56 悪党
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バチュアイ=シルベストル。
アデル3大海賊の一つであり、あらゆる悪事に手を染める犯罪集団、ジュベ海賊団の船長。
トートルア国にある石油資源の利権を狙い、国王軍に手を貸している男。
アデル湾に生きるものなら誰でも知っていて、誰もが怖れている。
最悪の海賊だ。
圧倒的な凶事の予感に、俺は金縛りにあったように動けなくなった。
「皇子よぉ。駄目だぜ、勝手に動いたら」
バチュアイは目を細めて、リュカの両頬を掴んだ。
「自分の立場ってもんを考えてくれなきゃ。お前は大事な餌なんだ」
「随分と楽しそうだな、バチュアイ」
リュカはバチュアイを睨んだ。
もちろんだよ、とバチュアイは目を剥いた。
「白木綿のガキの話では、どうやらディアボロの野郎も戦力を集めているようだしな。キュリオも今回の皇子暗殺失敗で懲りるようなタマじゃねえ。くっく。予定通りだ」
「予定通り?」
「そうだ。今回のことも、ミスティエが俺たちの敵になることも、全ては想定内」
「お前たちはディディエたちの計画を知っていたというのか」
「もちろんだよ。だから、クロップを連れてくるようにラングレーに言っといたんだからよ」
「どういうことだ。貴様らは――アデル湾艦隊にも伝手があるのか」
「目的が同じなんだ。当然だろう」
「同じ目的? どういう意味だ」
「さてね」
バチュアイはヘラヘラと笑い、それ以上は言及しなかった。
リュカは訝しげな顔つきになった。
「貴様……一体、何を企んでいる」
「何も企んでいねえよ。俺ぁ、今のアデル湾が気に食わねえだけ」
そこでバチュアイはさらに、互いの鼻が触れそうなほどに顔を近づけた。
「今のアデル湾は不健康なんだ。海賊が海賊らしく生きてねえ。牽制と政治ばっかで反吐が出る。だからよ、いい加減に決着をつけねえとな」
「そのためにトートルアを利用する、ということか。つまり、貴様らの私闘のために」
「ビンゴだよ、皇子。石油資源を奪い合っての大喧嘩。海賊の決着場としてはお誂え向きだろ?」
「その無為な喧嘩で、罪のない国民が大量に巻き添えで死ぬのだぞ」
「知ったことか」
バチュアイは嬉しそうに目を細め、偏執狂のようにニタァ、と口の端を上げた。
「大事なのは俺が楽しむことだ。万物は、俺様が遊ぶための道具なんだよ」
そう言って、シシシ、と歯をむき出して笑う。
「……外道め。お前の頭の中には理性というものがないのか」
「カッカ。なに言ってやがる。先に助けを求めて来たのは元老院だろうが」
バチュアイはからかうようにベロを出した。
リュカは顔を顰めた。
「元老院が? 元老院がジュベ海賊団に助力を求めたというのか」
「そうだ。革命軍が力をつけていることに恐れてな。ジジイどもが泣きついてきたぜ」
「ちょっと待て。貴様らと国が手を組んだとき、まだ王は意識があったはず。それなのに――なぜ、国王ではなく元老院が」
リュカは急くように聞いた。
予感がしているのか、みるみるうちに顔が青ざめていく。
「国王に意識があった?」
バチュアイはくつくつと笑った。
「いやはや、コイツは驚いた。本当に何にも知らねえんだなあ、お前は」
バチュアイはそこで手を離し、代わりにリュカの顎をつまんだ。
それから「哀れな野郎だ」と言い、魔石の付いた首飾りをぶちっと引きちぎった。
「リュカ皇子。お前の父親は、もうすっかり政に負けていたんだよ」
「どういうことだ」
リュカの瞳が不安に揺れる。
「話せ。お前の知っていることを、全て」
バチュアイはいっそサディスティックな顔つきになり、焦らすように黙り込んだ。
まるで、嫌な予感に苦しむリュカを楽しむように。
「お前の父親――トートルア国王はもうずっと昏睡状態だ」
やがて、バチュアイが口を開いた。
「もう何年もの間、自我の無い完全な廃人と化している。今じゃあろくに言葉も発せねえ」
「……どういうことだ」
リュカは睨んだ。
「国王に――父に、何があったのだ」
「毒だよ」
と、バチュアイは言った。
「お前の父親は、ずっと幻惑剤を飲まされ続けていた。元老院の手によってな。お前が生まれたころから、ずっと教皇が実質的な政治を行ってきたわけだ。だが今、ついに王は壊れた。長い間、盛られ続けた毒によって、脳がイカれちまったんだ」
リュカは額にびっしりと汗をかいていた。
幼い彼女には、あまりに残酷な言葉だった。
「それでは――余を塔に幽閉したのは父上ではなく、元老院だったわけか」
リュカは歯噛みするように言った。
いいや、とバチュアイは首を振った。
「それを命じたのは王だ。かろうじて残っていた自我で、お前を守るためにお前を監禁したのだ」
「余の身を案じて? どういう意味だ」
リュカの顔から血の気が引いていく。
恐ろしい真実が出てくるのではないかと怯えている。
「元老院どもから護るためだよ」
と、バチュアイは言った。
「皇子が有能に育てば、きっと元老院はお前を殺す。いいや、殺しはしないな。生かさず殺さず、お前の親父と同じ状態にして、実質的に国を牛耳る計画を立てるはずだ。王はそれを防ぐために、継承権第一位のお前を、ただの無知な“おもちゃ”に仕立てる必要があったのさ。完全に隔離して情報を遮断し、手を加えずとも最初から元老院の扱いやすいように、なにも知らない愚鈍で世間知らずの“飾り”に育てる必要が、な」
リュカは驚きのあまり、声が出ないようだった。
小動物のように体が小刻みに震え、瞳は恐怖に怯えていた。
それを見て、バチュアイはひゃっひゃと下品に笑った。
「……つまり」
俺は口を挟んだ。
「リュカは利用されるために生まれて、利用されたまま生きるよう強いられているんだな」
「そういうことだ。意志を持てば死ぬ、哀れで可哀想な玩具だ」
バチュアイは目玉だけ俺に向けた。
「俺たちにとっても、それは都合がいい。釣り餌として、リュカ皇子は非常に優秀だ。こいつの人生は――」
ただの装置なんだよ、とバチュアイは言った。
俺はギリ、と奥歯を噛み締めた。
血管がブチギレそうだった。
あまりに怒りに、頭がどうかしてしまいそうだった。
ずっと思っていた、
ずっとずっと、感情を腑にため込んでいた。
バチュアイや元老院だけじゃない。
白木綿も、チェスターも、ミュッヘンも。
海軍も、マスコミも、みんなみんな、同じだ。
頭がイカレちまってて当たり前のことを忘れてるんだ。
リュカが――人間だってことを。
「取り消せ」
俺はバチュアイの米神に銃口を突きつけた。
「バチュアイ。さっきの言葉を取り消せ」
「なんだぁ、この真似は」
バチュアイはゆらり、とこちらを見た。
「取り消せと言ってるんだ!」
俺は怒鳴った。
「リュカは道具じゃない! 哀れでもない! 可哀想なんかじゃない!」
バチュアイは半眼で俺を見ながら「いいや、哀れだね」と言った。
「このガキは父子ともども、したたかな老人たちに操られた哀れな道具だ。何度でも言ってやる。このガキは、ただの餌だ。俺たちが盛大に遊ぶためのな」
「黙れ! 黙れよ、糞野郎!」
俺は目を見開き、これまでの鬱憤を晴らすように喚いた。
「てめえらなんかにリュカは渡さねえ! 渡さねえぞ! お前が強かろうが偉かろうが関係ねえ! お前を殺して、元老院も殺して、あいつは俺が連れて行く! お前らなんかに渡してたまるか!」
バチュアイは「はあ?」と言って首を傾げた。
「俺を殺す?」
「そうだ」
「お前が? 俺を?」
「そうだよ! ぶっ殺してや――」
バチンッ、と言う音がして、俺は後ろに吹き飛んだ。
脳みそが揺れ、額が割れるように痛んだ。
咄嗟に手をやると、血がべっとりと付いていた。
揺れる視界の中、バチュアイの指がデコピンの形をしているのが見えた。
「面白ぇこと言うなぁ、白木綿の犬っころ」
バチュアイは俺の元へ歩いてきた。
「よせ!」
リュカがバチュアイの手の中で喚いた。
「やめろ、バチュアイ!」
バチュアイはリュカを無視し、俺の目の前で座った。
「殺すって言ってもよぉ、一体どうやって俺を殺すんだ? どうやったってお前に俺は殺せねえだろ」
バチュアイは半眼になって俺の髪の毛をぐいと掴んだ。
「いいか、白木綿。この世で一番大事なのは“力”なんだ。弱っちいてめえの意見なんて誰も聞いてねえ。一丁前にモノが言いてえならよ、それだけの力が必要なんだよ」
バチュアイの言葉で、俺は両眼から涙が出た。
コイツの言っていることが正しい。
一から十まで、すべて正しいんだ。
この世界では、力が強くなければ何も出来ない。
そして――きっとそれはこの異世界だけの話じゃない。
俺たちはいつだって、強いものの言いなりだ。
正義なんて、平等なんて、本当は嘘っぱち。
悪かろうが正しかろうが、結局は強いものが勝つように出来てる。
正しいとか平等だとか、そんなこと世界にとってはどうでもいいことなんだ。
そのことが、死ぬほど悔しかった。
俺は弱い。
一人では何もできない。
俺が強ければ、こんな野郎はぶっ飛ばしてやれた。
元老院も、ディディエ皇子も、全員ぶっ倒せた。
俺が強ければ――リュカを助けてやれたんだ。
「……うるせえ」
俺は強がった。
「うるせえよ、バチュアイ。お前なんか、怖くねえぞ。殺せるもんなら――」
殺してみろよ。
俺はそう言い、涙を流しながらバチュアイを見つめた。
この男はこの世界そのものだ。
理不尽で、不平等で、不正義な世界の化身なのだ。
なら――そいつには真正面から向き合って死ぬ。
怯えて、怖れて、負けたまんま殺されるなんてまっぴらごめんだ。
死ぬならせめて、この大馬鹿野郎を睨みながら死んでやる。
バチュアイは俺を見つめていた。
何を考えているのか、無言で、じっと俺を瞳を覗き込んでいた。
「……イカレてるな、お前も」
バチュアイはくつくつと笑い、ぶるりと体を震わせた。
それから、俺の顎を掴んで言った。
「お前みたいな馬鹿な野郎は嫌いじゃねえ。この俺への侮辱を撤回するなら生かしといてやる」
どうだ? とバチュアイは問うた。
意想外の言葉に、俺は目を見開いた。
「……撤回なんかするかよ」
「こんなところで意地を張っても良いことは一つもねえだろ」
「こんなところ? 馬鹿な」
にやりと笑い、中指を立てた。
「ここがまさに意地の張りどころだ。お前は俺の友達を侮辱した。それは絶対に許されることじゃない。そして、俺は白木綿海賊団だ。白木綿は相手が誰であろうと、他の海賊には屈さない。それがミスティエの教えだ。覚えとけ、この――」
馬糞野郎、と俺は言った。
「そうか」
バチュアイはニタァ、と笑った。
その時、やつの体から凄まじい殺意が迸った。
これまで会った誰よりも強力で、凶悪なオーラ。
まるで心臓を握られたような恐怖だった。
一秒後には殺される。
俺の体は塵となって分子レベルまで粉々にされる。
そんな予感が体の全てを支配した。
だが――怖くねえ。
俺は怒りで無理やり恐怖に蓋をした。
こんな野郎に負けるわけには行かねえ。
例え力で負けても、命で負けるわけには行かねえんだ。
目線を強めてバチュアイの目を見返した。
「死よりも意地が大事か。くっく。ますます気に入ったぜ。お前は良い海賊になりそうだ。だが――立場上、こうまで言われちゃあ殺すしかねえな」
バチュアイが動いた。
死の予感が、俺の全身を貫いた。
死だ。
死が、こちらにやってくる。
なんだ、と俺は思った。
さっきまで化け物に見えていたのに。
こいつも――人間だ。
――よく言ったぜ、ポチ
と、その時。
聞き覚えのある声が、頭上から降って来たのだ。
バキャン、という斬撃音が響いた。
何者かが大剣を振りかざして、真上からバチュアイを襲ったのだ。
バチュアイは後ろに飛んでそれを避けた。
何者かは美しい黒い髪を靡かせ、俺を見た。
ところどころが破けた黒いドレスに包まれた、流麗な体の曲線。
豊満な胸に、スリットから覗く長い脚。
美女の雛形のように整った顔つき。
陶器のような白い肌に、血のように赤いグロス。
「船長!」
俺は思わず叫んだ。
ミスティエは身の丈ほどもある剣を薙ぎながら俺を肩越しに見て、にやりと笑った。
「なーに泣いてんだテメーは。ダセぇツラしてんじゃねえ」