59 衝動
Ж
指輪をつけた瞬間――
目の前が真っ白になり、鳩尾の辺りから放射するように凄まじい衝撃がつま先から脳天まで突き抜けた。
細胞の一つひとつにまでエネルギーが流れ出て、筋肉は急速に発達し、かと思えば反対に突然細くなり、胸や腹、そして四肢までもがボコボコと波打った。
暴流するオーラが身体の内を這いずり回る感覚に、脳が焼け付いてどうにかなりそうだった。
体が弾けて千切れ飛んでしまいそうだ。
ぐあ、と呻いて、俺は膝をついた。
血液が数倍の速さで体中を巡り、筋肉はさらに不均等にボコボコと波打った。
収まれ――収まれよ!
汗だくになりながら俺は繰り返し呟き、オーラの流れを制御しようとした。
しかし、間欠泉のように噴出する凄まじい気の爆発に、意思の力はあまりに脆弱だった。
体がバラバラになるような痛みが体中を駆け巡った。
熱さと冷たさが交互に皮膚を焼き、また凍らせた。
あまりの苦痛に俺はその場で吐瀉し、さらにゲフゲフと強烈にむせた。
まるで胃が裏返るような強烈な吐き気だった。
歯を食いしばると歯間から赤く染まった唾と胃液が垂れた。
冷静になれ。
このエネルギーの暴発に耐えて、さらに自分の思うようにコントロールするのだ。
途切れそうになる意識を無理やり繋ぎ止めて、暴れまわるエネルギーを知覚した。
苦しい――
が、ありがてえ。
血反吐を吐きながら、俺はにやりと笑った。
本当だったことが有難い。
船長の言葉に、嘘は無かった。
俺の体には、こんなにもすさまじい力が眠っていたのだ。
化けて見せろ、と船長は言った。
上等だよ。
やってみせるさ。
俺は背を丸め、まるで赤ん坊のように膝を抱えて蹲った。
こいつを絶対に抑え込んで見せる。
強く――強くなるんだ。
強くなって、リュカを奴らから救い出すんだ。
Ж
「な」
ポラは目を見開いた。
「一体、何を言っているんですか。私は嘘などついていない」
「くだらねえ。俺ぁお前みてえな野郎が大嫌いなんだよ」
バチュアイは嫌悪をむき出しにし、鼻に皺を寄せた。
「説明しなさい。どういうことですか」
狼狽を悟られぬよう、意識して平静を装う。
バチュアイはペッと唾を吐いた。
「いいか、女。ギルティはな、そんなタマじゃねえんだ。自分が取引に使われるくらいなら、躊躇なく死を選ぶ。あいつが生きたまま拘束されているなんてのはあり得ねえんだ」
「ですから自死できぬよう、ディアボロが拘束していると言っているんです。彼は今、動くことはもちろん、その異能力も封じられて使えない状態です」
「だとしてもだ」
バチュアイは語気を強めた。
「だとしても、アイツは捕虜には絶対にならねえ。簀巻きにされて、全ての感覚を閉じられてもな」
バチュアイは口の端を微かに上げた。
「ギルティはマニアックな野郎でな。爆弾が好きで好きで好きで好きでしょうがねえ野郎なんだ。いよいよ好事家が極まって、自分の体内に爆弾まで埋め込んじまってる。そいつは特殊な代物でな、体の動きや能力とは無関係に発動するんだ」
「無関係に発動する?」
な――なんだ、それは。
ポラは顔を顰めた。
「馬鹿な。体の動きも能力も制約された状態で、任意に起爆など出来るはずがない。そういう異能力ならともかく――本物の爆弾なら、どうしたって起爆には物理的な装置が必要でしょう」
「出来るさ。血の流れや心臓の鼓動、臓器の細動や脳内の電気信号。人間の内燃機関にはいくらでも起爆スイッチがある」
「そこまでして――そんなことに、何の意味が」
「世の中には色んなやつがいる。ま、お前には到底理解できねえだろうが、要するにギルティの野郎は――」
自らを解除不能な爆弾に改造しているんだ、とバチュアイは言った。
「自らを――爆弾に?」
「その通り」
バチュアイは頷いた。
「あいつ爆発し、霧散し、誰かを破壊しながら爆散したいんだ。そうやって、爆弾として死にたがってる。だから――自分の命なんて一ミリも惜しくねえんだ」
「爆弾として――死にたがっている?」
ポラは思わず顎を突き出した。
何を言っているんだ、この男は。
「く、くだらない冗談を」
「冗談じゃねえよ」
バチュアイはにやりと笑った。
「面白れぇやつだろ? あいつは爆弾そのものになりたいんだ。もちろん、それはただ爆発するだけじゃダメだ。それは美学に反するんでな。爆弾ってのは兵器だ。兵器なら、誰かを巻き込み、道ずれにしねえとな」
そう言って、愉快そうに肩を揺らす。
「く――」
狂っている、と思った。
そんな人間がいることが、ポラには信じられなかった。
ハッタリだ。
奴は今、真実を確かめるためにカマをかけてきているのだ。
「バチュアイ。くだらない駆け引きはやめにしましょう」
と、ポラは言った。
「駆け引き?」
「あなたは折衝が嫌いだと言いながら、とんだ策略家だ。仮にあなたの話が本当なら、あなたがそんな人間を副船長に選ぶはずがないのだから」
「さて。そりゃどういう意味だ」
「集団には秩序と言うものが必要です。巨大海賊団の長が、そんな危うい人間をナンバー2に選ぶはずがない。例えばギルティが死ねば、支配していた島や利権は消えてなくなります。あなたの財産もかなり減ってしまうはず。そうでなくとも、ギルティはあなたの右腕で側近中の側近。おいそれと死ぬことを許すはずがない」
「おやおや。こいつはとんだおぼこじゃねえか」
バチュアイは肩を竦めた。
「白木綿の交渉人がこんな甘ちゃんだとはなぁ。言っとくがな、俺はギルティの奴が生きようが死のうがどうでもいい。死にてえなら勝手に死ねだ」
「……副船長が惜しくない、と言うんですか?」
ああそうだ、とバチュアイは目を見開いた。
「人手が減ったら増やせばいいだけだ」
「それが嘘だと言っているんです」
ポラはぴしゃりと言った。
「ジュベ海賊団と言えば、金や権力のためなら何でもする集団のはず。そのためにあらゆる犯罪を厭わない、金の亡者のような組織のはずでしょう。ならば、矛盾してるじゃないですか。組織として金や権力を維持するなら、副船長は絶対に生かしておきたいはず。そもそも、そんな調子では財産管理や組織の維持など出来ない」
ポラは語気を強めた。
バチュアイはやれやれというように首を振った。
「矛盾なんかしてねえさ。俺は俺の権限で、ギルティを右腕にしている。それはただ、あいつが俺の次に強ぇからだ。死んだら次に強ぇやつが副船長になる。それだけだ。財産の維持? 利権の確保? そんなものに興味はねえ」
いいか、とバチュアイはさらに大きく目を剥いた。
「たしかに俺たちは今、実にたくさんの“もの”を持っている。金、権力、武器、それから手下や奴隷らの命。奪えるものは全て奪ってきたし、これからもそのためにあらゆる犯罪を行う。だが同時に、金も権力も、命も、どれもが俺たちには不必要なものだ。ただ結果として“ある”から持っているだけでな」
黒く澱んだ、ブラックホールのような瞳。
恐ろしく深く、底のない闇がそこにあった。
「ど、どういうことです」
ポラは額の汗を拭い、つばを飲み込んだ。
「あなたたちは要らないのに、奪うんですか? 要らないのに、殺すんですか?」
そうだ、とバチュアイは躊躇いなく頷いた。
「大事なのは奪うことであり、殺すことだ。偉そうな奴と闘い、服従させることだ。その過程が何より大事なんだよ」
理解できない、とポラは思った。
この男は、一体何を言っているのか。
目の前の男を知れば知るほど、その正体がどんどん霧に包まれて行くような感覚。
バチュアイは、彼女が初めて出会う種類の人間だった。
この男には足し算も引き算もない。
損とか得とか、そんな考え自体がないのだ。
「――あなたたちの行動原理は、一体何なんですか」
と、ポラは聞いた。
「衝動だよ」
と、バチュアイは答えた。
「衝動?」
「そうだ。人間にとって、それが最も大事なことなんだ」
バチュアイはくつくつと肩を揺らして笑った。
ポラは背中に冷たい汗をかいた。
ここに至り、ようやく理解した。
この男にとっては、生も死も平等なのだ。
つまり――最初から人質には全く意味がなかったわけだ。
交渉人にとっては、絶対に勝ち目のない相手だ。
「その衝動を満たすためなら、仲間の命さえどうなっても構わないというんですか」
「それがこの世の真理だ」
バチュアイはベー、とベロを出した。
「お前は誤解しているんだ。お前が大事だと思い込んでるものは、実は等しく意味がなく、理由もない。今は分からねえだろうが、お前も一度、地獄を見ればわかる。そのくだらなさにな」
「くだらない?」
「そうだ。人間はな、もっと身も蓋もない生き物なんだ。殺し、奪い、犯す。それでいい」
いつの間にか、生き生きとした表情になっている。
それに、意外と饒舌に良く喋る。
バチュアイは説教をしているのだ、とポラは思った。
まるで牧師が無知な羊に諭すように、自分たちに教えを説いているのだ。
自分の命を粗末に扱え、か。
一見、ミスティエと言っていることは似ているように思える。
だがその真意は――まるで正反対だ。
「なるほど……それがあなたたちの宗教ですか」
ポラは呟くように言った。
「悪いけど、私には賛同できない哲学です。はっきり言って、あなたたちは最高にイカれてるわ」
まあいい、とバチュアイは偏執狂のような笑みを浮かべた。
「それじゃあ、分からないまま死ね。それが俺の慈悲と言う奴だ」
「そういうわけにはいかない。私には生きる意味があるし、理由もあるから」
皮肉な話だ、とポラは思った。
この純粋悪のような男を見ていると、ミスティエの言っていることがよく理解できる。
――命を賭してでも、大義は見失うな
人としての何か大事なものを見失えば、人間はきっとこの男のようになるんだろう。
ミスティエがポチを助けに来たのは、この狂った世界で正気を保つための防衛本能なのかもしれない。
ポラがそのような思考に至ったのは、他人事じゃない、という想いがあったからだった。
バチュアイと言う男は反吐が出そうになる反面、どこかで自分に似ているのではないかと、そう思えて仕方なかった。
あの時、あのまま奴隷農場にいたら。
助けてくれたのがミスティエじゃなければ。
私も――こうなっていたかもしれない。
「そんなものはただの錯覚だ。お前には生きる価値などない」
バチュアイは殺気を迸らせた。
空気が淀み、息苦しい悪寒が教会内を包み込んだ。
敬虔な教会内が、途端に禍々しく穢された。
どうやらお喋りはここまでだ。
奴は、言いたいことは全て言い尽くしたんだろう。
全く、どうしようもない男だ。
ポラははあと小さく息を吐いた。
だが同時に、彼はただの人格破綻者ではない。
それどころか、これからの社会の趨勢を担うほどのカリスマだ。
ジュベ海賊団がここまで肥大化し、海軍の手にも負えないほど大きくなったのは、その何よりの証左だろう。
バチュアイがただの気狂いであってくれたら、とポラは思う。
そうでなければ、この世はあまりにも乾いていて理不尽じゃないか。
「このまま話していても平行線ね」
ポラは短く首を振った。
「ちょうどよかった。どうやら、もう向こうの話も終わったみたいだし」
けれど、とポラは思う。
けれど。
私では勝てないけど、船長なら――白木綿海賊団なら、きっとバチュアイを否定してくれる。
それは正義や正しさと言った曖昧模糊としたものではなく、ただその“強さ”を以て。
「あん? 向こうの話? どういう意味だ?」
バチュアイは眉を寄せた。
「バチュアイ。あなた、私が嫌いと言ったわよね」
ポラはそこで言葉を切り、バチュアイを正面から見据えた。
「奇遇だわ。私も……あなたが大っきらい」
ポラはそう言うと目線を上げ、後ろに大きく飛び退いた。
彼女の目線の先――バチュアイの頭の上には、大剣を振りかぶったミスティエの姿があった。