138 執務室にて 2
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「クロップさんの黒い噂、ですか」
俺は思わず身を乗り出し、サヴァルの机に両手をついた。
背中に引いたはずの汗が再びじっとりと滲んだ。
それほど、嫌な言葉だった。
聞きたくないが、聞かなければならない。
「元帥は件のオペラ座での事件が終わった辺りから、急に風通しが悪くなったのだ。それまでは私に隠し事など一つもしなかったのに、こそこそと政府の要人と会合をしたり、民間の魔法石輸入会社の役員と繋がったりしていた。どうにも動きが不審だった。そこで決定的な情報が入ってきた。反クロップ派の先鋒である海軍省外局からな」
「反クロップ派、ですか」
「そうだ」
そこでサヴァルは立ち上がり、後ろ手に手を組んでアデル湾を臨む大窓の方へ向いた。
「ラングレー海軍には大将が二人いる。第1艦隊を統べるクロップ元帥と、第11艦隊を受け持つイェール大将だ。軍令部を掌握するクロップに対し、イェールは外局のほとんどの組織を司っている。二人は同格とされているが、実際にはかなり権力には差があった。大統領や各大臣から信頼を勝ち取っているのはクロップ元帥の方だった。この二人は仲が悪く、長くいがみ合っていた――とされているが、まあ、意識をいていたのはイェール殿の方だけだ。あの方は絶対に認めないだろうが、嫉妬に似た感情があったのは間違いない。事あるごとに衝突していたからな。もっとも、クロップの方はそれすらも楽しんでいるようだったがね」
サヴァルは一気に話すと、そう言って肩を竦めた。
なんとなく、分かるような気がした。
クロップの器は、果てしなく大きく見えた。
海軍の敵である海賊をさえ、愛しているように見えた。
あの人は天才なのだ。
努力では届かない領域にいる。
イェールという男はきっと、その天才性に嫉妬していたんだ。
「だが」
と、クロップはそこで言葉をさらに低くした。
「だが、それだけに、海軍艦政本部からの情報には信憑性があった。イェール殿は誰よりも、クロップ元帥の動きに敏感だったからだ」
「その情報というのは」
「クロップが実験場で何か不穏な動きを見せている、というものだ。外部からの人間を完全にシャットアウトし、私的に使用している」
「そ、それって――」
「そうだ。お前の話と、奇妙なほどに符合する。つまり――海軍が不死者の研究を秘密裏に行っている、という噂だ」
俺は金縛りにあったように動けなくなった。
「し、しかし」
と、俺は言った。
「しかし、クロップさんが――あんな馬鹿げた実験をしている可能性が、あるんでしょうか」
「たしかに馬鹿げている。海軍の大将が秘密裏に国際法に背いた実験をするのは、ラングレーという国家の立場を悪くするものだ。あの爺さんが、そのような不合理なことするはずがない。いかなる理由があろうと、だ。私は長年仕えているから分かる。あの御仁は、そんな狂人ではない」
「そうでしょう」
サヴァルは顎を上げ、俺を睥睨するように見た。
それから目を細めて、
「クロップという人間はすこぶる頭がキレる。そして、極めて理性的に動く。あけすけのように見えて、策略を張り巡らせる老獪さを持っている。何しろ分別のある男だ。上に立つ者に必要な素養はおよそ全て兼ね備えている。しかし」
サヴァルはそこで言葉を止め、刹那、寂しそうな表情を見せた。
「……しかし、そのような賢人をしてさえ、狂わせるものがあるとしたら。狂うに足る“動機”があったとしたら」
「な、なんですか、それ。そんなものが――あるって言うんですか」
サヴァルは沈黙した。
ずっしりと、質量を持ったようなと重たい静寂だった。
俺は頭をフル回転させて、その“動機”を考えた。
あの人が――狂うだって?
そんな理由なんて、脳みそのどこを探っても出てこないように思われた。
胸騒ぎがした。
嫌な予感に身が震えた。
「な、なんですか、それは。クロップさんに、何があったんですか」
沈黙に耐え切れなくなり、ついに俺は問うた。
するとサヴァルは額に手を当て、目を伏せた。
それから、痛みに耐えるようにきつく眉根を寄せ、語り始めた。
「3か月ほど前のことだよ。大陸が乾燥する時期に季節外れの大雨がフリジアを襲ったあの日。来年初等学校に上がるはずだった、7つになったばかりのクロップ大将の孫娘が――」
殺されたのだ。
サヴァルはそう言って、俺から目線を外した。