58 海賊
Ж
「ここで私たちと戦って部下を失うか、それともポチ君を見逃して大人しく引き下がるか。二つに一つです」
ポラは二本の指を立て、その一本を折った。
「ですが、どう考えてもここで戦いを選ぶのは悪手でしょう。前者を選んでも誰も得をしない。副船長以下ジュベ海賊団の幹部が死んでしまえば、ジュベは壊滅状態に陥るんですから。あなたが巨大海賊を統べる総大将なら、ここは退くべきだと思いますが――」
どうでしょう、とポラは言った。
バチュアイは無言で目を細め、顎を上げた。
それから値踏みをするように、ポラをねめつける様に見た。
ポラは生きた心地がしなかった。
彼女は今、丸腰の状態だった。
バチュアイとの交渉に置いて、何一つ武器を持っていない空手の状態だ。
即ち――
ポラの言っていることは全て嘘なのである。
ディアボロも海軍も、バチュアイの部下を人質になど取っていない。
全ては先ほど考え付いたそこの浅い虚言だ。
だが。
今はそのハッタリだけで、彼の動きを止めておかねばならない。
Ж
今から数十分前。
ポチとリュカが燃え盛るアリーナから秘密路に向かった時。
天井裏にいたポラたちの目から、バチュアイが彼らを追って教会へと向かうのが見えた。
それを見て、ミスティエは彼らを追おうと提案した。
このままでは、間違いなくバチュアイはポチを殺すだろう、と。
だが、ディアボロはそれを却下し、その場に留まると主張した。
舞台上ではクロップとキュリオが闘い始めていた。
ディアボロからすれば、これは千載一遇のチャンスだった。
クロップがキュリオ追い詰め、彼女が致命傷を負ったら、その隙に奴を殺すつもりなのだろうとポラは判じた。
二人の意見は割れた。
船長はポチを追うと言い張った。
ディアボロはあんなガキは放っておけと一蹴した。
それはチェスター海賊団の船長として、極めて当然の判断だと言えた。
彼は強者にのみ固執があって、雑魚などに興味はないのだ。
「船長。ディアボロが同行を拒否した以上、我々も教会へ向かうのは自重した方が良いと思います」
それを受け、ポラは船長にそのように進言した。
これはつまり、“ポチを見殺しにしよう”という提案であった。
ディアボロもクロップもいない状態で、バチュアイに勝てるはずがない。
ポラはそのように断じた。
たかだか掃除夫を助けるために、白木綿海賊団が全滅するような危機に臨むのはあまりに不合理だ。
残念だが、ポチは見殺す。
白木綿の頭脳を務めるポラにとって当然の判断だった。
「うるせえ」
だっていうのに、ミスティエはそう言った。
「お前が何と言おうと、ポチは見捨てない。これはもう決定事項だ。あたしたちはこれより、白木綿のみで奴を追う」
しかし、とポラは食い下がった。
「しかし、相手はジュベ海賊団の船長ですよ。今回に至っては相手が悪い」
「敵によって信念が揺らぐようじゃ3流だ。いいから、さっさと準備をしろ」
「ちょっと待ってください。船長の言い分は分かります。しかし、船員全員の命とポチ君の命。どちらを優先するかなんて考えるまでもない。船長の行動は、どう考えても算盤が合わない」
ミスティエははあと息を吐いた。
それから首を振り、真っ赤なグロスの引いた唇を開いた。
「ポラ、お前はどうやら海賊ってもんを誤解しているな」
「どういう――意味ですか」
「あたしたちの命なんてのはな、そもそも最初から大層な意味はねえんだ。海賊なんて、粗末に生きりゃあいいのさ」
「……死ぬと分かっている戦いに挑めというんですか」
「そうじゃねえ。死を恐れて大義を見失うなと言ってるんだ」
ポラは混乱した。
全てにおいて合理的に生きてきた彼女にとって、ミスティエの言葉はあまりに理解し難かった。
「それに、あたしは別に負ける気はねえし」
ポラが迷っていると、ミスティエはそう言い、不敵に笑った。
「ど、どういう意味ですか?」
「だから言ってるだろ。ポチだよ」
「ポチ君? ポチ君がどうかしたんですか」
「ま、とにかく、お前は時間を稼げ。あたしはあの小僧に話があるんでな」
ポラはそうか、と思った。
船長には、何か勝算があるのだ。
最初から、ずっと疑問に思っていた。
どうしてあの時。
何の取柄もなさそうな、身元の怪しい少年を仲間に入れたのか。
その答えが、この笑みに含まれているのだ。
「全く、肝心なことはいつも教えてくれないんだから」
ポラは口を尖らせた。
ミスティエはくつくつと笑った。
「船長。信じて、いいんですね」
「ああ」
逞しく、頼りがいのある表情。
こういう顔をしているとき、ミスティエは絶対に意見を曲げないのだ。
「仕方がないですね」
ポラは苦笑した。
ま、いいか。
船長の命令で死ぬんなら――それも悪くない。
Ж
急場で拵えたこのハッタリが通じるかどうか。
もしもそれが失敗して戦闘に入れば――私たちに勝ち目はないだろう。
ウソをついた私たちを、バチュアイは絶対に許さない。
ポラはごくりと息を呑んだ。
バチュアイは紛れもなく“本物”だった。
この世界中で、この男より強いものはいない。
そのように確信するほど、バチュアイの放つオーラは禍々しく強力だった。
手のひらが汗でぐっしょりと濡れている。
心臓の鼓動が高鳴って収まらない。
こうして対峙しているだけで息が詰まり、肌がピリピリする。
だが――動揺を表に出してはいけない。
嘘を吐いている時こそ、胸を張るのだ。
交渉人とは、常に心理的優位を保つ必要がある。
いくら相手が強大でも、飲まれてはいけないのだ。
――あたしは負ける気はねえ
今は、ミスティエのその言葉を信じるしかなかった。
「なあ、白木綿」
やがて、バチュアイが口を開いた。
「なんでしょうか」
「お前たちがギルティを拘束しているなら、ディアボロはどうして出てこない」
「彼がおいそれと姿を見せるわけには行かないでしょう。ディアボロとバチュアイは3大海賊の船長。対峙するだけで、何が起こるか分からない」
「なんだそれは。それじゃあ、テメーらが本当にギルティを捕まえてるのか、確かじゃねえだろ」
「別に信じる必要はないですよ。ただし、こちらは何一つ譲歩はしない。闘うか、退くか、です」
ポラは肩を竦めた。
心臓をぎゅっと握られているようだった。
「イラつく奴らだ」
バチュアイはケッと悪態をついた。
「だが、まあいい。それなら、代わりにいくつか聞く」
「なんですか」
「ギルティはどういう格好をしていた。そして、どういう声をしている。お前たちがギルティを拘束しているなら分かるはずだ」
ポラは「分かりました」と言って、すーと息を吸った。
「ジュベ海賊団の副船長、ギルティ=モア。道化師のような服装を着ていて、男性にしては極端に線が細く、表情に乏しい。右目にダイヤの意匠の刺青を入れていて、今日は山高帽のようなハットを被っていましたね。声は――何と言いますか、人間の声ではなく、命の宿っていないノイズのようなものでした」
ポラはいかにも落ち着いた調子で淀みなく語った。
だが、心の内は危機から脱したことに対する安堵で満ち溢れていた。
助かった。
ポチとギルティが話していた時、ポラは天井裏からかろうじてギルティの姿を視認出来ていた。
嘘を吐く時のコツは、嘘と真実を織り交ぜて話すことだ。
そして、嘘以外のことは、全て真実で固めること。
それから、相手の目から決して逸らさないことだ。
「ギルティは命乞いをしていたか?」
「いえ。ディアボロを殺そうと牙を剥いてましたよ」
「ほう。それじゃ、やつの能力を見たのか?」
「一瞬ですが、見ました。具体的には分かりませんが、爆弾かなにかを表出し、それを自在に使役する能力のように見えました。最も、すぐにディアボロに無力化されましたが」
綱渡りのような問答が続く。
一言でも違えたら――そこで交渉決裂だ。
なるほど、とバチュアイは頷いた。
「どうやら、お前が今日、ギルティを見たというのは本当らしい」
「だからそう言っているでしょう。我々は今しがた、ギルティを確保したばかりなんですから」
「今しがた、か」
バチュアイは肩を竦めた。
「まさに今、この俺の乗組員を確保し、その姿を見てきたわけだ」
ええ、とポラは顎を引いた。
バチュアイは短い間、考え込んだ。
「何を迷うことがあるんですか。ここはお互いのために休戦しましょう」
ポラは念を押した。
それから、いかにここで戦うことに意味がないかを説いた。
するとバチュアイは「そうだな」と言い――ニタリ、と笑った。
ぞくり、とする笑みだった。
ポラは総毛立ち、身が震えた。
な――なんだ、今の笑みは。
バチュアイは頭を揺らした。
すると、彼の付けているピアスがじゃらじゃらと不快な音を立てた。
「やっぱり皆殺しだなぁ、お前らは」
バチュアイは言った。
「この俺を騙そうとしたんだ。万死に値する」
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指輪を見つめながら、俺は息を呑んだ。
船長は俺には“移動者”として未曽有の力が眠っていると言った。
だが――その言葉はおいそれとは信じられなかった。
俺はこれまで、平々凡々と生きてきた。
運動は得意だったが、せいぜい学年で上から10番目に入るかどうかというところだ。
野球だって、どれだけ努力しても名門校から声がかかるほどじゃなかった。
特に取柄もなく、際立った能力もない。
見た目も普通で、ありふれたどこにでもいる高校生。
きっとそのまま普通に学校を出て、普通に就職して、普通に一生を終えていく。
それが俺。
これまで17年、ずっとそう思って生きて来たのだ。
しかし――と、俺は指輪をつまみ上げ、薬指の先に当てた。
しかし、どうやらそれは間違っていた。
俺の人生は、きっと普通なんかじゃないのだ。
いいや、違うか。
きっと、普通の人生なんてものは無いんだ。
そして俺の場合、それを知るときがたまたま“今”だったんだ。
かつて、ポラが俺に言っていた言葉を思い出す。
あなたは自分のことしか知らないが、ミスティエは一万の海賊を知っている。
そんな船長が、ポチ君には海賊として才能があると思っています。
だから、自分を信じなさい――。
そうだ、と俺は一人で頷いた。
今こそ、自分の能力を信じる時なんだろう。
俺はチラとリュカを見た。
彼女は所在なさげに、虚ろな目をして立っていた。
あまりに酷い自分の運命に、押しつぶされそうになっているのだ。
途端に、血管が沸き立つのを感じた。
強くなって、友達を――リュカを侮辱し、利用している奴らをぶっ飛ばすのだ。
強い決意に身が震えた。
そして俺は、ゆっくりと指輪を中指に通した。