65 檻
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トートルア国王位継承順位第一位、リュカ・アーサー・デア・バリアム・トートルア皇子の最初の記憶は、地下牢へと続く廊下だった。
暗く陽の届かない廊下を、カツンカツンと歩く足音たち。
亡者たちの葬列のように、白い装束を来た者たちがぞろぞろと闇へ向かって歩いていた。
リュカは獣を入れるような檻に入れられ、その中から蝋燭の灯りに照らされる剥き出しの岩肌を眺めていた。
どこまで歩いても光は見えてこない。
奥へ奥へ、地下へ地下へと、行進は続いた。
「王は何を考えておられるのだろうか」
男の声がした。
しゃがれた老人の声だ。
「さてな。ただあの方は今、明らかに正常ではない」
「それは私にも分かるよ。あの血走った眼を見たか。切々、鬼のような顔をしてなさる」
「うむ……何か病でも隠されておるのか」
「病と言うなら心の病であろうよ。大体、洗礼を終え可愛い盛りの我が子を地下牢へ幽閉しろだなんて――誰が見ても正気じゃない」
「やはり、リュカ様が女であったことが関係しているのだろうか」
「無関係とは言えまいよ。その名前から察しても、王が男児を望まれていたのは自明だ」
「しかし、何も隠匿することはないだろう。王はまだ健在だ。世継ぎなどまた作れば良い」
「そうだが……先日、皇后様が亡くなってしまったからな。それもまた、遠因かもしれぬ」
「馬鹿な。たしかに王は皇后を愛していたが、悲しみで気が触れる王ではない。そのような弱い王ではない」
「それは分からんよ。王とて人間だ」
「王は王だ。我々のような民草と同じではない。なにより、そんなにまで愛していた皇后さまの実子を閉じ込めるなどと、矛盾しているだろう」
「うむ……それはそうだろうが」
それきり、会話は途切れた。
それからは歩が止まるまで、誰一人として口を開かなかった。
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連れられた先は酷く荒れた部屋だった。
ものは何も置いておらず、ゴツゴツした床に筵が敷いてあるだけだった。
部屋の隅には桶があり、そこに便をしろと教えられた。
光は蝋燭の火だけで、それ以外は何もなかった。
そのせいで蝋が絶えてしまうと、次に食事係がやってくるまで真っ暗闇の中で過ごさねばならなかった。
食事は日に2度だった。
乾いたパンと粗末なスープ。
時折出される山羊の乳だけが楽しみだった。
食事係は若い女中だった。
優しい言葉を話す女で、名前はユーリと言った。
彼女は毎日、短い時間、密かにリュカの話し相手になっていた。
どこか痛いところはない?
何か食べたいものは?
最初はそのような単純なことを聞く程度であったが、リュカがもっと喋るようせがむと、世間話のようなものをするようになった。
リュカとの会話は禁じられているはずなのに、ユーリは罰を恐れた様子はなかった。
今日はいい天気よ。
私は動物が大好きで、いつか大きな犬を飼いたいと思っているの。
そのようなくだらない話をつづけた。
リュカが長じてからも言葉に不自由しなかったのは、この時の会話のおかげだった。
ある日。
ユーリの代わりに、髭を蓄えた壮年の男がリュカの食事を持ってきた。
リュカはユーリのことを聞いたが、男は応えてくれなかった。
その日から、二度とユーリが来ることは無くなった。
リュカの話し相手はパンで餌付けした鼠だけになった。
彼女は鼠にユーリシスと名付けた。
“シス”とはトートルア国の首都があるバリアム地方の方言で、「妹」という意味があった。
「ユーリシス。今日はなんだか寒いの」
「ユーリシス。犬という生き物を知っておるか」
「ユーリシス。余はユーリの言っていた月というものを見てみたい」
ユーリシスはとてもリュカに慣れていた。
リュカがそのように話しかけると、決まって腕を伝って耳元まで走り、チュウと一鳴きするのであった。
しかし、ユーリが来なくなってどれくらいの日が経っただろうか。
リュカはすぐに限界に達した。
人と話すこともなく、ただただ毎日、何の刺激もなく暮らす日々。
物事を考えると、膨大な時間は途端に自らを殺す凶器になった。
リュカはいつしか思考することを放棄し、やがて何も喋らなくなった。
一日の大半を横になって過ごした。
天井を見つめ、目を瞑り、ただ息をしてやり過ごした。
そして時折思いついたようにむくりと起き上がると、頭をガンガンと壁にぶつけた。
何かに想いを馳せると、気が狂いそうだった。
いつの間にか、ユーリシスは彼女の元には来なくなっていた。
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ある日。
リュカの元に、リングイネという男がやってきた。
その男は王から侯爵の爵位を与えられた地方出身の貴族で、リュカの現状を聞き、目の色を変えてやってきたのだった。
リングイネは若い時分、リュカの母のお付きだった。
長く城から遠方にある地方で自治に従事していたが、少し前に長年の功績が認められて宮仕えに戻って来たという話だった。
リングイネはすぐに王に掛け合い、幽閉を解くようにと訴えた。
しかし王は首を縦にしなかった。
この時すでに、元老院の服毒により王は完全に自我を失っていたのである。
であるならば、せめて人並みの生活ができる様にと稟告した。
その許しが出たとき、リュカの精神は既に壊れかけていた。
また、そうでなければ、リュカがあの部屋から出ることはなかったはずであった。
リングイネはリュカを介抱し、ゆっくりと文明を与えていった。
検閲を通した本を読ませ、文字を教え、世の理と計算式を教えた。
リュカは順調に回復していった。
人並みに話ができるまでには2年の時を費やした。
だが、幼い頃に粗末な食事しか与えられなかったせいか、年齢の割に体の成長は著しく遅れていようだった。
地下牢を出てからも、外部との接触は極端に制限された。
話ができるのはリングイネのみ。
それも、元老院の監視下においてしか許されなかった。
リングイネは必要最低限のことしか教えていなかった。
また、余計な自由や甘言はせず、ある程度距離を置いて接した。
彼は、それがリュカを守る唯一の方法であることに勘づいていた。
「余は外に出たい」
「犬を飼いたい」
やがて我儘を言うようになったリュカを、リングイネは微笑ましく思った。
だが当然、彼はそれらを全て却下した。
与えられた本だけ見ておきなさいと、それだけ伝えた。
リングイネはリュカへの愛情を外部にバレぬよう努める必要があった。
あくまでも自分は亡き皇后への義理と、人道に悖る蛮行が許せない、というのがその行動原理であるのだと。
それからさらに半年ほど経った。
リュカは日に日に人間らしさを取り戻していった。
明らかに彼女は変わった。
しかし、時折、極度に闇を恐れることがあった。
この頃から、蝋燭の火は絶やさぬようにと守衛に命じるようになっていた。
リュカ様は無知なままでいる必要がある。
相変わらずその信念は変わらなかったが、リングイネは、時々彼女が不憫に思えて仕方がなかった。
この子の人生は一体何なのだろうか。
この子は一体、何のために生まれたのだろうか。
皇后さまが生きておられたら――リュカ様をどれだけ憐れむだろうか。
ある日から、リングイネは監視の目をかいくぐって世間のことを少しづつ教えていった。
斑で偏った知識しか教えられなかったが、少しでも多くを知っておいてほしかった。
そして最後にはいつもこのように伝えた。
「リュカ様。このようなことを知っていることは、城内の誰にも知られてはなりませんぞ」
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ある朝。
王が自ら退位し、世継ぎを決めるという一報が入って来た。
元老院はすぐに継承権第一位のリュカを王にすると決めた。
それはまさに、予め予定されていたことに違いなかった。
リングイネの予想通りだった。
彼はリュカの元へと急ぎ、誰にも聞こえないように彼女に伝えた。
「いいですか、リュカ様。あなたは国政に逆らってはいけません。なにがあっても、諾々と指示通りに動くのです。よいですか? 皇子は何も知らない。知ろうともしない。そうしていれば、きっと不自由のない人生を送れます」
リュカはうんと頷いた。
何も考えないように生きる。
それは実に自分らしいと彼女は考えた。
つまりそれが、自分の運命なのだ――と。
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それから数日後。
リュカはついに、外に出ることを許された。
なんでも、ラングレーと言う国にあるフリジアという街で、次期王である皇子のお披露目会をするという話だった。
リュカはそこで、生まれて初めて外の景色を見た。
ラングレーへ至る道はとても感動的で、無意識に涙が出た。
風、土、太陽、人間、野良犬、建造物。
通り過ぎる景色に目移りしては、一人でクラクラしていた。
外の世界はこのように広がっていたのか。
彼女にとっては、それは天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
そして同時に、リュカは生まれて初めて味わう感情に見舞われた。
見るものは全てキラキラと煌めいているのに、心が晴れない。
それどころかムカムカと腹が立ち、往来を歩く者どもが憎くすらあった。
それは嫉妬でございましょう、とリングイネは言った。
リュカ様は当たり前に往来する庶民が羨ましいのではございませんか、と。
その通りだと、リュカは思った。
余は、当然の如く生きている彼らが羨ましいのだ。
「しかし、嫉妬は人を狂わせます。リュカ様、どうか嫋やかに」
リングイネがそのように言ったので、リュカはそのように努めた。
そして、フリジアに着く直前。
リュカはリングイネに頼み込んだ。
王になれば生涯、余は元老院の言いなりであろう。
一生に一度の頼みだ。
人生の慰みに、一日だけ自由にこの街を歩かせてくれ、と。
そして――
街に出たリュカは、そこで木の棒を振り回す奇妙な青年に出会った。




