惹かれていた。
それは例えば、ヤキューというスポーツを呆れるほど無邪気に愛していたり、或いは強大な敵に立ち向かう姿や、負けると分かっていても、殺されると分かっていても信念を曲げない頑固さに見て取れた。
何よりも、今日あったばかりの自分のことを心から友人と呼んでくれたことを感じれたことは、リュカにとっては、天地がひっくり返るほどの出来事であったのだった。
時々、それは痛みを伴うほどに刺激的で、彼女にとっては、リクタはほとんど感傷そのものとさえ言えた。
自らは気付いていなかったが、リュカは初恋に落ちていたのかもしれなかった。
運命、と言う言葉があるとリングイネから聞いたことがあった。
非科学的な迷信だと彼は笑っていたが、リュカにはそれが単なる与太とも思えなかった。
なぜなら、この日、この一日、あの瞬間に、リクタに出会えたからだ。
人生で唯一、自由の時に、生涯の友に出会えるなどと――そんな奇跡があろうか。
教会で祈った時。
リュカは誰よりも真剣だった。
一途に、真摯に、神に願った。
リクタと出会わせてくれてありがとう。
どうかこれからも友でいさせてほしい、と。
だから――
だから私はどうしても――
――リクタに死んでほしくない
想いが爆発したとき。
一瞬、壮年の男が目の裏で瞬いた。
「友を作れ。そしてそれを、生涯大事にしろ」
凛々しく、威厳のある声音。
そして愛おしく、温かい声音。
あれは誰の声だったか。
それはリュカが無くしていた記憶。
孤独の裡に思い出すことが辛くて、自ら心の奥底に沈め、封印していた記憶の欠片たちだった。
あの声は――若き日の父だ。
リュカは確信した。
そして同時に、父の声さえも忘れていた自分に驚き、そして失望した。
私は父の声さえも記憶から消していたのか。
一度あふれ出すと、それらはとめどなくリュカの脳内で蘇っていった。
地下牢に閉じ込められる前。
私が何かものを覚えるたびに、嬉しそうに頭を撫でてくれた父。
世の理を説き、国民への慈愛に満ちていた王。
父の隣にはいつも母がいた。
美しく、華奢で儚い女性だった。
夜眠るときは御伽噺を聞かせてくれ、朝起きるとまだ眠いとぐずっている私の前髪を優しくかきあげ、額にキスをしてくれた。
凛々しかった父と、優しかった母。
そして、その間に挟まれた私。
記憶、記憶、記憶。
人間とは記憶の生き物なんだ。
リュカは唐突に、そう悟った。
ああ――
そうだ。
そうだったのだ。
ずっと忘れていた。
私は――たしかにかつて、愛されていた。
だが幸せの時は続かなかった。
父も、そして恐らく母も、元老院によって謀殺された。
バチュアイの話では、全てが奴らの計画だったのだ。
何故だ。
何故奴らはそのようなことをした。
決まっている。
――欲望にとり憑かれた貴族共が諮問機関を利用し、国王を傀儡にして実行権力を振るうためだ!
その瞬間。
ぐちゃぐちゃしたものがリュカの中でぐるぐると暴れまわった。
名状し難い感情が、猛り、そしてついに行き場を失って――やがて爆発した。
赦せるものか――
そうして、リュカの頭の内部で何かが爆ぜた。
Ж
「なんだ、皇子。その姿は」
バチュアイは少し驚いたように目を開け、リュカを見下ろした。
リュカの身体はぼうと輝いていた。
髪は真っ白く染まり、瞳は赤く染まっている。
エリーのぎこちない治癒魔法を受けながら、ミスティエは目を細めた。
トートルアの王族には特別な血が流れている。
ミスティエはディアボロからそのように聞いたことがあった。
それはくだらない伝説のようなものだと奴は語っていたが、今まさに目の前にある光景は、嫌でもミスティエにその話を想起させた。
今より遥か昔。
かつて、まだ世界を神々が統治していた超古代の話だ。
トートルア王の祖先アーサー王は聖なる光を以て魔物を打ち倒し、熾天使ミカエルから天稟を受けた。
それは魔を滅す光であり、人々を安住の地に導く聖なる力だった。
しかし、その力は血が交わることで薄れ行き、やがて消えていったと。
あの光。
神々しく猛々しい光彩。
世界中にあるどの可視光線とも異なる煌めきだ。
――美しい。
ミスティエは思わずそう呟いた。
リュカはバチュアイの闇を振り払うように輝き、光彩を放っていた。
まさに世界の夜を照らす聖なる光源。
それは確かな質量を伴って、穢れきった教会を浄めていた。
思わず平伏してしまいそうなオーラ。
溢れるような資質。
これが――正統なる王の血。
「隔世遺伝、と言う奴でしょうか」
ポラがミスティエの心を読んだかのように言った。
「そうだろうな。現トートルア王にあのような力があるとは聞いていない。恐らく、血脈の中で時々発露する現象なんだろう」
「伝説は本当だった、ということでしょうかね」
「まさか。恐らく、あの継承されていた能力が先で、伝説は偶像崇拝の装置として後からつけられたものだ」
「なるほど。それなら合点がいきますね。しかし、とはいえリュカ皇子にはまだ戦闘など出来ませんよね」
「ああ。残念だが、彼女はまだほんの子供だ」
「では、どうなるんでしょうか。バチュアイも、さすがにリュカ皇子を殺すわけにはいかないのでは」
「さてな。覚醒したリュカ皇子と、完全変態したバチュアイは、最早あたしたちじゃあ測りかねる存在だ。二人がどのように折衝するのか、誰にも予想なんて出来ねえ。だが、どうやら賽は振られた。ここまで来たら見届けようじゃねえか」
ミスティエは嬉しそうに口の端を上げた。
「これからトートルア国の趨勢とアデル湾の力関係が決まる。それは即ち、トートルア国内にあるエネルギー資源に影響を受ける世界中の国々と、それを運ぶ運河に生きる海賊全ての運命をも変える、まさに分水嶺と言うべき事件が起こるということだ。なあ、ポラ。こんなに面白い見世物はねぇとは思わねえか。あたしたちが今から目撃する出来事は、後世にまで語り継がれることになるであろう、時代の転換点なんだ」
ミスティエは今しがた瀕死の大怪我をしたことも忘れたように、目を輝かせた。
「全く、喜ぶ場面じゃないでしょうに。どうしてそんなに楽しそうなんですか」
ポラははあと息を吐き、やれやれと眉を下げた。