52 炎上
「ここにいるのはトートルア国王継承権第一位のリュカ皇子。本物の後継者とされているものだ。世界のVIPたちに置かれては、これから起こる惨劇を是非に見届けていただきたい!」
舞台上の男はリュカの首元に刃物をあてがったまま、歌うように訴えた。
やや演技がかった素振りに、客たちはまだこれが事件なのか歌劇の続きなのか分からない様子だった。
男はそれから、何やらトートルアの歴史を語り始めた。
リュカ皇子は王の子ではなく、すり替えられた背徳の御子である。
おぞましい悪魔と売女の仔である。
そのように宣い、いかに自分たちの行為が正しいか説き始めたのだ。
ただ殺すだけでは足りない。
この世界に、リュカが今宵ここで死なざるを得ない正当な理由を知らしめるのだ。
そんな、いかにもテロリスト然とした狂った理屈が感じられた。
「動くでないぞ、サヴァル」
クロップが小声で指示を出す。
「やつは今、話しながら感覚を研ぎ澄ましてこちらを注視している。少しでも動けば、すぐに演説を中断してリュカ皇子を殺すつもりだ」
「し、しかし――このままではどうあれ皇子は殺されますよ」
サヴァルは唇だけを動かして答えた。
「分かっとる。じゃから、隙を伺っておる」
「隙を?」
「ここから舞台上まではおよそ40メートル。ワシならコンマ一秒かからない距離だ」
「コンマ一秒、ですか。この状況だと、気が遠くなるくらい長い時間だな」
「その通り。必要なのは“0秒に近い移動”ではなく完全な“0秒移動”。じゃから」
クロップはほんの少しだけ声を上げ、
「マリア。マリア=ホーネット」
と、女優の名を呼んだ。
「お主、先ほどワシらに謝っておったの。つまり、リュカ皇子暗殺の幇助は本意ではない、ということかの」
マリアは返事をしなかった。
クロップは舞台に目をやったまま、続けた。
「お主に良心の呵責があるなら、瞬間移動石を左にいる男に手渡せ。そして、サヴァル。お主は、直ちにそれをもう一度発露させるんじゃ」
「な、なるほど」
タガタが言った。
「もう一度魔石を発動させ、今度はリュカ皇子とサヴァル殿の位置を交換するということですか。それならば確かに0秒だ」
「マリア。一人の人間の命がかかっている」
クロップは語気を強めた。
「一刻も早く、魔石をサヴァルに渡せ。テロリストにはなりたくあるまい」
マリアは動かなかった。
呵責はあるが、渡せない。
そのように逡巡している様子が見て取れた。
俺はごくりと喉を鳴らした。
緊張で全身に汗がにじんだ。
この状況でリュカを助けるなら――マリアから魔石を取り戻すしかない。
しかし、結局マリアは動かなかった。
クロップは苛立ちを抑えた声音で「お嬢さん」と言った。
「お嬢さん。勘違いされては困るが、ワシらは正義の味方じゃない。もしもお主が渡さぬなら、殺して奪うまで。じゃが、そうはしたくない。お主の独唱は見事じゃったでな」
「……」
「頼む。海賊になにか弱みを握られておるなら、我らラングレー海軍が全勢力を以て解決する。もう時間がない。マリア殿――」
お願いじゃ、とクロップが言う。
声音からは殺意が漏れていた。
最後の説得。
これが通じないなら、彼は本当にマリアを殺すだろうか。
マリアはそれでもなお少し躊躇した後――
目を伏せたまま、舞台上から見えぬように、下からサヴァルにそっと魔石を手渡した。
「グアウッ!」
と、その時である。
舞台上から悲鳴が上がった。
咄嗟に目をやると、そこでは男が顔を抑えてうずくまっていた。
Ж
リュカは自らの身に起きていることを理解できなかった。
先ほどまでリクタの隣でオペラ歌劇を見ていたのに、気がついたら2000人の観客が注視する舞台上に上っていた。
見知らぬシルクハットを被った男に胸倉を掴まれ、首元に刃物を当てられている。
何が何やら分からぬ状況だが――自分の命が危ない、ということだけはかろうじて認識できた。
男は何やら観衆に向けて大演説をしていた。
どうやら自分を殺す意味を説いているようだったが、内容はよく理解できなかった。
シルクハットの下の顔は、包帯でグルグル巻きにされていた。
その中で、ぎろりとした目玉だけが爛々と輝いている。
思わず悲鳴を上げたくなるようなおぞましい容貌だったが、不思議なことに、リュカは反対に心が落ち着いて行った。
この男はディディエ陣営の人間なんだろう、と思った。
奴は余を殺し、代わりに義弟・ディディエを王にさせようとしているのだろう。
トートルア国第2位皇子、ディディエ。
リュカはその男の顔も見たことがない。
正室でも側室でもない、在野の妾の子だと聞いているだけだ。
このまま殺されるのも悪くない。
リュカは刹那、そう思った。
王になどなって何になる。
ディディエを退けても、ずっと命を狙われ続ける。
希望や夢を持つ自由など死ぬまで得られない。
それならいっそ、ここで果ててしまう方が楽なのではないか。
首に当てられた冷たい金属が、そのように囁いていた。
――リュカ
そのように思い至った時、リュカの脳内に声が響いた。
リクタの声だ。
それは本当の声だったのか、それともただの幻聴だったのか。
リュカの頭の中でリクタの顔が像を結び、瞬く間にその顔でいっぱいになった。
人間は他者に人間と認識されて初めて人間になれる。
唐突に、そのような考えが彼女の脳の底で瞬いた。
余はこれまで人間のカタチをした“何か”だった。
だが今、自分が何者か、やっと気づけた。
余は――人間だったのだ。
リクタ=タナカ。
奴は生まれてから唯一、自分を人として見てくれた。
余を“人間”にしてくれた。
――恩人?
いいや、それ以上。
リクタは余にとってのは――
その時、リュカはこれまでの思考が全て吹き飛んだ。
リクタともう一度、話がしたい。
それしかなかった。
本能的に体が動いた。
リュカは自らの首にぶら下がっている虹色に光る魔石を掴んだ。
ジュベ海賊団船長バチュアイ=シルベストルから上納された最上位魔法の包含された虹石である。
それからもう片方を、シルクハットの男に向けた。
魔石の発動方法はリングイネから聞いていた。
対象となる石を掴み、それが発露するようにイメージする。
それからあとは、発動条件となる「解除言葉」を発生するだけでいい。
リュカはその直前、シルクハットの男の顔を見た。
やつはホール内にいる海軍たちの動向に夢中で、こちらには全くの無警戒だ。
何もできない無力な偶像。
そう思っているのだ。
リュカはにやりと、自嘲気味な笑みを浮かべた。
どこかで見たような光景だと思ったが、考えてみれば、これまで全ての人間が余をそのように扱ってきた。
自らの人生は、命は、一体何のために存在するのか。
余は――余は、誰かのための道具じゃない。
――解放
リュカは呟いた。
すると、リュカの手のひらは刹那、ホール全体を照らしきるほどに眩く青白く光った。
それから「バシュゥウウウウ」という機械音のような音と共に、彼女の手のひらから強烈で細い光線の筋が照射された。
そのレーザーはシルクハットの男の右頬を貫通し、さらに後方にある緞帳に突き刺さった。
「グアウッ」
獣のようなうめき声を上げ、男はもんどりうってその場に倒れた。
リュカは放り舞台上に放り投げられ、床に倒れた。
レーザービームの当たったホールの天井部は瞬間的に赤黒く膨らみ、一瞬の静寂の後、「ドゥウン」という地響きのようなくぐもった破裂音をたてて――
大爆発を起こした。
たちまちの内に火は燃え盛り、カーテンや背景の書割などに燃え移っていく。
そうして、古代に作られた偉大なる舞台は瞬く間に火の海と化していったのだった。
Ж
ホール内は大混乱に陥った。
逃げ惑う人々が出口を求めて一斉に入口に殺到した。
俺はどうしていいのか分からず、その場で立ち尽くした。
舞台上ではレーザーで顔を焼かれた男がのたうち回っている。
リュカは魔石発露の反動なのか、後方に吹き飛んでいる。
助けに行かなくちゃ。
頭ではそうは思っても、体が動かない。
阿鼻叫喚の光景に、身じろぎが取れなかった。
その時。
リュカと男の間に――もう一人、人影が現れた。
腰まで伸びる長い神々しい銀髪に細い肢体。
真っ白い肌とワンピース。
うっすらと、背中に半透明な羽のようなものが見える。
天使――?
い、いや、あれは人間だ。
それも、女性。
俺は場違いにも、一瞬、その威容に見惚れてしまった。
恐ろしく神々しいオーラを纏っているが、たしかに人間の女性である。
「……キュリオじゃ」
忌々し気に、クロップが皺だらけの顔を顰めた。
「まずいのう。やはり、やつも来ておったのか」
額に汗がにじんでいる。
この国で一番強いとポラが評していた男が――動揺している。
だが言葉とは裏腹に、どこか少し嬉しそうな声音であった。
俺は舞台上に目線を戻した。
あれが――ミュッヘン海賊団船長、キュリオ=フォー。
世界で一番の大魔法使い。
ディディエ皇子と裏で繋がっている、リュカたちの敵。
「やつだけは、はあ、必ず無力化せんといかんのう」
クロップは顎を掻きながら言い、目を細めてキュリオを見た。
「行くぞ、タガタ、ミスト」
「了解」
タガタとミストは同時に顎を引いた。
ドウッ、と言う大砲の発射音のような音を残して3人は翔んでいった。
「これは――私も行かねばなるまいな」
サヴァルは呟き、それからホール内にいる部下たちに向かって怒鳴った。
「客席に火の手が回る前に速やかに観客を誘導しろ! パニックを起こした客には手を出して構わん、とにかく一人も死人を出すな!」
そのように指示を出し、魔石を握り込んだ。
瞬間移動石である。
それから最後に俺の方を見て、腰に携帯していた銃を放り投げた。
「タナカ。貴様は部下たちの誘導に従ってリュカ皇子を避難させろ。どうやら皇子の信頼はお前が一番得ている。お前がやるんだ」
サヴァルは俺の目を見つめた。
やるしかない。
俺は拳を握り込んだ。
リュカを――逃がすんだ。
「はい」と言って、顎を引いた。
サヴァルは俺の顔を見てにやりと笑った。
「なるほど。ミスティエの子分らしい。悪くないツラだ」
それから、サヴァルは魔石を握り込んだ手を顔の前まで上げ、何事か呟いた。
すると彼の姿は消え去り――
代わりに、リュカが再び俺の目の前に現れた。
リュカはしばらくきょろきょろと辺りを見まわした後、俺を見た。
「リュカ!」
俺は思わず叫んだ。
「リクタ!」
リュカは満面の笑みを浮かべた。
そして、まるで長い間会えなかったかのように、胸に飛びついてきたのだった。