119 交渉
Ж
「……私たちの負けです」
緊張する室内に、ポラの声が響いた。
その言葉で、土竜たちの動きが止まった。
シーシーを除くこの場にいる全員が、ポラを注視した。
「シーシーちゃん。銃を収めなさい」
「やだ。お前がなんと言おうが、うちはコイツを殺す」
シーシーはアーヴィングをねめつけたまま、臨戦態勢を解かない。
「弁えなさい。ここで意地を張れば、あなたは死にますよ」
ポラは語気を強めた。
「なんでだよ。殺すのはうちのほうだろ?」
「殺せません。この男はシーシーちゃん、あなたより強い」
「へ。それならそれで構わねーよ。うちが死んでも、それも自然なことだ。いいや、マジな話、その方が――」
「ポチ君も死にますよ」
ポラはシーシーを遮り、言った。
その言葉で、シーシーの表情から余裕が消えた。
「残念ながら、どうやらアーヴィングの態度はハッタリではありません。この男は、本気で私たちを皆殺しに出来ます。いいですか、シーシーちゃん。あなたがここで我を張れば、あなたのお気に入りであるポチ君も死ぬんです。それでも――」
いいんですか? と、ポラは聞いた。
シーシーは一瞬、泣きそうな顔になった。
それから小さな声で「やだ」と答えた。
「やだ。ポチが死んだら、やだ」
「そうでしょう。それなら、我慢しなさい。とにかく、ここは生き延びましょう」
「でも、こいつは殺さなきゃ」
「一旦、引くんです」
「でも」
「生きていればまたポチ君と遊べます。一緒にご飯も食べられます。仲良く、ミリタリーショップでショッピングも出来ます」
「でも――でもぉ」
シーシーは眉毛を下げ、不愉快そうにほっぺを膨らませた。
それから顔を真っ赤にさせ、「うー! うー!」と言いながら地団太を踏んだ。
「シ……シーシーさん」
うつ伏せに倒れたまま、俺は呻いた。
彼女のその姿を見ていると、俺は場違いに涙が出そうになった。
シーシーは自分が死ぬことは構わないけど、俺には死んでほしくないと言っている。
こんな最悪の状況なのに――そのことが嬉しかった。
俺は白木綿の一員なんだと、そう思えた。
「……わかった」
やがて。
シーシーは持っていた銃を消失させた。
彼女の黒目がちな大きな瞳には、悔しさで涙が滲んでいた。
「なんだ、やらんのか」
アーヴィングがせせら笑った。
「しかし、もはや遅い。殺意が収まらんのだ。私はこの国にアーリア人以外がいる、というだけで癪に障るんだ。フリジアは穢れた民族が踏み込んで良い場所ではないのだ。その肌の色。髪の色。瞳の色。お前らが死ぬには、それだけで十分な理由だ」
言葉通り、まだ奴の殺気が収まらない。
室内から、強烈な圧力が消えない。
「そして、そこの混血女はこの私を侮辱した。いいか。クソのような血の混じった移民が、あろうことか純血のアーリア人である私を“死体”呼ばわりしたのだ。家畜以下の女が、人間に歯向かったのだ。神の意志に背く蛮行だ。万死に値する。脳を割り内腑を引きちぎってもなお足りん罪人だ。そうは思わんか」
アーヴィングはそう言うと、血走った目を剥き、亀裂のような笑みを浮かべた。
イカレてる、と思った。
多分コイツは――俺がこの世界であった人間の中で、最も狂気じみている。
「……次官補佐。止めておきましょう」
ナルメアが小声で進言した。
「白木綿が大人しく捕まるなら、こちらにとっても好都合です。この辺りが手打ちの落としどころです。この場所でこいつらを殺したら、事件が書類に残る。我々の犯行内容は揉み消せても、司法の管轄のこの図書庫では、書類自体は残らざるを得ない。そうすると、後処理で非常に面倒くさいことになる。どうか――この場はお納めください」
ナルメアは頭を下げた。
アーヴィングはナルメアの方を顧みた。
しばし彼を見つめた後――
「冗談だよ、ナルメア」
そう言って肩を竦めた。
「まさか本気で暴れると思ったのか。穏便に済むなら、それに越したことはない」
アーヴィングは実に軽薄にそう言うと、こちらを振り返った。
亀裂の入った異形の面相が元に戻っていた。
そこでようやく、アーヴィングからオーラが消えた。
「その代わり、一つ条件があります」
と、ポラは言った。
「拘束するのは私だけにしてください」
「なんだと?」
「私も無条件に降伏するわけには行かない。うちの他の乗組員、タナカとシーシーは見逃してください。それが、私が大人しく出頭する条件です」
ポラは真正面からアーヴィングを見据えた。
アーヴィングは少し目を細めた。
「戯けたやつだ。立場を考えろ。貴様は駆け引きが出来る立場にない」
「いいえ、立場は五分のはずです。私たちはお互いに、まだ切り札を持っているのだから」
「切り札?」
「ええ。それとも、何でもアリでやり合いますか。私はそれでも構いませんよ」
アーヴィングは短い間、ポラを見つめた。
それから口の端でふっと笑うと、落ちていたロングコート拾いあげ、それを羽織った。
「……強かなやつめ。これだから頭のキレる女は好かんのだ」
アーヴィングは呆れたように首を振った。
「いいだろう。どうせ頭脳を失ったこいつらには、もう何も出来んだろうしな」
「……ありがとうございます、中将殿」
「だが、譲歩はここまでだ。もしも次、そのガキに出会ったら、その時は問答無用で拘束する。警告は無しだ。抵抗すればラングレー憲法第10条に基づき、正義の名のもとに速やかに処刑する」
「了解してます」
アーヴィングはふんと鼻を鳴らした。
それからナルメア、後は任せる、と言い、コートを翻して部屋を出て行った。
Ж
「立て」
ポラはナルメアに乱暴に立たされ、後ろ手にがちゃり、と手錠を嵌められた。
その音はやけに大きく俺の耳についた。
「ポラ=ユーストス。お前の身柄はこれから陸軍第3基地へと移送される。そこで受け入れ先が決まるまで拘束される。お前には弁護士を立ち会わせる権利がある。また、費用がない場合、国選弁護人の中からそれを選ぶことが出来る」
ナルメアは機械的に語った。
この期に及んでも、俺には現実味のない景色だった。
あのポラさんが――被疑者となってしまった。
ポラはそのまま土竜どもに連行されていく。
その姿を見て、急に心細くなった。
駄目だ。
このまま行かせてはいけない。
彼女がいなければ――俺たちは何一つできないのに。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は残った力の全てを使い切り、ヨロヨロと立ち上がった。
幸い、少し休んだおかげでちょっとだけ体力が回復していた。
「ポラさん、俺、どうしたら」
ポラは足を止め、半分だけ振り返った。
「あとは頼みますよ、ポチ君」
そう言って、いつものように優しく微笑む。
「む、無理です。ポラさんがいなかったら、俺には何もできない」
「そんなことはない。あなたには考える力があります。やるべきことをやってください」
「やるべきことって――」
「すいません。こんなことになるなら全て話しておけばよかったですね。禁術魔法の歴史やシーシーちゃんのこと」
「シーシーさん? シーシーさんが、どうしたんです」
「私も甘かった。どこかまだ、信じたくない気持ちがあったんでしょう。しかし、今は確信しています。彼女自身に教えられた。この事件はエリーさんでも土竜でもなく、“シーシーちゃんの物語”だった」
「ポラさん。一体、何の話をしているんですか」
「今はもう時間がありません。まずはジノビリさんに会いなさい。そして困ったら、ハーランド地方のSV区にいるアリアムを訪ねるんです」
「アリアム? 誰ですか、それは。分からないですよ。ポラさん、ねえ、ポラさん。俺には、やっぱ無理です」
「そんな情けない顔をするのはやめなさい。自信を持つんです。あなたはミスティエが恃んだ男の子。この世界で唯一、あのバチュアイと対等にやり合った少年なんですから」
ポラはにこりと笑った。
「そこまでだ。行くぞ」
ナルメアが口を挟んだ
そのままぐい、とポラを押し、扉の方へと歩かせる。
「ポラさん!」
部屋を出ていく瞬間、最後にもう一度、声をかけた。
ポラは身をよじる様にして、無理やり振り返った。
そして声を出さず、口だけを動かして「またね」と言って、ウィンクをした。
ばたん、と鉄扉が閉じた。
室内には俺とシーシーと、それから警備の男だけが残された。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、しんと静寂に包まれた。
こうして。
俺たちの元から、ポラはいなくなった。




