28 過去
ポラの原風景は揺れる船底の景色だった。
床板から漏れる光で照らされるその光景は地獄そのものだった。
生きているのか死んでいるのか分からない人たちが折り重なるようにして寝ころんでいた。
みんな穴ぼこのような眼で、耐え難い暑さと臭いに耐えていた。
喉がカラカラに乾いていた。
お腹も空いていたが、渇きに比べればなんてことはなかった。
彼女は耐え難い苦痛に顔ゆがめ、しかし、身を縮めてうずくまることしかできなかった。
ふと見ると、小枝のように痩せた老婆が彼女を見つめていた。
彼女は「辛いよう」と呟いた。
老婆は少し微笑んだように見えた。
その人の元に行こうと、這うようにして近づいた。
しかし老婆はすでに息絶えていて、彼女が触るとそのまま床に倒れて動かなくなった。
そのような状態で一週間放置された。
ギリギリのところでなんとか生き延びた彼女は、闇港でそのまま競売にかけられた。
女は安く買いたたかれるのが常であったが、彼女は一人の男に目をかけられてとても良い値が付いた。
男は彼女のその美しく整った顔立ちに惹かれ、異例の入札額を提示したのだった。
ポラを買った男は小さな農場を持つ地方貴族だった。
昼の間はそこで働かされたが、彼女は他の奴隷たちより明らかに優遇されていた。
栄養のあるものを食べさせてもらえたし、労働時間も少なかった。
その代わりに、男の身の回りの世話をすることが多かった。
男は時々、ポラにいたずらをしてきた。
不要に体を触り、自分の体を触るよう強要してきた。
ポラは他の奴隷たちの惨状を思い出し、恐怖のままに言うなりにしてきた。
そしてある日、男はついにベッドへとポラを誘ってきたのだった。
しかし、男の妻がそれを見咎め、すんでのところで彼女は助けられた。
その代わりに、今度はその妻に苛烈な暴力を受けるようになった。
次の日から、ポラは農場へと戻された。
妻は幼いポラに醜い嫉妬をしていた。
旦那が自分よりもポラに欲情していたことに憤怒していた。
妻はポラに殊更酷い労働を科し、容赦なくムチで彼女を叩いたのだった。
ポラは毎日毎日泣いていた。
しかし、助けなど来なかった。
なぜ自分がこんな目に。
最初はそのように考えていたが、やがて思考することすら放棄していった。
そしてそのまま、彼女は心を殺されながら月日をただ過ごしていった。
白木綿を名乗る海賊が、その一族を皆殺しにする日まで。
Ж
船倉の景色を見たとき。
ポラの脳裏にはあの地獄のような日々がフラッシュバックした。
その強烈なトラウマに襲われ、彼女は叫び声をあげて気を失った。
そして目が覚めたとき、彼女は怒りに支配されていた。
奴隷商は皆殺し。
覚醒したポラの脳裏には、もはやそれしか浮かばなかった。
ポチがなにか喚いていたが、その言葉は彼女の耳には入ってこなかった。
殺す。
殺すコロス殺すコロス殺す殺す殺すコロス殺すコロス殺すコロス殺す殺す殺す殺すコロス殺すコロス殺すコロスコロス殺すコロス殺す殺す殺すコロス殺すコロス殺すコロス殺す殺す殺す殺すコロス殺すコロス。
ポラは偏執狂のように呟いた後、「グアウッ!」と吠えながら、牙をむいて目の前にいるツヴァイに向かって突進した。
首を掴み、捻り上げてやるつもりだった。
しかし、目の前に二人の男が立ちふさがった。
奴らはすぐにポラに向かって発砲した。
彼女は身を捩ってそれを躱し、回し蹴りで男たちの手から銃を薙ぎ払った。
銃を無くした二人は、武道の構えをとった。
彼らは強かった。
一人ならまだしも、二人を相手するのは骨が折れた。
だが――ポラの殺意はそんなことでは消えなかった。
彼女は地煙を上げ、二人に突っ込んでいった。
Ж
ポラが闘っている間、キースはツヴァイの動向を見守っていた。
あの男は明らかにこう言った戦闘に不慣れだ。
銃を向けてはいるものの、案の定、激しい戦闘に腰が引けている。
と、次の瞬間、男の一人がポラの攻撃でツヴァイの方へ吹き飛ばされた。
ツヴァイはたたらを踏んで尻餅をついた。
ここだ。
キースは走り出した。
先ほどポラが覚醒したときに、キースたちの縄も切れていた。
ツヴァイはすぐにキースに気付き、慌てて銃口を向けた。
キースはそれを蹴飛ばし、ツヴァイを後ろから羽交い絞めにする。
思い切り締め上げてやるつもりだったが、彼の力は思っているよりも強かった。
キースとツヴァイはそうして暫くもみ合っていた。
Ж
ツヴァイの部下たちはキースやポラの方角に銃を向けていたが、そのまま金縛りにあったように動かなかった。
彼らは銃の腕に自信がないのだと、俺は判じた。
間違って味方に当たってしまうことを恐れている。
ふと、自分の足先に何やら硬いものが当たる感触があった。
目を降ろすと、先ほどツヴァイが持っていた銃がこちらに転がって来ていた。
俺は咄嗟にそれを拾いあげた。
俺の持っている自動拳銃と、ほとんど同じ形のものだった。
俺は反射的にスライドを引き、トリガーに手をかけた。
そして、足を踏ん張り、腕を伸ばして――
その銃口を、ツヴァイの方に向けた。
「撃て! タナカ!」
キースが叫んだ。
「早くしろ! こいつを殺せ! チャンスは今しかない!」
俺はごくりと喉を鳴らした。
キースに言われた通り、ツヴァイの頭に照準を合わせる。
銃口の先にある凸と、その手前にある凹を重ね、その先にツヴァイの額が来るように。
揺れる船内でも、自信はあった。
バッチリだ。
あとは――トリガーを引けば、ツヴァイは死ぬ。
「何やってやがる! ボケ、早くしろよ!」
キースが喚く。
ツヴァイはどういうわけか、抵抗を止めた。
そして、俺の目を見つめた。
「撃て! タナカ! てめえ、ポチ! 撃てよ! ツヴァイと護衛を殺せば、俺たちの勝ちだ!」
好機とばかりにキースはさらに大声を出した。
だが――どうしても、引き金が引けない。
「……撃てない」
銃口を向けたまま、俺は言った。
「撃てないですよ! だって、この人たちは何にも悪くない! 悪い人間じゃないんだ!」
「そういう問題じゃねえ! 殺さねえと、俺たちが殺されるんだよ!」
「だとしても、です!」
俺は首を振った。
「ツヴァイさんは間違ってない! 僕はこのまま、フリジアに向かってほしい!」
「いい加減にしろ! そんなことは不可能だと言っただろうが!」
「僕が船長を説得しますから!」
「無理だっつってんだろうがボケ! 俺のいうことを聞け、クソガキ!」
「無理じゃない! 船長ならきっと……きっと分かってくれます!」
「バ、馬鹿野郎! お前はなんて甘ちゃんなん――」
と、その時。
バチィッ、という激しく肉を叩くような音がして、俺たちの間にポラが吹き飛ばされてきた。
彼女は即座に男の一人に組み敷かれ、残りの一人がキースの顔面を蹴り飛ばした。
「馬鹿……野郎」
キースは床に顔を押し付けられながら呻いたのだった。
Ж
「……タナカ君」
ツヴァイは立ち上がった。
「銃を渡したまえ。もはや、君に勝ち目はないよ」
その言葉と同時に、部下たちの銃が一斉に俺に向けられた。
「勝ちとか負けとか……そんなことはどうでもいいです」
俺の銃はまだツヴァイの額に向いている。
「僕たちみんなで、船長を説得しましょう。それがダメなら全く別の考えを出しましょう。考えるんです。絶対に、なにかいい方法があるはず。誰も死ななくて済む方法が、みんなが納得できる活路が」
ツヴァイは首を振った。
「そうなればいいね。でも、すでにそういった状況じゃないんだ。いい加減に――」
納得したまえ、とツヴァイは一歩、足を踏み出した。
俺は首をぶんぶんと横に振った。
「納得なんて出来ないです。出来るはずがないです。人の命が、みんなの命がかかってるんだ」
「みんなの命?」
「そうです。僕は今、この船にいる人間、誰一人死んでほしくない。あなたも、護衛の人たちも、クルーの人たちも――そして、船倉にいる奴隷の方たちも」
ツヴァイは短い間、沈黙した。
なにを考えているのか、睨むようにこちらを見ている。
そしてやがて、「不思議な少年だ」とぽつりと口を開いた。
「浅はかで無知で、根拠など何もないのに、なぜか心が揺らぐ。この腐った世の中で、このような無垢な男がいることに打たれているのか。はたまた、かつての自分を重ねているのか。いや……違う。これはただの感傷だ。刹那の場当たり的な揺らぎに過ぎない。私には――やらねばならないことがある」
独り言のように言い、唇を噛み締める。
その表情は、なにか痛みに耐えているかのようだった。
「お願いです。僕を信じてください」
俺は言った。
「船長は必ず説得してみせます。僕の命に代えても」
「命に代えても?」
ツヴァイは右の眉をピクリと上げた。
「はい」
「つまりキミは、私たちの目的のために自分の命を賭けるのか」
「はい」
「馬鹿な」
ツヴァイは鼻で笑い飛ばした。
「そういうところが子供だというんだ。そんな言葉に、何の意味があるというんだ」
「僕には言葉しかない。言葉だけで足りないというなら、何でも言ってくれ。あなたの言う通りにする」
「ではこれで利き腕を刺せ。そして、私たちに敵意がないことを示してみたまえ」
ツヴァイはそう言うと、足に隠していたナイフをこちらに投げてよこした。
俺は少し躊躇ってから、それを拾い上げた。
そうして銃を腰に差し、左手にナイフを持ち替えた。
それから――今度は躊躇なく、思い切り右手の甲に刃を突き立てた。
鋭い痛みに、ぐあ、と思わず呻いた。
その場に膝をつき、右手首を左手で握りしめる。
ナイフは骨まで貫き、真っ赤な血がどくどくと流れ落ちて甲板を染めていった。
「く、狂ってやがる」
キースの声が聞こえる。
確かにそうだ。
俺は完全にどうかしてる。
これで、もう野球は二度と出来なくなるかもしれない。
しかし、頭のどこかはホッとしていた。
なんというか。
俺はずっと、モヤモヤした気持ちを持っていた。
フワフワと落ち着かない、一人だけ場違いな居心地の悪さを感じていた。
だがここに至り、ようやくその釈然としない感覚の理由に気付いた。
俺は、自分だけ無傷でいることがとても悔しかったんだ。
「……どうしてそこまでする。我々に味方をして、君に何の得があるというんだ」
ツヴァイは理解できない、と言うように顔をしかめた。
「何を不思議がっているんですか」
俺はあまりの痛みに脂汗を滲ませながら、ふっと笑った。
「あなただって、さっき自分で言ってたじゃないですか。損得の問題じゃないって。僕も、それと同じ気持ちなだけだ。あなたの言う通り、僕はガキで世間知らずだ。この世界の常識からは外れているのかもしれない。けれど、そんなことは関係ない。関係ないんだ。いくら馬鹿げていてもいい。僕は――」
僕は、自分の命の使い方は自分で決める。
俺はそう言って、ツヴァイを見つめた。
ツヴァイは黙り込んだ。
今度の沈黙は長かった。
俺は彼を見つめながら、返答を待った。
上甲板に静寂が落ちる。
遠くで波の音がしている。
彼の向こうには大きな入道雲があり、その前で海鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。
今日はいい天気だ。
「……お前たち、銃を降ろせ」
やがて、ツヴァイが言った。
「ツヴァイさん!」
キースを抑え込んでいる男が言った。
「ガキの口車に乗っちゃいけねえ!」
「悪いな、メドア。私は、この少年を死なせたくない」
「け、けど、ミスティエはそんなに甘くねえよ」
男――メドアは大げさな身振りを加えてそう言った。
分かっていると、ツヴァイは頷いた。
「そ、それじゃあ」
「だから、第3の選択肢をとる」
「第3の選択肢?」
メドアは眉を寄せた。
そうだ、とツヴァイは顎を引いた。
「すべての現状況を鑑みると、どうやらそうするしかないようだ」
それから甲板中に響き渡るように、彼は大声で次のように宣言した。
「現時刻を以て、我々はリバポ商会との契約をすべて破棄。直ちに進路を変更する」