53 脱出
アリーナは混乱の極みにあった。
老若男女の怒号と悲鳴が飛び交い、指示を出す海兵の怒声が響き、時折、バチンッという何かが爆ぜる音が聞こえた。
幸い煙は先ほどリュカが空けた天井の大穴から逃げていき、それほど充満していない。
先ほどのレーザーはあの一撃でいくつもの天板を貫き、柱を焼き切ったのだ。
だが、燃え盛る炎はいよいよ勢いを増しており、無事に外へ出るためには、もはや一刻の猶予も残されていないように思われた。
舞台上は轟々と燃え盛り、その中でクロップたちとキュリオが対峙している。
キュリオは混乱に乗じてリュカを取り戻すために現れたんだろうが、いくらミュッヘン海賊団の船長と言えど、あの4人を相手にそう簡単には追ってはこられないだろう。
逃げるなら今しかない。
「よ、よし、行くぞ」
俺は一人ごち、5つあるホールの出入口に目をやった。
そこの光景を見て、俺は周章した。
2000人の人間が、一斉にそちらに集中している。
観客は半ば暴徒と化し、海兵の指示を無視して我先にと押し寄せていた。
学芸員や海軍の兵士が安全を促しているが、まるで機能していない状況だ。
俺はリュカを抱いたまま、どうすべきか迷った。
あそこに行けば、下手をしたら群集の下敷きになってしまうかもしれない。
しかし――ここでこのまま漫然とホールが焼け落ちるのを待っていることも出来ない。
結局は、行くしかない。
俺はリュカを抱き、足を踏み出した。
「――駄目」
つと、背中から女の人の声がした。
振り向くと、マリア=ホーネットが両手を胸に当て、こちらを見ていた。
「そっちに行ったら駄目」
ぽつりと、マリアが呟いた。
「きっとミュッヘン海賊団が入口で待ち構えてる。ううん、入り口だけじゃない。このホールには海賊がうじゃうじゃ潜んでいる。通常の道から外に出れば、直ちに捕まってしまうでしょう」
「で、でも、このままここにいたらどちらにせよ死んでしまう」
「このホールの一番右の奥の席に、秘密の入口があるわ」
「な、なんですか、それ」
「ギネーア・ホール中に張り巡らされた隠し通路」
「隠し通路?」
「ええ」
「やつらも知らない秘密の逃げ道。そこを抜ければ、安全に外に出られるはず。右奥の3連席中央の裏にスイッチがある。通路に入ったら、舞台とは反対の方向に真っすぐ進むの。分岐がいくつかあると思うけど、全て右を選びなさい」
マリアは顔をゆがめ、訴えるように必死に語った。
ギネーアの隠し通路。
その言葉を聞いて、俺はピンときた。
たしか――ポラが俺の控室に来る時に使っていた、かつて宗教弾圧に備えた殉教者たちが使用していた道だ。
「わ、わかりました」
俺は頷いた。
「しかし、なぜそんなことを教えてくれるんですか」
俺の問いには答えず、マリアは目を伏せた。
「お礼は良いから。早く行きなさい」
「マリアさんは行かないんですか」
「うん」
「なぜ。ここにいたら危ないですよ」
「私は被害者であらねばならない。あなたたちに、強引に魔石を奪われた犠牲者。でなければ――姉が」
そこまで言って、マリアは言葉を止めた。
「姉?」
「ごめんなさい。あなたたちには関係ない話だわ」
マリアはそこで言葉をきり、リュカに目をやった。
「リュカ皇子。ごめんなさい。私は、あなたを殺す手伝いをした」
「よい。今はこうして助けてくれているのだ」
「本当にごめん。きっと生き延びてね」
「お主もな」
リュカが言うと、マリアは微かに笑った。
どすん、という音がして、舞台に目をやる。
すると一際大きな天井の梁が焼け落ちていた。
「さ、早く」
マリアの言葉に、うん、と頷き、俺は踵を返して走りだした。
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俺は人々が走る方向と反対に走った。
広大なアリーナ席の一番奥。
リュカを抱えて走っていると、目の前に黒服を来た男たちが立ちふさがった。
ごつい体のせいで、タキシードがパンパンの大男たち。
顔には大きな傷痕が残っており、正装が全く似合っていない。
どこに属しているのかは分からないが――
海賊だ。
俺は先ほどサヴァルから借りた銃をその男に向けた。
だが、ほとんど同時にその手を掴まれ、右頬を殴られた。
俺は「ぐあっ」と喘いで、床に仰向けに倒れ込んだ。
リュカは俺に抱き着いていたおかげで離れずにすんだが、代わりに銃を手放してしまった。
俺は這うようにして銃を拾い、リュカを守るようにもう一度抱え込んだ。
脳が揺さぶられて頭がぐわんぐわん鳴っていたが、今はそれどころじゃない。
せめてもの抵抗に、歯を食いしばって男たちを睨む。
海賊どもはへっへと不敵に笑いながら近づいてきた。
俺を一発KO出来ない時点で、こいつらは雑魚なんだろう。
だが――今の俺は銃なしではこんな下っ端にも勝てない。
と、その時。
俺の腕の中で、リュカが魔石を握り込むのが見えた。
「やめとけ」
俺は言った。
もう一度、この虹石を使えば、今度はこのホール自体が持たないかもしれない。
「皇子を寄こせ」
男たちはそう言うと、もう一度、俺を殴ろうと振りかぶった。
俺は咄嗟にリュカを庇うように体を丸め、目をつむった。
とにかく、こいつを守らなければ。
そう思って、衝撃に備えた。
しかし、いつまで経っても海賊たちの攻撃は始まらなかった。
代わりにバチィ、という肉を叩く生々しい音が聞こえた。
だが、俺に衝撃はない。
不思議に思って目を開けると、細身の青年が大男をぶん殴っていた。
「よう。ピンチじゃねえか」
慣れないタキシードを窮屈そうに着た彼は、そう言って白い歯を見せた。
「ヨシュア!」
俺は思わず叫んだ。
「お、お前、ここに入れてたのか!」
「んだよ、そのセリフ。俺にはこういう上等な場所は不釣り合いだって言いてえのか」
「だって、その服、死ぬほど似合ってないし」
「うるせえ。オメーだって似合ってねえよ」
「だな。でも、驚いた。まさか助けに来てくれるなんて」
「当然だろ。俺は、リュカから途方もない大金もらってんだ。最後まで護衛する」
「カッコいいこと言うじゃん。それじゃあ、俺たちと一緒に――」
礼を言おうとしたとき、ヨシュアの後ろにいたもう一人の海賊が、彼に殴りかかっているのが見えた。
「後ろ!」
俺が叫ぶと、ヨシュアは背中を向けたまま海賊の攻撃をかわし、その勢いで回し蹴りを首の根元に叩き込んだ。
海賊はそのまま昏倒し、動かなくなった。
強ぇ。
やっぱりこの青年も、只者ではない。
「でもよ、お前ら、どうして出口に行かねえんだ」
パンパンと手を払いながら、ヨシュアは言った。
「こっちに来ても袋小路だろ。急がねえと、火の手が客席にまで及ぶぞ」
「この向こうに隠し通路があるんだ。そこから逃げる」
「隠し通路?」
「そう。
「ヨシュア。悪いんだけど、一緒に来てくれないか。情けない話だけど、俺だけじゃ不安だ」
「オーケー。だが、タナカ。お前には何ももらってないからな。こいつは貸しだぜ」
「ちゃっかりしてるな」
俺は思わず笑った。
「いいよ。うまく逃げられたら、船長に紹介してやる」
ヨシュアは目を見開き、「絶対だぞ!」と言って親指を立てた。
一番右奥にある席に着くまでに、遠くの方から客に紛れ込んでいた海賊たちが追ってくるのが見えた。
俺は急いで席の裏を手探りで確認した。
すると、丸いでっぱりのようなものが手に当たった。
押しても引いても動かないので、右に回してみた。
すると席はすぽんと抜け、床板が露になった。
指を突っ込むための穴が開いていたので、そこに手をかけ、思い切り引き上げた。
ぽっかりと真四角の穴が現れた。
それとほとんど同時に、追っ手の海賊たちが俺たちのところまでたどり着いた。
席の背もたれを乗り越え、何やら大声を上げながら襲ってくる。
だが、狭い足場で華麗に躱し、ヨシュアはまたもや軽くそいつらをノックアウトした。
「まずいな。思ったより人数がいる」
ヨシュアはホールを見まわしながら言った。
「タナカ。俺はここで海賊らの相手を食いとめておく。お前らは先に行け」
「大丈夫か?」
「余裕だよ」
ヨシュアはそう言い、親指を立てた。
俺は少し考えた後、銃を差し出した。
「……ヨシュア。これ、渡しとく」
「いらねえよ」
ヨシュアは首を振った。
「アリーナにいる客はセキュリティチェックを受けてるから、海軍を除けば全員が丸腰だ。たかだか雑魚ども相手に、そんなもんは必要ない」
「でも多分、すげー人数がやってくるぞ」
「うるせえな。そういうのは、一番よえーやつが持ってろ」
ヨシュアはそう言うと、視軸を映してホール全体を見下ろした。
「ほら、早くいけ。クソどもがやってきたぜ」
「すまん。助かる」
俺は頭を下げた。
すると、俺の胸の中で、リュカも「ヨシュア。ありがとう」と言った。
ヨシュアはへっと言い、鼻の下を人差し指で擦った。
「こっちはお足をたんまり頂いてんだ。礼には及ばねーよ」
「そうか」
「んなことより、リュカ。オメー、皇女様だったんだな」
「なんだ。文句あるのか」
「いや、そうなら、もっと優しくしてやりゃよかったなと思ってよ」
「要らぬ配慮だ。余とお主らは同じ人間だ」
リュカは不満げに眉を寄せた。
「そっか。そうだよな」
ヨシュアはにやりと口の端を上げた。
「じゃあな、リュカ。落ち着いたら、またいつか俺たちのとこに来いよ。そしたら、今度はもっと悪い遊びを教えてやる」
リュカは目を輝かせた。
それから口をムズムズさせ、「うん」と大きく頷いたのだった。
「よし、じゃあ行くぞ」
俺はそういうと、リュカを抱え込んだ。
そうして、隠し通路へと飛び込んだのだった。