50 開幕
部屋を出るとすぐにもう一度セキュリティチェックを受けた。
この期に及んでも疑われていることに半ば呆れつつ、それからタキシード服を着た海軍兵士に連れられて、薄暗い廊下を歩いた。
メインホールへ至るロビー通路に着くと、クロップとサヴァル、それからタガタが控えていた。
その中心にリュカがいた。
リングイネの姿はない。
代わりに、仰々しい祭服のようなものを着た高齢の男たちが数人、いた。
リングイネに似た司祭服のような服を着ているが、その衣装はやけにゴテゴテとしていて、カーテンのように襞がついていた。
首からじゃらじゃらと勾玉のようなものが着いたネックレスをぶら下げている。
みな不機嫌そうな顔に見えたが、それは俺が彼らを敵だと判断したからかもしれない。
元老院。
リングイネの言っていた組織と言うのは、奴等のことだ。
俺は本能的にそのように感じた。
実質的にトートルア国を牛耳っている人間。
俺たち白木綿のミッションにいける、本当の敵と言えるだろう。
否がおうにも緊張感の増すロビー脇の通路。
リュカはつと俺を見つけると、微笑んで手招きをした。
「リクタ。こっちだ」
リュカの声で、クロップたちが一斉に俺を見た。
俺はクロップたちに恐縮をしながら、リュカの右隣りに立った。
「よ、よう」
俺は間抜けな声を出し、右手を上げた。
「なんか、緊張するな」
「なんだ、その顔は。引きつっておるぞ」
リュカはくすりと笑った。
「仕方ねえだろ。俺は一般人なんだ」
「変な顔だ」
「うるせえ」
俺が肘で軽く押すと、リュカはくすくすと笑った。
俺たちのやり取りを見て、元老院の老人たちが何やら眉をひそめて耳打ちをする。
「タナカ。慎みたまえ」
サヴァルがぴしゃりと言った。
「皇子に触れることは許されんことだ。それ以上は、冗談では済まんぞ」
す、すいません、と俺は頭を下げた。
ししし、とリュカが口に手を当てて笑う。
「そう緊張しなくていい」
タガタが微笑みながら言った。
「どうやら海軍さんは本気だ。これだけの厳重な警戒は、奴らもさすが想定外だろう」
「そ、そうですかね」
「相手だって馬鹿じゃない。勝算の無い戦はしないよ」
「そ、そうっすよね」
俺は胸に手を当てて深く呼吸をした。
とはいえ、緊張は収まりようがない。
この扉の向こうには、何千という人間がいて、俺たちを待ち構えているんだから。
「さあ、時間じゃ」
やがて、クロップが言った。
それを合図に、大仰な観音扉を、両脇に立っていた二人のレセプショニストが開いた。
Ж
ホール内に入ると、一斉にストロボが焚かれた。
俺たちのいる世界のカメラとは違い、大きなパラボラのついた閃光器からボシュボシュという大きな音が聞こえる。
大勢の記者たちの前を、俺たちはクロップを先頭に席を目指した。
リュカは手を振ることも愛想をするわけでもなく、真っすぐ前を見て歩いた。
口をきつと閉じ、きりとした双眸で真正面だけを見つめていた。
先ほどまでの幼気な女児の顔じゃない。
威厳あるトートルア国次期国王が、そこにいた。
そう。
彼女こそ、世界のエネルギー資源を支配し得る新しい女王なのだ。
すでに俺たち以外の客は全員が席に着いており、歩いている内に俺たちへ――いや、リュカ皇子へ向けて自然と拍手が起こった。
その光景はまさに圧巻だった。
ステージを中心に半すり鉢状になっているアリーナには2000人以上が収容されているという。
だがさらに見上げれば、2階席、バルコニー席にも何百人という人間がいて、全員がこちらを見下ろし、注視していた。
ものすごい人数だ。
そのど真ん中に自分がいると考えると、クラクラしてしまう。
だが――このどこかにミスティエたちもいるはずだ。
俺はポラの助言を思い出し、出来るだけ堂々と、胸を張って歩いた。
下手な動きを見せたら、あとで船長になんと言われるか分からない。
席に着くと、予め決められた通りの配置に座った。
その間も、前に陣取っていた記者たちは写真を撮り続けた。
俺は体中に汗をかいていた。
あの写真。
きっと近日中には世界中の新聞に載るんだろう。
他のことにかまけていて全然考えてなかったけど――もっと髪型を決めてくればよかった。
場違いに、そんな風に思った。
やがて、いつまでも終わらない撮影会に、ホールの職員が制した。
するとざわめきは急に収まり、灯りが一段階暗くなった。
しばらく沈黙があったのち、今度は完全に暗くなった。
刹那の完全な静寂のあと、開幕のブザーが鳴り響いた。
そして――
ステージ上のオペラカーテンが、音もなく中央から割れるように開いたのだった。
Ж
オペラとは歌と演劇によって構成される舞台芸術である。
ポラからはそのようにだけ聞いていた。
正直、ピンと来ていなかったが――実際に歌劇を見て俺は圧倒された。
今日演じられた演目『美しきエレーナ』は、苛烈な戦争下における男女の恋を描いたものだった。
身分違いの惹かれあう男女が世を忍んで逢瀬を重ねるが、やがて二人を取り巻く環境は戦へ進む国の趨勢に飲み込まれ、運命のいたずらによって引き裂かれていく戦士と姫の悲恋。
世界の背景はよく分からなかったけれど、話の筋は概ねそんなところであった。
舞台上を躍動する俳優たちの演技は本物だった。
この広いホール中に響き渡る発声。
特にミュージカル部分ではその美声に鳥肌が立った。
どういう仕組みになっているのか、背景が次々に変わる舞台装置によってドラマはスムースに展開された。
見事に計算され作り上げられた演出の数々に、俺はしばしその歌劇に見入ってしまった。
もっと眠くてつまらないものだと思い込んでいた俺は、思わず前傾姿勢になって舞台に釘付けになっていた。
そしていよいよ、物語の一番のピーク。
主演を務めるマリア=ホーネットの独唱が始まった。
月夜をバックに、愛する男の死を嘆き、運命を呪い、戦争への憎悪を歌い上げるシーンだ。
オペラが歌の芸術と呼称される理由が分かった。
それほどに、彼女の歌声はすさまじかった。
あのような細い体から、どうしてあれほどの声量が出るのか。
高音から低音まで、伸びやかで抒情性に満ちている。
特にソプラノは圧巻だった。
もはや人間の声とは思えない超高音の歌声は極限まで張り詰めた弦のように危うく、しかし力強く明瞭で、聞く者の魂を震えさせた。
理屈ではない。
彼女の存在は人間の為し得る芸術の極みだ。
マリア扮するセレーナは自らの運命を呪い、戦争を憎み、神へ許しを乞うた。
ステージの中央に躍り出て、観客へ向けて両手を上げた。
――次の瞬間。
舞台上で、奇妙なことが起こった。
まだ音楽が鳴り続いているのに、マリアが急に口を閉じ、跪いたのだ。
そして、胸につけていたチョーカーを乱暴に引きちぎると、それを祈るように両手で握り込んだ。
ほとんど同時に、彼女の背後に“男”が浮かび上がった。
その男は仮面をつけていた。
目と鼻にだけ穴が開いた白面だ。
オペラはまだ鳴り響いている。
それを無視して、マリアと仮面の男は近づいて行った。
観客たちがざわめき始める。
明らかに、演出ではない。
変則だ。
「クロップ殿」
サヴァルの小声が聞こえた。
「……ふむぅ」
クロップはすっと立ち上がり、中腰になってリュカの前に立ちふさがった。
「どうも様子が変じゃの。なにか仕掛けて来たか」
同時に、サヴァルとタガタも腰を上げ、リュカを守るように三方に散った。
「上方にも気を付けるんじゃ。殺気を感じたら躊躇うな」
クロップの低い声が響く。
客席のざわめきが波紋のように徐々に広がっていく。
舞台上では、仮面の男がついにマリアの傍にたどり着いた。
「大丈夫か、リュカ」
ただならぬ雰囲気に、俺はリュカに言った。
「う、うむ」
リュカは少し怯えたように頷いた。
俺はリュカの手を握った。
そして、小声で「大丈夫だ」と言った。
彼女の手は小刻みに震えていた。
「落ち着け」
と、俺は言った。
「タガタさんの言った通り、これだけのメンツが取り囲んでるんだ。なにが起こっても平気――」
突然、キャア! という女性の悲鳴がホールに響き渡り、俺の言葉は途切れた。
咄嗟に、俺は声のあったほう――舞台上へと目をやった。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
リュカが、舞台上に佇立していたのだ。
どういうことだ!?
なぜあそこに、リュカが?
慌てて、すぐ横にいたリュカに目を戻す。
すると、既にそこには彼女の姿はなく――代わりに、マリア=ホーネットが座っていた。
なにが起こったのか、まるで理解できなかった。
わずか一秒前、すぐ隣の席にいたリュカが、ついさっきまで舞台上で独唱していたマリアと入れ替わっている。
ほんの一瞬目を離した刹那に――文字通り、二人は“瞬間移動”してしまった。
俺は混乱の極みに陥った。
目の前の状況がまったく飲み込めない。
な、なんだ。
一体、リュカに何が起こったんだ――