121 ジノビリ
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重い扉を開くと、カビの臭いが鼻をついた。
室温はさらに下がった。
まるでクーラーでもついているかのようにひんやりして、肌寒いくらいだ。
中はやはり、本だらけだった。
思ったより広くはなかった。
見た感じ、人気はない。
耳が痛くなるような静寂。
薄暗い部屋。
俺は天井まで伸びる背の高い書架の間を歩いた。
幾人か、背の低い男とすれ違った。
忙しなく本を運んでいたので、彼らは学芸員だろうと判じて声はかけなかった。
そのように訓練されているのか、物音ひとつ立てず、足音すらしなかった。
テーブルにそれらしい人は座っていなかった。
俺はきょろきょろと視線を泳がせながら進んだ。
「よう」
そうして中ほどまで来たとき。
いきなり右手から声がした。
驚いて目をやると――そこには白衣を羽織った女性がテーブルに座り、頬杖をついていた。
見るからに陰気な雰囲気の痩せた女性だった。
年のころは30を過ぎたあたりだろうか。
真っすぐに伸びた長い黒髪。
前髪が目にかかりそうなくらい長い。
顔色は病的なほど白く、やや猫背だ。
目鼻立ちがはっきりしいていてかなりの美人だが――その目つきは最高に悪い。
俺はごくりと息を吞んだ。
この部屋には、利用者はこの人しかいなそうだ。
すいません、と俺は声をかけた。
「ここにカレン・B・ジノビリという方がいると聞いたんですが、ご存じありませんか」
「いるよ」
「えっと、一体、どこに」
「お前は誰だ」
「ああ、白木綿のクルーのタナカと言います」
はーん、と女性は短く数度頷いた。
「お前、白木綿か。ポラはどうした」
「ポラさんを知っているんですか」
「こっちの質問に答えろ」
ぴしゃりと言われて、思わず反射的に「すいません」と謝ってしまった。
この女性、なんというか――圧力がある。
「ポラさんは――今、ちょっと所用で手が離せなくて」
「所用ね。それで、お前が来たと」
「はい」
女性は眠そうな目を俺にじろりと向けた。
それから面倒くさそうに立ち上がると、ヨタヨタとこちらに向かって歩いて来た。
「ったく、最悪だ。よりによって、こんな童貞くせー僕ちゃんが来るとは」
「は?」
「おいガキ。お前、童貞だろ」
いきなり、なにを言うんだ。
俺は目を白黒させ、「い、いや、その」とどもった。
「やっぱりな。女も口説けねえやつがいい仕事なんて出来ねえ。よって、お前は不合格だ」
彼女はそう言うと、俺の股間をいきなり、むんず、と掴んだ。
予想外の出来事に、俺はひゃっ、と変な声が出た。
「な、なにするんですか!」
俺は思わず、後ろに飛びのいた。
すると、女性は手をワキワキと動かしながら、ふむ、と唸った。
「いや、そうとも言い切れねえな。つか、勿体ねえな。こんなでけーもん持っておきながら、未使用とはよ」
「な、何の話を」
「どうだ? ここで私と使ってみるか。私をイカせることが出来たら、合格にしてやってもいいぜ」
そう言い、女性はやおら身体を預けるようにして俺に密着すると、人差し指で俺の唇を撫でた。
それから、にやりと妖艶に微笑んだ。
「つ、使うって」
「女は気持ちいいぞ、坊や。大抵の男は病みつきになる」
「なんの話を――」
「だがな、女の方はもっと病みつきになるんだ。30過ぎた女は特にな。男が欲しくてたまらねえ時期がある。ちょうど、今のようにな」
女性はそう言うと、鼻が触れそうなほど顔を近づけた。
彼女は薬品の匂いがした。
思わず、唇に目が行く。
少し薄いけど、形が良く綺麗だった。
その間から、濡れた舌がちろりと覗いた。
「な、何するんですか」
「キスだよ」
「は、はあ?」
「なんだ、年増は嫌いか? だが安心しろ。多少タイプじゃなくとも、キスすりゃ男はちゃんと勃つように出来てる。セックスも恋愛も原理は同じだ。大事なのは――その気になることだ」
そう言って、強引に唇を近づけてくる。
俺は思わず目を見開いた。
どうしていきなりそうなるんだ。
俺は身を捩った。
しかし、彼女に「動くな」と命じられ、両腕を掴まれた。
目の前で見ると、やはり女性はすごく綺麗だった。
な、なんだ、この状況。
そんな風に思いながらも、体が金縛りにあったように動けなかった。
「体が硬いな。なんだ? もしかしてキスも初めてか? くっく。やっぱり――」
美味そうだ。
艶っぽく濡れた声音で呟き、女性は顔を傾けた。
急展開に頭がついていかない。
「心配するな。優しくしてやる」
や――やばい。
なんだか頭がくらくらする。
そして、今にも唇が触れ合おうとしたとき――
「ポチに手を出すな」
突然、耳の横から声がした。
シーシーが、女性の頭に銃を突き付けていた。
「なんだ。お守りがいたのか」
女性は半白眼になり、興が覚めたとばかりに首を振った。
「離れろ! ポチから離れろ!」
「冗談だよ。なかなかいい男だったからからかっただけだ。本気で食う気はなかった」
女性は苦笑しながら俺から離れると、両手をあげた。
「しかし、なんとも可愛い保護者だな」
「うるせー!」
「知ってるぜ。お前がシーシーだな」
「うるせー! うるせー!」
「だが、うーん。うん? おいおい。よく見りゃ、お前も可愛いくねーか?」
「うる……?」
「おいおいほっぺとかぷにぷにじゃねーか。きっと太ももとか下腹とかもむにむになんだろう? ちょっと二の腕触っていいか?」
「う……あ……」
「あーマジ柔らけぇ。なんだよ、この感触はよぉ。なあ、お嬢ちゃん。私とキスしないか。あーその潤んだ黒目がちな目。見てるだけで濡れてくる。美少女すぎるぜ、シーシーちゃん。あー可愛い。可愛すぎる。こんな美形の幼女、はあ、男にやるのはもったいねぇよ。みっちり教育して、私好みの百合の花に仕立てて――」
女性はそこで言葉を止めた。
じゅるりとヨダレが垂れたので、それを白衣の腕で拭ったのだ。
完全に変態ロリコン親父の動きだった。
どうやら……この人は誰でもイケるらしい。
シーシーは「ぎゃー」と悲鳴を上げて、再び俺の背中に隠れた。
「……すいません。うちの乗組員にセクハラやめていただけますか」
あまりに予想外の出来事に、ツッコミが遅れてしまった。
「わりーな。最近ヤってなくてよ、色々たまってんだ」
ニシシと笑い、女性は「で、なんだっけ」と俺の方を向いた。
な、なんなんだ、この人。
さっきからマジで無茶苦茶なんだが。
「い、いや、ですから。ジノビリさんは、どこにいらっしゃるんでしょうか」
改めて聞いた。
「ああいえ、その前に。あなたは一体、誰なんですか? どうやら俺たちのこと知ってるみたいですけど――もしかして船長の知り合いの方とか」
「ああ、そうだそうだ、そうだったな」
と、女性は気怠げに髪をかきあげた。
「ではその二つの質問、同時に答えてやろう」
女性はそう言い、裏手でピースサインを出した。
それから得意げに腰に手を当てると、もう片方の手の親指自らを指し、
「ジノビリは私だ」
と、言った。
「……は?」
思わず、顎を出した。
「なんだ、そのリアクションは」
「あ、あなたが、ジノビリさんなんですか?」
「そうだ。文句あるか」
「いや、ないです。ないですけど――」
俺は息を吞んだ。
正直言って、信じられなかった。
思っていた姿と違いすぎる。
たしか、ヨシュアによるとジノビリとは――
吝嗇家の悪徳武器商人で。
横暴な元ギャングのボスで。
そして悪辣な商人だったはず。
そんな極悪非道な人間が、こんな華奢な女性だったとは――
「ポチ! 逃げるぞ! うちには分かる! こいつは……ヤベー奴だ!」
肩から顔の半分だけ覗かせ、シーシーが喚いた。
「ツレないこと言うなよ、美少女ちゃん。私はお前を愛するぜ。奥の奥まで、な」
女性――ジノビリはそう言うと、シシシと白い歯を見せて笑った。