42 飛翔
外廊下の手摺から飛び出した瞬間――今まで経験したこともない感覚が身体中を包んだ。
落下していくはずの俺たちは、ふわりと浮かんだまま、その場に留まった。
上昇もせず、落下もしない。
球形の薄い膜に覆われ、ふよふよとその場に浮遊している。
体験したことはないが、無重力状態とはこういう感覚なんだろうか。
うまく体勢を保てず、俺の体は縦にゆっくりと回転してしまう。
ふと横を見ると、ヨシュアは斜めに横回転していた。
「な、なんだこりゃあ」
「浮いてんのかこれ! つかタナカ、オメー回ってんぞ!」
「ヨシュアも回ってるって! なんなら俺より回ってるって!」
俺とヨシュアはジタバタ暴れながら叫んだ。
プリムに至っては声も出ない様子である。
赤ちゃんのように身を縮めて、ぎゅっと目をつむっていた。
「じっとしてなさい」
エリーが言った。
そして次の瞬間――
俺たちの体は遥か上空へと急上昇していった。
遥か高みに来ると、ようやく体勢が保てるようになった。
コツはあんまり暴れないこと。
ゆらゆらと揺れながら、俺は下界に目を落とした。
その景色に、俺は息をのんだ。
フリジアの全景が視界に収まっている。
上から見ると随分とネオンが多い。
あんなに汚かった街が、ここから見ると宝珠を散りばめた宝石箱のように美しかった。
「これは……面白いの」
リュカは無邪気に笑い、目を輝かせた。
「このような体験は初めてだ。今日は、はあ、なんという嘉日だ」
「は……はは。本当だよな……これ、夢じゃねえよな」
俺はリュカの方に近づこうと平泳ぎのように手足をかいた。
「どうなってんだ全く。魔法って、本当にすごい力なんだ――」
「別に遊びじゃないんだけど」
エリーはつまらなそうに言った。
「それじゃ、行くわよ。舌を噛まないように口を閉じてなさい」
エリーの合図とともに、今度は富裕層地区の方へ高速で移動し始めた。
Ж
それは束の間の飛行体験だった。
不思議と恐怖はなかった。
刹那、俺たちはまるで燕になったようだった。
視界の中で上空の星空と眼下のネオンが光の群れとなって、それらが加速するたびに徐々に線上に伸びていく。
やがてその光彩の帯はトンネルとなり、その真ん中を、俺たちは信じられない速度で飛んでいった。
その光景はあまりに非現実的で、思わず見惚れてしまうほどだった。
俺は息をするのも忘れて、幻想的な経験に酔いしれたのだった。
Ж
着地したのはギネーア・ホールの広大な前庭のど真ん中だった。
目の前には大きな円形の池があり、そこには小さな噴水が設えてあった。
中央には美しい女性の像があり、それを外灯でライトアップしている。
その周りには松明の火が等間隔で置かれてあった。
はるか向こうに、ギネーア・ホールの本館が見える。
遠くから見ると、まるで宮殿のように見えた。
「侵入者だ! 急げ!」
バシュウ――という派手な音と光を伴って舞い降りたので、すぐに監視兵に気付かれてしまう。
俺たちはものの数十秒で、すっかり黒服に取り囲まれてしまった。
リュカが一人、前に進み出た。
「銃を降ろせ。余だ」
黒服たちはみな一様に顔を顰めた。
そしてリュカの姿を視認するなり、銃をその場に置き、その場に傅いた。
「聖皇子さま……?」
「そうだ」
「こ、これはとんでもない非礼を。リュ、リュカ様、ご無事でしたか」
「怪我はない」
「これは大変なことだ。リュカ様がお戻りになられた」
「直ちに文官を呼べ。余が帰って来たと伝えるのだ」
リュカが命じると、幾人かの男たちが立ち上がり、「ハッ」と言って敬礼をすると、踵を返して走り出した。
「リュ、リュカ」
俺はごくりと喉を鳴らした。
「お、お前、本当に偉い奴だったんだな」
「なんだ。疑っておったのか」
「い、いや、そういうわけじゃないけど――ああいや、ないですけど」
敬語に言い直すと、リュカはちょっと笑った。
「畏まるな。これまでと同じでいい」
「でも――」
「チームメイト、だろ」
その言葉を聞いて、俺もリュカにつられて口の端を上げた。
「それじゃあ、私たちはこれで」
エリーが言った。
「うむ。エリーとやら。わざわざすまなかったな」
「いえ」
「しかし、良かったのか? 余を助けるような真似をして」
「ええ。今のあなたをどうにかしても、我々にメリットはないですから」
「メリット、か」
「我々は営利目的の海賊です。おそらく、船長でも同じようにしたでしょう」
「なるほどの。こちらの事情はすっかり把握済みというわけか。ではその上で……一つ、頼みがあるのだが」
「頼み?」
「この男を――リクタをもう少しだけ、貸してくれぬか」
リュカはそう言うと、俺の服の裾をぎゅっと握った。
「タナカを?」
「ああ」
エリーは俺の方を見た。
それから訝しそうに目を細め、「シーシーと言い、やたら子供に懐かれる子ね」と呟いた。
「駄目かの」
「いえ。それがお望みなら」
「もう直に別れると思うと、急に惜しくなった」
「随分、お気に召したようですね」
「そのようだの」
リュカはにこりと、衒いのない笑みを浮かべた。
さっき黒服どもに命令したときとはまるで違う、無垢な微笑み。
プリムの言った通り、この子は本当にチグハグだ。
皇子であり、子供でもある。
「分かりました」
と、エリーは言った。
「それでは今日一日、この男をリュカ殿に付けておきます」
粗相のないように、とエリーに背中を押される。
「あ、あの、全く状況が呑み込めないんですけど――今日、ここで何が行われるんです?」
俺はエリーに言った。
すると既に踵を返しそうとしていたエリーは半身だけ引き、肩を竦めて次のように言った。
「今日はオペラ鑑賞と称したお披露目会よ。国内で行われる正式な継承式の前に、世界中に次期国王となる人間を初披露する場」
「じ、次期国王?」
俺は眉を寄せ、矢継ぎ早に聞いた。
「それがリュカってことですか? ていうか、国王ってどこの国の王ですか? ラングレー国に王室は存在しませんよね?」
「あ。苦手な奴が来た」
だが、エリーは俺の質問をフル無視し、俺たちの背後を見ながらそう言った。
「面倒くさい奴が来たら、私はもう行くわ」
「面倒くさい奴?」
エリーの視線を追って振り返る。
すると、向こうの方から背の高い男性が走ってくるのが見えた。
だらしなくスーツを着崩し、不精な山羊髭を蓄えたボサボサ頭の中年男性。
見覚えのない顔だ。
「エリーさん、あれ、誰ですか?」
エリーの方へ振り返ると、彼女は、手のひらをひらひらと振りながら歩いて行ってしまっていた。
「親父じゃねえか!」
その代わり、ヨシュアが大きな声を出す。
「親父? 親父ってあの――」
「ああそうだ。貧困層地域の巡警、タガタ=ユゾだ」
「あれが――」
俺は思わず目を見開いた。
これが――タガタ=ユゾ。
ムンターの奴隷たちを受け入れた、俺にとっての恩人であり――
荒廃した町の治安を守る“フリジア自警団”の団長であり――
アデル海に生きる強者の一人とされるモンスター。
「いやいや、よかったよかった」
後頭部をぽんぽんと叩きながら、ドタドタと駆けて来る。
このおじさんが……あのタガタ=ユゾ?
なんか――思ってたのとだいぶ違うな、と俺は思った。