126 グリニッジ
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「邪魔するぜー」
ジノビリは躊躇いもなく扉を開いてずかずかと中へと入った。
思いっきり躊躇っていた俺は、それが閉じる前に何とか足を差し込んで彼女に続いた。
室内は薄暗く、空気が乾燥していた。
床には乱雑に空白のカンバスや画架が置かれ、右手の棚には作りかけの胸像の彫刻や版画版などが陳列してあった。
木や古紙など色んな画材の匂いが混じっているが、一番強いのは絵具の香りだった。
うちの高校のオンボロ美術室を想起させる匂い。
「おーい、誰かいねえのか」
ジノビリは無遠慮に大声で怒鳴った。
すると奥の方からガタリ、と音がした。
「誰だ、お前たちは」
丸眼鏡をした白髪の老人だった。
背が低く、さらに猫背のためにかなり小さく見えた。
絵具で汚れた白いエプロンをかけ、その下にベストのセーターの下に仕立ての良さそうなワイシャツを着ており、下は紺色のスラックスに似たズボンを履いている。
髪の毛はボサボサで、ズボンからシャツがはみ出ていた。
「あの」
俺はジノビリが余計なことを言う前に口を開いた。
「第一棟の東側で警備をしているラックスさんに紹介されて来ました」
「ラックス?」
「あなたはグリニッジさんですよね」
「そうだ」
「あなたが、この館に詳しいと聞いてここに来ました」
「まあ、詳しいと言えば詳しいが」
「実は俺たち、事情があって正面から外に出られなくて。あなたなら、どこか別の出口を知っていると」
グリニッジは中指で眼鏡をあげた。
「お前らは何者だ」
「俺は白木綿の田中と言います」
「白木綿。海賊か」
「はい。こっちはジャーナリストのジノビリさん」
言うなり、ジノビリにケツをドンと蹴られた。
「海賊と新聞屋。妙な取り合わせだな。どういった事情だ」
「詳しく話せないんですが、外では警察が見張っていまして……彼らに見つからずに街へ出たいんです」
「警察?」
グリニッジは顔色を変え、訝った。
明らかに警戒心が強まった。
まずった、と俺は思った。
「厄介ごとはごめんだ。帰ってくれ」
「ちょ、ちょっと」
「忙しいんだ。明日までに修繕しないとならない絵画がある」
帰ってくれ、ともう一度言い、グリニッジは踵を返した。
「金はやるぜ」
ジノビリがその背中に声をかけた。
するとグリニッジは立ち止り、こちらを見た。
「そんなものは要らん」
「はん。強がるなって。こう見えても私は結構金持ちなんだ。いくら欲しい」
「ワシは“外”に用事はないんでな。金など意味がないんだ」
「ほ。意味がない、ときた」
「必要なものは全て備品として手に入る。それ以外は何もいらん」
「そうかい。変人だね、どうも。だが、爺さん。あんたの家族はきっと金を欲しがるぜ。息子や孫に小遣いをくれてやれよ」
「家族はいない」
「あっそう。じゃあ、ずっとここで働き詰めかい」
「そうだ」
「どれくらいここにいるんだ」
「35年」
「ひゅー。そいつはすごい。家はどこだ? 趣味もなく家族もなく働いてるなら有り余ってんだろ」
「家はない。ここで寝泊まりしているからな」
「は? どういう意味だ、そりゃ」
「だから言っているだろう。ワシは外に用事がないと。ここで働きだしてから、一度も外に用事があったことはない」
「ちょっと待てジジイ。つまり、あんたは35年、この図書庫から出たことが無いってことか?」
「そうだ」
ジノビリは俺を見た。
目をまん丸にしていた。
多分、俺も同じ顔をしていた。
「ワシはこの仕事があればそれでいい。この仕事を脅かす様な真似はしたくない。だからお前らに力は貸さない」
グリニッジはそう言うと、さっさと奥へと消えた。
「ちょっと待てよ、爺さん」
ジノビリはすぐに追いかけた。
俺も後に続いた。
角を曲がると、本格的な作業場があった。
広い部屋のど真ん中に、巨大な絵画がでんと飾られていた。
その画を見て、俺は息を吞んだ。
油絵のようだった。
渦を巻くように垂れ込める雲間から、奇怪なデザインの異形の群れが舞い降りる絵だった。
異形のそれは外殻が角ばっていて、明らかに有機物なのに何だかロボットのようにも見えた。
顔は猿に似ていて、背中には巨大な羽根が何枚も生えている。
その化け物の大群が、剣や盾を手に地上へ向かって進軍していた。
「……すごい」
俺は思わず呟いた。
芸術なんてこれっぽちも分からないが――圧倒的な迫力だった。
ヒュー、とジノビリが口笛を鳴らした。
「こいつは驚いた。9mmパージ作『天使の群れ』じゃねえか。こんな歴史的な名画がこんなとこにあるとはな。すげえ」
「これは偽物だ」
感嘆するジノビリにグリニッジはそう言うと、木製の油絵具用のパレットと小さな刷毛のような筆を手にして、絵の前に立った。
「偽物?」
「そうだ」
「嘘つけよ。こいつはどう見ても本物だぜ。私はこう見えて美術品にはうるさくてね。昔、美術館で本物を見たことがあるんだ。もう一度、鑑定しなおしてもらったらどうだ」
「その必要はない。偽物で間違いはない」
「どうして言い切れる」
「言い切れるさ。こいつは、ワシが昔描いたものなんだからな」
「なに?」
ジノビリはぴくりと右の眉を上げた。
「ジジイ、お前が描いたのか?」
「そうだ」
答えながらマスクを着け、グリニッジは作業を開始した。
繊細な筆捌きで、細かい箇所に手をつけていく。
「は。こりゃ参ったな。あんた天才だ。贋作の天才」
「矛盾した言葉だ」
「矛盾してねえよ。褒めてんだ。嬉しくねーのか」
「当然だ」
「は。やっぱり偏屈だ」
ジノビリはいっそ嬉しそうに笑った。
「あの」
俺は口を挟んだ。
「グリニッジさん。どうしたら、裏の出口を教えてくれますか」
「教えないと言っているだろう」
「お願いします。報酬は払います。俺たち、どうしてもここを出なくちゃいけなくて」
「知らん」
グリニッジは作業を続けた。
取り付く島もない。
くっく、とジノビリが笑った。
「それじゃあしょうがねえな」
彼女はそう言うと、近くに落ちていた別のペインティングナイフを拾い上げた。
それからグリニッジへと近づき、その切っ先を彼の首筋にあてた。
「死にたくなければ案内しろ」
「ジノビリさん」
俺は思わず声を出した。
「止めましょう。そんなやり方はよくない」
「黙ってろガキ。私はまどろっこしいのは嫌いなんだ」
ジノビリは俺を睨んだ。
「お前は仲間のためなら何でもできると言っただろうが」
「しかし――」
「この爺さんはきっとどんな駆け引きを持ち出してもうんと言わねえよ。欲がねえんだから交渉に意味はねえ。それなら、こうするしかない」
「ワシを殺すのか」
グリニッジが口を挟んだ。
「いいや、殺しはしねえ。ただ、両腕の腱を切る。二度と絵を描けない体にしてやる」
「それは殺すのと同義だ。絵の描けない人生に意味はない」
「大げさな奴だな。贋作屋のくせに」
「そうだ。ワシは自分の絵が描けない。だが、それでも絵画はワシのすべてだ」
「くだらねえ人生だな。だが、ジジイの糞みてえな偽物の人生でも、まだ死にたくはねえだろ。なら、言うことを聞け」
「断る」
「あん?」
「断る」
グリニッジはもう一度言うと、何事もなかったかのように再び作業を開始した。
ジノビリは不機嫌そうに「チッ」と舌打ちをし、グリニッジを解放した。
それからナイフをプラプラさせながら、俺の前にやってきた。
「どうするよ。このおっさん、言うこと聞きそうにねーぞ」
「その前に」
と、俺は言った。
「ジノビリさん。今の言葉、撤回してください」
腹が立っていた。
彼女の口が悪いのは知っているが、言って良いことと悪いことがある。
どうしても一言言ってやらないと気が済まなかった。
「あ?」
「人の人生を偽物だなんて、とても不愉快な言葉だ。今すぐに撤回し、グリニッジさんに謝罪してください」
「嫌だね。私の価値観だ。お前には関係ない」
「この絵を見て、本当にくだらないと言えますか」
「言える」
「嘘だ。あんたはさっき、天才的だと言ったじゃないか」
「そりゃ技術は一流だ。だが、偽物しか作れないなら意味がねえだろ。評価されるものを創れなきゃ意味がない」
「そんなことはない。偽物だろうが本物だろうが関係ない。この絵はすごい。俺は心からそう思った」
「いくらすごくても、そりゃあすごいだけだ。値打ちはない。そりゃあつまり、この爺さんにも値打ちが無いってことさ」
ジノビリはベロを出し、へらへらと笑った。
俺は無意識にジノビリの胸倉を掴んでいた。
力のままにぐい、と引き寄せる。
「どうしてそんな酷いことが言える」
「酷いこと? 違うね。こりゃ真実の話だ。偽物を作り続ける人生に意味なんてねえ」
「偉そうに。あんただって、昔は武器や麻薬を密輸していただろう」
「そうだ。私はろくでなしだ。しかし、私は人生を楽しんでいる。だから意味がある。だがこのおっさんを見ろ。誰にも認められず、家族も趣味もなく、この暗い図書庫の奥で35年間一人きりで偽物を作って生きてきた。惨めじゃねえか」
「黙れ。あんただって俺たちだって大差ない。人を馬鹿にできるほど立派に生きていない」
「あるね。私の人生は、このジジイより価値がある」
俺はギリ、と奥歯を噛んだ。
頭に血が上って、拳に力を入れた。
「悪党のくせに思い上がるな。俺たちが、一体誰に認められてるって言うんだ。ちょっと慈善事業に手を出したからって、あんたはまだ人の人生に説教を垂れるほど立派な人間じゃない」
「慈善事業じゃないと言っているだろ。私にくだらない正義感などない。私はただの復讐者だ」
「は。なら余計に惨めじゃないか。復讐に価値はあるのか? 悪党同士の報復を誰が認めるって言うんだ? 馬鹿馬鹿しい。それこそただの自己満足。まるで無意味な行為じゃないか」
「なんだと?」
ジノビリの顔色が変わった。
初めて、彼女の顔から余裕が消えた。
本気の表情だ。
「喧嘩をするなら他所でやってくれ。画架が揺れる」
グリニッジが言った。
ジノビリはすぐにチッと舌打ちをして、俺の手を振りほどき、部屋を出て行った。
室内に静寂が落ちた。
すみません、と俺は謝った。
興奮して、息が切れていた。
どくどくと心臓の音がうるさい。
そんな場合じゃないのに、また喧嘩をしてしまった。
しかし、後悔はない。
グリニッジさんを貶めるジノビリが、許せなかったから。
シャッシャッという音がした。
目をやると、グリニッジが何事もなかったように作業を再開していた。
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どれくらい時間が経っただろうか。
俺は彼の作業をじっと観察していた。
そしてその技術に舌を巻いていた。
修復作業と言うのはもっと地味でつまらないものだと思っていた。
しかし、黒ずんだ汚れに薬品を吹きかけて刷毛のようなもので丁寧に除去したり、劣化した絵の具の割れ目を元のままに着色したり、カビの浮いた背景の木片をナイフで削ったり、古ぼけた絵画がみるみるうちに美しく蘇っていく姿は見ていてとても爽快だった。
俺はその繊細で華麗な技法にいつの間にか目を奪われていた。
この人は本当の意味のプロフェッショナルだ。
「あんた、タナカと言ったな」
やがて、グリニッジが口を開いた。
「……はい」
「どうしてあんたがそんなに怒るんだ」
「分かりません。ただ……無性に腹が立って」
「あの女性が言っていることは真実だよ。ワシの人生に意味なんてない」
「やめてください」
「私は絵を描くことが好きだが、私の描く絵には価値はない」
「俺は芸術のことは分かりません。本物の方の絵も見たことないです。けど――けど俺、あなたのこの絵が好きです。とても美しいから」
グリニッジは一瞬、手を止めて俺を見た。
それから呟くように言った。
「この絵は、美しいか」
「はい」
「偽物だぞ」
「知ってます」
「そうか」
「はい」
グリニッジはそこから黙り込み、作業を再開した。
そこからはもう、口を開かなかった。
俺はいつまでも、彼の見事な筆捌きを見ていた。