54 天使
クロップは“ある衝動”に駆られていた。
一対一で戦いたい。
目の前にいる未曽有の脅威に対して、そのような青臭い闘争本能が沸き上がるのを感じていた。
ミュッヘン海賊団船長『キュリオ=フォー』。
対峙してすぐに分かった。
この女は本物だ。
自分が120%の力を出し切ったとしても、勝てるかどうかわからない。
あの枯れ木のような体に、大海を想わせる茫洋な魔力を秘めている。
クロップほどの地位にいるものにとって、結果の見えない戦いに身を投じることなど、もうずいぶんと長い間経験していないことである。
出来るなら、サヴァルたちの手を借りずに戦りたいがの。
クロップは自嘲気味に笑い、髭を絞った。
まあ、立場上それは出来まいな。
国家防衛を第一とする海軍の大将として、万が一にも、この化け物をフリジアの街に放つわけには行かない。
Ж
「退け。クロップ」
燃え盛る舞台に降り立つと、キュリオが口を開いた。
無表情で氷のように冷たい瞳。
ぞっとするほど整った面相。
糸のように細く背の低い彼女は、10代の少女にも見える。
まだ何もされていないのに、サヴァルはほとんど本能的に戦闘態勢をとった。
その圧力は、外見とは裏腹に暴力的なほどだった。
こうして目の前にいるだけで強烈なプレッシャーを感じ、肌がピリピリしている。
これほどの存在感は、かつて経験したことがない。
燃え落ちる舞台の只中で、彼女の体は微かに発光している。
これが――キュリオ。
「意外と恥ずかしがり屋じゃのう、船長」
クロップは茶化すように言った。
「マスコミは嫌いか? それだけの美貌じゃ。もっと顔を売ればよいものを」
「お前らのような芥と殺りあう気はない」
キュリオは短く言った。
「大人しく退くなら殺さないでおいてやる。お前らも、この国の人間もな」
「そういうわけにはいかんのう。こちらにも体裁と言うものがある。おめおめとリュカ皇子を殺させるわけにはいかん」
「国の体裁か国民の命か。天秤にかけるようなことではあるまい」
「なんじゃ、その口の利き方は。まるで、ワシらがお主に敵わないような口ぶりじゃが」
「当然だ」
キュリオは目玉だけ動かして、右から順にクロップ、タガタ、サヴァル、ミストの4人を順番に見た。
「まともな戦力はお前だけじゃないか。ネズミを何匹連れてきても、巨人には勝てない」
「ネズミだと?」
ミストが眉をひそめた。
キュリオはやはり、眼球のみを彼に向ける。
「これだけのメンツを相手に囀るじゃないか。ガキが」
ミストは怒気を孕んだ口調で言った。
キュリオは黙ったままだ。
ミストは「どうした、なんとか言え」と凄んだ。
「いいか、キュリオ。お前が迂闊に動けないことは分かっているんだ。これだけのメンツだ。もしも戦闘になれば、いくら3大海賊の船長とて無傷でいるわけには行かない。この会場にはどこかにバチュアイがおり、それからチェスター海賊団のディアボロも潜入しているという情報もある。我々と戦った後、消耗したお前が二人に狙われたら勝ち目はない」
違うか? とミストは問うた。
挑発するな、とサヴァルは言いかけて、やめた。
ミストの言葉は恐らく的を射ている。
キュリオがいくら個の力が強かろうと、今、ここに至っては、私たちと戦うわけには行かないはず。
引いてくれるならありがたい。
この4人で戦えばおそらく負けはしないだろうが、かなりの確率で誰かが死ぬ。
それはもしかしたら自分かもしれないし、クロップである可能性すらある。
死を恐れる連中ではないが――我々にはまだやらねばいけないことがある。
「そんな言葉で私がいささかでも怯むと思っているのか」
キュリオは目を細め、ミストを見た。
「愛い奴め」
呟き、右手を向ける。
その時、奇妙な感覚があった。
時間の流れが変化したような、いいや、時間そのものが変質したような。
意識ははっきりしているのに、天井を焼く炎、舞い落ちる火の粉、観客たちがまるでスローモーションのようにねっとりと動いては止まる。
その珍妙な体験は、バシュッ、という何かが避けるような音がして、突然解けた。
「ガアッ」
叫び声をあげ、ミストが崩れ落ちた。
見ると、彼の両の太ももが切れ、ほとんど千切れそうになっていた。
大量の血があふれ、彼はその場に倒れ込んだ。
――何が起こった?
サヴァルはキュリオに目を戻した。
すると彼女はニィ、と口を吊り上げ――その美しい瞳をカッと見開いた。
「遊んでやろう」
少女のような可愛らしい声。
それが開戦の合図だった。
クロップは弾丸のように爆ぜて、キュリオに向かって疾った。
Ж
クロップは刹那の間にキュリオとの間合いを詰め、右拳を叩きこもうとした。
いける。
いくら大魔法使いでも、速さではワシにはついてこれまい。
バチィ、という激しい電撃音がして、しかしてクロップの右ストレートはキュリオの顔面の手前で止まった。
物理障壁。
先ほどまでなかったはずの抗物理魔法。
――なんと!
クロップは舌を巻いた。
彼には自負があった。
自らの拳で壊せぬものはない。
ダイアモンドだろうが魔法障壁だろうが、当てさえすれば全てをぶち破る自信があった。
クロップの強さの正体は、単純に腕力が強いことだった。
身体能力が人間の限界を超えているために、派手な異能であるかのように見えてはいるが、彼には種も仕掛けもなかった。
――が。
それ故に、クロップは最強なのだ。
物理攻撃ほど汎用性のある能力はない。
魔法攻撃も当たらなければ意味がないし、物理攻撃は魔法障壁では防げない。
無論、攻撃を軽減させる魔法もあるが――それがエネルギーである以上、物理で破壊可能なのだ。
それを、キュリオは障壁一つでいとも簡単に弾いて見せた。
この事実だけでも、十分に恐るべき事象だと言えた。
今の手触り。
エネルギーによって出来た障壁ではなかった。
そう、あれは壁というより――位相のズレだ。
すなわち、先ほどキュリオが使ったのは空間自体を歪める時空系の魔法。
普く物理攻撃を100%防ぐ、完全なる反物理障壁だ。
なるほど、とクロップは思った。
それならば、壊せなくともしょうがない。
だが、クロップが感心したのはそのことではなかった。
彼が信じられなかったのは魔法の正体ではなく、その発露する速度。
あの魔法。
よほどの手練れでも、詠唱開始から発露までは通常は5分はかかるはず。
そもそも、99%の術者は会得することすらできない超難度の魔法だ。
それを、コイツはほぼノータイムで顕現させおった。
うーむ。
想像以上じゃ。
その時、キュリオの目玉がぎょろりとクロップに向いた。
殺意を感じ、クロップは身構えた。
真空波だ。
先ほどミストの両足を切り裂いた、これも恐ろしく高度な魔法。
キュリオはそれを、もう一度、今度は間断なく連続で放ってきた。
それをすんでのところで交わしながら、クロップは攻撃に転じた。
それを合図に、今度はサヴァルとタガタも同時に動いた。
たしかに見事じゃが――やつは策に溺れた。
クロップとサヴァルたちは3方向から、キュリオに突っ込んでいった。
今の反物理障壁に守られているキュリオには、弱点があった。
時空系の魔法には、抗えないウィークポイントがあるのだ。
それは、位相のズレの中にいる内は攻撃には転じられない、ということだ。
攻撃魔法を相手に当てるには、一旦、防御壁を解く必要がある。
事実、今、こちらに真空刃を放った時、ほんの一瞬だが魔法壁が解けた。
つまり、攻撃さえ続けていれば、時空障壁の中のやつは手も足も出ない亀ガード状態ということ。
文字通り、攻撃は最大の防御。
際限なく攻撃を続けていれば、いずれ魔力が切れるはず。
そうやって少しづつ魔力を削り、堪え切れなくなったところを叩くのだ。
サヴァルとタガタも、当然そのことを知っていた。
示し合わせたわけではないが、二人は経験から同時に状況を開始した。
現在、この女に好き勝手に魔法を打たれては困る。
逃げ惑う観客の方に攻撃が向かえば、どれほどの死者が出るか分からない。
キュリオの攻撃を無効化するには、どうやらこうするしか無さそうだ。
問題はやつの魔力がどれほどのものかだが――こちらも体力には自信がある。
クロップはそのように考え、彼女への攻撃を続けた。
さて、我慢比べじゃ――
Ж
突然、ドンッ、と言う破裂音がした。
次の瞬間にはサヴァルが後方へ吹き飛んだ。
彼は服が破け、腹部の筋肉に穴が開いていた。
手を当てると、皮膚が焼け落ち、赤黒い血がべっとりと付着した。
まさか――攻撃魔法を仕掛けてきた?
馬鹿な。
あり得ない。
いま奴は、確実に時空系防御壁の中にいた。
時空障壁はその魔法を解かない限り、同時に攻撃魔法は出来ないはずなのに。
そんなことは絶対に起こりえないはずなのに。
それなのに――それなのに!
コイツは空間の歪みを超えて攻撃魔法を仕掛けてきやがった!
サヴァルは混乱した。
そんなことは魔法学的にあり得ない。
そんなことは、魔法学校で一度も学んでいない。
“未知”という恐怖に、サヴァルは震えた。
一体、どういうカラクリになっているんだ――?
だが、怯えている暇はなかった。
キュリオはクロップたちの猛攻を受けながら、間髪を入れず、ドンッ、ドンッ、と一定の間隔で巨大な炎球を発露させた。
サヴァルは訳の分からぬまま、ギリギリのところで身をよじり、ようようそれを避けた。
強い。
サヴァルは身の程を知った。
レベルが違い過ぎる。
キュリオ=フォーは、あまりに住む世界が違う。
これが――3大海賊団の船長クラスか。
Ж
素晴らしい。
クロップはキュリオに攻撃を加えながら、その戦闘技術に惚れ惚れしていた。
奴は今、信じられない神業を行っている。
これだけの攻撃を受けながら、隙を見つけて防御魔法を解き、次の一瞬の間に攻撃に転じ、その後に即また防御魔法を敷いている。
要するに、複数の最上位魔法の発露、遮断、詠唱、発露、遮断、という途方もなく高度なルーティン作業をコンマ000秒の単位で繰り返しているのだ。
なんという芸術的な動きだろうか。
クロップは一旦攻撃をやめ、後方に飛んで距離を取った。
それを見て、タガタもキュリオを挟むような位置に飛んだ。
タガタは汗だくになり、キュリオを睨んだ。
サヴァルと同じく、驚愕の表情を浮かべている。
キュリオは息一つキレていない。
何事もなかったように佇立し、クロップたちを見ていた。
くっく。
クロップは嗤った。
このような感覚はいつぶりだろうか。
何十年ぶりに――
本気を出すときが来たのだ。
Ж
「どうした? もう終わりか?」
キュリオが顎を上げて睥睨する。
タガタは体の芯からくる震えを抑えるのに必死だった。
この世に、このような存在がいるのかと信じられない気持ちだった。
クロップは世界最強だと、タガタは思っている。
彼は人でありながら、すでに人間を超越している。
人類の頂点であり、限界だと思っていた。
しかし、キュリオはそれよりもさらに強いのではないか。
そのような疑念が、タガタの頭にこびりついて離れない。
タガタははあはあと肩で息をしながら、額に浮かんだ玉のような汗を拭った。
つと、後方にいるサヴァル中将を見る。
あの青ざめた顔。
いつもは威厳のある、気持ちのいい男が、まるでハチドリのように震えている。
先ほど受けた傷は致命傷ではなさそうだが、もはや心が死んでしまっている。
少なくともこの戦闘においては、彼はもう戦力にはなるまい。
「ここからが本番じゃろ」
だっていうのに、クロップはいっそ嬉しそうに、にやりと笑った。
タガタは腰を落とし、刀を構えた。
ここはクロップと自分でしのぐしかない。
そのように覚悟を決めた。
正直に言って、勝てる気はしなかった。
だが――自分はやられてしまっても、最終的にクロップが勝てばいいのだ。
そのように考えていると、
「タガタ。サヴァルとミストを連れてこの場から去れ」
と、クロップが背を向けたまま言った。
「な、なんですと?」
タガタは驚き、思わず目を見開いた。
「こっからは一対一でやる」
「しょ、正気ですか。私たちがいても互角なのに」
「互角、か。そうじゃの。だが」
クロップはちらりとサヴァルを見た。
「じゃから言っておるんじゃ」
「どういう意味ですか」
タガタは眉根を寄せた。
するとクロップは、少しお道化るように「お主らは足手まといじゃ」と言った。
「足手――まとい?」
「お主らはまだ若い。こんなところで死なせるわけには行かん」
「どういう意味ですか」
「上手に封じ込めようと思ったが、どうも無理のようじゃ。ここからはなりふり構わず行く」
「なりふり構わずって――」
「うん。命を賭ける」
事も無げにクロップは言った。
タガタは眉を寄せた。
「それは――困ります。万が一、あなたに死なれたら、それこそ国防に関わる」
「文句はワシに言うな。向こうに言え」
「軽口を言っている場合では」
「いいから行け。国民を死なせるな」
クロップはそう言い置き、キュリオに臨んだ。
これ以上は説得しても無駄だろう。
タガタは観念して、退くことを決めた。
ミストを担ぎ、サヴァルと共に、舞台を離れる。
最後に、もう一度だけ、タガタはキュリオを顧みた。
キュリオは無言で、微かに嗤っていた。
タガタの心臓がとくん、と鳴った。
全身が総毛立つような、不吉な笑み。
一生忘れ得ないほど、強烈に脳裏に焼き付いた。
――本気で来る。
キュリオの全身に、凄まじい魔力が表出した。
その小さな体内に内包・圧縮された力が行き場を失い、外部にまで漏れ出てきたかのようだった。
やがて彼女の体は浮き上がり、6枚ある背中の羽が広がった。
その姿はさながら歪な神のように、タガタには感じられた。
キュリオはタガタたちを見下ろした。
ぎょろりと下三白眼で睥睨し、世界の終わりを告げるように言った。
「処刑だ」